私は郵便屋さん

小宮 順

私は郵便屋さん

 田舎いなか町の小さな郵便局。

 隅々まできれいに整頓された小さなオフィス内は、まだ始業前ということもあり三人しか人がいない。


「もっと気楽に話したらいいんだって」


 局員用のデスクから少し離れたソファアに座り、文叶ふみかは隣の物静かそうな女性局員に言い放つ。朝の静けさとはかけ離れた元気な声は、狭い局内の端から端まで空気を震わせた。


「文叶ちゃんはすごいなぁ」


 まだ入社一か月の小峰綾乃こみねあやのがやわらかい表情を見せる。

 文叶にとって綾乃は小学生来の親友で、職場では四年目の文叶のほうが先輩になるが、二人の関係はここでも変わらなかった。


「そんなことないよ。局長は見た目は怖いけど、案外優しいから」


 文叶は明るく言う。だが、綾乃は浮かない顔だ。

 綾乃は昔から人見知りだから、いまだに他の職員にも緊張してしまうらしい。


明香あすかさんもそう思いますよね?」


 文叶はどうしようもなくなって、もう一人の先輩社員に助けを求める。すると、自分のデスクで雑誌を片手にコーヒーを飲んでいた、静波しずなみ明香が振り向いた。

 眼鏡をかけた明香は、髪を後ろでまとめている。大人っぽくて上品な外見の彼女は、活発な文叶と正反対で落ち着いた雰囲気の人だ。

 明香はこちらに視線を向ける。そして、なぜか文叶の頭上へと視線をずらして、意味深な笑みを浮かべた。


「よかったですね」

「……?」


 文叶は首をかしげる。それから、明香の視線を追うように背もたれに体を預け、そのまま首を反らせて背後を見上げた。

 逆さになった不機嫌そうな男の顔が、文叶を見下ろしている。


「あ、局長。おはようございまーす」


 文叶はとぼけたような声で言う。

 男は何か武術でもやっていそうな体格で、腕組みしながら仁王立ちしていた。不機嫌そうな顔も相まって、近寄りがたい雰囲気をかもし出している。


「おはようございます、局長」

「おう、おはよう小峰」


 綾乃の挨拶に対して、男は一変して笑顔で返す。それから、


「局長じゃなくて、二階堂にかいどうでいいぞ」


 と、付け加えた。


「は、はい」

「ダメですよ! 局長は局長なんですから」

 

 すぐさま文叶は抗議する。


「俺は堅いのが嫌いなんだよ。てか、お前のは絶対馬鹿にしてるだろ」

「馬鹿になんてしてません。むしろ尊敬してます」


 真剣な顔で訴えるが、二階堂は呆れたようにため息を吐いた。


「あのなぁ、安藤あんどう

「安藤じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでください」

 

 二階堂の反応が気に食わなくて、文叶はひねくれた返しになる。


「なんでお前だけ、名前で呼ばなきゃなんねえんだよ」

「私は堅いのは嫌いなので」

「お前は馴れ馴れしすぎだ」

「いてっ」


 二階堂の真似をしてみたのだが、頭を軽くはたかれてしまった。文叶は両手で頭を押さえながら恨めしそうな目を向ける。しかし、二階堂は意図的に気づかないふりをして、そっぽを向いて

しまった。


「もうすぐ朝礼だから、さっさと準備しろよ」


 そう言って、一番奥の局長席へと去っていく。

 すると、さっきまで二人の会話に戸惑っていた綾乃が、心配そうに文叶を見つめてきた。


「大丈夫? 文叶ちゃん?」


 しまった。

 綾乃を慣れさせようとしていたはずが、逆に怖がらせてしまったかもしれない。


「全然平気だよ。局長はほら、照れ屋だから」


 文叶はおどけて言ってみせるが、綾乃はまだ不安そうだった。本気で心配されると、調子が狂ってしまう。

 ていうか、こうなってしまったのは局長のせいじゃん。

 文叶は自分のデスクでパソコンをいじる二階堂に、不満の目を向ける。当然、向こうは気づきもしない。

 見兼ねた明香が、こちらに声をかけてきた。


「大丈夫よ、綾乃ちゃん。二人はいつもこうだから」


 明香さんナイスフォロー。


「そうだよ、私は局長と超絶ちょうぜつ仲がいいから」

「そうなの?」

「もちろん!」


 文叶が満面の笑みで答えると、綾乃はようやく笑顔を見せてくれた。


「でも……私、文叶ちゃんみたいになれるかな?」

「私みたいに?」


 綾乃の口からそんな言葉が出てくるとは、思いもしなかった。

 文叶は自分のように振る舞う綾乃を想像して、身震いする。絶対にやめた方がいい。そんなことをしたら綾乃のいい部分がなくなってしまう。

 どう説得しようかと迷っていると、すかさず明香が割って入ってきた。


「無理しないで。綾乃ちゃんは、自分のペースで慣れていけばいいのよ」


 さすがは明香さん、頼りになる。

 さとされた綾乃はどうにか納得したようだ。文叶が胸をでおろしたところで、ちょうど始業の合図が鳴った。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 半円状に並ぶ全局員の前に、二階堂は立つ。全局員と言っても、二階堂自身を含めてたったの七名だ。二階堂はいつもと同じように、その日のスケジュールと連絡事項を伝えていく。


「……以上だ。他に連絡があるやつはいるか?」


 最後にそう問いかけるが、特に誰も連絡は無いようだ。


「それじゃあ、今日もお客さんの郵便を大切に扱うこと。以上」

 

