恋とブラスと回り道 6
遅めの昼食を済ませてカフェから出る。
「今日はオレのためにありがとう。こんなに付き合わせちゃったのは悪かったけれど」
「だいぶくたびれたのは事実だけれど結構楽しかったよ。ご飯もおごってもらっちゃったし」
途中時計店やジュエリーショップに寄り道だけして私も結構はしゃいでいたわけだけど。
「今度はオレが付き合うよ。一菜ちゃんも来たからには見たいものとかあるでしょ? どこでも一緒に行くよ」
「そう? じゃあ寄りたいところがあるんだ。ちょっと遠いけど、いい?」
興味津々についてきた千谷君だったが、楽器店だと知ると、私に袖を引かれるまで放心状態でいた。
「一菜ちゃん、そんなにホイホイ買えるものはないよ」
「そう? 前に楽器店で筆箱買ったって言ってた子がいたよ。それに時計店やジュエリーショップに入っちゃった時はそんなこと言ってなかったじゃん?」
そう言われると千谷君は口をつぐんでしずしずと私についてきた。
中にはバイオリンやサックスやピアノやキーボード、フルートにハープまでも所狭しと並んでいる。
「わあっ、すごい」
金や銀のまばゆい光を放つ金管楽器たち。値段にも驚くがその種類の多さに驚いた。
「こんなにあるんだ」
「専門店でもここまで取り揃えている店は珍しいね」
千谷君は言った。
「金管楽器も木管楽器も素材や大きさ、つくりによって出る音や音域が違う。吹奏楽はそれらをうまく組み合わせて1つの楽曲を作っていく。ほら、リコーダーにだって、小学校で使うソプラノリコーダー以外にもいろいろな大きさがある」
千谷君が指さすコーナーには大量のリコーダーが置かれている。一番多くあったのは私も小学校で使った時の大きさのものだったが、一回り大きいものから腕の長さほどあるリコーダーもあった。
「へー、こんなにあるのね」
「楽器の中で一番売れるのはソプラノリコーダーと鍵盤ハーモニカですがね」
むすっとした店員さんが割って入ってくる。土曜といえどあまりお客さんが入ってくるわけではないらしい。
「そういえばここは楽譜は置いていない」
「書店さんにも扱いがありますから」
「そういえばCDも」
「向かいにCDショップがありますから」
それじゃあ潰れちゃうんじゃないかと冷や冷やするが、楽器以外の商品の存在に気付いた。結構なエリアを占めている。
「これは?」
「バイオリンの絃だね」
バイオリンやハープの絃がずらりと並んでいる。隣の棚にはもっと小さい引き出しが並んでいる。千谷君が引き出しを開けた。
「リードだね。オーボエやクラリネット、サックスの唇に触れる部分。楽器の音色はこれに左右されるといっても過言じゃない」
「この板みたいのが?」
「音は振動だからね。フルートは裏かな」
そう言って2人で裏に回る。金属でできた小物がたくさん置いてあった。
「金管楽器のマウスピースもこっちみたいだね」
「ボクシングでつけるものじゃなく?」
「唇にあたる部分だからそういうんじゃない? もちろんリードと同じく、金管楽器のかなめだよ」
より取り見取りに取り揃えられたマウスピースをしげしげと眺めた。
「へええ。いろんな大きさがあるんだね。材質もいろいろ。これ見て。トランペット用でも金めっき、銀めっき、ステンレスめっき、プラスチックのもある」
「そんなのあるんだ。プロ用や練習用、みたいに使い分けるのかな」
千谷君は目を丸くしていた。1つの楽器のマウスピースに種類があることを知らなかったらしい。
「いや、アマチュアでも金めっきにしてくれってお客さんいますよ」
「すごく高くないですか」
「そりゃ高いです。でも吹き心地も全然違うし、続けるためにはって。うちは持ち込みでも可ですから。他のめっきも好評です」
「めっきって必要なんですか?」
「中高生は買った時のまんまがほとんどです。学校様の場合は楽器は後輩に受け継ぎますからもちろんしません。でも私は学校様ほどめっき必要だと思います。中学校高校エアコンなしで長時間練習ですから。
でもそれ以上に、お手入れしっかりする必要がありますけど」
子連れの親子が来店し、店員さんはそちらに行ってしまった。
「何か必要なものある?」
一応聞いた。特にない、とのことなので店を後にする。
「エアコンって、関係あるのかな」
千谷君がぼそりとつぶやく。
「店員さんの話?」
「そう。エアコンなしだと熱中症、っていうのはある。吹奏楽部は室内にずっと閉じ込められて練習しているようなものだから。音の関係で窓を開けたりすると苦情が来るケースも聞くし。最近は気を付けるようになったけれど、以前は小休憩なしで一日練習とかもざらにあったみたいだよ」
「そんなに?」
中学時代はテニス部でずっと屋外練習だったからあまり気にしたことはなかった。でも体育館の部活をやっていた子たちが救急車で運ばれたという話を聞いたことがある。それだけ夏にエアコンなしで室内にいることは危険なのだ。辞めたくなるのも、分かる。
「話を戻すと、30℃40℃の中での練習で楽器が傷む可能性はある。けれど高校野球での演奏みたいなもっと過酷な環境はあるわけだし、本体をめっきするわけじゃないから楽器の暑さ対策じゃないよね」
「確かに。プラスチックも融点は低いよね」
気になったので調べた。真鍮、別名黄銅、はいろんな種類があって融点は何度、とはっきりは書かれていない。そもそも加工しやすい金属のようだ。めっきと温度の効果もほとんど書かれていない。ちなみに英語ではbrass。ブラスバンドはそこから来ているのね。フルートに使われる洋銀や白銅も同じような情報しかない。
「ところで、行きたいところは、もうない? 結局オレに合わせてくれた形になっちゃったし」
「うーん、ちょっとだけ洋服とか見ていこうかな。電車の時間とかもあるから少し考えないといけないけど」
「まだ3時……もう3時、か」
腕時計を見てうなだれていた。スポーツをやっていそうな子たちが持っているタイプの腕時計だった。1時間か、見て回るのはちょっと厳しそうだ。あまり遅くなるとそれこそ吹奏楽部の部員の帰りと鉢合わせする可能性があるため、早めに帰宅したいというのが本人の希望だった。名残惜しそうな千谷君に後ろ髪をひかれながらも、気になった店をちょっとだけ見てショッピングモールを後にした。
2人とも方向は同じなので、それなりに混んでいたホームを歩いて先頭車両が止まるところまで歩いた。
「今日は付き合ってくれて、ありがとね」
「私が言い出したことだから……本当に、吹奏楽部を辞めるの?」
「それ今聞く?」
「なんか、楽器店にいるときが一番生き生きしていた感じがして。私と遊んでるより、トランペットの練習をしたほうが千谷君のためになるんじゃないかと思って」
千谷君は私にぐっと顔を近づけた。
「オレは吹奏楽部を辞める。トランペットの上達は目標じゃなくなったんだよ。
それにさ、オレは一菜ちゃんのこと、本気だから」
彼はそっと顔を寄せようとしたけれど、思い出したように体勢を戻した。
あまり経たずにホームに滑り込んできた電車に乗りこむ。車内で目を合わせることはなかった。
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