[企画向]ユピテルの翼

ユキガミ シガ

*

「なにか嫌な…ものすごく嫌な予感がするんです。判ります?」

 空港内に設置されたディスパッチルームに到着した男は、挨拶もなく、唐突にそう切り出した。

 不躾になんだというのだろう。五分程前から部屋で待機していた男は、ゆっくりと視線を上げる。見ない顔だ。しかし、彼がつけた身分証は同僚であることを証明している。まあ、この部屋に入室できるのだから疑いようもないのだが。

 ここは運行管理者とパイロットがブリーフィングをするための場所だ。と言っても今夜のフライトの担当者は到着していない。何かトラブルがあったらしく、少し遅れるとの連絡があった。

 そして、それより先に現れたこの男は、当然のように立ち席の向かい側についた。とすると、どうやら彼が副操縦士の様だ。初対面であることは間違いない。年齢的に経験は浅そうだ。なんにせよ、彼が選んだ話題は名前も知らない間柄で最初に選ぶべきものとは思えなかった。

 今日の相方は少々変わっているな。そんなことを思いながら、短く答える。

「いや」

 二回りは若いだろうか。まあ、自分とて、同世代だったら楽しくお喋り、なんて人間ではないのだが。何にせよ、と彼は思う。この男の落ち着きのなさは不安要素だ。

 もしかして、心身のどこかに問題があるのだろうか。

「どこか不調かね?…あー、私はレーヴェンハルト。ユリウス・レーヴェンハルトだ」

 名乗りつつ右手を差し出すと、まだ二十五かそこらの相手は小さく肩を竦めて手を握り返してきた。

「アレキサンダー・サキタ。いえ。いたって健康ですよ。ただ、今日はゲンが悪い。…なんていえばいいんですかね、悪い予感がする。ドイツだと――そうだな、水で乾杯するとか?」

 どうやら、ユリウスがドイツ人だからわかりやすい例を示そうとしたらしい。そういえば、水で乾杯すると不幸を招くとか、死を招くとかいう向きも確かにあった。

「そういった迷信の話かね?」

「Yes,Sir」

 言いながら、アレックスは自分の右足を持ち上げて靴を見せた。紐が切れている。会話から察するに、どうやら、彼の国では不吉な意味があるらしい。

「スペアは?」

「ないですよ。…たった今切ったんです。ロックを開けて室内に入ろうとしたらこれだ。後で接着剤を貰ってきます。全く。朝からどうも腹のあたりが気持ち悪い。こういう時は大抵なんかあるんですよ」

 彼は一気にそう捲し立てる。不吉だと繰り返す彼に、何故だかそう悪い印象は抱かなかった。それよりもなによりも騒々しいと感じる。

 かといって、初対面でいきなりそれを指摘するわけにもいかない。何よりまだ勤務時間には入っていないのだ。

 運行管理者が来ておらず、机に書類も届いていない以上、今は雑談の時間。これから共に仕事をするのだからコミュニケーションをとっておくのが礼儀だろう。

 それに、よく考えれば、無口で何を考えているか判らないよりはよっぽどいい。そんなユリウスの心の動きを知ってか知らずか、アレックスは尚も捲し立てる。

「本当に、すごく、すごーく嫌だったんですよ。鏡は割れるし、黒猫は横切るし…」

 とどめに大きな溜息が一つ。ユリウスは思わず苦笑する。

「…まあ、そういう偶然の積み重ねが、君には衝撃的なのかもしれないな。休むことは考えなかったのか?」

「生憎、俺が変わりなんです」

 成程。そういうことか。

 恐らくは、元々の副機長が病気か何かの事情があって、急遽、呼び出されたのだろう。パイロットとて人間で、人の命を預かる以上無理は禁物だ。いざというときは助け合いとなる。

 そういえば、少しダレた制服の着方をしている。タイは少し歪んで斜めに下がっているし、直し損ねた様子の寝癖も見えた。もしかしたらこの落ち着きのなさもそのせいなのかもしれない。