 そう締めくくると、局員はそれぞれ業務に取り掛かり始めた。二階堂も自分のデスクへと戻り、朝からまった仕事を片付けていく。

 十時を過ぎた頃、いつものように文叶が勢いよく席を立った。


「ポストの郵便回収してきまーす」


 ポストとは、この郵便局の目の前に設置された郵便ポストのことだ。大声でそれだけ告げ、文叶は小走りに外へ出ていってしまう。


「朝から騒々しいやつだな」


 ポストの郵便回収の担当を文叶に決めたのは二階堂だったのだが、最近は別の局員と交代させようかと思い始めていた。


「いいじゃないですか、活気が出ますし」


 二階堂は独り言のつもりだったのだが、明香がそう返してきた。

 確かに、文叶の存在がこの空間を明るい雰囲気にしてくれている。この小さな郵便局への来客はそれほど多くないし、配達に行った三名を除けば、オフィス内は寂しいものだ。それに加え、局長である二階堂自身がそれほど喋らないタイプなので、文叶がいなければ局内で業務以外の会話はほとんど無いのかもしれない。

 だけど、うるさ過ぎるのも考え物だ。


「元気なのはいいけど、小峰みたいにもう少し落ち着いてほしいんだが」


 二階堂は、まだ打ち解けられていない部下の名前を、あえて出してみる。少しでも会話に参加しやすくしようと思ったのだが、綾乃は逆に緊張してあわあわしていた。

 そんな微妙な空気を割くように、オフィス内に叫ぶような声が響く。


「―― 局長、大変です!」


 入り口の自動ドアから駆け込んできた文叶は、息を荒げている。


「ポストが……」

 

 なんとか説明しようとしているみたいだが、混乱しているのか言葉はそこで途切れてしまう。だが、事情はわからなくとも、緊急事態であることはみ込める。

 二階堂はすぐに席を立ち、文叶の手引きでポストへと向かった。


「なんだこれは……?」


 それが二階堂の第一声だった。

 扉が開いたポストを前に、二階堂は呆然と立ち尽くす。目の前の光景が信じられなかった。ポストの中にひしめく郵便。しかし、それらはすべて白い液体でぐちょぐちょにへたれていた。

 追って、生乾きのような湿った悪臭が鼻をつく。


「どうしたんですか?」


 遅れて来た明香が言った。綾乃も一緒だ。

 だが、二人ともポストの中の惨状を見て息を呑む。


「牛乳……?」


 明香が不快そうに顔をしかめる。二階堂もそんな気持ちだった。


「誰かのいたずらだろうな」


 ポストの中に、異物が流し込まれる。

 誰が、なんの目的でやるのかはわからない。

そんな事件は、全国各地どこでも起きるようなことで、だけど、自分がそれに巻き込まれるなんて、二階堂は思ってもみなかった。こんな小さな田舎町の郵便ポストに、そんないたずらをして何になるというのだろう。


「……こんなのって、あんまりですよ」


 ずっと黙っていた文叶が、絞り出したような声をこぼす。

 二階堂も怒りと悲しみが込み上げてきたが、ぐっと自分の感情を押し殺し、握っていた拳を緩める。局長である以上は冷静に対応しなければ―― 。


「まずは警察に連絡だ。静波、頼めるか?」

「わかりました」


 明香は頷き、局内へ戻っていく。


「お前たちは、この郵便を取り出すのを手伝ってくれ」


 二人はかなりショックを受けている様子だ。だけど、今はそんな場合じゃない。一刻も早く、この郵便たちを救い出してやるのが、二階堂たちにできる最善のことだった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ―― 午後二時。

 二階堂は、駆けつけてくれた警察からの事情聴取を終えた。その間に、他の三人には汚れた郵便とポストの清掃を済ませてもらっていた。

 そして、現在は三人とも、遅ればせながら昼食をとっている。

 二階堂も自分の席に腰を下ろし、大きく息を吐く。背もたれに体を預けると、どっと疲れがでて体が沈み込むような感覚が襲ってきた。


「お疲れ様です。二階堂さん」

「おお、すまない」


 明香がれたてのコーヒーを出してくれ、二階堂は慌てて姿勢を正した。それから、コーヒーを一口だけすすると、すぐにパソコンへと向かう。


「もう少し休んだ方が……」


 明香が心配そうに言うが、二階堂は首を横に振った。


「今日中に遅れた分を取り戻さないと」


 今朝の一件への対応はひとまず一段落したけれど、休んでいる暇はない。通常業務がとどこおれば、お客さんの元へ郵便が届くのが遅れてしまう。

 『どんな状況でも必ず郵便を届ける』、それが二階堂のモットーだ。

 だから、牛乳で汚された郵便たちも、そのままにしておくつもりはなかった。少しでも早く対処するためにも、業務を前倒しして時間を作る必要があるのだ。


「それにしても、どうしてこんな時期なんでしょうね?」


 明香が自分の席には戻らずに話しかけてくる。事件のことだろう。

 本当は業務に集中したかったのだが、二階堂は一度作業を止めた。無理をする二階堂を少しでも休憩させようという意図が、明香から伝わってきたからだ。


「さあな、年末でもないのに暇なやつがいるもんだ」


 二階堂には犯人の気持ちなど微塵みじんもわからなかった。だが、一つだけ言えるのは、犯人がどんな思いで行動を起こしたにせよ、それが犯罪であるということだった。思いのこもった郵便を傷つけるということは、その思いを込めた人を傷つけるのと同じで、それほど重い罰が与えられてしかるべきなのだ。

