【完結】桜、咲き誇れ

空廼紡

桜、咲き誇れ

 静かな土地。澄んだ音色を鳴らす川。その畔にある小山の上に私はいました。


 私は桜。老若男女の方々が私の事を「立派な桜だね」と言って下さるのでそういう名前だと認識しております。たまに来る雀さんや、犬さんも猫さんもからもそう呼ばれているで、確実でしょう。いつからどういった経緯で此処にいるのか忘れたほど、ずっと昔からこの場所にいます。


 初めは私一人だけでした。けど、人間が私を見つけたときから、私の周りにはたくさんの人間が訪れるようになりました。


 いつの間にか、私の横には建造物が建てられました。その建造物を人間は『じんじゃ』と呼ぶらしいです。かみさま、と呼ばれる人を祀っている建物です。


 その『じんじゃ』が建てられてから、さらに人間が来るようになりました。


 でも、長い長い時間が流れるにつれ、訪れる人が少なくなってきました。


 物知りな雀さんが言うには、『しんこうしん』が無くなったから来なくなったとのことです。かみさまに対する『しんこうしん』が無くなったら神社なんてただの建造物だと、雀さんは仰いました。


 けれど、本当にそうなのでしょうか? だって、そこに神様がいることには変わりないのに…。


 雀さんはこうも言っていました。


《まあ、有名な神社だったら信仰心とか関係なく、人間がたくさん出入りするけどね。観光目的で訪れる人間が絶えないよ》


 それを聞いて、神様が寂しいのではないでしょうか、と思いました。


かみさまの気持ちは私には分かりません。私はというと、人間が来ないことは寂しいです。昔はたくさんの人間が来ていたから尚更です。


 でもこうして、雀さんたちが色々な話をして下さるので特に寂しいと思いません。


 もう何百年も生きている私ですが、退屈だと思ったことはありません。ずっと、このままで良いと思っていました。


 でも、ある人間と出会ってから変わってしまいました…―――












 それはある春の日の午後。


 私は枝にたくさんの花を咲かせ、花弁が風で宙に舞うのを眺めていました。


 花弁は私の化身。たくさんの化身がひらひらと落ちていきます。たったそれだけなのに、どうして人間はこれを儚いというのでしょう。もう何百回も見てきた光景なので、感慨は浮かびません。


そう言うと、雀さんは答えてくれました。


《美しきものが散るのを見て、人は儚いと思うのさ。逆に美しくないものには、そんな感情も持たない。君の化身は人間から見れば、春しか咲かない美しい花だから余計に儚いと思うのさ。他の花も然り。花は儚いものだと人間は思っているからね…桜は春が終わると花が無くなるけど、夏も秋も冬もずっと生きていることには変わりないのにね。僕には分からないよ》


 ―雀さんにも分からないこともあるのですね。


《雀に人間の気持ちなんて分かるはずがないさ。よく人間が、犬があたかもこう思っているような翻訳もどきをするけどさ、僕たち言葉を使わない動物の気持ちなんて、人間に分かるはずがないさ。今、こうして桜と会話しているのは言葉じゃなくて、意思の相通みたいなものだしね》


 ―そういうものなのでしょうか?


《そういうものさ。だって、人間は言葉に依存しているだろう? そんな人間が言葉を持たない僕たちの本心を知ることなんて、ずっとないさ》


 ―本当にそうなのでしょうか?


《桜は世間知らずだからねぇ。人間社会を見てきたら分かるさ》


 ―それは無理ですね。私は何百年も前にこの地に根を張りました。だから一生、此処から離れない運命なのです。


《いつも思うけどさ、桜は退屈じゃないの?》


 ―たい、くつ…? 何故ですか?


