第32話 繊維街にて

 最近、周りから不思議そうな目で見られることが多くなった。口にこそ出さないが、「どうしてだろう?」と言わんばかりの視線が注がれるのだ。可愛いテディベアだね、と尋ねられれば、私にも答えようがあるのに、彼らは無言のうちに「外出や職場にもテディベアを持ち歩く痛い人」という烙印を私に押したまま、そっと心の距離を取っていくような気がしている。

 さすがに両親は私の好きなものに対して口出しをしないスタンスなので、娘が鞄にテディベアを詰めてやってきた時も、「新しい趣味でも見つけたの?」と動じる様子もなかったが。

 上司は、テディベアの体の向きをかなり気にしている。できれば視界にも入れたくないらしい。気が散るのだそうだ。敏感な人は大変なのだろう。しかし、私の境遇よりはまだましなのだ。

 テディベアの要求は私に直接行われるからだ。


『服が欲しい』


 鞄のへりに両腕をかけ、ゆっくりと這い出してくる枯草色のテディベア。のろのろと、芋虫ぐらいの速さだが、自律した動きを見せている。

 普通なら、胴体に機械が埋め込まれていると思うだろう。しかし、実際、中には綿しか入っておらず、勝手に喋る機能までついてしまった謎の生命体だ。

 自室のテーブルの上でもぞもぞ動くテディベアの名前は、マリー。水兵服を着た女の子。はじめは両手を辛うじて動かせるばかりだったのが、だんだんと可動領域が広がっていき、とうとう昨日、自立に成功した呪いのぬいぐるみともいうべき代物である。


『服が欲しい!』


 テディベアはふたたび主張し、机の上で仰向けになった。その下には整理しきれていない本や紙の書類が散乱している。テディベアの動きで紙が滑り落ち、ばさりと音を立てた。

 マグカップから湯気を立てるエスプレッソに口をつけながら、言わなければよかった、と少しだけ後悔する。

 最初は流れで引き取ったテディベアであるが、今では変わった同居人、あるいは居候のような立場だ。

 たくさんの会話をした。お互いの深いところまで知るまでは至らなくとも、互いの生活に妥協点を見いだせるぐらいには。

 その中で、彼女が尋ねたのだ。


『この服は何? 見たことがない』

『ああ、それ? 水兵の服だよ。昔の男の子がよく着ていたりするよ』

『男の子……? 男の子の服なの、これ! やだっ!』


 マリーはそこから急に駄々をこねはじめた。元は自分が選んだテディベアであるのだが、自分がテディベアを選ぶのと、自分がテディベアに入っているのでは感覚が違うらしく、自分は女の子の服が着たいのだと熱弁を繰り広げた。

 テディベアなのに意識が高い。

 試しにどんな服が着たいのか、聞き返したところ、


『ドレスがいい。ビロードの生地にレースやフリルがたっぷりついて、ダイヤや真珠やコーラルのビーズをたくさん縫い付けてあるの』


 即答の割にはかなり高価な注文を付けてきたため、やむなく却下した。それからマリーはずっとふてくされている。

 水兵服が男の子の服だと言わなければこんな面倒な事態にはならなかっただろう。その場では「考えておく」と返事をしていたが、いつまでも誤魔化すわけにもいかず、次の休暇に服の生地を買うことを約束させられていた。



 約束の日。住んでいるアパルトマンの最寄りの停留所から路面電車トラムと地下鉄を乗り継いで二十五分。生地を探しに繊維街までやってきた。

 首都の繊維街は、繊維関係の小さな店がガラスのアーケードの下に集合してできている。様々な生地や織物のみならず、服飾関連の小物をそれぞれの店が専門に特化した品ぞろえになっており、プロのデザイナーから素人の手芸マニアまで幅広い要望に応える。

 テディベアの服の既製品は期待できない。新しい服を着せるなら、自作するしかなく、それならと思いやってきた繊維街。さして広くない通りに、人の波は絶え間なく流れている。彼らはテディベアを抱えている私よりも店先に並んだ色とりどりの生地に目が行く。

 マリーがふんふんふん、と鼻歌を歌いはじめる。


「楽しい?」

『うん』


 ならいいか。何か欲しい生地があれば言うようにとマリーには告げ、ぶらぶらとアーケード街をうろつくことにする。

 だが二、三軒回ったところで方針を転換せざるを得なくなった。あれもほしい、これもほしいとマリーの要求は湯水のように止まらない。テディベア用の服を作ったことがないから今回はワンピース一着だけと宣言したのだが。

 もう一度しっかりと釘を刺しておく。

 

