先輩と僕

仲咲香里

先輩と僕

「先輩、今日は僕の話、聞いてくれますか?」


 先輩からの返事がなくても僕は話しますね。


 僕の想いが、いつも色褪せぬまま先輩に届くように——。






 あれは今から十年前。


 桜舞い散る中、外周中に見かけた先輩はとにかくかっこ良かった。


 ピッチャーズサークルから白球を投げる姿は堂々としていて、先輩の手を離れたボールは、回転しながらキャッチャーの元へ吸い込まれるように飛んでいく。

 スパァンとミットに収まる気持ちの良い音で分かる。

 ど真ん中の高速のストレート。


 いつも真っ直ぐで強気な先輩らしい選択。


 振り切ってアウトになったバッターはおそらく僕と同じ後輩なんだろう。

 目を瞑って振ったんじゃ当たるものも当たらないけど、あの球は僕たち野球部員でも難しいかもしれない。


 満面の笑みで誇らしげに返球を待つ先輩の顔が僕の心を惹きつけて、その日以来、僕の中で先輩は憧れの存在になった。


 暖かい風に乗って聞こえてきた、


「ユウキ先輩、無理ですよー」


 という弱々しい声とそれに応じる先輩の姿。



 後で知ったんだけど、あの時はバッティング練習中で、ちょっとは手加減しろって先輩はキャッチャーの副キャプテンに怒られたらしい。

 そんなところも何事にも全力投球の先輩っぽくて、思わず僕は笑ってしまったんだ。



『ユウキ先輩』



 女子ソフトボール部キャプテンにしてピッチャーで四番。


 先輩が高校三年生、僕が高校一年生の春、僕たちは出会った。


 そして先輩のその名は、僕にとって一生忘れられない名前になった。





『僕たちは出会った』なんて言うと先輩には違うでしょって怒られそうですね。

 正確には、僕が一方的に先輩を見つけただけなんだから。





 そう、憧れの存在になったと言ってもそこから特に何かあった訳じゃない。

 三年と一年の校舎は別々だし、メイングラウンドで練習する僕ら野球部とは違い、女子ソフト部は本校舎のある敷地から道一本隔てた第二グラウンドで練習していたから、僕が先輩の姿を見られるのは本当に限られた時間だけだった。


 見るのでさえその程度なのに、まして話し掛けることなんて、そのチャンスも理由も僕には全く見当たらなかった。


 ただ、不意に見かける先輩の部活中にみんなを引っ張って行く姿も、男女問わずいつもたくさんの友人に囲まれてその中心で快活に笑っている姿も、僕には常にキラキラと輝いて見えた。


 それだけで僕は満足だった。


 だからまさか、先輩と僕にあんな日が訪れるなんて思いもしなかったんだ。






 高校が夏休み真っ只中の八月上旬。

 僕が野球部での練習を終え、自転車に乗って帰ろうとしていた夕暮れの時間にそれは起こった。


 すっかり習慣になってしまった第二グラウンドを覗くというルーティンワークをこなす為にグラウンド横を通ると、先輩の指定席に誰かがいた。

 丸い白線で囲まれたピッチャーズサークル。

 ラインパウダーで引かれたそれは、今はほとんど消えかけてグラウンドの砂と同化している。


 日中の極暑をそのまま引きずった息苦しさを感じる程の暑さの中、その中心に佇む、あれは……。


 ——先輩だ!