《だって、一生此処から動けないのだろう? 自由に動けないのって辛そう》


 ―私はもうずっと此処にいるので、そういった感情はありません。雀さんは飛ぶことが当たり前でしょう。私も同じです。私は此処に立つことが当たり前。それに雀さんや他の鳥さんたちが来てくれるので、退屈ではありませんよ。


《そう思ってくれたら光栄だよ……ん? 人間だ》


 そこで一旦会話を途絶え、鳥居に意識を向けました。


 そこには階段をおもむろに上がる、小さな人間がいました。


《珍しいね。人間の子供が来るなんて。親が見当たらないけど、この辺の子かな?》


 たしかに珍しいです。私がいる神社の神主さんは定期的に訪れますが、常連さん以外の人間が来るのは久しぶりです。


《でも、あの子見た事ないなぁ…》


 ―見た事ない?


《ああ、此処に来る途中に子供がわりと広い場所で遊んでいるんだ。けど、その中であの子を見掛けたことがないんだ》


 再び子供…少年と呼ぶべきでしょうか…少年に意識を向け、観察します。人間の子供なんて滅多に来ないから珍しいともありますが、子供は危ないことに私に登ろうとします。もし子供が落ちても私には助けることも出来ませんから、余計にハラハラします。


 けれどその少年は、ただ私を仰いでじっと見つめるだけ。


 不思議に思いながら、さらに意識を傾けて、私は驚きました。


 その少年の瞳が潤んでいたからです。


 それはまるで、暗闇に流れる川のようでした。その瞳は綺麗で、でもとても切ない色をしていました。


 いつの日か、とある方が言っていたことを思い出しました。人間は悲しいとき、目から水が零れると。


 この少年もなにか辛いことがあって、だからこんなに潤んでいるのでしょうか。目に一杯の水が溢れ、今でも零れ落ちそうです。でも、少年は水を流れるのを堪えているようで、眉を寄せていました。


 なんで堪えているのか、私には分かりません。けど、その姿に痛いほど心が締め付けられ、なんとかしてあげたい、と何故か強く思ったのです。


 どうしよう、と案を絞り考えます。数多くの人間は、私の化身が散るのを見て微笑んでいました。笑うのは楽しくて嬉しいから、と犬さんが言っていました。もしかしたら…この子も笑ってくれるかもしれない。私の化身を見て、嬉しいと思ってくれるかもしれません。


 私は一心に己の化身を少年の頭上に降らせました。


 すると、少年は目を見開き、私の化身一片に手を伸ばし掴み取りました。


 そして少年は…目を細め、微笑みました。


 それはまるで、木漏れ日のようで。


 その瞬間、心がざわめきました。


 今まで、人間の微笑みでこんな感情が沸き立つことはありませんでした。


 こんな感情、知らない。


 何百年生きている中、初めて抱いた感情。


 この感情は一体…?


 我に返ったのは、少年は何も言わず去った後でした。空を見たらもう真っ赤に燃えていました。少年が来たのはまだ空が青かったので、長い間、私は呆然としたようです。


 こちらに背を向け帰っていく背中に何故かすごく寂しいと思いました。


 今まで人間が去って行く姿に寂しいという感情を抱いていましたが、今の寂しさはそれを上回るくらい強かったのです。


 その気持ちの理由が分からないまま、私はただ少年を見送ります。そして、また来て欲しいと切望しました。


 この時、芽生えた感情が『恋』だと知るのは、間もないことでした。










 少年との衝撃な出会いから翌日経った昼頃。その少年はまた私のところに来てくれました。


 それがとても嬉しくて、また化身たちを散らします。その時、突風が吹きさらに化身たちが渦を巻いて飛び散りました。


 人間が『花吹雪』と呼ぶ光景です。これを見た人間たちは「美しい」と言い、感嘆の意を示しました。


 少年もそうなのかと思い、意識を少年に向けます。少年はその光景に息を呑み、食い入るように見つめていました。


 その瞳には桜吹雪が一杯で、昨日のように悲しみに満ちていませんでした。


 私は安心しました。きっと、昨日と同じでしたらまた私の心が痛みを訴えるはずですから。


 その日だけではありません。その少年は毎日のように来てくれました。雨の日や雲行きが怪しい日は来ませんでしたが、その日以外は来てくれて、私の幹に座り何もすることもなく、ただ鳥居のほうを見つめるだけ。いえ、その目には鳥居は映ってないように見えました。その目は虚ろで、私すら目に映っていませんでした。


 その黒い瞳に私を映してほしい。


 私はまた一心で己の化身を散らせました。


 突然たくさんの化身が落ちてきたからでしょう。少年は目を瞬かせ、化身たちを見上げました。




 嗚呼! あの瞳に私が映っている!




