蒼薔薇は誰が為のもの

ひがん

操縦士と獅子蟻と砂漠の竜

 それは、永い間、ただそこに在った。

 滔々と流れつづける水の源、死の砂漠にもたらされた青い薔薇。人知れず咲き続けたそれを、正当な権利を持つものが、いま、摘み取ろうとしていた。

 蔓草の透し彫りが施された金の台座に嵌められた碧玉。透き通ってみえるのに、実際に透かし見ることはできず、代わりに海の底のような群青が視界を埋める。

 これ以上ないほどに滑らかなその表面は、大砂漠の地下であるこの場所でも光を反射してほのかに発光するようだった。

 その面おもてから、燐光との境目から、渾々と澄んだ水が湧き出てきていた。それは水路を通じて地下へ潜り、死の砂漠の中で生命に癒しを与えるオアシスとして地表に湧き出るのだ。

 そのひとは、少し突き出た岩に荷物を置くと、しずかに息をついた。

(これに接触したなら、しばらくは集中する必要がある)

 努めて冷静に、ポケットから缶を取り出して金属の蓋を引き抜くための紐にそのひとは指を掛けた。火虫の殻を取り出して、魔力を込める。

(灯をともすための慣れた動作だ。なんてことない)

 しかし、殻を握るその手は微かにふるえているようだった。

 数秒の後、腰から下げていたランタンに無造作に放り込んでから、缶を仕舞い、それからランタンを外して覗き込んだ。火が内から生まれ出るかのように、ふわりと殻を包み込むのが見えた。一瞬、辺りが昼のように明るくなるが、ランタン上部に備えられたダイヤルを回すと、すぐに火は落ち着いて手元と周辺を見るのに程よいくらいの明るさとなった。

 そのひとは眩しげに目を眇めて、すこし、被っていた帽子を深めに直した。帽子のつばと短い前髪の間に覗く、碧玉と同じ深い藍色をした目が幾度か瞬いた。不意に、首元から小さなトカゲが顔をのぞかせた。まるで案じるかのように、そのひとの様子を窺っていた。

 いよいよだった。

 そのひとは、微かに呟いた。口の中だけで囁いた。その声は、人の可聴域を超えた音だった。音は反響して、空間を満たす。闇のその奥まで、余すところなく。

 音は無かった。

 代わりに光が応じた。

 碧玉の面から、燐光が浮き立つ。

 そのひとの声は、いっそう高くなる。

 燐光の数は一粒ずつ増え、その周囲を彩る。

 夜光虫のようにちいさい光は、ほかのちいさな光とぶつかり、結合して次第に大きくなっていく。

 声の無い詠唱はつづく。手を掲げ、差し伸べる。碧玉は静かに浮かび上がった。

 てのひら大となった光は、もう他の光と混ざり合うことなく、微かに明滅しながらゆるく弧を描きながら周辺を回遊する。

 いつしか空間は仄かな光に充たされていた。

 上からの砂の重みを分散させるために嵌められた丸天井に映るそれらは星空のようだった。

 それはまさしく、再生の光だった。

 しかし、それは儚い光だった。

 理の満ちた空間に、喧騒が近づいていた。


 そのひとの首元からおっかなびっくり覗いていたちいさなトカゲは小首を傾げた。

 轟音が、轟音であろう音が、遠くの空間にこだまするのを感じたからだ。

 トカゲはそのひとの集中を切らさないように用心しながら、するりと首元から抜け出した。

 彼らがそれまでいた場所は、四本の柱を持つ丸屋根の小宮が、段々に、たくさん、たくさん積み重ねられた頂きだった。その丸屋根の稜線を、碧玉から湧き出る水が滔々と流れていた。稜線の所々にこんもりと盛り上がった真白い苔の上にトカゲは伏せると、ひとつ瞬きをした。すると、めきめき、と音を立ててその後脚が発達を始めた。這うのに適した形から、駆けて獲物を得るのに適した形へ。併せてその体躯も、子どもの手のひらに収まる大きさであったものが、大型犬の中でも大きいものと比べても遜色ない規格となった。まるで数千年分の進化、あるいは退化の巻き戻しをひとときに見ているような変化だった。軽々と人を載せられる筋肉と、湿地でも滑らずにすむほどの鋭さの爪を備えると、トカゲだったものは体勢を低くし、静寂を破りて来たる脅威に備えた。


