第2話 アンリさんへ
アンリさんへ。正直、アンリさんに手紙を 毎日一時間、スタッフと話をする義務があ
書くのは怖かったよ(笑)でも、今回はじめ る。何も話すことはないし、気が変わる可能
て受け持った彼女との出会いについて、話す 性もないので、晴子には不必要なことだった
ならアンリさんだと思ったんだ。背は高め、 が、ルールを守らなければ、このシステム自
やせ形で、髪は何だか無造作に結んである。 体が認められないのだと考えた。担当につい
歳はアラフォーかな。女の人の髪が「普通」 たスタンバイは、まだ少年といってもよいく
になっていないと、少しいたたまれない。髪 らいの若者で、少しいたたまれなかった。ス
を「普通」にするのって、精神的に落ちてい タンバイは、基本的に、この施設を訪れた対
る人にとっては、結構難しいことなのかな? 象者がなっていると聞いた。自分より歳が下
アンリさんのかんっぺきな髪の毛(髪型の の異性はすべて息子を思い出させた。背が高
呼び方がよくわからないや)を思い出しまし く、歳に似合わない暗い瞳と穏やかな表情は
た。彼女はたぶん母親だと思う。ヒョロッヒ 昨今草食系とか言われているタイプのように
ョロ(あの後、何だか背だけバカみたいに伸 思えた。何故、今にも普通に素敵な恋愛をし
びた)のガリッガリのキモッキモの幽霊みた ていそうな好青年が、こんなところにいるの
いな僕が、握手を求めて、その後その手を離 か。握手をした後、何故か手を離さずにその
さずに何分も話し続けていても(マニュアル まま顔を赤くしながら彼は話し始めた。
で、なるべく長い間手を繋いだまま話しまし 「はじめまして。ケンイチと言います。一か
ょう、と書いてあるんだ)、気味悪がったり 月間どうぞよろしくお願いします。ああ、こ
嫌悪感を示したりすることをせずに、なんと の手は、なるべく長く握ったまま話をするよ
「ずいぶんと痩せているけど、きちんと食べ うにとマニュアルに書いてありまして、その
ているの?寝ているの?」だなんて! これ すみません、僕は新人スタンバイで……」
は「母性」と解釈するほかないと思う。たく 握った手は骨ばっていて、体調不良を想像さ
さんの女の子(女の子、なんていうふわふわ せた。
した可愛い感じの名詞がまったくそぐわない 「ご希望通り、対象者となられて、ほっとし
ただひたすら群れて口撃力と多分繁殖力ばか ていらっしゃるのではないですか。僕の場合
り高いムクドリのようなやつらだったけど) は正直そう感じました。もうここしか行き場
にいつも気持ち悪いと言われ続けてきたこの はなかったですし、検査結果が自分を、自分
僕を、なんとも思わないなんて、さすがだと の気持ちを認めてくれた、という気がしまし
思う。 た。不治の病、不可逆で深刻な苦痛がある方
相手とオープンな関係になるためには、ま や、十年以上鬱病の治療を正しく受け続けた
ず自分をオープンにすることだと習った。だ けれど改善せず希死念慮が続いている方など
からここの施設の説明とあわせて、一生懸命 は、ほぼ間違いなく受入対象ですが、僕のよ
自分の話をした。対象者として選ばれる経緯 うな人間が何を言っても、一過性の、本気で
のこと、毎日一時間の自分との面談があるこ はない、ただの甘えだと言われて、追い返さ
と、食事は食堂でとれること、自分はそこで れるのではと不安でした。あの噂は本当だと
はとらずコンビニを利用していること、必要 思います。実は血液検査で、希死因子が数値
最低限のものは各企業が提供している物を無 として明らかになっている、という。でなけ
料で使えること、今の自分は全身ユニクロで れば、二十歳になったばかりの僕みたいな人
あること、それ以外に欲しいものがある場合 間はここには来られなかったと思います。」
は、外部から寄付を募ることができること。 彼は一方的にしゃべり、晴子はそれをただた
話していると、何だか自分の母親に向かって だ聞いていた。何だか幼い息子が学校から帰
学校であったことをくどくどと説明してはか って来て、楽しそうに一日あった出来事をし
み合わない返事をされていた、昔の記憶が蘇 ゃべり続ける光景を思い出した。彼の母親は