 しかし、決してそれは二階堂たちがやるべきことではない。


「―― 局長! やっぱり、私許せません!」


 二階堂たちの話を聞いていたのか、文叶が自分のデスクから立ち上がって叫んだ。それから、二階堂の元へずいずいと歩いてくる。


「俺だって許せねえよ」


 二階堂は面倒くさそうに呟く。

 だったら―― と、文叶が二階堂のデスクを思いきり叩いた。


「私たちで犯人を捕まえましょうよ」


 またこいつは、とんでもないことを言い出す。

 二階堂は呆れてため息を吐いた。だが、文叶は真剣な眼差しで見つめてくる。


「文叶ちゃん、それは無理よ」


 明香が制止の声をかけるが、文叶は納得がいかないと声をさらに大きくする。


「でも、また同じことされるかもしれないんですよ?}

「犯人を捕まえるのは警察の仕事だ」

「でも局長 ―― 」

「俺たちが今やるべきことは、被害にあった郵便をどうにかすることだろ」

「でも……」


 文叶はそれ以上言い返してはこなかった。だが、まだ気持ちが収まらないのか、黙ったままきびすを返して行ってしまう。


「おい、どこ行くんだよ」


 二階堂は文叶の背中に呼びかける。


「―― 外です!」


 即座に怒号が返ってきた。

 そのまま文叶は、入り口の自動ドアから出ていってしまった。二階堂は、今度はさっきよりも深いため息を吐く。


「……若い奴は血の気が多くて敵わねえな」

「文叶ちゃんにとって、この仕事は誇りですからね」


 明香がしみじみとした様子で呟いた。

 文叶の郵便局の仕事に対する思いは、二階堂も認めている。


「それはいいいことなんだがなぁ……」


 思わず、またため息が出そうになり、ぎりぎりのところでこらえた。それから、二階堂は心配そうに入り口を見つめている綾乃に声をかける。


「小峰、すまないが安藤の様子を見に行ってやってくれ」

「は、はい」


 綾乃は肩をびくりとさせて、すぐに文叶のあとを追っていった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 文叶は局前の郵便ポストの横にある、コンクリートの段差でうずくまる。お尻が汚れることはまったく気にならなかった。


「……局長のわからず屋」


 そう呟いてみると、目頭がぐっと熱くなって涙が零れた。

 二階堂が言っていることは正しい。だけど、文叶は自分の考えも間違っているとは思わなかった。警察が犯人をさがしてる間にも、再び今朝のようなことが起こるかもしれないのだ。それを何もせずに見過ごすなんて、文叶にはとてもじゃないが耐えられなかった。


「文叶ちゃん……」


 微かに聞こえたその声に驚き、ばっと顔を上げる。すると、綾乃の揺れる瞳と目が合った。


「……大丈夫?」


 文叶は慌てて涙を拭う。


「なんだ、綾乃か。放っておいてもよかったのに」


 口ではそう言ったけれど、本当は少しうれしかった。

 必死に涙を止めようとする文叶の隣に、綾乃がそっと座ってくる。そんな親友の姿に涙はさらに溢れた。口数は少ない綾乃だけど、文叶は彼女のそういうところが大好きだった。


「……私、どうしても犯人が許せない」


 それは、返事を求めるわけでもなく、ただ誰かに吐き出したかった思い。


「それに、局長のことも……尊敬してたのに……」


 文叶は本気で二階堂のことを尊敬していた。人の気持ちを一番大事にして、この仕事に信念を持っている。それが、文叶の知る二階堂という男だった。それなのに、


「どうして……」


 唇をギュっとかみしめると、また熱いものが込み上げてきそうになる。


「文叶ちゃんは、私が転校したときのことおぼえてる?」


 唐突に綾乃が尋ねてきた。文叶は驚きつつも頷く。


「うん、忘れるわけないよ」


 綾乃は小学五年生の終わりに、親の都合で東京の学校へと転校していった。大の仲良しだった友達との別れに、お互いに号泣していたのを憶えている。高校と大学は同じ学校に通えたけれど、まだ小学生だったときの文叶にとっては、東京という場所はもう二度と会えないほどの距離に思えたのだ。


「そうだよね。私、あのときはものすごく不安だったんだ」


 綾乃の性格ならそうだろう。周りに知り合いがいない状況は、内気な綾乃にとっては不安しかなかったに違いない。


「でもね、転校したあとに文叶ちゃんが手紙を送ってくれたでしょ? 私、本当にうれしかったんだ。そのおかげで、文叶ちゃんとの繋がりをなくさずにいられたから」


 当時を思い出すように、綾乃はまぶたを伏せた。


「……私も、綾乃と友達でいられてうれしかったよ」


 返事の手紙をくれたこと。どれだけ遠くにいても繋がれるとわかった瞬間。文叶は、綾乃との間に虹が架かったような気がした。そして、その虹を通って手紙を届けてくれる郵便屋さんは、まるで魔法使いのようだった。

 文叶はそのとき初めて、将来は郵便屋さんになると決めたのだ。


「だから、あのときの私たちの手紙が汚されたと思うと、私は犯人のことが許せない」


 許せるはずがない。


「犯人は絶対に私が突き止める」


 そう決意すると、なんだか元気が出てきた。

 やっぱり、文叶ちゃんはすごいなぁ―― と、綾乃が呟く。


「私も許せないけど、そんな勇気ないよ……」

「大丈夫! 綾乃のためにも、私がなんとかするから!」


 文叶はそう言って胸を張った。


「……文叶ちゃん、あんまり危ないことはしないでね?」


 綾乃が問い詰めるような視線を向けてくる。その視線から逃れるように、「平気だよ」と文叶は立ち上がった。


「よし、落ち着いたしそろそろ戻ろう」


 話は終わりというように伸びをすると、綾乃もそれ以上は追及せずに立ち上がった。

 局長、怒ってるかな?