 音の源は、ずいぶんと下の方だった。

 それは、堆積した土砂を跳ね除ける轟音だった。石同士、もしくはそれらが岩とぶつかり砕ける音、そしてその割目からこぼれる砂が清流を乱した。

 それらを齎したものは、ぽかりと開いた未だ光球に照らされぬ闇の向こうから、深紅の鈍い輝きとともにこの世のものならぬ咆哮をあげた。

 その巨躯から考えると不自然なほどに素早くなめらかな動作でそれは空間に闖入した。

 獅子――しかしその体部は岩場のごつごつとした表面にあわせて不自然に伸び、縮み、歪み、蠢いていた。既知の生物の中ならば、蜘蛛が最もその形に近いだろう。蜘蛛よりも随分と多い脚が白骨化した獅子の頭部やそのすぐ後ろの塊から生えている点を除けば。

 眼窩の奥の球体が周囲を確認するかのようにその中を巡り、やがてトカゲを見つけると、一際強く紅い光を放った。


 瞬間、獅子はその数多の脚を蠢かせ、トカゲに向かって猛然と駆け出した。対抗するために、トカゲも飛び出した。頂きの祭壇に続く段を登ろうと持ち上げられた脚が石材に触れるその刹那、その頭蓋をトカゲが蹴り飛ばした。ぐらりと仰け反ったそれは後ろに傾いた重心に引きずられ、そのまま後転するかと思われた。しかし、その背中が不自然に盛り上がったかと思うと、頭蓋の位置を強引に押し戻すかのように突き飛ばした。その反作用を受けて、その身体は一瞬妙に前後に伸びたが、すぐに元の脚の形をとって前方の身体に追いついてしまった。

 ほんの一瞬のことだった。しかし、この敵対者が凡そ一般常識から外れたものであることをトカゲは理解した。

 そしてトカゲは左後方に飛び退る。脚の一本が、恐るべき素早さでトカゲのいた場所を払っていった。完全に避け切った、その筈だった。

 動きに合わせてその脚は伸びていた。軟体動物のようにトカゲの後脚に巻きついた異形の脚は、みるみるうちにその太さを増した。それだけではなかった。するするとトカゲの腹を這い上り、それはあっという間に首に回り、締め上げ始めた。抵抗のため、トカゲはその触手に噛み付いた。しかし、それは無抵抗にトカゲの牙を受け入れた。不思議に思ったのも束の間、その口の中で蠢く感触を感じトカゲは慌ててその顎門を離した。触手はちいさな蟻の集合体だったのだ。時にそのちいさな顎で違いを結び、時にそれを離し攻撃を受け流す。トカゲに齧られたところも既に他の蟻ですっかり元の通りに繋がれて、トカゲの身体を締め上げる力を加えていた。


 息がつまる。肺の中の空気が押し出されて意志と無関係に口から押し出される。

 でも、いま、この異形に屈するわけにはいかなかった。

 主人が、たったひとりの家族が、一族の悲願の為にいまその身を以て、神なる存在に向き合っているのだ。それを、邪魔されるわけにはいかなかった。あのひとが、あのこが、どれほどの苦難を超えてここまで来たのか。ずっと傍にいたトカゲはそれをいちばんよく知っていたから。

 トカゲは一度、瞬いた。その目は蒼く輝いた。

 この先だって、ずっと傍にいたい。だけど、ここを切り抜けなくちゃそれを考えることすらできない。

 だから、トカゲは命を賭けることにした。


 異形に感情というものが存在するのかはわからない。だけど、その身体を構成するちいさな蟻たちは、その微かな変化を感じ取ってざわざわと震えた。それはまるでほんとうの獅子が身震いするかのようだった。そしてそれから、トカゲを締め上げていた触手を振り回し始める。しかし先ほどまでとは逆に、今度はトカゲの方が離れまいと触手にしがみついていた。

