呪詛の紅

凍った鍋敷き

呪詛の紅

第五王女、ヒルダ様。


 よわいとうを数えるばかりの、小さな女の子。


 私の仕える主で、


 明日、死ぬ予定だ。





 地上から離れること十数メートルの塔の最上階。ここがヒルダ様に与えられた、最後の楽園。

 衛兵もいないこの部屋が、唯一、生きることを許された場所。

 鉄の格子すらない窓は、いつでも飛び降りて良いんだぞという、遠回しな、優しい愛情。


 そこにある、ベッド、本棚、小さな机。

 それがヒルダ様のすべてだった。


「ヒルダ様、お身体の調子はいかがですか?」

「良くも、悪くもない」


 ベッドで横になり、無表情で天井を眺めるヒルダ様を、私は見ていることしかできない。隙間から侵入してくる夜の冷気が、私の頬をさらっていく。ヒルダ様も寒いに違いないが、何も零さない。


「テオはどうする?」


 ヒルダ様の紅い瞳が私を貫く。


 艶やかな銀髪に呪われた〝紅い瞳〟。

 古くから魔女の証とされ、存在してはならない禍ツ物まがつものだ。

 風に乗った呪詛は国を滅ぼし、その影は大地を腐らせる。負を身に纏い、不幸を呼び寄せる。

 ヒルダ様は、そのけがれを持って生まれてしまった忌み子。

 側女だった母親からは捨てられ、父である国王の情けで、この塔のみでの生を許された、悲しき幼子だ。

 今まで生かされていたのは、雲行きの怪しかった隣国との関係があったから。

 強い力を持つヒルダ様魔女を、切り札として持っておきたかった。それだけだ。


「私はヒルダ様と共にあります」


 私は、膝をつきこうべを垂れた。


 ヒルダ様がまだハイハイをしている頃からお仕えをして、はや十年。四十を迎えた。男の盛りを超えた身体は衰えていくだけだろう。

 ならばいっそこの身をヒルダ様の後追いに。

 ここ何日かはその思いに憑りつかれていた。


「ならぬ」


 我が思いを断ち切る、厳しい声が響く。

 声の主に顔を向ければ、その銀糸をベッドに咲かせたヒルダ様が、眉を顰めているのが目に入った。


「何故でござりましょう」

「生きろ。死ぬことはまかりならん」

「もはや老いぼれに片足を突っ込んでおります。黄泉路への一人旅は寂しゅうござりましょう――」

「ならぬ。妾はひとりで逝く」


 その一言で、ヒルダ様との会話は終わってしまった。


「……湯を、お持ちいたします」


 気まずくなる空気に、私は部屋を出た。





 塔の最下部には厨房がある。ヒルダ様専用にして、使用するのは私ひとり。

 秋の足音も聞こえる時頃。かまどに火を入れ、五徳に片手鍋を置いたところで、背後に気配を感じた。

 私を除き、ここには誰も近寄らなかったはずだ。それは今も続いている。


「誰だ!」

「坊や、そんなにいきり立たないで」


 厨房の入り口に、人が立っていた。夜に浮かび上がる黒のローブを頭からかぶり、女性を主張する豊かな乳房を誇示し、闇に紅い瞳を輝かせていた。


「ま、魔女……」


 ヒルダ様と同じ、禁忌の紅い瞳。射抜くような氷の紅。 

 身体に震えが走る。


「あの娘と一緒なのに、恐れるの?」


 私の体はビクリと止まった。彼女のくぐもった笑いが忍び寄る。


「邪な想いを持っている割には――」

「う、うるさい!」

幼女趣味ロリコンって、最低よね」

「ち、ちがう!」


 図星だった。


 お仕えしてからどれくらい経った頃だろうか。

 拒絶された世界で、健気にも背筋を伸ばし、前を向いておられたヒルダ様に想いを寄せたのは。

 決して親愛の念から生まれたものではなく、もっと下種で、本能に根ざした、獣の情欲からだ。


 仕える主への劣情。

 口にすることも憚られる、封印すべき感情。


 拳を握る事で平静を保つ。相手の口車に動揺を見せてはいけない。


「あの娘を助けたい?」


 闇に隠れた彼女の口が、そううそぶく。

 ギリと、私の歯が削れた。


「できるわけがない! ヒルダ様は明日処刑される! それは変わらない! 変えられない!」