 何にせよ、ちょっと頼りないな、と思いつつ、何故だか、ユリウスは急に懐かしさのような感覚を覚えた。

 何故だろう。深く考えるより先、当たり障りのない返答をする。

「それはご愁傷様だね」

「いえ。でも貴方の機だって聞いたから喜んで来ましたよ」

 言った彼はこちらを見てにやりと笑った。どうやらユリウスの経歴を知っているようだ。ユリウスは憮然とする。

「過信は敵だよ」

「過信じゃないですよ、天帝ユピテルユリウス。…しかし、貴方にも同じことが言える」

 久しぶりにそんな二つ名で呼ばれた。ちらり、と視線をやると、彼は妙にきらきらした目ではにかんだように笑っている。最後に付け足された挑戦的なセリフは、迷信だと切り捨てている態度を言っているのだろう。ユリウスは目を伏せて笑った。

「そうだな。そういえば、昔仲間にも居たよ。今日は、死んだ親が夢に出たから出撃したくないと言っていたが…。確かにあれは、何か感じていたのかもしれないな」

 あの若いパイロットは、その二時間後に海に墜ちて逝った。紅顔の、まだ幼さの残る笑顔を思い返すと、胸が痛む。

 柄にもなく、古い記憶をよみがえらせてしまった。

 ユリウスの前歴は、戦闘機乗りだ。それなりの撃墜記録も持っている。天帝というのは、その頃の二つ名である。確かに立場はエースと言えたが、新聞に書き立てられたイメージと彼自身には大きな隔たりがある。

 だが、畑が違うとはいえ、パイロットである現在の同僚から、アレックスのような反応をされることも少なくはない。だが、その会話の中であの頃の事を思い出したことは、ついぞなかった。

 何故だろう、と改めてその横顔を窺い見ると、はたと思い当たった。

 ああ。空軍で最初に同室だった男に、どこか似ている。三十年以上前、僚機のパイロットをしていた男だ。よくよく見れば少し、面立ちが似ているか。そういえば、あいつも一人で捲し立てる癖があった。

 なんだか酷く、懐かしい気がした。

「…どうかしました?」

「いや、気にしないでくれ。…それより、漸くのご到着だな」

 アレックスの背後に差した影を手振りで示すと、アレックスも肩越しに振り返って運行管理者の姿を認めたようだ。

「おっと」

 慌てたように背筋を伸ばし、簡単に身だしなみを整えた彼はにっこり笑った。ユリウスは頷き、時計を見る。凡そ八分遅れで到着した運行管理者は、早速に切り出した。

「お待たせしました、ブリーフィングに入りましょう」



「静かな夜ですね」

 ぽつり、とアレックスが呟いた。二人が搭乗した機は、あと数十分で目的地に着く。

 アレックスの経験については雑談がてらCAキャビンアテンダントに聞いてみたが、どうやら相当なやり手らしい。共に仕事をした大抵の機長からお墨付きをもらっているが、同時に皆に時間外の会話が多いとか、よく喋る等と補足されているとのことで思わず笑ってしまった。

 実際に一緒に乗務して見ると、成程。操縦以外でも、例えばユリウスは機内アナウンスが若干苦手だったが、彼には適性があるようだ。よく喋るがあまり不愉快にはならない。頭の回転が速いのだろう。

 は大抵、仕事ができる。

 残念ながらユリウス自身はではない。ただ、航空機が好きで、いつの間にかこんなに長い間、空を飛ぶことになった。

 今まで失った友人たちを思い返す。地上で亡くなったものも勿論いるが、空で散った命も多い。自分はどちらだろうか。ふとそんなことを思う。

 コクピットの外は闇に閉ざされている。海の上を飛んでいると月や星の明かりだけが頼りだが、今はそれもない。覗き込んだ計器は幸い、正常な数値を示している。

「闇夜だな。現地はどうだ?」

「それが……。さっきから気になってるんですが、視界の割にレーダー上に雨雲らしきものがないんです。巻雲にしては濃いし…」

 言いながら、彼はぷるり、と震えた。巻雲とは所謂すじ状の雲の事だ。飛行機に乗るとよく見られる、特に害のない雲の筈だった。

「嫌な予感、かね?」

 冗談めかして問うと、彼はちらり、とこちらを見て何とも言えない表情をした。なんとなく悪い気がして、ぽつりと漏らす。

「実は私も夜は苦手でね。…一度だけ、空間識失調になったことがあるんだ。こんな夜だったな」

 空間識失調とは、地面に対する平衡感覚や、機体の動き、向きなどの感覚が狂ってしまう状態を指す。パイロットには身近な問題で、夜間飛行時や雲などで視界が遮られるなどした時に起こりやすい。要するに、言葉の通り空間への認識を失ってしまう状態で、酷い時はどちらが上かも判らなくなる。

