恋とブラスと回り道 7

 月曜日はあいにくの雨だった。吹奏楽部の人たちはまだ目を光らせている。芸術の後で教室に帰ってきたばかりだというのに、荷物を置いてスマホの着信を確認する。

「水野さん、ちょっとだけいいかしら」

 黒村さんが私を訪ねてきた。

「私は千谷君の居場所は知らない」

「私はあなた自身に用があるの」

 そう言って黒村さんは一歩前へ出た。いざとなれば何でもやる、と言ってくれたクロロがこちらに歩み寄ってくる。周りにいた吹奏楽部の人たちが私の前に群がると、黒村さんは彼女たちを腕でけん制した。

「2人だけにしてくれる?」

 黒村さんはクロロと吹奏楽部の仲間をぐるりと見回す。吹奏楽部の人たちはさっと後ずさった。

「いろは……」

 吹奏楽部の1人が黒村さんに声をかける。

「今日はいい。久しぶりの昼休み、みんなゆっくり過ごして」

 それだけ言うと、黒村さんはお弁当の袋を持ったままの私の腕をつかんで、教室から連れ出し、人気のない講義室まで来ると、手を離した。

「光本君がうちの部を見に来たの」

 薄暗い廊下でその声は響いた。

「入部する気ないのは見え見えだった。でも追い返せなった。千谷のことは1年だけで動いているの分かってたんだろうね。本当のことは話せないから疑ってかかってる先輩たちをなんとかごまかしてやらせたわよ。でも、ほとんどの部員はこの前のがしたかったみたいだから、少しでもぎゃふんと言わせられたんじゃないかしらん」

 吹奏楽部に原因があるなら、実際に見に行くのが手っ取り早い。内偵に行くから、騒ぎのもとになりそうな私には声をかけなかったんだ。

 私は何も答えなかった。黒村さんは壁にもたれかかった。

「ねえ、吹奏楽部入らない?」

 黒村さんは視線をこちらに向けた。

「へ?」

「だって千谷はあなたが目的なんでしょ。裏を返せばあなたのいる部に入りたいってことよね? あなたが吹奏楽部に入ればすべて解決する話じゃない」

 彼女たちからしたら合理的な問題だ。千谷君は少なくとも私が好きだと言っている。本当なら私を追いかけて吹奏楽部に舞い戻るだろうし、たとえ嘘だったとしても、千谷君からしたら逃げ道が無くなるわけだ。千谷君は吹奏楽部に戻るしかない。彼女たちの望みは叶う。

 それでいいんだろうか。もっと大きな問題を起こさないだろうか。

「申し訳ないけど、私は吹奏楽部には入らない。私は研究がしたい。そんな私が吹奏楽部に入ったとしても、それで千谷君が戻ってきたとしても、絶対にいい結果にはならない」

「千谷も研究がしたくて化学部に入部したわけじゃないのに?」

「千谷君は自分から化学部に入ろうと思った。天と地ほどの差があるよ」

 根本的な解決にはならない。それに、煙たがられても千谷君のために吹奏楽部のことを知ろうと潜り込んできた倫太郎が何かをつかんでいるはずだ。

 黒村さんはため息をついた。

「本当ね、私たちもお手上げなのよ」

 黒村さんはそのまま続ける。

「光本君に言われたけど、1人欠けたくらいでダメになるようなら絶対どこかに問題があるって。わかってるわよっ、言われなくても。吹奏楽は団体戦。1人はみんなのために、みんなは1人のために。支えあって、カバーしあって、高めあって、演奏を作っていく。リーダーがいなくても誰かが代わりにリーダーを務めてパフォーマンスをしなければならない。

 でもね、それだけじゃないの。1人1人が大切な仲間。全員で積み上げてきたからこその演奏なの。だから誰一人として欠けてほしくない。だからみんな必死で説得しようとしている。先輩たちも表面的には出さないけれど、全員が全員納得しているわけじゃないと思う。

 それにね、あんなに頑張って技術を突き詰めてきた人を失望させたくない。暑い日も寒い日も毎日練習し続けて積み重ねたものを捨ててほしくない。パートリーダーからは降りたとしても、吹奏楽まで辞めさせたくない」