「それは貴方に力がないから、でしょ?」


 私の激高など、彼女にはそよ風にもならなかったようだ。紅い瞳が細まる。嘲笑っているのが手に取るようだ。


「力があれば、可能なんじゃない?」


 嗤うような彼女の言葉は、私の深いところへ突き刺さった。返す言葉が見当たらない。靴のつま先は、答えを教えてはくれない。


「そうそう、貴方知ってる?」


 意識を刈り取られていた私の耳元で、声がした。背筋に嫌な汗を感じる。


「処刑は、朝までに行われるんだって」


 ドクリと心臓が跳ねた。戦慄わななく口を蹴とばして、言葉を吐く。


「バカな! そんな話は聞いていない!」

「あんたに教えたら邪魔するに決まってるじゃないのさ」

「くそっ」


 顔を上げるが、そこに女はいない。ズキリと額に痛みが走った。


「まさかっ!」


 想像したくない予感に、私は駆けた。

 腕を伸ばし手すりで体を押し上げ、階段を飛ばしていく。だが寄る年波が足を絡ませ、思うように進まない。

 もう満足にお仕えできる体でもなし。是非にでも黄泉路へのお供とさせていただかねば。

 息も絶え絶えに階段を登りきったところで、ベッドに立つヒルダ様の姿が目に入った。

 紅の瞳を爛々と輝かせ、もう一人の魔女を見据えていらした。凛とした立ち姿に、年甲斐もなく胸が躍る。


「隣国との関係改善の条件がヒルダちゃんの命を絶つことだそうよ」


 ローブの女の、抑揚のない声が響く。吐き捨てる言い草に腹の底が重くなった。


「何故だ!」


 思わず叫んでしまった。ローブの女の顔がこちらへ向いた。


「憂いを残したくないという建前で、実際は後ろ盾無きこの国を乗っ取るつもりなんだって」

「そんな身勝手な!」

「愚鈍な王を戴いたこの国の悲劇、ね」


 ふふっと嗤う女に腹が立つ。


「それでは、ヒルダ様が無駄死に同然ではないか!」


 身が裂けんばかりの怒りが込み上げてくる。だが諌めるようなヒルダ様の視線に気がついた。

 握りしめる拳で憤怒を堪え、煮えくり返るはらわたを沈めるべく、大きく息をすった。

 幼き我が主はいつでも冷静だ。私が激高してはいけない。


「まぁまぁ、いきり立たないで。私が魅力的な提案をしてあげるわ」


 両手を広げ大仰に述べるローブの女。

 偉そうな物言いにこめかみがヒクつく。だがヒルダ様の手前、冷静に努めねばならない。私は大人なのだ。


「して、そちの提案とは」


 ヒルダ様のか細い声が、僅かに震えている。処刑後の国の行く末を聞かされ、感情が抑えきれぬのかもしれない。

 いやまて。この魔女の言うことが真なのかも怪しい。ここは考慮する時間を稼ぐのが先だ。

 うむ、よく気がついたぞ、私。

 冷静になった我が身を褒める。


「そっちのおっさんはダメダメだけど、さすがヒルダちゃんは肝が据わってる」

「テオを侮辱することは許さん」

「あらあらごめんなさいね」


 クスっと魔女が肩を揺らした。

 だが、ヒルダ様がかばってくれたことで、私の魂は救われた。やはり私はこのお方に死ぬまでお仕えしたい。

 それがたとえ黄泉路への旅となっても、だ。


「そんなに彼が大事?」

「我が身を省みず、妾の世話を買って出る奇特な者はそうはいまい。貴重な人材だ」


 ヒルダ様は、凛とした声で言い切った。言い切ったのだ!

 おおお、私如きを気にかけてくださるとは、ヒルダ様はお優しい。お慕い申し上げます!


「……なんか邪な感情が溢れてるけど、まあいいわ。そうね、彼と一緒なら、話を聞いてくれるかしら?」

「よいぞ」

「ありがとう。話っていっても簡単なのよ。私の代わりに魔王になって欲しいの」

「魔、王……?」


 ヒルダ様が呆気にとられるのも致し方ない。如何にとっぴょうしもないことを言い放ったのか、この魔女は理解しておるまい。

 魔女と蔑まれているヒルダ様に、よりによって魔王などと。

 なんという侮辱。なんという暴言。

 不届き千万。私が斬って捨ててくれる!