 操縦者の空間識失調で起きた事故も多くある。対処法は一つ。感覚よりも計器を信じる事だ。今とて、二人は視界や感覚に頼らず、計器飛行している。

 計器と感覚どちらか頼りか―――その判断を誤ってはならない。だが、飛行機は酸素の薄い高高度こうこうどを飛ぶものだ。時に、低酸素と墜落への恐怖から、思考能力が低下しがちになる。

 そんな状況に陥った時、人間は本能的に自分の感覚を信じたくなるものだ。

 正しいのは計器か、人か。それを常に頭に刻み込んでおかねばならない。

「貴方でもそんなことあるんですね…」

 アレックスは不思議そうだ。ユリウスはちらり、と若い操縦士を見てから薄く笑った。

「私だって人間だ。感覚が狂うことくらいある。まあ、あの時操作を誤っていたら、今、君の左には別の男が座っていただろうがね。……ま、何にせよ、過信は禁物だ」

 言って、肩を竦めると、アレックスも影のある笑みを漏らして、ぽつり、と呟いた。

「私の祖父も母が生まれる前に、空で死んだそうです」

 ちり、と胸が痛む。「そうか」と返すと、アレックスは小さくかぶりを振った。亡くなった戦友が、また、脳裏を過ぎった。

 暫く、沈黙が続く。ユリウスはぼんやりと計器を眺めながら呟いた。

「…やっぱり妙だな」

 その瞬間だった。

 ウィンドウシールドを横切るように、いく筋もの白い光が走り始める。

 流星群の中を飛行しているように、幾筋も、幾筋も、投擲とうてきされた槍のように向ってくるそれは、あまりにも幻想的で美しい。光のシャワーとでも言えようか。

 一瞬そんな感想を覚えたが、明らかな異常事態だ。何かが起きている。何か、とても恐ろしいことが―――。

「!」

「一体何が…」

 直後、ずっと聞こえていた低いエンジンの響きが力を失い、遠ざかるように消えていった。断末魔の唸りのように低く衰え行くそれに合わせ、全モニターが光を失う。計器の針は一斉に、零の方向へ滑って行った。二人とも息を詰めて、その様を見守る。

 一瞬の後、機内は、不気味な闇と静寂に包まれた。

「どういう、ことですか?」

 狼狽えた様子のアレックスの問いに、ユリウスは応えられない。数秒黙った後に、何とか返事をする。

「判らない」

 言いながらも、漸く硬直が解けた。

 緊急事態は時間との勝負だ。機体は空に居る。空に居るということは、当然墜落を防ぎ、安全に地面に降りなければならない。その為には、慎重に降りる場所を、速度を、選択せねばならない。そして、よりよい選択をするためには、一分でも一秒でも、時間が必要だ。

 素早くAPU(補助動力装置)のスイッチを探す。躊躇わずにONにして指示を、と横を向くと、アレックスは体を伸ばしてガラス越しに背後の機体を見ていた。

「エンジン、見えるか?」

 問いかけると、彼は視線を外すことなく、浅く頷いた。

「白っぽく発光している…気がします」

 ユリウスも左側の窓から外を見ようと試みる。確かに白く光って見えた。その仄白い光を見つめてはっとする。

「セントエルモの火か…!」

 セントエルモの火とは、古代から知られる発光現象だ。船舶が時化しけに遭った時などに見られ、マストや船全体が発光する瑞兆として記録されている。時代が下り、飛行機が開発されると、今度は同じような現象が空でも見られるようになった。

 暑い地域の定期便に乗っていた頃はたまに見かけていたが、その正体は電気だ。雷雲に突っ込むと見られる現象だったが、雲に突入したわけではない。俄かには信じられないが、見る限り、その可能性が一番高い。