 急ブレーキをかけた自転車とは逆に僕の身体と心は一気に沸き立つ。


 いつものジャージ姿でもユニフォーム姿でもない、セーラーカラーに水色のラインが入ったブラウスと、グレーと水色のタータンチェックのスカート姿。

 僕らの高校の制服だ。


 先輩には珍しく一人きりなのが違和感を覚えたけれど、夕暮れのグラウンドに制服で佇む先輩なんて尊すぎてとりあえず目に焼き付けておくしかない。


 思わずフェンスに駆け寄った僕は気が焦っていたのだろう、自転車に足を引っかけて倒してしまった。


 カシャーンという派手な音が辺りに響く。


 その瞬間、先輩が振り向いた。

 風も無いのに先輩のショートボブの髪と、胸元の水色のリボンが小さく揺れる。


 フェンス越しに初めて先輩と僕の目が合った。


 先輩の視線は鋭く僕を刺し、きっと僕には受け止め切れない。


 ずっとそう、思っていた。


 でも、実際の先輩の眼差しは予想外に頼りなく、僕の心の真ん中をさざめかした。



 僕は信じられない光景を見た。


 僕が憧れる自信と明るさに満ちたあの先輩が、泣いていたんだ。



「あ……っ」



 僕は両手でフェンスを掴んで声にならない声を出すので精一杯だった。


 そんな僕にかけられた先輩の第一声を僕は今でも忘れはしない。


「見るなーっ!」


「ええっ?」


 僕はビクリと反応する。


 先輩は叫ぶなり慌てて腕まくりしていたブラウスの袖で顔を何度か拭いた。

 僕たちも今の時期、額の汗を拭く時によくやるやつだ。

 そんな仕草も先輩らしい。


「キミは何も見なかった。いい? いいよねっ」


「あっ、はい……。いや、でもっ」


 続けて言う先輩が僕に背を向けた時、僕は何だか目の前のフェンスが煩わしく感じた。


 あの日はきっと何かが僕に味方していたに違いない。


「あっ、ちょっ、と。待ってて下さい!」


 言うなり僕は第二グラウンドの入り口に向かって駆け出した。

 見えない何かに導かれるように。



 この距離じゃ、先輩の顔がよく見えない。

 この距離じゃ、先輩の声が遠くに聞こえる。



 こんな壁があったんじゃ、先輩の涙の理由を永遠に知ることはできない。



 だから僕はもっと先輩の近くに行きたい。



 心の奥から聞こえる声に、ただ純粋に、僕の身体が呼応してた。




 先輩の前に辿り着いた僕は何十周も外周した後のように心臓が鼓動し手足も震えていて、その状態でよく先輩に話しかけられたなと今でも思う。



「あのっ、ユウキ先輩! 誰にも言いませんからっ。だからっ、先輩が泣いてた理由、僕に、話してみませんか?」


 真っ赤になって訴えかける僕の言葉に、先輩がきょとんとした顔で僕を見返す。

 先輩の目にはもう涙は残っていなかった。


「あ、あのっ、騙されたと……思って……」


「ぶっ、あはははっ」


 先輩に笑われて初めて、僕は自分でもとんでもないことを言っているのに気付いた。


「あ、すみませんっ、話したこともないのに、僕……」


「キミ、見ない顔だけど、一年? 二年?」


 ——見ない……。





 この時、今度は笑い過ぎて目に涙を浮かべる先輩に言われた言葉で僕が少なからず傷付いたこと、先輩に念押ししておきますね。





「あ、一年、です」


「ふーん。じゃあ、ラーメン大盛り、炒飯と餃子もセットで。ちなみに炒飯も大盛りで、餃子は三人前に負けとくわ」




「…………………………え?」




 僕はたっぷり間を取って先輩に聞き返した。


 この流れでどうしてラーメンが出て来るのだろう。

 確かに僕も好きなメニューではあるけれど量は半端ない。


「だから、騙されたと思って話すから。本当に私のこと騙したら明日から毎日奢ってもらうよ。家まで押し掛けるよ。一年の教室乗り込むよ。言っとくけど、これは脅しじゃないからね」



 ……先輩は本当に泣いていたんだろうか。

 ただの汗を僕が涙だと勘違いしたんだろうか。



 半信半疑のまま僕は先輩に促され、一塁側にあるベンチに並んで座った。


 ——途方もなくくだらない内容だったらどうしよう。いやまさか、先輩に限ってそんな……。そういえば自転車倒したままだったな。


 僕は唐突にさっき放置してきた自転車の存在を思い出す。

 先輩の話と自転車、どちらを優先しようかとすら思ってきた。



「実は今日の試合、負けたんだー」


「そう、ですか……。それは辛いですよね……」



 やっぱりラーメンは醤油だよね、くらい軽い口調で教えてくれた先輩の話は想像した以上に普通の内容で、僕は逆に思考回路が追いつかなかった。



「うん。以上、それだけ」



 僕は吹っ切れたように言う夕暮れ色に染まった先輩の横顔を思わず見つめる。

 先輩は両手をベンチの後ろの方につき足を投げ出して、遠くを見るような表情をしていた。


 そこで僕の脳内のニューロンとシナプスがやっと活動を始める。


「……それだけって。あれ、試合って、今日って……先輩まさか、あれですかっ?」


「うん、あれ」


 僕が振り返る先には圧倒的な存在感で校舎から垂れ下がる『祝 女子ソフトボール部全国大会出場』の懸垂幕があった。


「じゃあ今日って!」


「うん、決勝戦だった。でも結局負けちゃった」


「そん、な……。先輩、それだけなんて、先輩には、最後の試合で……」


「まあでもしょうがないよ、負けちゃったものは。明日からは受験勉強、頑張らないとねー。やりたくないけど」


 どこまでも清々しいくらいにあっさりと言う先輩に、何故か僕は「準優勝でも凄いじゃないですか」なんて考えよりも悲しみを強く感じていた。


「しょうがなくなんてないです! 今はまだ補欠ですらないけど、僕だって小学校の頃から野球やってるし。先輩がいつも暗くなるまで残って練習してたのも知ってます! だから先輩が悔しい気持ちは痛い程分かるんです。今、初めて話すような僕に本心見せるなんてできないかもしれないけど、それでも今日ぐらい、もっと、もっと泣いたっていいじゃないですか……」