「あらあら、貴方はちょっとおとなしくしててくれるかしら?」

「がっは……」


 何故か眼前に迫っている魔女のその腕が、我が腹に突き刺さっていた。どろりと流れる赤い血。灼熱と激痛が身体を駆け巡った。


「ぐあぁぁぁ!」


 焼ける!

 腹が、焼ける!

 あああああああ!


「ふふふ、いい子だから、ちょっとの我慢よ?」


 魔女の腕が、腹の中で暴れている。激痛で体がマヒしたのか動かせない。喉奥から込み上げる何かが、ゴボリと口から溢れ出た。


「テオ!」

「ヒルダちゃんもいい子だからちょーっと待っててね」


 魔女の紅の瞳が細まった。体から感覚が消えていく。

 足裏から床の感触が消えた。

 耳からは音が消えた。

 目からはヒルダ様が消えた。

 吐き気を催す浮遊感。這い寄る不安に心が支配されそうだ。

 あぁ、ヒルダ様は何処に……


「ヒルダ、様……」

「あらあら、情熱的ねぇ。ロリコンのくせに」 

「な、なに、を」

「テオ!」

「もうちょっとかしらね」


 何かが腹で蠢いている。感じられないが、気配がする。凍りそうな何かが、我が体をジワジワと染めていくようだ。

 わからない。

 何もわからない。

 闇だ。

 闇に呑まれているのだ。

 このまま、このまま私は消えゆくのか。

 ヒルダ様。

 最後までお仕えできないこの老いぼれを、お許しくださ、い。

 

「ほら、かっこつけてないでシャンとしなさい」


 無遠慮な声が、頭上から聞こえた。

 闇が裂けた。

 膣のように僅かな切れ目から光が漏れる。

 まなこをこじ開ければ、黒いローブがそこにあった。つと視線をあげれば、女性たる双峰。さらに上方には、闇に瞬く紅の星。

 魔女が私を見下ろしていた。


「はい出来た。ヒルダちゃんに横恋慕してる変態ロリコンだけど、人三倍くらい忠誠心が駄々漏れだから閨で良い声で鳴かしても、いいかも」

「変態だと!」

「事実でしょ」

「ぐぬぬ」


 破廉恥な言い草に奥歯を噛みしめずにはいられない。まだ幼いヒルダ様の御前で、なんということを口走ってくれるのだ、この魔女は!


「テオ!」


 トスンと音がする方を見れば、ベッドから降りたのか床に立つヒルダ様が、唖然の表情でこちらを見ていた。

 そのように間抜けに口をお開けになっては、せっかくの美貌が台無しではありませぬか。


「美しいヒルダ様に置かれましては、静かに口を閉じ、お淑やかさで民を睥睨する仕草こそが、お似合いでございまする。僭越ながらこのテオ、そのようにヒルダ様をお育てした覚えは御座いませぬ!」

「テオ、縮んだ」


 ヒルダ様の顔が近い。いや、高さが近いと言えよう。

 私の目線にヒルダ様の紅の瞳が、ぴたりと同じ高さにあるではないか。


 陶器のような真白き肌。

 宝石のような紅の瞳。

 小さくも懸命に結ぶその口。

 あぁ、我が君は健気で美しい。


 私が若ければ、美丈夫であれば、ヒルダ様を我が腕に抱くことも叶えられよう。閨を共にすることもできよう。

 ヒルダ様を組み仕抱き、その首筋に口付けて我が物と吹聴することもできよう。

 だが、所詮は邪なる願望。薄汚れた我が心の内を、純白なるヒルダ様に知れては、御前に姿をお見せすることなどできぬ。

 悟られてはならないのだ。


「テオ、汗がすごい。大丈夫?」


 普段と変わりなく表情を隠しておられるヒルダ様だが、その紅の瞳が揺れているのを、私は見逃さなかった。

 ヒルダ様が、私如きを気にかけておられる。

 それだけで私の胸は幸福で満たされる。

 天にも昇る気分とは、このことか。

 我が生涯に悔いはない!


「テオ?」

「ハッ! ヒルダ様、大丈夫でございます」

「……口がだらしない。涎もすごい」


 私は素早く、腕で口を拭った。歓喜のあまり、淫妖なる妄想に浸りすぎていたようだ。

 ヒルダ様にお仕えする身として、あるまじき失態!