「…落雷ですか?これ。雨雲が映っていないのはレーダーの故障?…では、ないですよね?」

 アレックスは比較的落ち着いてきているように見えた。彼なりに、状況を把握しようとしているのだろう。

 そして、何が必要かもよく判っているようだ。彼が手にしているマグライトとリング綴じの書類を見て、ユリウスは小さく頷く。

「QRHかね?」

 QRH、クイックリファレンスハンドブックは緊急時の対処法などがまとめられた分厚いチェックリストの束だ。通常のチェックリストとは別に、緊急時に行うべき手順が項目別にまとめられている。何か起きた時のために、あらゆるトラブルについて記されているわけだ。

 あると心強いものだが、できたら使いたくないものだった。

「はい。エンジン再始動チェックリストを?」

 アレックスは既に該当のページを開いているようだ。ユリウスは強く頷く。

「頼む。操縦と通信は私が」

 アレックスが頷いて作業に入ると、ユリウスも管制に向けて呼びかけを始めた。

「…メーデー、メーデー」

 メーデー、つまり国際救難信号を宣言しつつ、もう一度エンジンを振り仰ぐ。

「!」

 目を疑った。エンジンから火が出ている。しかし、チェックリスト実行中のアレックスの邪魔をするわけにはいかない。平静を保つよう心がけながら、管制官に事態を伝える。

「こちら二〇三便、…全エンジン燃焼停止フレームアウト。近くに降りられる場所は?」

『二〇三便、そこから一番近いのは…南に軍用の空港があります。距離九十二マイル』

 そこまでは、明らかに飛べない。機体はぐんぐん高度を下げて行っている。ユリウスは即座に返す。

「無理だ。他は?」

『残念ですがそこからだとそれより近い空港は…』

 ユリウスは隣のアレックスを窺う。丁度チェックリストを終えた彼は息を吐いて言った。

「再始動失敗しました。もう一回行きます」

「アレックス、火だ」

 アレックスは慌てたように背後を振り仰ぐ。ため息のような声が漏れた。

「…ああ」

 彼も大きく体を捩って数秒、固まっていたが、慌てたようにチェックリストに戻った。無理もない。最悪の状況だ。

「管制官、空域の確保をお願いします」

『了解しました。緊急回線に切り替えてください』

「了解」

 回線を切り替えると、アレックスがシートベルトに手をかけながら問いかけてきた。

「機長、乗務員に指示をしても?」

 全動力をロストしている今、乗客も非常事態だと気付いているだろう。機内放送をするのは容易いが、客席の状況も掌握しておきたい。彼ならうまくやれそうだ。頷くと、アレックスは急いでコクピットを出て行った。

 急に、静寂が重くなった気がする。

 一人きりのコクピットは妙に心細く感じた。大丈夫だ、まだ高度はある。まだ、手は残っている。そう言い聞かせながらも、胸の中には黒い霧のような不安が充満していく。

 何十年振りだろう。こんな感覚に囚われるのは。

 乗客にはきっと、子供もいるだろう。アレックスだってまだ少年から片足を出したくらいの年だ。何もかもやり残している。自分にできることはなんだろうか。ただ、今は操縦桿が重い。機外は絶望の淵の如く、暗い。

 淡々と、チェックリストを繰り返す。こういう時に焦りは禁物だ。ひとつ、ひとつ、着実に。積み上げていくことが重要だと、経験から知っていた。

 きっと、今まで生き延びてきたのはこの為なのだ。この機を絶対に地上に下ろす。その為に。

 静寂は続く。死の世界に居るかのように、空気が重い。

 ついぞ神になど祈ったことはないが、こんな時ばかり、祈りの文句が浮かぶ。

 順番に、スイッチを切る。或いはトグルスイッチのピン状のレバーを跳ね上げる。死んだ友への呼びかけのような虚しさを覚えながら、淡々と繰り返す。どうしたら、誰も失わずに済むだろう。どこで切り上げて別の手を打つべきか。

 ―――否。今は作業に集中しろ、項目を飛ばさないように、慎重に。そうして、最後の項目に掛かった頃、アレックスが戻ってきた。彼は素早く着席すると、直ぐにベルトを締める。それは丁度、ユリウスが最後のボタンを押し込んだのと同時だった。

