夢遊伝記

井上 潤

第一夜 剥がれた頭

 鏡に映る男は端整な顔立ちの若い男だ。鏡の前に立つのは私だが、知らない男の首から上が映っている。

男はチラッとこちらを見ると鏡の外へ顔を引っ込めた。私は振り返り、男を追ったがその姿は見当たらなかった。

あたりは暗くはない。バスルームとも銭湯とも言いがたい水場である。裸足の私は滑らないように気をつけながら、水場の奥へ進んだ。

足元のタイルは薄汚れた水色で、タイル目地は黒ずんでいて踏むのが嫌だ。そう思って歩むうちにユニットバスルームの扉の前にいた。

バチンとプラスチック感の音をたてて扉を開けた。私はもう中にいた。小さな洗面化粧台には丸いマグカップに緑の歯ブラシとホワイト&ホワイトが入っている。

使っても大丈夫なのだろうか。そんな疑問を持ちながら備え付けの鏡に目をやるとどうやら私の顔が映っているが少し様子が違う。

髪の毛が四方八方へピンピンに逆立っている。こんな髪の毛は嫌だと手櫛で撫で下ろすと、左耳の上の髪がズルリと剥がれ落ちた。

その地肌は綺麗な刈上げになっていて悪くないがアンバランスなので左右を整えるように髪を剥がした。

手についた髪の毛は意外にさらさらで手から払い落とすのは造作もなかった。

再び鏡に目を向けると左頭部に水色の大きな寒天のようなものが癒着している。

これに動揺した私は剥がそうと試みるが、なかなかにべっちゃりで相当の痛手を覚悟する必要があった。私は集中していた。

そしてこのままの姿でも胸を張って生きようとすぐに決意してバスルームを出ると曇り空の下で格子状の柵に囲われた屋外にいた。柵の外にはサイのようなおおきな動物が縄に繋がれてかすかに動いていた。

私のそばには数人の男女の人気がある。嫌な感じはしないが頭の寒天が恥ずかしい。さらに大きなふわふわの犬がいてまとわりついてくるので、寒天から頭部にバイキンが進入しないか心配だ。犬は苦手なのだが堂々として見せていた。

 一匹の茶色い蛾が犬へと飛びついた。頭部に氷のような冷たい感触を感じる。

寒天が溶け始め、癒着が少しずつ離れているのを私は別の視点から見ていた。

蛾を放つことで寒天の癒着は解消されていくようである。犬には悪いが恥部を解消しようと蛾を放ち続けたが、その蛾を顔面の中心に搭載した小さな犬達が発生し凶暴な顔でまとわりついてくる。私は恐怖していた。


「山路~!!」女の声がした。すぐに救いの声だとわかった。

私の名は山路ではない、女の方こそが2年4組の山路であった。その矛盾に関わる余裕もなく私は山路の方へ行き、心から感謝と安堵を感じた。


山路の顔は可愛いがいつもの顔ではなく少しだけ似ているようだった。ジャージ姿で私を見つめる山路の後ろをたくさんの人が自動ドアに向かって駆けていた、オフィスの一階の入り口のようである。


尿意がこみ上げてきた、ユニットバスには戻りたくない私は強く目をつぶった。

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