 輪が首をもってしても償えぬ大罪!

 ……だが、ここは誤魔化しておこう。


「いえ、寝てしまったようで……」

「そうか。心配は杞憂であったか。ならばよかった」


 ぬおおおお、ヒルダ様が微笑んでおられる。

 まるで天使のようだ。

 このまま召されたとしても文句は言わぬ。この目に焼き付けたヒルダ様の笑みを胸に抱えて、逝ける。逝ける!


「ちょっと、私を無視しないでくれるかしら?」


 不機嫌そうな声に、ヒルダ様と同時に魔女を見上げた。いつの間にフードをとったのか、露わになった魔女は、美人だった。

 紅の瞳に負けない、燃えるような赤髪。挑むような目。不敵に歪む口許。

 ヒルダ様を知らなければ、心を奪われていたかもしれない。

 だがしかし、私はヒルダ様一筋で十年。揺るぎない想いは、こんなことではそそのかされぬ。


「真性って、本当にいやね」


 魔女が私を見据えて、そう言った。


「真性とは――」

「で、ヒルダちゃん。私の提案は如何?」


 私の言葉を遮って、魔女はヒルダ様に顔を向けた。ヒルダ様の表情は変わらないように見えるが、強張っているのが私にはよくわかる。

 魔王になれとの戯言。だが、今のヒルダ様には甘言に聞こえたやも知れぬ。

 明日には処刑されてしまう。生きることに執着していないヒルダ様とはいえ、天から降ろされた寄る辺ない絹の糸でも、縋りたくなったのかも知れぬ。


 生きて欲しい。

 我が願いだ。

 例え泥水を、生き血を啜ることになっても、生あれば、いずれは幸せが訪れるだろう。

 そう願いたい。


「妾は――」

「魔王になれば、ヒルダ様は生きることができるのか?」

「まー、生きるだけなら、これから襲撃してくる兵士たちを薙ぎ払えば問題ないけど、こっちの都合もあってね」

「都合だと?」


 私はヒルダ様を背に隠しつつ、魔女と相対した。


「可愛い騎士様だこと。ま、私も魔王に飽きちゃってさ。いい加減引退してダーリンとキャッキャウフフしたいのさ」

「キャッキャ……」

「ってことで、別に魔王を引き継ぐのは貴方でも問題ないっていうか、今しがた貴方の体を作り変えて魔族にしちゃったから」

「なに?」


 魔女は自らの豊満な胸に右手を突き刺した。清流を楽しむように埋もれたその腕は胸中を蠢き、すぐに引き抜かれた。


「これをね」


 ニタリと笑う魔女の掌には、全てを呑みこむ闇色の球体があった。

 おぞましい気配。

 不愉快な脈動。

 その闇の球からは〝悪〟が溢れていた。


「貴方にあげる」

「は?」


 魔女が伸ばした腕は、私の胸に刺さった。


「忌まわしき感情に憑りつかれた貴方にはお似合いね」


 魔女の微笑みと共に、体に電撃が迸る。

 一瞬。一瞬だったが、爪が剥がれる如き激痛が体を駆けた。


「あ……が……」

「はい終了」


 ツプンと、魔女の腕が抜けた。何事もなかったかのように、魔女はパンパンと手を叩いた。


「はい、今からロリコンの変態君が魔王ね。じゃ、私はもう行くから」


 にっこりと乙女の笑みを浮かべた魔女の姿は、霞と消えた。

 