 綾乃と局内へ戻る途中、ふと、そんなことが頭をよぎった。だけど、文叶はすぐに考え直す。

 怒ってるのは私の方なんだから。

 絶対に自分からは謝らないと、文叶は心に決めた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 定時の五時半を目の前に、どうにか通常業務の遅れを取り戻すめどが立ち、二階堂は一度背もたれに寄りかかって体をほぐす。そうすると、滞っていた血流が再び体中を巡りだした。

 目を閉じて、全身が脱力する感覚をかみしめたのち、二階堂は席を立った。局長用のデスクから少し離して設置された、局員用デスクへと近づいていく。


「どうしたんですか?」


 明香の声につられて、ほかの二人も顔を上げた。


「月曜から悪いんだが、残業をお願いできないか? 被害にあった郵便の対応を手伝ってほしいんだが」

「私はかまいませんよ」


 明香が答える。


「……私も、大丈夫です」


 遠慮がちに綾乃も続く。

 だが、真っ先に返事をしそうな文叶だけが返事をしなかった。


「安藤はどうする?」


 二階堂が問いかけると、抑揚よくようのない声が返ってくる。


「私は用事があるので帰りまーす」


 少し意外だった。文叶のことだから、率先して手伝ってくれると思っていたからだ。

 だが、強制はできないので二階堂は引き下がる。


「……そうか、わかっ―― 」

「それと、しばらくは定時で帰らせてもらいますから」


 二階堂の言葉を遮り、文叶が言った。


「お前もしかして、まだ怒ってるのか?」


 お昼のことは、二階堂はもう気にしていなかったのだが、文叶はまだ怒りを持て余している様子だ。


「別に、そんなんじゃないですよ」


 言葉と口調が合っていないけれど、二階堂はそれをたしなめることはしなかった。文叶のことだから、放っておけばそのうち怒りも収まるだろう。


「では、私はお先に失礼します」


 時計の針がちょうど五時半を指すと同時に、文叶はそう言って帰る準備を始めた。


「安藤、気をつけて帰れよ」


 さっさと入り口へと向かう文叶の背中に、二階堂は声をかける。


「……わかってます!」


 文叶は立ち止まると振り向かずにそう答え、それからすぐに、自動ドアをくぐり抜けて行ってしまった。

 自動ドアが完全に締まりきってから、思わず心の声がこぼれる。


難儀なんぎなやつだなぁ……」

「―― 機嫌、なかなか戻りませんね」


 横から聞こえた明香の声で、二階堂は我に返った。


「まあ、しょうがない」


 二階堂はそう呟いてから、「よし」と気持ちを切り替える。


「じゃあ、静波と小峰はよろしくな」

「あの、具体的には何をするんでしょうか?」


 明香が尋ねてくる。


「そうだな……まずは差出人の特定と対応。それから、差出人がわからないものに関しては別の対応を考えよう」


 現時点で出せる指示はそれだけだった。


「細かいことは、その都度相談してくれ」

「わかりました」


 今朝もそうだが、明香はこういうトラブルのとき、いつも落ち着いている。一緒に十年近く働いてきたが、どんなときでも常に冷静でいてくれるので、二階堂は非常に助かっていた。

 しかし、入社したての綾乃はそうもいかないようだ。


「そんなに硬くならなくても大丈夫だぞ。みんなで少しずつ進めていこう」


 綾乃は自分に言われているのだと気づき、びくりと震える。


「あ、いえ、その……はい」


 反応が妙だったけれど、やはり緊張しているのだろうか?


「取りあえずは休憩してからにしよう」


 これ以上何か言っても、さらに緊張させてしまうだけだろうと思い、二階堂はその場を切り上げた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 文叶が郵便局へ到着したのは、夜の十時のことだった。

 局内の明かりはさすがに消えていて、外の常夜灯の下だけが明るい。文叶は周囲に誰もいないことを確認してから、入り口前の階段を上った。そして、その横にあるスロープへと移り、しゃがみ込む。

 スロープの両側は低い塀のようになっていて、しゃがんでしまえば周りからはほとんど見えない。さらに、文叶の位置からなら、顔を少し覗かせるだけでポストの周辺が見渡せた。


「よし、ここにしよう」


 背負っていたリュックから、折り畳みの小さなシートと薄手の毛布を取り出す。広げたシートの上に座ると、思っていたよりも地面の冷たさが伝わってきた。

 だが、それくらいで弱音を吐くつもりは毛頭ない。文叶はここで張り込むつもりだった。


「絶対に犯人を捕まえてみせるんだから」


 毛布にくるまり、文叶は気合を入れる。

 犯人がもう一度現れる確証はない。それでも、警察のような捜査知識がない文叶には、このポストを張り込むぐらいしかできることがなかったのだ。犯人が再び犯行におよぶとしたら、人気のない深夜の時間帯だろうと予想がつく。だから、明け方までポストの監視をしていれば、犯人を見つけられるかもしれない。

 文叶が定時で退社したのは、自宅に帰って少しでも睡眠をとるためだった。

 甘い考えなのは自分でもわかっている。だけど、それは気合でカバーするつもりだ。たとえ犯人が現れなくても、何日だって張り込みを続ける。文叶にはそれほどの覚悟があった。

 虫のさざめきに耳を傾けながら、時間だけが過ぎていく。


「寒いなぁ……」


 日付をまたいだ頃、気温はぐんと下がり、文叶は身震いをする。それから、つられて鳴きだした腹の虫を抑えるために、あらかじめ作っておいたおにぎりに手をつけた。

 寒さのせいか、体力の消耗が激しい。普段なら太るからと、こんな時間にものを食べたりはしないのだが、今は食べてもそれ以上の体重を持っていかれるような気がした。


「負けるな、私」


 自分で自分を鼓舞する。


 ―― 文叶ちゃん、それは無理よ


 文叶の言葉を打ち消すように、明香の冷静な声が頭をよぎった。

 疲労のせいで、気持ちまで弱くなっているようだ。だけど、それに気づいたところで、どんどん気持ちは落ち込んでいくばかりだった。


 ―― 俺たちが今やるべきことは、被害にあった郵便をどうにかすることだろ


「……」


 あのとき言い返せなかったのは、二階堂の言葉が正しかったから。でも、正しさだけじゃ、大切な郵便を守ることはできない。


「だから、私が守るんだ」


 無理やり頭の中から弱気な思考を追い出す。

 寒空の下でたった一人、文叶は毛布をキュッと握りしめながら武者震いをした。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 木曜日の朝、文叶は最悪の気分で出社した。

