第3話 ユキさんへ
ユキさんへ。僕は、やっと二十歳になり、 持ち場を外来受付にしたことを話すと、彼
ここに来ることが出来ました。毎日、通勤電 は合点がいったように頷いた。
車で、大きな川の上を渡るのですが、行きと 「とても大切な持ち場です。そして、ハルさ
帰りと二回、その県境の川の真ん中で必ず考 んのような素敵な方にやっていただけて、こ
える妄想がありました。車両がゴォッと音を この職員としては嬉しく思います。一通り説
立ててその川の上に架かる鉄橋を渡り始めて 明は受けたと思いますが、外来と言うのは、
から、反対側の岸に着くまで十数秒でしょう 主にここを訪れている対象者が呼び寄せた関
か。僕の頭の中では、大きな大きなクレーン 係者となります。取材や問い合わせ等はすべ
ゲームの腕のようなものが、天から降りてき て別の専用部署が対応しているのでこちらに
て、電車にギッシリと詰め込まれている人間 来ることはありませんし、ここへ来る道路の
の中から、正確に僕を選んで摘み上げ、その 途中にはゲートを設けていて、許可を受けて
まま川のちょうど真ん中あたりにフッと落と いない車両は通過できないようになっていま
すのです。川は、窓から見る分にはそれ程急 すから、ご不快な思いをすることはないはず
流ではなく、濁って、むしろ溜っているよう です。」
に思うほどですが、多分、あの真ん中に落と たとえ家族であっても、本人の呼び寄せな
されたら、僕は溺れ、流され、決して岸や岩 しにはここへ来ることはできない。それ以前
で引っかかって運よく助かる、ということは に、ここに何某がいるかどうかの照会にすら
なく、何分かで意識を失い、何十分かで命を 応じていない。家族に言い置いて、もしくは
落とすことになるだろうと思います。そうや 書き残して来る人間もいれば、全く説明をせ
って、自死のような、自死ではないような、 ずに姿を消し、ここに来ている者もいる。ど
そんなシチュエーションを繰り返し繰り返し ちらも施設側は本人の自由としてすべて認め
思っては、自分を慰めていました。大雨で水 ていて、対象者の独立性は最優先で守られて
かさが増し、濁流となっている日も、朝日が いる。ただし、家族からのメッセージは、ス
特別に明るく差し込み眩しいほどの日も、強 タンバイを通じて、本人に聞く気持ちがある
い風に煽られて細かな波が割れている日も、 かどうかをよく確認したうえで、届けられる
そこに僕が落とされる様子は事細かに、その ことになっている。入所前のオリエンテーシ
日の水面に応じて微妙に溺れる具合も違えな ョンでは、家族の合意を得ることはとても困
がら、僕の妄想は続いてきました。 難で、かつ、満たされた最後のためにとても
ここは、深い森の中で、水辺がないので、 大切なことだと説明された。そのために施設
もうその習慣はなくなりましたが、もう少し とスタンバイは様々なアプローチの方法を用
リアルに、この施設の手順書によって、想像 意し、これまで一定の結果と、評価とを得て
することができます。医師の立ち合いの元、 いるとのことだった。何より、ここで当人と
まず腕に注射針を入れてもらう。管の先には 再会する大多数の関係者は、その変わり様に
きちんと数秒で苦しまずにゆける量の薬が取 みな驚くことになった。苦痛と混乱と抵抗と
り付けられていて、その管についているスト あがき、ある者はたび重なる自傷行為自死未
ッパー部分を手に持たせてもらう。誰かに立 遂、ある者は他害、中毒などありとあらゆる
ち会ってほしい場合は、外部から家族やパー 不適応の状態に身を置いていた人間が、この
トナーを呼び寄せることができます。僕は本 場所で数週間を過ごすことで、本来の自分自
当はスタンバイだった方にいてほしかったの 身を取り戻し、穏やかな表情になり、自信す
ですが、残念ながらその方はもう亡くなって ら携えて、覚悟を決めつつある姿は、何にも
いるので、多分ひとりでしょう。あとは、自 増して強い説得力があった。
分のタイミングで、そのストッパーを開けれ 外来受付の仕事を続けていくうちに、晴子
ば、それで終了。想像するだけで安らいだ気 にも、外来者のここに来るときの表情と、出
持ちになれる。そんな静かな、誰にも邪魔さ ていくときの表情の違いが明らかであること
れない、誰にも迷惑をかけない終わり方が、 が分かって来た。そして、自分よりも長くこ
僕には待っていると思うと、それだけで、自 の施設に滞在し、たくさんの対象者を見送っ