 魔力の漲ったトカゲの身体からぱちぱちと火花が散る。刹那、触手の根元がすぱりと切れ、振り回す勢いごとトカゲもろとも放物線を描いて宙に投げ出された。どうやら振り回していたのは、遠くに放つ為だったらしい。

 トカゲの身体が青白く光る。

 ばちり、太い綱が切れるような音がした。

 衝撃を殺して降り立ったトカゲがひとつ身震いすると、まとわりついていた触手の蟻たちは、蛋白質の焼ける焦げた匂いを撒き散らしながら水面を流れていった。皆、腹が破裂していた。

 トカゲが予想外の抵抗を見せたためか、異形は少し距離のある下段から、警戒するかのようにトカゲを見据えていた。

 今の所、再び向かってくる気配は無い。しかし、油断はできない。トカゲはいつでも飛びかかることができるようにその後ろ脚に力を漲らせながら、異形のわずかな動作すらも見逃さないように緊張を保っていた。


 そこへ、異形の獅子がこの空間に入ってくるときに開けた穴から飛び込んできた影があった。

「シキ!」

 それは人と同じくらいかすこし大きいくらいのの鳥の背に乗った少女だった。鳥は空間に出ると、一気にその高度を上げて、椀状の天井に沿って旋回した。

「ウルは……あそこね」

 碧玉を見つめるそのひとをみて、彼女は呟いた。

「もう還元に入ったんだ……こっちに追い込んだの、不味かったかしら」

 彼女は少し困ったように眉根を寄せて、大きな目を瞬かせた。その目は不自然に輝いていた。その光は、闇をも見通す力を彼女に齎しているのだった。だが、空間を埋める燐光のもたらすの明るさがあれば問題ない、そう判断したのか、彼女は懐で羽根を休めていたもう一羽の鳥をそっと両手で包む。

「ヨクテ、お願い」

 祈り、言い含めるような言葉に応えてその鳥、ちいさな隼はそっと確かに啼いた。彼女は暫し魔力を込めた後、宙に解き放つ。すると、隼は仄かに輝きながら、弧を描きながら壁面に沿って舞った。てのひらで包めるほどの大きさだった小鳥は、人の広げる腕と同じか少しちいさいくらいの立派な翼を備えていた。

 ヨクテと呼ばれた隼は、異形の獅子の周囲を旋回しては時折急襲を加えていた。それに相対するように獅子の脚も宙を薙ぐが、互いに出方を窺っているようで、牽制の域を出るものでは無かった。


 鳥の背に乗って来た彼女は、重なり合った丸屋根のひとつにふわりと降り立った。重力が彼女に対してだけその力を弱めているかのような動作だった。そのままトカゲの伏せるところに、庭の飛び石でも跳ぶような気軽さで彼女は跳ぶ。そして隣に膝をつくと、視線は外しても注意は異形から外さぬまま、トカゲの背を撫でて彼女は囁いた。

「シキ、まだ戦えるわね?」

 トカゲ――シキは小さく頷いた。

 その気配を感じて、彼女はすこしその口端を引き上げた。シキを頼もしく思っているようでも、頷くのが当然と思っているようでもあった。

 そのままその少女は息を潜めるようにしながらシキに語った。

「あの異形はミルメコレオ。獅子の頭骨に蟲ーー特に蟻が集い、その体を為した怪物よ。納められた怨念の篭った紅い宝珠が核。おそらくは死霊術師(ネクロマンサー)による呪物(もの)ね。

 蟲の身体に攻撃しても無駄よ。すぐに他の蟲が欠落した部分を補って元に戻ってしまったわ。宝珠をあの頭骨から引きずり出して割れれば完全に止められると思うけど……現実的じゃないわね、残念ながら」

 案外あの骨硬かったのよ、と最後ため息混じりに呟いた彼女に応える代わりに、ぱちり、と音を立ててシキは少しの電流を自らの表皮で踊らせた。

「……なるほど、電気か。確かに、ちいさな一匹一匹を斬ろうとするよりは効率がいいかも」

 シキの伝えたかったことを少女はきちんと受け取ったようだったが、でも属性魔法苦手なのよね、とちょっと微妙な表情になった。それを励ますように、シキは随分と普段より太くなった尻尾を振った。それに対して、やるだけやってみる、と苦笑いで答えてから、彼女はきりりと表情を引き締めた。