 張り込みを始めてから三日が経つが、犯人はいまだ姿を現さない。


 ゴホッ、ゴホッ


「文叶ちゃん、大丈夫?」


 咳き込んだ文叶の顔を綾乃が覗き込んでくる。文叶はできるだけ平気をよそおった。


「大丈夫だよ」


 マスクで顔が隠れているから、表情までは読まれないだろう。


「ちょっと、風邪ひいちゃった……ゴホッ」


 枯れた声を出すと、また咳が出た。


「なんだ、風邪か? 珍しいな」


 げっ、局長。

 文叶は声の方を振り返る。いつの間に出社してきたのか、ソファーに座る文叶の背後には二階堂が立っていた。


「げっ、てなんだよ」


 二階堂が不満げに言う。どうやら声に出てしまっていたたらしい。


「なんでもないですよ」


 文叶はいつもの感じで適当にごまかす。

 できれば二階堂には、あまり風邪について触れられたくなかった。当然、風邪を引いた原因が張り込みをしていたせいだからだ。ばれたらきっと怒られるに決まっている。


「なんだそりゃ……まあいいや、体調は大丈夫なのか?」

「全然大丈夫です。ノープロブレム!」


 本当は悪かったけれど、それを悟られないためにあえて元気よく立ち上がる。けれど、その拍子に文叶はふらついてしまい、ソファーの上にすとんと尻もちをついてしまった。


「どこが大丈夫なんだよ、ふらふらじゃねえか」

「今のは、たまたまですよ」


 そう言って文叶は、今度はゆっくりと立ち上がってみせる。疑うような目を二階堂が向けてきたけれど、それも堂々と受け止めてやった。

 数秒間にらみ合ったのち、二階堂が呆れたようにため息を漏らす。


「安藤、今日は帰ってもいいぞ」

「―― これぐらい大丈夫ですってば!」


 文叶は咄嗟に叫んだ。喉の奥が焼けるように痛む。オフィス内は静まり返り、文叶の咳き込む音だけが反響した。

 二階堂の真っ直ぐな視線が突き刺さる。


「なんで、そんなに必死なんだよ」


 いつになく真剣な口調。文叶は言葉に詰まってしまう。


「それは……」


 自分の無茶な行動のせいで体調を崩したのに、それで仕事を休むなんて絶対に嫌だった。そんなことで本来の仕事を投げ出してしまったら、郵便屋さん失格だ。

 だが結局、言い訳すら思いつかずに、文叶は押し黙ってしまう。

 もしかしたら、感づかれてしまったかもしれない。二階堂に見据えられ、文叶は逃げるように視線を逸らして俯いた。


「……」


 しかし、そこへ二階堂の手が伸びてきて、ぽんっと頭に触れる。

 文叶は目を丸くして顔を上げた。二階堂はもう、こちらを見ていない。


「……まあいい、無理だけはするなよ」


 そう言い残して、二階堂は局長席へと歩いていってしまった。

 文叶は胸の奥が疼くのを感じた。これだけ八つ当たりのような態度をとっているというのに、二階堂は文叶のことを心配してくれる。


「……そんなの、ずるいですよ」


 誰にも聞こえないように、文叶はこぼす。

 だけど、本当にずるいのは、その優しさを知りながら意地を張っている文叶の方だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「安藤から何か連絡はあったか?」


 朝礼を終えたあと、二階堂は明香に尋ねた。


「熱でお休みするそうです」

「やっぱりな。昨日は帰ってればよかったものを……」


 昨日の文叶は明らかに様子がおかしかった。だから、二階堂は帰って休むように促したのだが、あれだけ必死な姿を見てしまうと強くは言えなかった。文叶にもゆずれない思いがあるのだろう。それがなんなのか気にはなるが、文叶は教えてくれそうにはない。


「珍しいですよね、文叶ちゃんが体調崩すなんて」


 二階堂も明香と同じことを思っていた。

 文叶はほとんど会社を休んだことがないし、いつも元気なイメージがそう思わせるのかもしれない。


「まさか、月曜の件を気にしてるわけじゃないよな?」


 二階堂との口論で外へ飛び出していった文叶は、戻ってきたときには目を赤く腫らしていた。それ以来、二階堂が話しかけるとあまり機嫌がよくない。

 二階堂は局長という立場上、文叶の意見に賛成できなかったとはいえ、泣かせてしまったことに対しては後ろめたさがあった。もう少し言い方を変えてやれば、文叶も納得してくれていたかもしれない。


「大丈夫ですよ。文叶ちゃんは二階堂さんのこと尊敬してますから」


 ……だとしたら、見損なわれてしまったかもしれないな。

 そう思ったけれど、せっかく明香が励ましてくれているのだから、口には出さないでおいた。


「なら、早く機嫌を直してくれるといいんだがな」


 二階堂は苦笑を浮かべる。

 そして、そろそろ仕事を始めようかと思い始めたとき、チラチラと様子を窺うような綾乃の視線に気づいた。


「どうした小峰?」


 毎度のように綾乃はびくりと肩を震わせる。それから、「な、なんでもないです」と首を縮めた。


「……?」


 何か用事かと思ったのだが、そうではなかったらしい。

 だが、いつものこととはいえ、話しかける度にそこまで怯えられると、さすがの二階堂も傷つく。「……俺も、もう歳かもな」と心の中で呟きながら、二階堂は自分のデスクへと戻った。