 私はこれほどまでにない歓喜で心を震わせました。


 さらに化身たちを舞い散らします。それらは少年の頭と肩にひらりと落ち、ついには私の化身の絨毯ができました。


 少年はその中の一片だけを手に取り、感慨深く眺めます。そして、それを指で捏ねて潰しては、その指をしばらく眺める。それを繰り返しました。


 その行動をする少年の気持ちが分かりませんでした。でも…彼の手が私色に染まっていくのが嬉しかったのです。


 その少年が自分の化身を見て喜んでいるのが嬉しくて私は我が身を返らず、ずっと化身を降らせ続けました。


 毎日毎日続けて、雨が降り注いだ次の日。雨に打たれて流されて、化身全てが地に落ちてしまいました。


 人々が綺麗だと言った花弁は、泥に塗れて汚くなってしまいました。人々が言う美しさも消え失せ、泥の間から垣間見られる桃色もここまで汚くなると、滑稽に思えてきます。


 いつもより早く丸裸になった私に不安が襲いました。


 人々は私の花が無くなると通っていた足を止め、また同じ季節が巡るまで此処に来ることはありませんでした。もしかしたら、あの少年ももう来ないかもしれない。


 考えただけで、身が凍るような思いをしました。




 どうしよう…あの子が来なくなったら、私……来なかったら? 来なかったら私はどうするのでしょうか。




 なにせこのような感情、生まれて以来抱いたことなどありませんでしたので、その後がどうなるかどうか分かりません。でも、どうしようもありませんね。私はこの場所から離れないのですから、どうも出来ませんね。愚問でした。


 どうして、私は後のことを考えるのでしょうか。来なくなっても、それは当たり前のことなのに。分からなくて、戸惑ってしまいます。


 不安ばかり募っていきましたが、それは杞憂に終わりました。


 あの子は次の日も、そのまた次の日も私の許へ訪れました。私の幹に座ってただ、空を仰いでいるだけ。


 時に足を引き摺ったり、顔が腫れていたりと、色々と変化がありました。


変わった子です。人々は私の化身を見に来ては散った後には来なくなるのに、その子は化身が腐っても此処に来てくれます。


どうして此処に来てくれるのか。その子に聞く術は残念ながらありませんが、心がほんのりと暖かくなったような気がしました。それは春の日差しのような、心地の良いけど何だか落ち着かない灯でした。


『あの子、ここ毎日、通っているねぇ』


 先程まで、あの子と戯れていたご老体の犬さん…コナツさんが私に語りかけてきました。


 -はい。でも本当に不思議な子です。あの子が来てくれると、すごく嬉しいんです。だからなんでしょうね。あの子が帰ってしまうと、すごく寂しいんです。それに何だか、あの子を見ていると胸が締め付けられるんです。なんでしょう?


 するとコナツさんは、盛大に笑い出しました。


『あははは! 桜なのに胸が締め付けられるのかい? やっぱり、アンタは変わっているねぇ!』


 笑い続ける老犬に私はむっとしました。そんな私の感情を汲み取ったのでしょう。コナツさんは、わるいわるい、と謝ってきました。


『別にあたいは、アンタのことを馬鹿にしてるわけではないんだよ。まさか桜であるアンタがそんな感情を持つなんてねぇ…』


 -馬鹿にしてないって言ったのに…


『あぁ、言ったさ。可笑しいとは思うけど。馬鹿と可笑しいは違うよ』


 -…どこが可笑しいんですか?


『桜が人間みたいな感情を抱くことがさ』


 -このような感覚は、人間特有なのですか?