「雰囲気から察するに、ウルの詠唱はまだ序詞を終えたばかりのところ――終わるまで、私たちであいつの注意を引くの。さっきまであなたがしてたようにね。

 ……わかった?」

 きゅ、とシキはひと声鳴いた。

 それに彼女は微笑んだ。

「おねがいね。こっちは上からやつの注意を引くわ。可能なら足元か頭蓋を狙ってなるべく下段に落としてくれたらたすかる……と、そうだ」

 ふと彼女は思い出したかのように、胸元からペンダントを取り出した。淡い蒼のガラス塊を縛りつけるように、その表面には金で呪禁が仔細に描かれていた。

「これにウルの魔力、込めたんだった……つかえるかな?」

 手のひらに包むと、彼女はなにごとか呟いた。

 すると、乾いた音を立てて、ペンダントにひびが入った。よくよく見ると、それは金の文字装飾にのみ走った亀裂だった。金がさらさらと砂状に、それから霧粒のようになって表面から吹き飛ぶと、ガラスの部分はとろりとその形状を変えた。

 シキがきゅい、と鳴くと、それに呼応するようにそれは蒼い光となってその身体に吸収された。

「なるほど、こーなるのね…」

 そうつぶやいた彼女は最後にもう一度、シキの背を撫でてから、周囲を旋回する仄かに赤くかがやく鳥に向かって指笛を吹いた。

 とたんにこちらに向かって飛んできた大きな白い鳥の背にふわりと飛び乗ると、彼女は囁いた。

「いくよ、ピケ。」




 ふと、意識が浮上した。

 ぼくは、祝詞をあげているところのはずだった。

 毎日毎日、あの暗い穴ぐらで練習してきた言葉。

 いつかあえるはずの、この存在のために。

 意識しなくても、言葉は口を衝いて出てくる。

 それくらい、身体になじんだ言葉だった。

 だからこそ、そのぶん込められるものがあった。

 魔力、こころ。共振する感情。


 本当は不安だった。

 大砂漠から、伝承に埋もれた竜の存在を探し当てるなんて、雲を掴もうとするのと同じことのように思われた。

 だけど、いくつもの砂漠を渡り、いくつもの街を越え。

 次第に人々に語られるその存在の輪郭が鮮明になってきて。

 あともうすこし、もしかすると、次の街に。

 次第に伝承の竜に近づいているという確かな実感。

 それは間違いなく期待だったけれど、その裏に滲むものの存在もまた確かなものだった。


 ぼくの言葉で、ほんとうに目覚めてくれるのだろうか?

 ぼくに、共振して(こたえて)くれるのだろうか?

 ぼくは、選ばれないのではないだろうか?