 今日はやけに静かだな。

 業務を開始して一時間ほど経ってから、ふと思った。

 原因は一番うるさい文叶が居ないからだ。昨日は風邪のせいで少し元気がなかったけれど、それでも文叶が居るのとい居ないのとでは、オフィス内の雰囲気が全然違う。

 まあ、静かな方が仕事に集中できていいのだが。


「―― に、二階堂局長」


 唐突に、上ずったような声で呼ばれた。

 パソコンの画面から顔を上げると、デスクの真ん前に綾乃が立っていた。集中していたせいか、近づいてきたことにまったく気がつかなかったらしい。


「うぉっ、どうした?」


 驚きと緊張が混じり、二階堂も少し変な声になってしまう。

 綾乃から声をかけてくることはほとんどないので、不意を突かれてしまった。


「あ、あの……文叶ちゃんのことなんですけど」

「安藤?」


 綾乃は緊張した面持ちで頷く。


「文叶ちゃん、一人で犯人を捜そうとしてたのかもしれないんです」

「本当か⁉」


 綾乃が嘘を吐くはずもないのだが、にわかには信じられなかった。


「いえ、あの、直接は見てないのでなんとも……でも、前に話したときに『犯人は私が突き止める』って言ってたので、それで無理して体調を崩したのかなと……」


 文叶の行動力をもってすれば、ありえないことではない。それに、残業を断ったり、最近やけに疲れた様子だったのも、綾乃の推測通りなら納得がいく。


「安藤ならやりかねないな」


 二階堂が頭を抱えると、なぜか綾乃が謝ってきた。


「すいません、文叶ちゃんを止められなくて……」

「気にするな、あいつの自業自得だ」


 綾乃が自ら報告してくれたのは、きっと責任を感じてのことだろう。今までの綾乃からすれば、かなり勇気のある行動だ。


「それより小峰、報告してくれてありがとう」

「い、いえ」


 綾乃は首を左右に振る。それから、おずおずといった感じで口を開いた。


「あの……できれば、文叶ちゃんを怒らないであげてください」


 真剣なその目は、「文叶ちゃんは何も悪くないんです」とでも言いたげだ。


「小峰の気持ちはわかる。だが、怒らないわけにはいかない」


 二階堂の言葉に、綾乃の瞳が揺らぐ。


「心配するな、俺はこう見えても安藤を信用してるだ」


 だからこそ、文叶が間違った方向へ行ってしまったのなら、それを正してやらないといけない。それが、局長である二階堂のつとめだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 翌週の月曜日、二階堂は迷っていた。

 パソコン越しに職員用デスクの方へ視線を向ける。元気になった文叶が戻ってきたおかげで、オフィス内の雰囲気はいつも通り明るくなった。だけど、これから文叶に話をしなければならないと思うと、少しだけ気持ちが重い。

 説教は苦手なんだがなぁ……。

 口下手な二階堂にとっては、意志の強い文叶を説得するのは容易ではない。それに、あまり強く言い過ぎてしまえば、この前のように飛び出していってしまうかもしれない。

 だが、あと三十分もすれば定時だ。いつまでも迷っている暇などなかった。


「安藤、ちょっといいか?」


 二階堂が呼びかけると、文叶は不思議そうな顔をした。それでも、すぐに立ち上がって局長デスクまで歩いてくる。


「なんですか、局長?」


 口調は穏やかだが、文叶はなぜか仁王立ちだ。

 二階堂はどう切り出すべきか迷った末、いきなり本題に切り込むことにした。


「先週の事件の犯人を捜してるって、本当か?」


 文叶の態度に明らかな動揺が生じる。


「なっ……なんのことですか?」

「小峰から聞いたぞ」

「……」


 その沈黙が何よりの肯定だった。


「そのせいで、体調を崩してたんじゃないのか?」

「それは……その……」


 文叶は言いよどむ。二階堂は目を逸らさない。


「何をしていたのか、ちゃんと話してくれ」


 文叶は僅かな逡巡しゅんじゅんを見せたが、ついに観念して口を開いた。


「犯人を捕まえるために、郵便局の前で張り込んでて……明け方まで張り込んでたから、その……睡眠不足もあって、ちょっと体調を崩したんですよ」


 ぶっきらぼうな口調なのは、おそらく自分でもどこかで悪いと思っているのに、それを素直に認めたくないからだろう。それを指摘すればきっと、文叶はまた感情的になってしまうかもしれない。

 だから、まずは二階堂の方から素直な気持ちを伝えることにした。


「俺はな、牛乳で汚れた大量の郵便を見たとき、とてつもないいきどおりを感じた。まるで、俺たちの仕事を侮辱ぶじょくされたような気分だったよ」

「私もです」


 すぐに文叶が同意してくる。


「でもな、俺は思うんだよ。その怒りはお客さんのためじゃなくて、自分のための怒りなんじゃないかって」


 今度は何も返ってはこなかった。


「なあ、安藤。お前は、自分の誇りがけがされたことに腹を立てているだけじゃないのか?」


 二階堂は穏やかな口調で諭すように尋ねる。


「それで本当に、お前の誇りは守れるのか?」


 文叶は一度口を開きかけたが、何も言わずに俯いた。それでも、文叶なりに何か考えているようだ。

 二階堂は静かに答えを待つ。しばらくしてから、蚊の鳴くような声が聞こえた。


「……わからない、です」


 文叶の伏せたまつ毛が震える。


「お前の誇りは、大切な郵便を届けることなんだろ?」

「でも、私はこの怒りをどうしたらいいのか……わからないんです」


 顔を上げた文叶の目から涙が零れた。

 感情を押し込めるような、悲痛な叫び。目の前の彼女は今、自分の中の憎悪と戦っているのだろう。

 怒りは人を動かす一番の原動力だ。だけど、その感情に流されてしまったら、見えるものも見えなくなってしまう。そうならないためには自分の中に芯となるものが必要で、文叶の中には既にそれがあることを、二階堂は知っている。


「怒りは持ったままでもいい。だがな、自分の誇りだけは見失うな」


 文叶の滲んだ双眸が揺らめく。


「それだけ忘れなければ、お前は大丈夫だ」


 二階堂はそう信じていた。

 その思いがちゃんと伝わったかはわからない。だけど、文叶は小さく頷いてくれた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 涙は止まった。

 文叶はトイレの手洗い場の前に立つ。鏡に映る顔は、まだ浮かない表情。

 二階堂の言葉は、まるで文叶の心を見透かしたようだった。文叶はただ怒りに身を任せていただけだったのだ。それも、自分のための怒りに。


 ―― それで本当に、お前の誇りは守れるのか?