「ま、まて!」

「テオ!」


 追いすがろうとした我が身は、背後へ引き戻された。振り返れば、幼い我が君が眉を下げて不安げな顔をしていた。


「……テオの目、あかい」

「なんと申されました?」

「テオの目がね、妾と同じあか


 私を見つめるヒルダ様の顔は、悲しみと慈しみが混在する、不思議なものだった。


「それに、テオが子供になってる」

「は?」


 言われて、我が手を見た。小さな掌は、節くれだち生気が失われたものではなかった。みずみずしく、今にも破裂しそうなほどだ。

 着ていた服は肩からずり落ちてしまい、ズボンは脱げて床に広がっていた。

 間違いなく、我が身が若返っているのだ。


「あの魔女が……」


 体を魔族に作り変えたとのたまっていた。それにあの漆黒の球体が我が身に埋まって――


 ガシャリ


 金属を擦り合わせる音が、微かに聞こえた。その音は次第に数を増し、絶え間ない悲鳴になっていく。


 ――処刑は、夜のうちに行われるんだって


 脳裏に閃いたのは、魔女の言葉。


「まさかヒルダ様を」


 ヒルダ様は、ぎゅっと口を結んでいた。死の恐怖の耐えているのだろう。まだ十でしかない、彼女にはその感情を逃がす手段はあまりない。

 涙を見せないヒルダ様は、耐えるしかすべを知らないのだ。


 私がお守りしなければ。忌み嫌われた愛しき幼子を。


 その思いが胸で爆発する。

 体を黒い感情が駆け巡る。

 腹の底で何かが湧き上がる。

 胸から腕を伝い、掌が燃えるように熱くなる。


 魔女の声が頭に響く。

 殺れ。

 殺られる前に殺れ。

 その為の能力が、お前にはある。

 殺れ。

 殺れ!


 魔女の、先代魔王の声で頭が埋まってしまう。


「テオ!」


 ヒルダ様の悲痛な叫びが、遠くで聞こえる。


 我が愛しの君。

 貴女には生きる権利がある。

 私には生かす力がある。


 ワガキミハイキルベキダ。

 スエナガク、ワレトトモニ。


「ハハハ!」


 ヒルダ様の頬に手を当て、こちらを向かせる。意図が読めないのだろうヒルダ様の紅の瞳が大きく揺れている。

 貴女を守るのは私で、貴女を奪うのも私だ。

 守り、組み伏し、慈しみ、凌辱する。

 私の思考は、魔に憑りつかれているのだろう。

 だが心地よい。

 雄たけびをあげて体を貫く快感に打ち震えてしまいそうだ。

 荒ぶる心が体をさらに熱くする。 

 気がつけば、ヒルダ様の唇を奪い、思うままに蹂躙していた。

 歯をこじ開け舌を差し入れ、粘液を絡みつかせる。

 幼気な蕾を、強引に開花させる。

 煮えたぎる劣情に燻られたのか、ヒルダ様の紅が蕩けていく。

 乙女になる前に、してはならぬ表情かおだった。


 階段を金属音が駆け上がってくる。

 無粋だ。非常に無粋だ。


 後ろ髪を引きちぎり、ヒルダ様の唇を解放する。紅潮した顔に、潤む紅の瞳が蠱惑的だ。

 美しい。この美は、私だけものだ。

 ダレニモワタサナイ。


 崩れそうな彼女を抱き寄せながら、体勢を入れ替え、階段を視界にとらえた。

 無骨な兜が見えた瞬間、ドス黒い感情が爆発した。

 閃光、破裂、轟音、衝撃。

 立ち込める煙に轟く悲鳴。

 何かがへし折れる雑音とぶちまけられた液体の不協和音。

 重く湧き上がる不穏な感情が口角を上げてゆく。

 禁じ得ない高揚感と退廃の香り。

 抑えきれない欲望と邪なる驕り。

 

 我が願いは、愛しの君と共に在ること。

 我が願いは、愛しの君を蹂躙すること。

 魔王など、ついでだ。


「ヒルダ様。地平の向こうへ、行ってみませんか?」


 壁を吹き飛ばし、私は努めてにこやかに微笑みかける。だが、桃源郷を揺蕩う彼女からの応えはない。


 背中に力をこめれば、自由への黒き翼が生える。

 悪意が地平線を覆い始めた。ヒルダ様との門出を祝福するように、地獄の底から悪魔が這い出てくる。


「ハハハ」


 口をつく高揚の嗤い。

 ヒルダ様は我が腕にある。

 もう離さない。


 ヒルダ様の身体から封じられた呪詛が漏れ出した。怨念が奏でる数え歌が国中に散らばっていく。

 ひとつ、またひとつと、命が蒸発していくのがわかる。

 呪詛は数え終わるまで続く。夜が明けるまでには歌い終わっているだろう。

 

「遠く離れた土地で、静かに暮らしましょう」


 邪魔が入らないように、人間は滅ぼしておきましょう。

 静かに羽ばたき、黒い空へと舞う。眼下には、崩れる塔。

 忌まわしき記憶は塔と共に塵に還す。

 朝日など昇らせぬ。闇こそが、呪われた我が愛しの君に相応しい。

 永久とこしえの夜を貴女に。永久とわの快楽を貴女に。

 我は、誓わん。

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