 ぼくたちの、りゅう。

 ぼくたちのなかまだった、りゅう。

 去ってしまった存在。離散してしまった存在。失われた存在。

 ――ねえさん。

 あなたがいなくなって、だれも、なにも、みんないなくなった。

 ぼくたちこどもだけがのこされた。


 そして、追い立てられた。

 さらにたくさんのみんなが、空に還った。

 ぼくたちだけが、遺された。


 隠れ住んだ穴の中、ぼくたちは眠った。

 ぼくたちを根絶やしにしようといつだってやつらは狙っていたし、それにぼくたちは幼すぎたから。

 世界を渡って離散した存在を見つけるには、ぼくたちには足りないものが多すぎた。


 ぼくとリアは遺されたこどもたちの中でも年嵩の方だったから、みんなよりもすこし早く目が覚めた。

 白い繭のような容れ物の向こうに透けて見えたあどけない寝顔。

 ――まだねむるこどもたちがめざめるまえに。

 必要以上に、そのこころを辛い現実に晒す必要はないから。

 それが、いち早く目覚めた四人の願いだった。

 知らないことを知り、学ぶべきことを学ぶ。

 ぼくたちを導いたのは一羽の白き鴉。

 ――ぼくたちは、すすんできた。

 ――このちに。


 すこしの違和感。

 こころにひっかかったそれは、ふとぼくの眼前に形をなす。

 それは巻いたとぐろの先、自らの尾を噛む白蛇の形をしていた。


 ――ここで、ぼくもねむっていた。


 ゆっくりと、白蛇はその尾から顎を離す。

 そして頭を擡げると、ぼくの目を、じっ、とみつめた。

 その目はなにものをも見透かす蒼だった。

 覚悟を問う、色をしていた。

 それまでずっと、ぼくの中で燻っていた不安が、そのまなざしに拭い去られるのを感じた。

「契約を」

 躊躇いは無かった。戸惑いも無かった。

 当然の、決断だった。

 するとそれまで凪いだ海のように穏やかだったその目は、ぎらりと輝いた。獰猛な鈍色だった。


 ――めざめのとき。


 突如、濃厚な魔力が身を灼く。

 しかしそれは痛みも衝撃も伴わず、ただぼくの器を満たしていく。

 それが目の前の存在のものであることに気がつくまで、ぼくにはすこしの時間が必要だった。

 ゆびの先までその魔力に浸され、うっとりと目を瞑る。恍惚。あたたかく、心地がよいのに、意識は鮮明で、頭の奥まで覚醒しているのがわかる。

 なんだってできる、不可能なんてない。

 頭から足先まで、行き届いた感覚に胸がふるえた。

 強大過ぎる魔力を得たことによる慄きか、それとも。

 ゆっくりと、蛇はぼくの右腕をのぼる。

 そして、耳元で囁く。

 一文字ずつ。


 ――さあ、わがなを。


 


 彼女は顔をあげた。

 この空間の中央に位置する山の頂、ウルの元から光が溢れていた。

「…アルケ…テオ……オルカ…」

 呟きに、耳慣れた文字の名を認めて、彼女はその段階を察する。

 そしてふたつ、強く指笛を吹く。

 ちょうどその時シキがミルメコレオの横面に渾身のタックルを入れた。ぐらり、とその頭部、白骨化して水分が抜けてもなお重たげな獅子の頭蓋が傾いで、獅子に隷属する蟻たちの努力も虚しくそのままぼとりと下段に落ちた。

「…ルルグル、スミラ!」

 決然と、そのひとは言いきった。

 ぶわり、にわかに碧玉から溢れる流水に勢いが増した。

 荒れた海のような波に洗われるそのたびに、ミルメコレオの身体を支える蟲たちは次第に流され、いくつかの塊に分かれて散り散りになっていく。

 獅子の頭蓋がその波間に呑まれる刹那、眼窩の奥の球体が一度、恨めしげに回転した。

 全力でミルメコレオを押し出したシキも水流に脚をとられてあやうく流されそうになっていたが、ヨクテがその背を掴みなんとか宙に持ち上げたので大事には至らずに済んだようだった。

「《解除レリーズ》!」

 少し慌てた様子で少女が唱える。

 すると、シキの身体はみるみるうちに縮み、一番はじめ、ウルの首元から顔をのぞかせていた時と同じちいさなトカゲとなった。重量もそれに併せて減ったようで、ヨクテはシキと共にようやく水面からある程度離れることができた。

「みんな目を閉じて!」

 目元を庇いながら彼女が叫んだ。

 一瞬。

 激しい光が空間を埋め尽くす。

 影すらも消し飛ぶような、なにものをも塗りつぶすような白が、その場を支配した。


 次に彼女が目を開けた時、そこには、流麗な鱗を持った竜――いや、龍がいた。

 両手で碧玉を胸元に捧げ持つウルを、螺旋状に、とぐろを巻くように囲い、その存在は首を擡げていた。

 水を司るに相応しい、滑らかできめ細かい鱗が辺りを漂う燐光を弾いて幻想的にきらめいた。口許から両脇腹に向かって、髭のような、鰭のような、ひらひらとした不思議なものがゆったりと巻きついて、まるでドレスを纏った踊り子が水中で舞っているかのようにゆったりとはためいていた。背鰭は端正に揃って列を成し、蛇のようにしなやかな身体を彩っていた。そしてその長い身体の末端は、魚のような、イルカのような、光彩を放つ紺碧の膜の張られた尾びれによって飾られていた。