『あぁ、そんな複雑で単純な感情っていうのは、人間にしか出来ない芸当だよ』


 あの子と同じだよ、とコナツさんが遠い目をしました。


 コナツさんの言うあの子、とはコナツさんの飼い主さんの一人である娘さんのことです。ここにも何回か来たことがあります。その子はコナツさんのことが本当に好きで、よく脱走されたコナツさんを探しては迎えに来て、本殿に向かって手を合わせてからコナツさんを連れて帰ります。普通はおさいせんばこにお金を入れるらしいのですが、その子はそういうのをしません。コナツさん曰く、「お金がないけどお参りしたいから、あんな風になったと思う」とのことです。


 -あの子もそのような感情をお持ちで?


『あぁ。青春っていうんだっけ? 今その真っ最中らしくて、そんな感情に振り回されているのか、愚痴だったり惚気だったり散々語られてうんざりしているんだよ』


 あたい以外に話す相手いないのかねぇ、と呆れたように鼻息をつくコナツさん。そう言いながらあの子の事、大切に想っているということを知っていますよ。


-青春、とは何でしょうか?


『あたいもそんなには知らないよ。人間限定の発情期みたいなものじゃないのかい?』


 -はつじょ…?


『……アンタにこの喩えは間違っていたよ…。若い人間が体験する季節みたいなものだよ』


 -はぁ…


 いまいちピンと来ませんでした。季節というものは、私の化身たちが桃色の衣を着る春、私を覆う緑の衣が燦々と煌めく夏、その衣が役目を終えて土に還る秋、雪がまるで雨のように降り注ぎ底までも真っ白に染める冬。その四季しかありません。それなのに、人間…しかも若い人間だけに訪れる季節とはどのようなものなのでしょうか?


 -コナツさんは、この感情のことをご存じなんですね?


『知りたいのかい?』


 -はい


 私は即座に応えました。


『…いいかい? それは『恋』だ』


 -こい…? 昔、川にいた魚のことですか?


『同じこいでも全く違うよ。まぁ、それは置いといてだな。恋っていうのは…うーん、なんていうのかねぇ。アンタはあたいのこと好きかい?』


 -はい


『雀は?』


 -好きです


『神主は?』


 -? 好きですけど


『なら、あの男の子は?』


 -あの子は…


 …? なんでしょうか? この違和感は…?


 あの子のことは好きです。けど、他の方々とは何かが違うような気がします。


『それが恋っていうものらしい。他の好きとは違うって話だよ』


 -コナツさんは、したことないんです?


『生憎、したことがないね。それ以前に、子宮ないからねぇ


 -しきゅ…?


『子供を産むための場所だよ』


 全く分かりません。コナツさんの話が分からないことなんてよくありますが、これは最大級の分からなさです。


『とりあえず、恋っていうのはアンタがあの子に対する気持ちの事を言うんだよ。愛おしいってことだ』


 その直後、コナツさんはいつもの女の子に連れて行かれました。


 私はコナツさんが仰っていたことを反芻しました。


 恋…愛おしい…他の人に対する想いが何だか違うこと…これが、恋というもの…?


 分からないことばかりで、戸惑いが大きかったですが、何だか胸が軽くなったような、すとんというかしっくりとくるというか、正体が分かったすっきりした感じがずっと胸に残っていました。










 あの子に対する気持ちが『恋』と判明してから、私はおかしくなりました。


 あの子と会うとすごく嬉しくてたまらなくなったり、帰るとすごく残念な気持ちになるのは変わりません。けど、それ以上に激しい感情が押し寄せてくるのです。


 嗚呼、私も一緒に行きたい! 貴方と話したい! 笑い合いたい! 貴方に触れたい!一緒に歩きたい! ずっと傍にいたい!