 二階堂に言われてハッとした。守るどころか、失くしてしまっていることにすら気がついていなかったのだと。郵便屋さんのやるべきことをおざなりにして、何が誇りだというのか。


 バシッ。


 文叶は両手で自分の頬を思いっきり叩く。ヒリヒリとした痛みが駆け抜けて、背筋がしゃんと伸びた。


「私は、私の誇りを取り戻さなきゃ」


 いつまでも落ち込んでいるなんてらしくない。

 腕時計の針はちょうど五時半。そろそろ心配した綾乃でも来そうだから、文叶は最後にもう一度だけ気合を入れ、それからオフィスへと戻った。


 トイレから出ると、二階堂がこちらを見てきた。別の方向から明香と綾乃の視線も感じたけれど、文叶はそっちには顔を向けず、二階堂のところへと真っ直ぐに歩いていく。ほんの少しだけ、オフィス内の空気が緊張を含みだした。文叶がまた感情を荒げないか心配しているようだ。

 だが、文叶にそんなつもりはもう無い。

 怒りが消えたわけではないけれど、不思議と心は澄んでいた。


「少しは落ち着いたか?」


 二階堂の方が先に声をかけてきた。文叶は静かに頷く。


「局長、その……すいませんでした」


 一度深々と頭を下げると、二階堂が目を丸くして見返してきた。


「なっ、なんですか?」

「お前から謝ってくるなんて……驚いたな」

「私だって反省ぐらいしますよ」


 文叶が頬を膨らませて言うと、二階堂は慌てて謝ってくる。

 まあいいですよ―― と、文叶は笑って返した。


「それより局長、私にも被害にあった郵便の対応を手伝わせてください」

「おお……でも、今日は無理しなくてもいいぞ」


 二階堂は意外そうな顔をしたあと、気遣うように言う。だけど、文叶は首を横に振った。


「いいえ、私にできることはそれしかないですから」


 このまま何もしなければ、文叶はまた怒りに呑まれてしまう気がした。二階堂も文叶の気持ちを察してくれたのだろう。今回は快く許可してくれた。


「そうか、じゃあよろしく頼む」

「はい」


 二階堂との和解を果たした文叶は、スキップでもしそうな足取りで自分の席に戻る。


 休憩が終わって残業時間に入ると、明香が進行状況を説明してくれた。

 まだ対応が済んでいないものは残り十通程度で、どれも差出人がわからなくなっているらしい。それらはできるだけ綺麗な状態にして、宛先へと送るのだという。


「文字が読めるものは別の紙に書き直して、一緒にこの封筒に入れて」


 明香の指示に、文叶は首を傾げる。


「汚れてる方も入れるんですか?」

「汚れても送り主の思いがこもってるんだよ」


 文叶の呟きが聞こえたらしく、二階堂が局長デスクから答えた。

 確かにそうかもしれないけれど、こんなに無残な姿になった郵便を送るのは、なんだか心苦しい。


「文叶ちゃん、あとこれも一緒に入れてね」


 明香がはがきサイズの紙を差し出してくる。


「なんですか、これ?」

「今回の件の謝罪。それと、うちの局が対応したってわかるように」


 受け取った紙に視線を落とすと、そこには堅苦しい謝罪の文章が並び、最後には二階堂の名前が入っていた。まるで、文叶たちが悪いことをしたようで、もどかしい気持ちになる。また怒りが込み上げてきそうになり、文叶はぐっとこらえた。


「はい、これ。文叶ちゃんの分」

「ありがと」


 文叶は綾乃が取り分けてくれた郵便を受け取り、すぐに作業を始める。

 受け取った三通のうち二通がはがきで、どちらも、ところどころ文字がかすれているが読めなくはなかった。

 だが、問題は三通目だ。

 封筒に入ったかわいいオレンジ色の便箋びんせん。五枚重なったそれは、ほとんどの文字が滲んでいて、とても読めたものではない。かろうじて一枚目の最初の数行だけが、運よく被害を免れていた。

 小さな便箋の上には、まだあどけない文字がおどる。


 ―― ともみちゃんへ ――  

 ともみちゃん、ひさししぶり。そっちの学校でも元気にやっていますか? 友だちはもうできましたか? さみしくないですか?

 ゆきは、ともみちゃんがいなくてさみしいな。でも――  


 小学生ぐらいだろうか。

 おそらく転校してしまった友達へ宛てた手紙。せっかく一生懸命につづったであろう手紙なのに、読めたのはたったそれだけだった。

 自分の過去と重ねると、悲しみが込み上げてくる。


「―― 安藤?」

「きゃっ」


 突然、横から二階堂の声が聞こえて、文叶は悲鳴を上げた。


「なんですか急に⁉」

「急にって、さっきから呼んでるのに返事しねえからだろ」


 二階堂が心外だとばかりに、顔をしかめる。


「で、どうだ? 終わりそうか?」


 二階堂に尋ねられ、文叶は目の前の残酷な現実に引き戻された。


「それが、この手紙で最後なんですけど……」

「けど?」


 文叶は手にしていた便箋を二階堂に差し出す。


「……こりゃあ、ひどいな」


 二階堂は五枚すべてに目を通してから、憐れむようにこぼした。

 文叶は再び二階堂からそれを受け取ると、一枚目をもう一度眺める。きっとこの手紙を書いた『ゆき』ちゃんは、伝えたいことがたくさんあったのだろう。


「せっかく思いがこもってたのに、これじゃあ伝わらないですよ」


 やり場のないこの気持ちを、文叶は口にせずにはいられなかった。俯いた文叶の肩に二階堂の大きな手が置かれる。


「それでも届けるんだよ。きっと、伝えたかったていう思いだけは伝わるさ」


 文叶は二階堂の言葉を信じ切れなかった。だからと言って、この手紙を書いた少女にしてあげられることは何もない。

 文叶はこの少女の思いが届くことを、ただただ祈るばかりだった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 事件から三週間が経ち、ようやく犯人が捕まった。