ったよ。僕の母は、少し変わっていて、例え いまどこでどのような思いでいるのだろうか
ばいじめられた僕を見て「人類以外の動物で と晴子は想像した。というより、想像しよう
あったら、集団になじめず、周囲からの手助 とするだけで胸が潰れるように痛み、苦しく
けを受けられない個体は、すぐに淘汰されて なってやめた。
いただろうから、君は人間でよかったな」と それでも、自分が選択した、今のこの自死
全く人ごとのように感想を言う人だった。動 希望者という立場で、彼の「生き死に」につ
物学者だったんだ。はっきりと、理論的に話 いて口を出したり、何かを思う事すら、許さ
す人だったけれど、本当の気持ちがどこにあ れないことだと思った。それは、おせっかい
るのか、よくわからないと感じることもあっ とか、棚に上げてとか、そんな軽い言葉では
た。そんなところが、アンリさんと少し重な なく、冒涜とか、侮辱とか、相手の尊厳その
る(勝手に重ねてごめんなさい)こともあっ ものを踏みにじり、抹殺する、凄まじい悪行
て、母性からアンリさんを連想したのかもし だと、厳しく自分を戒めた。彼は、晴子が今
れない。僕の母のこととは別にして、アンリ 何を感じているかも、ここに来た理由も、何
さんの弱いものを必死で守ろうとする強い姿 も聞かずに、ただ静かにひとり語りをし、最
勢は、やはり母親というものの原点を感じさ 後にごく控えめに、「そういえば、何とお呼
せるんだよ。 びすればいいですか」と聞いてきた。自分の
そして、とっても言いにくいことなのです 心の内を何としても隠さなくては、という焦
が、正直に書きますね。彼女(ハル、と名乗 りの気持ちがあり、とっさに、ハル、と偽名
った)に対して、もっと生きてほしいと、思 を口にした。彼にもっと生きてほしいと、思
ってしまったんだ。担当一人目から、何て下 ってしまった浅はかな自分を晴子は強く恥じ
手くそなんだと落ち込んでる。スタンバイの た。
仕事は、対象者をありのまま受け止めて、本 面談の時間が終わると、健康なものは「持
人の希望通り、送り出していくことであり、 ち場」と呼ばれるボランティア活動に参加す
決して、死を否定したり、ひき止めたり、し ることになっている。大広間に行くと、すで
てはいけないというのに。僕を担当してくれ に面談を終えた多くの対象者とスタンバイ達
たスタンバイはかつて、僕がここに辿り着い が行き交っていた。壁一面に、無数の釘が打
たその過程すべてを、かけがえのない僕自身 ち付けれられ、そこに縦長の木札が掛かって
だと言ってくれた。お別れは寂しいけれど、 いた。それぞれに、ボランティアの職種が書
最後に一番そばで笑って送り出してあげます かれており、木札を手にとると壁側にも同じ
と言って、にっこりと微笑んでくれたその表 ことが書かれていた。厨房、と書かれた場所
情を、今でも思い出すことができる。そんな は、十数か所にわたっていたが、すべて札は
彼女も、僕がスタンバイの研修を受けている 取られた後だった。毎日同じ仕事をしたい者
間に、亡くなってしまったけれど、それでも は、木札をずっと持っていればよいため、人
彼女の存在は、今尚僕の支えになっている。 気の職種の札はなかなかこの壁に戻ってこな
同じことを、ハルさんにもしたいと思ってい いのかもしれない。外来受付という札が目に
る。アンリさんだったら、きっと「お喜びな 入り、晴子はそれを取ることにした。所属し
さい。わたくしがこうして全力で見送って差 ていた宗教団体では、晴子はずっと外来受付
し上げるのですから」と上から目線で語りか だった。そのせいで、マスコミに顔と名前を
けてあげられるのだろうな。それがあなたな 曝し、どこまでも追いかけられることになっ
りの誠実な愛の形なのだと、今なら理解でき たのだが、そんなことも今となってはどうで
る気がします。もう戻ることはできないけれ もよい過去で、もう戻ることはできないのだ
ど、あの場所の記憶は、僕の数少ない大切な という、ただその喪失感だけがぼんやり残っ
もののひとつです。 ているにすぎなかった。
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