 言いようもなく、美しかった。

 細く、その顎が開く。

 鋭く尖った牙が整然と並ぶその間から、白い吐息が噴出する。発せられる冷気に、空気中の水蒸気が結露したのだ。

 ふるり、と身を震わせ、うねらせると、その鱗から、ひらひらした感覚器らしきものから、口許と同じように霧が漣のように拡がってゆく。

 呆然とその姿を見つめる彼女の前で、きらり、とその双眸が光を放つ。

 すると、碧玉をもつウルの身体が同じ色の光に包まれて浮き上がった。そして、そうすることが当然のように、後頭部から突き出た二本の角の後ろ、ふさふさとした鬣に、そのひとは顔をうずめた。

 そして、その龍はその口を大きく開いた。人間の可聴域を超えたその音に込められた魔力に導かれ、先程まで碧玉を源として流れていた水が、蛇のようにうねりながら竜巻のように巻き上がる。龍はその水流を羽衣のように身に纏うと、ぐぐ、とその場で身をかがめた。

 ――飛び上がろうとしている。

 そのことに気がついて、彼女は漸く我に返った。

 素早く丸天井の頂点を確認すると、丸く切り抜かれていた跡が見受けられた。かつて天窓だったそこは、この宮殿が地の底に沈んだ際の瓦礫や砂に塞がれてしまっていたのだ、と彼女は直感した。

 つまり、この龍は、かつて眼窓だったところから強引に外に出ようとしている!

「ピケ!ヨクテ!あの龍に続いて!!」

 そう鋭く叫ぶと、今度は声低く呟き、自分の乗る一羽と後方のもう一羽に意識を集中させた。

「《防護プロテゴ》!《明順応アコモンダツィオ》!」

 二種の光が二羽を包み込んだ。

 直後、轟音とともに、龍は大きく跳ね上がった。身に纏う水流の穿つその先へと飛翔した龍に、降りかかる砂や石粒を魔法で跳ね返しながら二羽が続く。水底に獅子の頭蓋だけが残された空洞が、その頂点に開けられた穴を中心としてがらがらと崩れ始めた。地の底のケルベロスのような咆哮を残して、二人と二羽と一匹と一柱はその場を後にした。




 それは、最初、微かなものだった。

 人々は、はたと手を止め、顔を上げる。

 カナートの砂を掻き出すもの、家畜を塩湖に連れていくもの、作物に水をやるもの、手伝いで畑に豆を撒くこども、ラグを干す主婦、糸を紡ぐ老婆、ラクダを牽く老爺。


 次第に大きくなるそれに、砂が生き物のように走り出す。静謐なはずの水面に波紋が浮き立つ。ようやく、低く地の鳴る音がした。

 腹の底よりもずっと深いところまでとどくような、重々しい、聞いたこともない響きが、砂上を、水路を、大気を、そして、人々の間を駆け抜けた。

 そして、彼らは見た。

 砂丘の彼方に、見たこともない暗雲が立ち込めるのを。みるみるうちにそれは彼らに迫り、同時に砂漠の全てを覆い尽くすかのように広がっていった。

 それは、雨雲だった。

「こんな時期に、こんな雲が立ち込めるなんて。わしゃずいぶん生きたが、見たことも聞いたこともない」

 糸を紡ぐ手を止め、窓から外を覗いて、老婆はぱちぱちと目をしばたかせながら呟いた。その言葉尻が消えるか消えないか、といった頃、階段状の畑の中腹で豆を撒いていた少年の鼻頭にぽつりと雨雫が落ちた。みるみるうちに雨脚は激しさを増し、たちまち彼はずぶ濡れになった。彼がひとつ、大きなくしゃみをする頃には、主婦は干していたものを持てるだけ持って家路を走り、家畜を連れたひとは慌てて村へと戻る進路をとるように杖を振り、カナートの砂を掻き出していたものはカナートの中へ、老爺はかたく織った布の下にラクダとともに落ち着いた。