 そこまで一気に言うと僕は言葉に詰まってしまった。

 先輩が不思議そうな顔で僕を見ている。


「どうしてキミが泣いてるの?」


「だって、先輩が……。先輩は……」


 そうだ、僕はその時泣いていた。

 先輩の代わりに、先輩が泣かないから。



 先輩がまた遠くを見つめる。

「あとストライク、一つだったんだ……」

 ふっと一瞬寂しげな表情をした後、先輩がきっと話すつもりの無かった胸の内を僕にだけ明かしてくれた。




 あとストライク一つで勝てるはずだった。

 先輩が選んだのは、強気のストレート。

 これまでに経験の無い暑さの中、今大会、一人で投げ続けた。

 蓄積した疲労は気力で振り払った。

 ……つもりだった。

 打ち返された球は、真っ直ぐセンターの頭上を越えた。

 三塁ランナーは勿論、バッターさえも余裕でホームインする完璧な逆転サヨナラホームラン。

 先輩の夏が、三年間が、そこで終わった。




 話し終えた後で笑顔の先輩が言う。

「そりゃ悔しくないって言ったら嘘になるけど、でも、後悔はしてないかな」


 この時の先輩の晴れやかな笑顔が、僕は今でも一番好きだ。


「ありがと。なんかキミに話したらすっきりした」


「それなら、良かったです。……えっと、あの、じゃあ、僕はこれで」


 あんなに大胆に行動した割に僕は引き際がよく分からず、突然ベンチから立ち上がった。

 そんな僕をすぐに先輩が引き留める。


「あ、待ってよ。ところでキミ、名前は?」


「え? あっ、すみません! 北川きたがわです。北川きたがわ朝陽あさひです」


「じゃあ、北川くん。キミは私の名前ちゃんと知ってるの?」


「あ、はい。ユウキ……あれ、すみません、名字しか知りません」


「だろうね?」


 僕には先輩がそう言った意味と可笑しそうに笑う理由が分からず、困惑したまま先輩を見るしかなかった。


仁科にしな結希ゆうき


「え?」


「私の名前。仁科結希だから。きにイントネーション置く方が好きだからみんなにはそう呼ばせてるだけ。いきなり先輩に、しかも初対面でユウキって呼ぶなんて度胸あるね、キミ」


「あっ! す、すみませんでした!」


「あー、ごめん、ごめん。いいよ。私、そういうの気にしないし。その代わり私も朝陽って呼ぶから。いいよね? 朝陽」


 僕の返事を待たずにベンチからぱっと立ち上がって、

「ほら、帰るよ、朝陽」

 さっさと歩き出す先輩の後ろ姿はやっぱりかっこ良くて。


 それから僕の中で、先輩ははっきりと特別な存在になった。




 夏休みが終わっても先輩は僕を見かける度に声を掛けてくれるようになった。

 どんなに遠い場所でも、僕が授業中でも、部活中でも、

「朝陽、おはよう」

「朝陽、元気?」

「朝陽、頑張れ!」

って、あの笑顔と大きな声で応援してくれた。

 その度に僕は少し恥ずかしかったけれど、でもそれ以上にすごく嬉しかったんだ。



 僕からは何も言えなかったけど、本格的な秋を迎える頃には、僕は先輩のことが好きになっていた。



 受験生の先輩に負担をかけたくなくて、自分の気持ちを隠したままそれまでどおり接する僕を、先輩は気まぐれに第二グラウンドに呼び出すことがあった。


 放課後の第二グラウンドで受験勉強の息抜きと称して、先輩が僕に投げる練習や打つ練習を指導してくれる。

 それで甲子園行けると思ってんのかって、当時、春の選抜も勝ち抜けなかった僕ら野球部の監督よりも厳しくて。


 時々、同じ野球部の僕の親友も混ざったりしながら先輩と一緒にキャッチボールをしたり、バットを振ったり、初めて薄っすらと雪が積もった日には、二人で一緒に小さな小さな雪だるまを作ったこともあった。