分は何て幸せ者なんだと思います。 て来たであろうケンイチという名前の若いス
実は、ハルさんに、今日恥ずかしいところ タンバイの静かな佇まいや、この施設全体に
を見られてしまいました。僕は、子どものこ 漂う不思議な明るさにも、納得がいき始めて
ろ給食のたびにすべてのメニューを混ぜられ いた。
て(当然牛乳も。ぶためし、という名前がつ ケンイチの老人のような食事姿には、本当
いてました)口に流し込むことを強制されて に驚かされた。その様はあまりに痛々しく、
いたので、今でも、色々な食べ物のにおいの また、その経緯を聞いて尚更に不憫な思いが
する食堂のような場所では、吐き気がして何 募った。寄り添ってやれなかった息子の姿が
も食べられないのですが、ここにはありがた 重なり、面談で話すことのなかった自分語り
いことに、食堂以外にコンビニがあります。 を、コンビニのベンチで隣に座りながら話す
過去ここに滞在した方の一人が、これまで通 ことになった。
りの生活がしたいと言って、コンビニの設置 凄まじかったマスコミの騒ぎを、長く情報
を寄付コーナーに要望したところ、設置され を遮断して生きてきた彼は全く知らなかった
たのだとのことです。コンビニの、冷たい白 ようだった。とある宗教団体が、詐欺・公序
いおにぎりは、食べ物のにおい全般に拒絶反 良俗違反で摘発を受け解散した。信者達は寄
応が出る僕がギリギリ食べられる外食で、い り集まって外部とほぼ接点なく、独自の宗教
つもそれを買い占めては、コンビニの外のベ 観で生活しており、知名度もほとんどない団
ンチで食べていました。その姿を、ハルさん 体だったが、そこを抜けたある元信者が、悪
に見られたのです。栄養だの健康だの、あの 意をもって写真週刊誌へ情報を売り、スキャ
年頃の女性は何かと口うるさい。もうすぐ死 ンダルとなった。中でも、夫婦の枠組みを超
のうという人間に何を言っているのかと、全 えて、男女が入り交じる儀式は格好の標的と
く辟易してしまいました。でも、そのことを なり、特に女性信者は激しい好奇と非難の目
きっかけに、彼女がここに来た理由を話して にさらされた。ひとつの家族のように長年寄
くれたのは、ありがたかったです。 り添い支え合ってきた隠れ里のようなコミュ
ユキさんは当時、自分のせいでお兄さんの ニティは、一瞬でちりぢりに崩壊した。晴子
命が損なわれたという思いを背負い、苦しみ は元来不器用で、うまく身を処することがで
ながら、生きていらっしゃったのだと思いま きず、子どもを養育する適切な環境を有して
す。今の彼女もそうです。シンジロウくんは いないとして(いったい、誰がそれを決めた
あなたに、たまたま不幸がそこにあって、た のかも、誰に何を言われたのかも、最後まで
またまそれに出くわしてしまった、ただそれ 晴子にはよく分からなかった)、十四歳にな
だけのことだって、言いました。僕も、当時 っていた一人息子を奪われた。見知らぬ遠方
のユキさんに、そして今のハルさんに、同じ の寄宿舎に入ることになったと聞かされたが
ことを言いたい。ハルさんについては、彼女 それが子どものためだと説得され、知らない
が出くわしたのは不幸というよりは、悪意と 人間に追い回されテレビで顔を流され後ろ指
言ったほうがよいと思います。それも、特大 を指され続けた晴子は抵抗することができな
で強大で到底勝ち目のない存在です。いずれ かった。そして当然のように情報は洩れ、子
にしても、自分のせいというのは、それは絶 どもは、周囲の人間や見知らぬ匿名の人間か
対に違うと、伝えたいと思います。ですが、 ら虐げられた。どんなに傷つけても構わない
頑張って生きてとは、どうしても言う事がで スケープゴートとして、個々の抑圧のはけ口
きません。それを決めるのは本人で、他の人 となり、人々の嗜虐心を存分に充足させたの
は決して、口出しも、強制も、願いすらも、 ち、彼らの常套句「死ね」という言葉そのま
持ってはいけないと思っています。ただ、僕 まに自死した。母親との連絡手段は一切断た
は、ユキさんが今もお兄さんのそばで時間を れたままだった。晴子が息子のそばにいるこ
積み重ねて生きていらっしゃることに、尊敬 とを許されたのは、彼が死んで十二時間たっ
と、喜びと、言葉でうまく言い表わせない、 た後だった。
心の震えを感じています。
ケンイチの手紙 1 芳野 京 @shiraki_k
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