 けど、それは叶わぬ願い。貴方は人間で、私は桜。歩けない、喋れない。ここから動けない、ただの木。


 貴方の為に何かしたいのに、私は何も出来ない。ただ黙って貴方を見守るだけ。


 なんて無力なんでしょう。貴方に何もしてやれない。


『それにしても、あの子って汚いよね』


 雀さんの言葉に思わず反論しました。


 -それはどういうことです? あの子は


『桜は何とも思わないの? あの子の身嗜み、まともじゃないと思うけど』


 言われてみれば確かに、あの子の服はいつも汚れていて、何日も同じ服を着ている時もありました。


『桜ってどっか抜けているよね』


 雀さんは呆れたように溜息をつきました。


『ま、僕には関係ないけどね。じゃ、そろそろ行くよ』


 そう言って雀さんは去って行きました。


 調べてくれたっていいのに…。少しいじけて私は鳥居の向こう…あの子はいつも来る方向を見つめます。


 だけど、その日はいくら待ってもあの子は来ませんでした。










 それから夜が何度巡っても、あの子が来ることはありませんでした。


 どうして? とうとう私に飽きてしまった?


 不安と恐怖が私に雨のように降りかかります。


 それから三度目の朝。雀さんが教えてくれました。


『あの子、もうこの町にはいないよ』


 -え


『母親から虐待されて、なんやかんやあって新しい保護者と一緒に引っ越したらしいよ』


 -ぎゃくたい…?


『過度な暴力のことかなぁ? 母親に叩かれたり、食事を貰えなかったり、他にも色々とされていたって。これって人間的には許されないんだって』


 母親とは、産んでくれた女の人のことだと聞いたことがあります。私にはよく分かりませんがコナツさんに、母親とは絶対的な存在なのだと教えられました。そんな人に酷い目に遭わされて…。私の胸が締め付けられました。


 あの子の涙はそういう意味だったのですね。


 -それであの子は幸せになったのですか?


『う~ん。前よりはマシになったと思うけど。幸せになったかどうかは、知らないよ。僕、あの子の引っ越し先なんて知らないし』


 -マシになったのなら、いいです


『桜…』


-ここから、あの子の幸せを祈ります。どうせ私には、あの子を幸せにすることは出来ませんから


 それから雀さんは黙ったまま、ずっと私の枝に止まっていました。


 そんな雀さんなりの優しさに沈んでいた心が少し浮きました。










 あれから何百回の夜を越えたのでしょうか。千回は越えたかもしれません。


いつの間にか雀さんは来なくなり、コナツさんも亡くなったと、コナツさんを迎えに来ていた女の子が泣きながら言っていました。


私は変わらず此処に立っていて、流れるがまま、化身たちを咲かせては散っていくのを見ています。


(今日は、荒れていますね)


 激しい雨が私と地面を打ちのめます。雷が近いのか、さっきから光と音がほぼ同時に光って響きます。私の化身たちもすごい勢いで散っていきます。


(あの子は、怖がっていないでしょうか)


 あれからも私は、あの子の事が忘れなれず今でも胸が燻っています。


 こんな夜だ。暗くて怖くて震えていないでしょうか。あぁ、けどもう大きくなったかもしれませんから、平気かもしれませんね。


 そう思うと、思わず小さく笑いました。


(あの子は元気でしょうか。会いたいです)


 あの子はまたいつか、此処に来てくれるのでしょうか? きっと、麗しい姿になっていることでしょう。あの子はみすぼらしい姿をしていましたが、顔は綺麗でしたから。


 おかしいですね。今ならコナツさんの仰っていた意味が分かります。私は桜なのに、人間の男の子に恋をして、今でも想い続けている。これは滑稽ですね。


(名前も知らない貴方…私はまだ此処で咲き続けています)


 いつかまた、来てください。出来れば、私が一番綺麗な時期に。幸せになった貴方を見たら、きっと満たされるから。たとえ、貴方の隣に女の人がいても。


 その時でした。


 轟音と共に二つに引き裂かれたような、烈しい痛みが襲いました。


 いえ、ようなではなく、そうでした。雷が私に直撃して、真っ二つにされたのです。


 気付いた時には、私は地面に横たわっていました。通り越えた痛みでもう何も感じなくなりました。


 すると、あんなに激しかった雷雨が止んで、雲間から光が射しこんできました。なんて間が悪い事でしょう。


 息も出来なくなっている。私は、死んでしまうのですね。


 脳裏に浮かぶのは、やっぱりあの子の事で。私は長い間生きてきて、色々な人たちの成長を見守ってきました。せめて、あの子の成長を見届けてから、逝きたかった。あの子が愛おしく想っている方と一緒になって、子を授かって…その光景は私にとって辛いものでも、きっと気持ちは晴れやかだったでしょうに。