 文叶の内にあった怒りは、徐々に薄れつつある。だけど、犯人が捕まったからといって、完全にこの怒りが消えることはない。


「犯人、捕まってよかったね」


 文叶の広げていた新聞を、綾乃が横から覗き込んでくる。

 地方新聞の片隅に、小さく取り上げられたあの事件。犯人の動機は、ただのいたずら心からだったと記載されていた。犯人からの謝罪の言葉もなく、事件がテレビで放送されることもない。小さな田舎町で起きた、ただのいたずら。世間からすればその程度のことなのだろう。


「きっと事件のことは、簡単に忘れ去られていくんだろうなぁ……」


 ソファーにもたれ掛かり、独り言のように呟く。デスクでそれを聞いていた明香が、文叶に視線を送ってきた。


「それでいいんだと思うよ。誰も思い出す日が来ない方が、私は平和だと思う」

「明香さん……そうですよね」


 もう二度と起きなければ、だれも思い出さないで済む。その方がずっといい……。

 だけど、今回の事件によって、差出人も宛先もわからなくなってしまった郵便が、少なからずあった。その人たちの思いも、誰にも届かないまま消え去ってしまうのだろうか?

 もしそうなら、私だけはずっと忘れずにいよう―― 文叶はそう心に誓った。


 三時半の休憩が終わり、文叶は新聞を折り畳んで一つ伸びをする。


「よし、あと二時間。がんばるぞー」


 気持ちを切り替えて自分のデスクへと戻ろうとした、ちょうどそのとき、入り口の自動ドアが開く音がした。

 入ってきたのは一人の女の子。少し遅れて母親らしき女性の姿も現れる。

 文叶は受付窓口へと歩いていき、二人を迎えた。


「こんにちはー」


 女の子が元気よく言い、母親は会釈をする。


「すみません、局長さんはいらっしゃいますか?」


 母親が文叶に尋ねてきた。


「局長ですね? 少々お待ちください」


 文叶は後ろを振り返り、「局長ー、お客さんです」と声を張る。すると、すぐに二階堂が受付窓口までやってきた。

 二階堂は挨拶を交わしてから、礼儀正しく名乗る。それを待ってから母親が口を開いた。


「この前の事件の被害にあったものですが……」


 それを聞いた途端、二階堂は窓口のカウンターを出ていき、母親へと謝罪をした。


「この度は大変ご迷惑をお掛けしました。何かご要望があれば、できる限り対応をさせていただきます」

「い、いえ、そうじゃないんです。今日はお礼を言いたくて」

「……お礼、ですか?」


 二階堂の背後で文叶も首を傾げる。


「うちの子が出した手紙の返事に書いてあったんです。ほとんど読めないほど汚れていたのに、この郵便局の方たちが届けられるようにしてくださったんですよね?」


 母親は優しい笑みを浮かべた。


「そうでしたか。無事に届いてなによりです」

「うちの子も返事が来て、大変喜んでいまして―― ほら、局長さんにお礼を言うんでしょ」


 母親に促された女の子が、二階堂に駆け寄っていく。


「おじさんが、ともみちゃんに手紙をとどけてくれたの?」


 ―― ともみちゃん?


 聞き覚えのある名前だ。

 そう、確か被害にあった郵便の中でも、一番文叶の記憶に残っている手紙。そこに出てきた名前だ。ということは―― 。

 文叶は思い出すと同時に体が勝手に動き、気がつけばカウンターから飛び出していた。


「もしかして……『ゆき』ちゃん?」


 あの手紙に出てきた、もう一人の名前を呼ぶ。

 女の子は瞳を大きくすると、文叶に対して疑問を口にした。


「どうして、ゆきのこと知ってるの?」


 やっぱりこの子が、あの手紙の差出人だったのだ。


「それはねえ、このお姉ちゃんがゆきちゃんの手紙を直してくれたからだよ」


 ゆきちゃんの疑問には、二階堂が答えてくれた。

 それを聞いたゆきちゃんが、文叶の前に駆け寄ってくる。それから、折り畳んだオレンジ色の便箋を差し出してきた。


「これ、ゆきからお姉ちゃんに」


 文叶は受け取って中を開く。それは、見覚えのあるあどけない文字で書かれた、お礼の手紙だった。


「よかった。ともみちゃんから返事の手紙、届いたんだね」

「うん。ありがとう、お姉ちゃん」


 ゆきちゃんがにっこりと笑う。あの手紙に込められた思いは、ちゃんとともみちゃんに届いたらしい。ゆきちゃんの幸せそうな笑顔がその証拠。

 二階堂があのとき文叶に言ったことは、本当だったのだ。


「ゆきちゃんの手紙は、これからもお姉ちゃんが必ず届けるからね」


 文叶はゆきちゃんの頭を優しく撫でる。

 ゆきちゃんと母親は、最後にもう一度お礼を言ってから帰っていった。その背中を見送り、文叶は胸いっぱいに空気を吸い込む。


「局長……私は、この郵便局に集まるすべての思いを届けたいです」


 ゆきちゃんのおかげで、ようやく取り戻すことができた。


「それが、お前の誇りか?」

「そうです」


 文叶は、思いのこもった手紙を胸の上でそっと握る。


「だって、私は〝郵便屋さん〟ですから」


 私の誇りはこの手の中に―― 

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私は郵便屋さん 小宮 順 @uminomakoto

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