 すぐに止むはずの雨が過ぎ去るのを彼らはただ、待っていた。




「ウル!」

 彼女が声をかけると、大きな龍の背に乗って空を飛ぶそのひとは、ぼんやりと首だけで振り向いた。

「あれ、リア……って、シキは……シキ!?」

 呼びかけに応えた後、途端にそのひとは真っ青に青褪めた。しかし、それに応えて、後方からきゅい!と元気な声が上がった。

「ちゃんと回収してる、大丈夫よ」

 そう言って彼女、リアがヨクテに目配せをすると、ヨクテは幾度か強くはばたいてウルの側に寄り、その腕の間あたりに落ちるように、シキをそっと離した。

「よかった……!一瞬、とんでもないことをしでかしたかと思っちゃったよ」

 両手でシキを抱えてウルは頬擦りをした。きゅうう、と満足げな声がシキからあがるのを聞きながら、リアがくすりと笑った。

「ウルが後先考えずに行動するなんてめずらしいわね、いつもならもっとずうっと慎重じゃない。突っ走るのは私の役割で!」

 リアが揶揄うように言うと、途端にウルは赤くなった。

「だってなんかすごい怪物いるし、いまのぼくじゃどうにもできない、って思ったら、早く見つけて出て帰るのがいちばんだ、って……」

 言い訳のように早口につぶやくのを聞いて、リアはまた笑った。くすぐったそうな笑い方だった。

「責めてるんじゃないの、ふふ、ここ数日で、ちょっとウルが変わったから!」

 それを見て、ウルは一瞬、きょとんとした。そしてそれからようやく、照れくさそうに笑った。


「この後どうするの?」

 ひとしきり笑って、頬を撫でる風に髪を遊ばせながら、リアはウルに尋ねた。

 いつもの調子で間髪入れず返事があった。

「あたりまえだけど、ずっとこんな感じで飛んでくと魔力の消耗がとんでもないことになるから、夕方あたりにどこかのオアシスで一度休憩しよう。そこで進路をちゃんと確認した後は歩いてみんなの元に帰ろうと思ってる」

「そのこはどうなるの?」

 そしていつもと同じ調子で返されたリアの疑問に、ウルは困ったような微妙な顔をした。

「……仮にも、ぼくたちの神さまだよ。『そのこ』はどうかと思うんだけどな……」

「そうかしら、じゃあ名前は?」

 リアの尋ねに、ウルは一瞬、言葉に詰まった。

 あのとき、この龍神と契約した時に教えてもらった真名では呼ばないほうが良い。なんとなくそう思ったからだ。

「…スミラ、そう呼んでいい?」

 そっと角に手をはわせながらそう訊くと、龍はゆっくりと目を細めた。許可のしるしだった。

 それを見て、リアはまたも嬉しそうににっこりした。

「じゃあ、あらためて!スミラはどうなるの?」

 機嫌の良いリアにつられて、ウルからも少し笑みがこぼれた。それから、少し、自信なさげに続けた。

「たぶん、ちいさくなる、のかな…?すくなくともこのサイズのまま、ってことはないと思う」

「じゃあ、隠れ家まで一緒に行けるわね!」

 そのリアの何気ない言葉を聞いた瞬間、じわり、と、ウルの胸が熱くなった。

 そのことに、当人のウルも違和感を覚えたけれどそれはすぐにそれはおさまってしまったので、浮かんだ疑念はあまり注意の払われないまま、無意識下に追いやられてしまった。

 一番気になっていたことを聞けて満足し気が抜けたのか、リアはひとつ大きなあくびと共に伸びをした。それからそのまま離した両手をだらりと風に任せて遊び始めると、ぴち、と彼女がしばしば、そして今空を飛んでいるこの時もその背を借りているピケが抗議の鳴き声をあげた。どうやら、危ないから自分にちゃんと掴まれ、と訴えているらしい。

「はいはい、わかってるって……」

 そう言いながらも、一向にちゃんと掴まる気の無いリアにピケはぴちち、と抗議のさえずりを上げながらほんの少し、危なくない程度にその体を揺らした。流石にこれ以上はまずい、と思ったのか、リアはようやくその両手をピケの背に戻して謝った。