(また笑顔、見たかった…)


 初めて会ったあの時の笑顔が今、無性に恋しい。でも、もう見ることも叶わない。嗚呼、なんて不毛なのでしょう。なんて不毛な恋だったのでしょう。けど、それもまた一興なのかもしれません。


 意識が遠くなっていく。そろそろ、お別れの時間です。もう、恐れることも戸惑いもございません。今までのように流されるがまま、でも笑いながら、私は。


 不思議な香りがしてきました。何の匂いなのか、どうでもいい事です。その匂いに包まれているような気がします。


 私にとっては一瞬の逢瀬でしたが、その一瞬がこんなにも私を焦がして離さない。


 これが恋で愛なのですね。私は貴方と出会ってから辛くても、貴方を想う時は幸せそのものでした。


 さようなら。貴方だけを想いながら、私は死んでいきましょう。


 前も見えなくなっていく。


 嗚呼、貴方、聞こえていますか?


 聞こえていなくてもいい。


 どうか、どうか……………








● ○ ● ○ ● ○ ● 








 そろり、そろり、と忍び足で小学校に上がりたての少女はリビングを歩く。


 そして、ソファの傍らで洗濯物を畳んでいる母親の背中に突進した。


「まーま!」


「わっ! もう、桜! 脅かさないでよ!」


「ごめんなさーい」


 全く反省色が見えない娘に母親は、しょうがないなぁ、と半ば諦めたように溜息をつく。


「ママにききたいことがあるの」


「ん? なーに?」


「どうしてさくらはさくらっていう名前なの?」


 幼い娘は首を傾げなからも、目を輝かせて母親を見つめた。母親は娘の頭を撫でながら、それに答える。


「桜が満開になった並木道で、初めてお父さんとお母さんが出会ったから。それが一つ」


「一つ?」


「お父さんね、桜が大好きなの。なんでも、昔住んでいた家の近所に立派な桜がある神社があって…今は雷に打たれてないんだけど、お父さん、その桜にすごく救われたって。もしかしたら、その桜はお父さんの事を大好きだったかもしれないでしょ? だから色々な感謝の意を込めて、桜っていう名前にしたの」


「桜さんがパパの事大好きでママ、やきもち焼かないの?」


「妬きませんよ。桜さんの気持ちにお父さんは救われたんだから、感謝しないと」


 そう言って無邪気に笑う母親に、娘は首を傾げた。その時。


「ただいま。何話しているんだ?」


 黒髪の青年がリビングの扉を開いた。


「あ、おかえりなさい!」


「パパ、おかえりなさい! あのね、さくらはどうしてさくらなのってきいていたの!」


「名前の由来か? ママはなんて?」


「うーんとね…桜さんにありがとうを込めてって!」


「大体合っているね」


「大体合っているな」


「ねぇ、さくらね、そのさくらのところに行きたい!」


「だから、あそこは雷で…」


「さくらのおはかまいりなのー!」


「桜のお墓参り…?」


娘はにんまりと笑う。そんな娘に、そうだな、と父親は言葉を紡いだ。


「そうだな…久しぶりに行くか」


「その、大丈夫なの?」


「…大丈夫だ。確かにあそこは嫌な記憶ばっかりだが、あそこだけ良い思い出があるんだ」


「いくの? わーい!」


 父親は二人の傍で腰を下ろして妻と娘を抱き寄せる。


 目を閉じながら、青年は笑った。


幸せを噛み締めているような、満ち足りているような。


優しい、笑みだった。


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【完結】桜、咲き誇れ 空廼紡 @tumgi-sorano

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