第1話 サトシくんへ

 サトシくんへ。この手紙が着くころ、僕は    その建物は,集う者たちの大半の予想に反

初仕事に臨んでいることと思う。厚さ十五セ   して、ひどく明るく健康的な色彩を放ってい

ンチのマニュアルを渡され、二ヶ月の研修を   た。建物の外壁は優しく落ち着いた水色で、

終えて、いよいよ施設と人の役に立てる時が   駐車場に面する方の壁は真っ白に塗られ眩し

来た。明日会う人の良き「スタンバイstand by」とな   いほどだった。遠くに煙突のようなものが見

りたいと思う。聡明な君はこの施設の存在に   えたが、煙は出ていなかった。高地特有の冷

ついて、肯定的だろうか、それとも否定的だ   たく透き通った風が、深い木立のにおいを乗

ろうか。どちらかは解らないけれど、僕は、   せて人々の間を通り抜けていった。    

ここを守りたい。この場所こそが、僕のよう    晴子は、安堵と疲労と、少しの焦燥がまじ

な人間達にとり最後の救いの地であり、安寧   った溜息をひとつついた。大型バスから次々

と奇跡とより良き生(逆説的に聞こえるかも   と降り立った者たちはみなそれぞれ少し放心

しれないけれど、本当のことだ。君ならわか   し、沈黙し、決意し、解放され、もしくは改

ってくれるかもしれない)を手にすることが   めて打ち沈み、自分の行き着いた場所を受け

できる唯一の場だと確信している。       とめていた。              

 ほんの二か月前まで、ここに到着しここで    風に向かって顔をあげ、前髪をぐっと掻き

過ごし、ここを去る側の人間だった僕が、彼   上げると、晴子はキャリーバックひとつきり

らを受け入れ、サポートする側の人間になっ   の荷物を受け取った。通信機器はすべてバス

た理由は、その想いゆえだ。ここを去る方法   に乗るときに置いてくることになっていた。

にはいくつかあって、当然、その思いを遂げ   説明では、念を入れて、現地でも電波を遮断

て去っていく人達、それが第一だ。それと同   する技術が取り入れられているというような

じ数位いるのが、氏名も過去もこれまでの繋   ことを言っていた。他にも、様々なルールが

がりをすべて白紙にして、もう一度外界に戻   存在し、それはここの人々と施設、組織のあ

っていく人達だ。               り方そのものを守るための措置だった。そも

 ここに来る理由のうち多くを占めるのは人   そも、これまでの繋がりを断ってここに来た

間関係だと言われている。この、名前も持た   者ばかりなのだから、至極当たり前のことの

ず、今まで自分を苦しめてきた一切のものも   ように晴子には思えたが、ネットワークに依

なく、凡ての義務感から解放された場所で、   存していた者達にとっては最も堪える環境の

本来の自分の平穏な心を取り戻した多くの者   変化のようだった。           

は、当初の願望が周囲の状況によって引き起    ここへたどり着いた者はあと一か月で自分

こされていたことに気付く。その時、完全に   の望むものを手に入れることができる。執拗

閉ざされていたと思われた未来への道が、実   な、何とも気をそがれる問いばかり並ぶ膨大

はすぐそこにぽっかりひらけているように感   な量の四択テスト、血液検査、三名の各科医

じられるようだ。そして、全く新しい別人と   師達の診察を経て、ここに来る権利を認めら

して、身分を取得し、社会に戻ることが認め   れた。鬱病でもなく、他人の強制でもなく、

られている。こういった選択肢をとるのは、   心の底から、自分の意志で、ここに来たいと

若い人に多い。ここは、更生と再出発を支援   思っている。そのことを、科学的に、公的に

する場所でもあるということだ。        認められて、ようやくバスに乗ることができ

 そして、割合としては少ないが、元のとこ   る。ただ、その審査を経てもなお、一過性の

ろに戻っていく人もある。この人達は、いつ   気の迷いで、ここに辿りついてしまう若者は

でも優先的に、再びここを訪れることができ   いる。そんな彼らを見極めるために、一か月

る。やり残したことを思い出す人や、残して   という待機期間が設けられ、「スタンバイ」

きた人への感謝と、愛着の念を取り戻す人が   と呼ばれる担当者のチェックが必要なのだろ

いるのだと聞いた。そのまま二度とここを訪   うし、希望者に対しては、様々な救済措置が

れない人も多い。素晴らしいことだ。最後に   設けられている。素晴らしいことだ。だが、

一握りの人間だが、僕のように、ここでスタ   晴子には必要のないものだった。     

ンバイの仕事をするようになる人達。ここで    未来ある人間の可能性を奪うことは、もち

の最後の一カ月間を、担当のスタンバイと過   ろん誰にもできない。そして、未来を望まな

ごし、そこになんらかの意義を認めた人が多   い人間の心の軋みを、他人に否定されること

い。この仕事は、あと少しの間の、モラトリ   も、また、絶対にあってはならないことなの

アムだと僕は思っている。サトシくんへの一   だ。「命は個人のものではなく、社会や関係

方的な憧れもあるのかもしれない。あの時の   性の中で生まれ、存在している」という考え

君のスタンスは完璧だった。僕も君をまねよ   がある。それでは、愚かな母親のもとに生ま

うと思っているのかな?            れ、誰にも守られず、社会に殺されたあの子

 読んでくれてありがとう。君がよい人生を   どもの命は、たった十四年のあの子の人生は

送ってくれていることを願っています。ここ   何であったのだろう。社会で育まれるのが命

に来る人達が、よい時間を過ごしてほしい。   であるのだから、社会に奪われるのもまた当

あの日の僕のように。彼らの気持ちが一番よ   然だったというのだろうか。あの子どもは、

くわかる立場の人間として、寄り添いたい。   自分の命を守るすべも知らぬまま、短い生を

そして声をかけたい。この後、すぐに、僕も   終えてしまった。その後を、すぐに、晴子も

行きますと。                 行くつもりなのだった。         

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