「ごめんごめん、ちゃんとするから……」

 その言葉を聞いてようやくピケはリアへの説教をやめたようだった。ピケやヨクテ、鳥たちの言葉がわからないウルやシキにはただの愛らしい囀りにしか聞こえなかったが。

 気を取り直し、リアは何の気なしにその話をウルに振った。

「あとはそうね、追っ手の心配くらいかしら。スミラを連れ出すのはあの辺り一帯の水を奪ってくるのと変わらないから、間違いなく誰かしら送り込まれてくるでしょ?ま、 群を抜いて厄介そうなあの怪物、ミルメコレオは当分砂に埋もれてるからそんなに心配要らないとは思うんだけどさ!」

 旧王宮の地下迷路で散々手こずらされたことを思い出して、リアはしかめ面になった。狭い通路であの異形にひたすら追い回され、逃げ回るのは、彼女にとってかなり堪えたらしい。

「――それなら、心配ないよ」

 地下であったあんな出来事こんな出来事を思い出していたリアの思考を、普段よりも低めのウルの声が遮った。不思議とその声は、向かい風にかき消されることなくリアの耳に届いた。

 並行して隣を飛ぶウルの表情を伺うと、そのひとはそれまで見たこともないような、深い海の底のような、しかし透き通った目をしていた。

 リアの心中を、言い知れぬ不安が過ぎった。

「スミラ…スミラが、たくさん、たくさん雨を降らせてきたから」

 訥々と。

「飢饉が起こるよ」

 明日の天気を話すように何気なく、そのひとはつぶやいた。

「ちょうど芽がでる頃だったからね。必要以上の水は致命的だ」

 そして、くすくす、と、おかしくてたまらない、みたいな笑い方をした。

「それにね、リア。聞いてよ。砂漠に雨が降ると、それまで砂の中で眠っていた種から、みるみるうちに、たくさん、たくさん花が咲くんだよ」

 ウルは勉強熱心だ。本を読むのが好きだし、旧宮殿に行く直前の街でだって、図書館に立ち寄って調べ物をしていた。

「かつてこの地に栄えた文明が、滅んだ理由。この地に来たスミラが降らせた雨だよ」

 だから、いま、ウルが話していることは、きっと、その時に知ったことなのだ。

 リアは、そう信じたかった。

 だから、そう、信じようとした。

「壊滅的な不作、それと、砂漠に咲く花」

 だけど、旧文明が滅んだ理由が現在まで伝えられている街はひとつも無かった、とウルが語ったのをリアは覚えていた。

 それにその口ぶりは、あきらかにいつものウルが話す時とは違っていた。まるで、ウルともうひとり、知らない人物がかわるがわるにウルの口を使って話しているみたいだった。

「その花は開花と同時に瘴気を散布するんだ。これは推測でしかないけれど、その実態はおそらく花粉だろうね。

 その瘴気は生き物を殺す。そして、花はその付近で同時期に咲いた他の花と交配して種子を実らせる。それから、殺した生き物を寝床に、もう一度花を咲かせる。

 ――リアは、この砂漠で最も広い区域に分布し、その数も多い生き物を知っているかい?

 そう、ヒトだよ。

 この地で雨が降る、ということと飢饉には因果関係がある。つまり端的に言ってしまえば、雨が降るとヒトは弱る。殺すことなんて造作も無い。

 ふふ、たくさん雨が降ると芽を出すこの花にとって、実に都合が良いね?

 花はヒトを糧に、次々と花を咲かせる。

 最初は老人、次にこども、それから男、女――短期間のうちに、代を経るごとに、花はその分布を広げていく。

 最後、芽を出せるほどの水の蓄えが無くなると、種子はその場で再び雨が降る時を待って砂に眠る」

 語るウルの口許にあらわれていたもの。

 それは残酷さだったか、それとも無邪気さだったか。リアには判別することができなかった。

「だから、追っ手の心配はさほど要らないよ。追ってくるにしても、当分そんな余裕はないだろうからその間に砂漠を抜けてしまえばいい」


 そして、そのひとはやわらかくほほえんだ。

「花、見たかったね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蒼薔薇は誰が為のもの ひがん @shihigan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る