「選ぶ生地は一つだけだよ。失敗も見越して、多めに買っておかないといけないし、糸にミシン、ワンピースの型紙とか、色々揃えておくことも考えないと」


 昨夜のうちに携帯端末メルクリウスで下調べをし、必要なものを紙のメモに起こしてきた。ぬいぐるみの服を一着作るのにもいろいろと物入りなのだ。


『マリー専属の仕立屋ドレスメーカーリディ・フロベール、服は全部オートクチュール……ふふふ』


 人の話を聞かないテディベアから期待の目を向けられているのを感じる。修行中の身に過剰な期待や無体な注文をされても困る。

 あらかためぼしい店を回ったところで私は聞いた。


「一番の生地は見つかった?」

『どれも欲しくて迷っちゃう』


 そう言いながらも最終的に生地を一つに絞った。彼女は昨今の安い化学合成繊維や大量生産品のレースには目もくれず、伝統的な手法を守った高級品の生地を選んだ。触り心地からしてものが違う。

 マリーの見る目はなかなかのものだということが発覚した。


『早く買って買って!』

「そうだね」


 そう言いながら棚に折り畳んである生地を手に取ろうとした。その時。横から誰かの手が手の甲を掠め、びっくりする。

 振り返ると斜め後ろに背の高い男性が立っていた。


「なんだ。同じ布目当てだったのか」

「え? ええ、まあ」


 威圧感のあるバリトンの声。鋭い眼光を放つヘーゼルアイ。一目で鍛え上げられたとわかる立派な体格で、軍人のように黒髪を刈り上げている。どの特徴をとっても腰が引けてくる人だ。


「どのくらい必要なの?」

「まだ正確にはわからないのですが、テディベアの服を作りたくて」

「そうか。ならそれなりの量を用意しないといけないな。それ、確か残り少ないんじゃないか?」


 言われて生地を広げてみれば、テディベアの服に必要な量ほどしかない。下手に譲る、譲らないの言い争いをしたくない私は、彼に生地を渡そうかと思った。

 しつけの行き届いたテディベアは今のところ沈黙を貫いている。


「俺はカフェカーテンを作ろうと思っていたんだが、あまり長さがないみたいだ。君に譲るよ」

「いいんですか?」

「ああ。それに面白いものも見られた。腹話術が得意なんだね」

「えっ」


 その言葉の意味するものに、顔の血の気が引いたり、羞恥が上ったりと忙しくなった。彼は私とマリーの会話に聞き耳を立てていたのだ。

 その間に彼はそつなく別の店へと去っていく。鮮やかな去り際だ。

 生地はカフェカーテンにしてもよいぐらいの長さだったと思うが、気を遣われたらしい。


『かっこいい……素敵な人だわ』


 腕の中でマリーはうっとりと呟いた。まあたしかに、と同調しておく。

 マクレガン議員などは万事をスマートに済ます万能型であるが、彼には粗野な中にも色気のようなものが垣間見えた。どちらにせよ、魅力的な男性であることに変わりはない。

 さっさと会計を済ませ、生地の入った紙袋を持った私とマリーは店の外に出た。


『ねえ、リディ。またあの人に会ったらどうする? 声かけてみましょうよ』

「えぇ?」

『さっきの、運命の出会いって感じがしたもの。きっとそう! 逃す手はないわ』

「でも、少し怖い感じがしなかった?」

『そこか痺れるんじゃないの。意外と良い人かもしれないわよ』


 マリーが熱心にせっついてくるが、その運命とやらを感じたのは私ではなくマリーである気がする。


「もう一度会うことがあったらね」

『そうでなくちゃね!』


 前向きな返事ができるのは、今も穏やかに日常を過ごせているからだ。

 『マリー=テレーズの恋日記』。それが実在しないことに私は心底、ほっとしている。その事実は私が女王の生まれ変わりでなかったことが判明するよりはるかに大切なことだった。

 彼女は心の底を誰かに見せることを望まない。彼女の抱いた愛も恋も、彼女だけの秘密。たとえ後世の人々相手であっても見せたくない。どれもが彼女だけの記憶の宝石で、小さな宝石箱に入れて一人でそっと覗き込むものだったから。その時間が孤独な彼女にどれだけの幸福をもたらしたか。

 女王の死で、永遠に誰にも知られることなく終わったはずなのに。日記の存在が今の私の心を嵐のようにかき乱していったのだ。

 だからこそあの日記に執着した。残すはずのない、『私』のが暴露されることを恐れた。

 そして今。誰にも知られることなく終わったことで、私の役目はまっとうできたように思う。

 私は女王だったが、同時にリディでもある。

 リディ・フロベール。私は女王の心を守る最後の番人。これからもその心を胸に抱きながら生きていくのだろう。

 私はテディベアとともにゆっくりと昼下がりのアーケード街を歩きはじめた。

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リディ・フロベールと秘密の恋日記 川上桃園 @Issiki

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