 瞬間。低いうなりが聞こえた。

 鉄の鳥は僅か、小さな吐息のように息を吐く。双発の内の一基が、息を吹き返した。瞬く間に計器の針が数値の上を這い上る。

 二人、顔を見合わせて溜息を吐いた。

「一基だけか。……このままだと、高度に不安があるな。できれば近くに降りたいところだが…」

「地図を確認します」

 ユリウスは頷いて、計器盤に視線を落とす。エンジンの状態が気がかりだ。再び停止しないとも限らない。

 地図を確認していたアレックスは、顔を上げてこちらを向いた。

「さっき管制官が言ってた空港まではほとんど平地の地帯のようですね。…目立った都市もない様子です」

 そこに向かうしかなさそうだ。ユリウスはアレックスに頷き返してから、通信を再開する。

「二〇三便、高度七千。南の軍用空港に緊急着陸したい」

『二〇三便、了解。左に旋回してください。二、一、〇』

「二、一、〇、了解」

 慎重に方向をセットし、息を吐く。アレックスはチェックリストに戻っている。

「このままもってくれよ…」

 思わず呟くと、隣の彼も頷いたようだった。

 エンジンの音は遠く、小さく感じられる。コックピットには張りつめた空気が漂っていた。恐らく二人ともだが、不気味な予感を感じていた。今にも破裂しそうな、緊張した空気の中に、とてつもなく嫌な事が起きそうな、そんな不安が隠れている。

 ユリウスは矢も楯も堪らず、切り出した。

「今のうちに緊急着陸のチェックリストを確認しておいてくれ。もう、あまり時間がない」

「はい」

 アレックスは応えつつ、QRHを繰りはじめる。

 彼は熱心に手順を読んでいるようだ。ユリウスは計器を睨む。今のところ、一定の高度は維持できている。もう少し持てば、何とかなりそうだ。そう思って息を吐いた、そんな時。

 不意にエンジンの音が変わる。嫌な予感を感じつつ再び計器に視線を落とすと、みるみるエンジン出力が下がっていくのが判った。アレックスが慌てて背後を振り返り、直接確認する。

「第二エンジン、炎が見えます…先ほどと同じ現象のようです」

 なんてことだ…。ユリウスは溜息を吐きながら天を仰ぐ。もう距離がない。高度もそんなにない。

 ユリウスはアレックスに向き直り、切り出した。

「もう、降りるしかないだろう」

「はい。私もそう思います」

 アレックスは強く頷く。ユリウスは頷き返して、管制に呼びかけた。

「こちら、二〇三便、再び全エンジン停止。高度が維持できない。緊急着陸準備を」

『二〇三便、了解。すでに滑走路 緊急車両、誘導灯の準備完了しています』

「有難う。方位は?」

『二〇三便、そのまま直進方向です』

 高度と、距離を確認する。もう数分とない。出力を失った今、機体は一分間に千から千五百フィート降下している。最早時間切れだ。焦りを押さえつけながら身を乗り出すようにして前方を見る。曇ったウィンドシールドの先に、漸く、空港の光らしきものが確認できた。

 しかしその距離は、思ったより近い。

 アレックスが呟く。

「オーバーランしそうですね…。かといって旋回には厳しい…」

 ワイパーを操作する彼の声には不安が滲んでいる。

 航空機の速度は、降下角度がつくほどに、着陸後の機体速度が増し、停止するまでの距離が必要だ。緩やかな角度での着陸だと着陸後必要な滑走路の距離も短くなるが、その分遠くまで飛ぶことになる。要はブレーキがない乗り物であるのだから、掛かっているエネルギーを使わずに昇華する方法がない。

 通常なら上空で旋回して速度を落とし、緩やかに降りられるように調整するが、今は高度が足りない。回っているうちに墜落してしまう。

 ユリウスは静かに言った。

「サイドスリップ」

 ユリウスの言葉に、アレックスはハッとしたような顔をしてユリウスを見た。本気か?と、その視線が言っている。

 サイドスリップとは、小型機などで行われる操縦方法だ。機体を傾けて翼面で空気抵抗を増やし、速度をあげることなく、急降下することが出来る。そしてそれを、戦闘機乗りはドッグファイト中に行う。