 僕には十分過ぎる程の先輩との思い出が増えていった。






 だからその冬、クリスマス前に先輩が僕の親友と付き合い始めた時には僕は意味が分からなかった。


 よりにもよって、一番受験が佳境に入るこの時期にどうして。

 先輩と親友は、僕が先輩と話すようになってから知り合った仲なのに。


 自問自答したって答えなんか出てくる筈もない。

 僕が知っているのは、親友から告白して、先輩がそれに応えたという事実だけだ。



 そうなってしまって初めて僕は心の底から後悔した。

 先輩にこの気持ちを言えば良かったって、何度も何度も後悔したけど、でももう、全てが遅かった。




 それ以来、先輩から僕が第二グラウンドに呼び出されることは無くなった。




 その代替に、親友から聞く先輩の姿は普段からは想像もできない程女の子で溢れていて、僕の心はいつも悲鳴を上げていたんだ。


 その日々は先輩が卒業するまで続いて、やっと近付けたと思ったのに、先輩はまた僕の中でとても遠い存在のまま笑顔で学校を去っていった。

 僕との思い出なんて無かったことみたいに。







「って、僕の話、ちゃんと聞いてますぅ?」

「はいはい。もう酔う度に同じ話するのそろそろ止めようよ、北川くん」


 会社帰りのいつもの居酒屋で、ビールジョッキ片手に僕は真っ赤な顔でくだを巻く。

 ちなみに、ビール一杯だけでこの状態になれる僕を見て、お前は安上がりでいいよなって同僚によく言われる。


「でも僕、先輩のことホントにホントに好きで、大好きだったんですぅぅぅ」

「うんうん、分かったって」


 机に突っ伏して泣き出す僕を見て、目の前に座る会社の先輩が、呆れつつも優しく相槌を打って慰めてくれる。

 僕は今日、この女性の先輩と二人きりで飲みに来ている。


 金曜の夜、明日は休みだし少々飲み過ぎても問題はないだろう。

 例え僕の目が今度は据わり始めていたとしても。


「なのに、何で先輩はあいつと付き合ったりしたんですかっ」

「まあ、若かったって言うか、それまで女子からばっかり告白されて男子からなんて初めてで舞い上がっちゃってね。つい、フラフラーっとね」


「ふりふりの服とか、三本下がって歩くとか、全っ然先輩らしくないですよ。そんな無理して正反対の自分になろうとして、何が楽しくて付き合ってたんですかっ?」

「いや、あれは、デートに使えそうな可愛い服なんて持ってなかったし、そもそも付き合うって何? ってところから全部マニュアルどおり実践してみた結果なんだけどねー。うん、確かに私、無理してたね」


 そう言って先輩が芋焼酎片手に快活に笑う。


「そんなの聞きたくなかったですよぉ。僕はありのままの先輩のことが好きだったのに」


 今は肩より少しだけ長くなった先輩の栗色の髪と、僕の坊主だった面影さえなく伸びた髪が流れた年月を感じさせる。


 あの頃のかっこいいユウキ先輩も好きだけど、僕は今の、可愛いユウキ先輩のことはもっと好きだ。


「私も好きだよ」

「えっ? 何、急に……」


「だから、高一の時からずっと好きでしたって告白してくれてありがとうね、朝陽」

「せんぱぁい。僕、今度こそ勇気出して言って本当に良かったですぅぅぅ」

「あー、もう、ほら泣かないの。飲み過ぎだってば。さっ、帰るよ」


 僕たちは僕の大学卒業後、偶然にも就職先の大手スポーツ用品メーカーで再会した。

 お互いに一人、二人、別の人と付き合う機会はあったけれど僕は先輩のことがずっと忘れられずにいた。


 そこへ来ての先輩との再会に、僕はもう運命すら感じる勢いで告白して、結果、ユウキ先輩は僕の彼女になった。


「ホント、これで高二、高三の二年間、エースで四番背負って甲子園行ったんだもんねー。そっちの方が信じられないよ」

「だって僕にはもう野球しかなかったし。ていうかあいつに野球でも負けるのは嫌だったし……」


 居酒屋を出た僕たちは、二人で住む部屋に向かって手を繋いで歩き出す。

 僕の足取りは少々覚束ないけれど、隣に結希がいてくれれば何よりも心強い。


「帰ったら結希の可愛いとこ全部言うから、聞いてくれる?」


「それももう何度も聞いたってば」


「何度でも言いたいの! もう言わずに後悔するのは嫌だから。先輩に関することは全部言える時に言っておきたい。だから先輩、聞いてくれますか? あ、そのもうウンザリって顔されても僕は言うから」


「……じゃあ、私は朝陽のかっこいいとこ全部言うから、聞いてくれる?」


「えっ? 何その初めての展開! 聞く! 聞きたい! 今すぐ聞かせて先輩!!」



 僕は来月、先輩の誕生日にプロポーズする。

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先輩と僕 仲咲香里 @naka_saki

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