 彼女は顔をそむけた。小刻みに肩が震えているのが分かる。彼女が落ち着くまで、しゃがんで窓の外を眺めていた。他の子たちも思いは同じなんだろう。

 黒村さんは少しだけ間を空けてちょこんとしゃがんでいた。

「黒村さんって、すごいですね」

 ほとんど私の独り言だった。

「中学の時部長だったの。千谷には世話焼いたから」

「やっぱり、ですか?」

「わかるんだ」

 黒村さんの方を向くとお互い目が合ってしまって、何となく可笑しかった。

「ご飯にしようか」

「そうなると思ったから」

 各々包みを広げた。今日はおにぎり。若菜とゆかりのふりかけ。ラップをそっとはがして口に運ぶ。

「あいつねー、すごいよ。テスト期間中も勉強そっちのけで練習したり、ロングトーン対決でぶっ倒れるまで吹き続けたり」

 黒村さんも真っ白なおにぎりを頬張る。

「それは、手に負えないですね」

「でもバカでしょ。危うく練習停止になりかけたんだから」

「そりゃあ、そうなりますよね」

「でもその分みんな千谷のことは分かっている。部長として助けられたこともあったわ」

 それだけ吹奏楽部はチームワークが大事なんだろう。話を聞く限りではいじめがあったようには思えない。

「パートリーダーになったことで恨みを買ったことは?」

「全然。そこまで向いているわけじゃないけど」

「大丈夫なんですか?」

「そこにいる先輩の方が向いてないからしゃーない。っていうか今ひーひー言っている。楽した祟りじゃ」

 ひっひっひと悪魔のような笑い声をあげながら黒村さんは2個目のおにぎりのアルミホイルを広げた。

 化学部はしっかりしている圭希先輩が部長だから円滑に回っている。でも、高い技術とひたむきな姿勢でついていきたいという人はいるはずだ。でも、楽した祟りって。ちょっと笑ってしまった。

「千谷君って、吹奏楽部でも好かれているんですね」

「彼女はできないけどねー」

 思わずそちらを向いてしまった。意外。

「あなた、今、嘘、とか思ったでしょ。本当。最初はあの見た目だから寄ってくるよ。でも、よくわからないところで撃沈するのよねえ。財布持ってないのかポチ袋出してきた、とか歯ブラシセットのコップや置き傘が子どもっぽい、とか。寝ぐせついてるとか球技が下手とかもあったけど優勝はズボンの股が裂けていることに気付いていなかった、だったかしらん」

「ええ……」

 百年の恋も冷めそうなラインナップだが、多分今回の件には関係ない。黒村さんはおにぎりを包んでいたアルミホイルを綺麗にたたんで、お弁当用にしているらしい小さなバッグにしまった。

「でも、今回ばかりは本当に分からない。急に家で練習するって言って楽器を持ち帰って部活に出なくなったと思えば、今度は楽器を学校に置いて部活にも自主練にも出なくなった。学校で会ってもふさぎ込んでいたようだし、誰が声をかけてものらりくらりとかわされて。あなたたちに会わなければ、不登校になっていたかもしれない。

 私たちじゃ千谷を救えないのかも」

 黒村さんは体育座りをした足の中に顔をうずめた。

「自覚はあるようね」

「香取先生」

 いつの間にか、香取先生が立っていた。真っ黒なカットソーとタイトスカートには皺ひとつない。私は最後の一口を飲み込んでラップをこっそり丸めた。

「黒村さん、まず水野さんに謝りなさい。それから光本さんに。F組とB組にはだいぶ迷惑かけたらしいじゃないの」

 香取先生は黒村さんに向かい合った。黒村さんは目を逸らす。

「千谷さんのことを気に掛けるのはよく分かる。でもあなたたちのやったことは間違っている。自分たちがよければそれでいいの? 余計に千谷さんを追い詰めてしまうかもしれないと考えられなかったの?」

「私は、大丈夫ですから」

 香取先生は私を見た。

「あなたたち2人が逃げている間、この人たちは塩崎さんや前佛まえふつさんたちに何言ったと思う?」

 ドキッと胸が締め付けられた。クロロは平気な顔をしていたからだ。でも、私たちがいると思って彼女たちはB組にと突撃してきたはずだ。

「偶然光本さんと千谷さんが身を寄せ合うようにお弁当を食べていたのを見てね。場所が場所だから声をかけずにはいられなかった。あなたたちの不穏な噂を信じたくなかったわ。千谷さんと光本さんと水野さんは最近あなたたちから昼休みを過ごす場所を追われていた。これって何を意味すると思う?

 いじめよ」

「先生はそれでいいんですか」

 黒村さんは立ち上がって香取先生に言い返す。

「まさか化学部に仮入部しているとはね。でも最終的には彼の意志を尊重するしかない。それよりも、あなたたちの行為の方を見過ごすわけにはいかない」

 香取先生がきっぱりといった。

「吹奏楽部は1週間活動停止。しっかり頭を冷やすことね」

 香取先生は、「授業に遅れることのないように」と捨て台詞を言って、ツカツカと歩いて行ってしまった。

 次の授業は国語。香取先生の授業だと思うと胃が重くなった。

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