「技術としての知識ならありますが…。やりますか?」

「私も、この規模の機体で試したことはないが…。何か他に、手があるか?」

 努めて語調に気を付け、意見を聞きたいという姿勢を見せたが、アレックスは逆に強く頷いた。

「それしかないと思います。」

 こうなった以上、最善策は存在しても正解はない。ユリウスは一度深い息を吐いてから言った。

「行こう…」

 視線の先でアレックスは頷き返した。その目に、信頼の光がある。ユリウスは目を逸らさず、頷き返した。

 深い息を吐く。指先がピリピリと痺れるような感じがした。息を整えてから機内アナウンス用のマイクを掴む。そして、短く、呼びかけた。

「機長です。緊急着陸を行います。…衝撃に、備えてください」

 客室から細い悲鳴のような声が聞こえた。ユリウスは通信を切ると、直ぐに指示を出す。

「ギアダウン」

「ギアダウン」

 アレックスは復唱しながらスイッチを押す。着陸に必要な車輪が正常にロックされ、機内に硬い音が響いた。

「フラップ」

「フラップ―――ツー

 復唱するアレックス。ユリウスは徐々に機体を傾斜バンクさせる。客席の方から悲鳴が聞こえた。

 機体を進行方向に対して斜めにすることで、空気抵抗を増やし、それが機体を減速させる。勿論その間機体はガタガタと揺れ続ける。外の景色が見えないのが幸いした。高度計を見ると、すごい勢いで墜ちて行っている。けれど、外が暗いために判りにくくなっているように感じた。恐らく、乗客が外を見ていたとしても、速度を計れはしないだろう。不安はあるだろうが、見えない分多少はマシな筈だ。

 機体は、空中で斜めになったまま降下し続ける。ユリウスにも勿論外は見えていない。けれど三半規管が、本能が、危険を告げる。心臓が早鐘を打つ。

「神様」

 アレックスが呟く。

 地上灯が近い。高度計を見る。地面まで、もう幾秒とない。ユリウスはここだ、と機首を正面に向ける。

 瞬間、ふわり、と嫌な浮遊感が襲った。機体は速度に対して妙に緩慢な動きで正面を向く。スローモーションのように整列した着陸灯が左に移動していく。それはさながら、回転木馬にぐるりと取り付けられた電球の群れを見ているかのように、ゆっくりと。

 瞬間、ユリウスの脳裏に過去の風景が過った。走馬灯のように物凄い勢いで過ぎさっていった。

 その中に、彼の姿があった。アレックスによく似た、古い友だ。その名が、脳裏を過ぎる。

 直後。

 ガツン、と突き上げるような衝撃が来た。ついで、すごい勢いで操縦桿をもって行かれそうになるのを何とか踏ん張る。

 逆噴射装置スラストリバーサーは着陸時減速するための手段だが、エンジン出力を逆向きに噴射するものだ。動力が停止している今は勿論つかえない。どのくらい影響があるか…。

 下手なブレーキはまずい。通常より速度は出ているが、視認した限りだと、この滑走路は長い。恐らく、大丈夫だ。

 必死で操縦桿を握り、コースを維持しつつ、滑走路の終わりを見据える。地面との摩擦で徐々に、徐々に、スピードが落ちていく。

 滑走路の終わりのフェンスがぐんぐん近づいてくる。煌々とつけられた明かりで、蜘蛛の巣のようなそれが良く見える。あそこに絡め取られたら終わりだ。早く停まれ…早く、はやく………。

 速度が落ちていく。車程度の速度が、やがて自転車に、そして人が歩くほどに変わり―――。

 やがて、機体は完全に静止し、一瞬しん、と静まり返った。

 肩で息をしながら、ユリウスはアレックスを見る。アレックスも信じられない、と言った表情でユリウスを見ている。機体のほんの数メートル先にフェンスがある。

 止まった。機体は今、地上で停止している。

 少しおいて、客室から歓声と拍手が聞こえた。

 ユリウスは緩みそうになる口元を引き締めて前方を見据えた。

「乗客脱出チェックリスト」

「はい」

 少し慌てた様子でアレックスがチェック項目を読み上げ始める。ユリウスは一つ一つ慎重に、スイッチを操作した。



 ユリウスはコーヒーを飲んでいる。傍らにはアレックスが居た。時刻は午前五時。朝日が煌々と差しはじめている。二人は開放された軍施設に居る。先ほど二人が決死で降り立った滑走路のすぐ脇に立つ建物で、壁は一面ガラス張りになっていた。

「こんなに美味いインスタントコーヒーがあるとはね」

 しみじみと呟くと、アレックスも相槌を打った。

「専門店のものより味わい深いですね」

 横を向くと目があった。同時に噴出すと、暫く笑いが止まらなくなった。

 幸い、乗客にも重傷者は出ず、無傷の人間も居たそうだ。念のために病院に向かった人を除き、其々が、それぞれの家に帰って行った。二人も、先ほど事故後の報告から漸く解放されたところで、もう少ししたら帰宅する予定だった。

「君が相棒で良かった」

「何故です?」

 不思議そうに問いかけられて、ユリウスは少し返答に困った。結局率直に、事実を伝える。

「君が最初の相棒によく似ていてね。他人を信用するにはそれなりの時間が必要だと私は思っているが、どうも昔馴染みと飛んでるような、そんな気持ちになったよ」

 だから、落ち着いていられた。それを聞いたアレックスは少年のように笑う。

「光栄ですね」

 そして、続けた。

「もしかして、ヨナスですか?ヨナス・リヒター?」

「!」

 思わず息を止めてアレックスを見ると、彼はユリウスをみてニコニコと笑っていた。金の巻き毛に朝日が当たってきらきらと輝いている。

「――君は、ヨナスを知っているのか?」

 ただ、似ているのかと思った。アレックスは驚きを隠せず、まじまじとアレックスを見る。アレックスは薄く笑ったまま、窓の方を向き、ふ、と真面目な顔をした。

「ヨナス・リヒターは祖父です。母が生まれる半年前に、戦死の報があったそうです」

「そうか…。彼と、最期に話したのは私だ」

 ユリウスは俯いて微笑んだ。懐かしさが水彩画のような淡い色を胸に落としていく。アレックスは困ったように頭を掻いて続けた。

「祖父の様な無名の兵士が、英雄になった貴方に覚えて貰っているのか、判らなくて…切り出せませんでした。祖父は故郷への手紙に、貴方の事をよく書いていたそうです。」

「そうか…」

 ユリウスは深いため息を吐いた。彼は奥さんの話しかしていなかった。子供がいたと知っていれば、気付いていたかもしれないと、アレックスをまじまじと見つめる。

 瓜二つとは言えないが、どことなく、似ている。彼より少し、幼い気がするのはきっと、歳のせいではない。アレックスの方がどうにも無垢な感じがするのは、自分が年輪を重ねたせいなのだろうか。

「私も、一通だけ君のご家族に手紙を書いたことがある。けれどそれは、戻ってきてしまったんだ」

 ユリウスはそう呟いてから、言い訳がましいな、と自嘲した。でもそれは事実だった。軍を退いて、暫くしてから手紙を書いた。その時にはもう、遅すぎたのだ。手紙は暫くして、宛先不明で戻ってきた。

 ユリウスはコーヒーを啜る。先ほどまでとはまた、違った味になっている気がした。

「ヨナスは不思議な男だった。陽気で、よく喋って、破天荒なところもあったが、腕は良かった。――あの日は代理で飛んだんだ。なんだか嫌な予感がして、私が出ると言ったが、聞き入れてくれなかった。…未だに夢に見るよ」

 アレックスは頷く。俯いた彼は笑っているようだったが、目は少し悲しげだった。

「飛行帽でニヒルに嗤う姿が焼き付いて離れない。いいやつだった」

 そう。本当にいい奴だった。そんな人間に限って、直ぐに居なくなってしまう。ユリウスは目を伏せる。

 こんな巡り合わせ、偶然とは思えない。もしかしたら、彼らが助けてくれたのだろうか。

「母は貴方が活躍した記事を読んで、父を重ねていたみたいです」

「そうか…」

 ユリウスはコーヒーの最後の一口を啜る。そして立ち上がった。

「相棒が君で良かった」

 右手を差し出すと、アレックスは立ち上がって握り返した。その笑顔が、朝日のように眩しい。

「また飛びましょう」

 あの後でそう来るか。目を丸くしたユリウスは思わず呟く。

「命知らずの血を感じるな…」

「貴方もでしょう」

 口が減らないところもだ。ユリウスは応えずに静かに踵を返すと、軽く片手を上げる。

 きっとまたすぐに一緒に飛ぶだろう。今度はゆっくり話す時間があるに違いない。その時何を話そうか。

 口元に浮かんだ笑み無理に引き締めて、ユリウスは家路についた。

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