(終)
電車の運行が再開したのは、日付の変更まで残り2時間半を切る頃だった。ホームで今か今かと待ちわびていた人たちが、車両が停車するやいなや、我先にと詰めかけた。
私は半ば人混みに押し流される形で電車に乗り込み、優先席の脇の一角になんとか自分の場所を確保することができたものの、それは掴まる吊革を得て一息ついただけであって、問題は依然として焦りを掻き立てていたた。
そんな落ち着きを失う私に反比例して、電車はのろのろと闇夜を走った。大粒の雨が窓に弾けては幾筋かに分かれ滴り落ちてゆく。風も強いらしい。天気予報も予想だにしていなかったようで、乗客に傘を持った者はそれほど多くなかった。
私はゲーム機とイヤホン部屋に置いてきたことを激しく後悔した。普段の通勤ではこの時間は『プリロマ』の周回プレイに費やすのだが、今日は起動したらすぐにイベントを発生させてしまいそうで、あえて持って来なかったのだ。むしろ仇になった。
やるせない退屈さに任せて車外へと視線を移すが、それは暗がりに写り込む自分と見つめ合うばかりだった。
暗がりの中の私は、雑に束ねた黒髪を後ろに垂らしている。薄く化粧をしている。口紅の引き方が荒っぽく、少々右にはみ出している。
それは『まり』とは似ても似つかなかった。当たり前のことだ。私は真理であり、『まり』は『まり』だった。
純也くんがいつも愛を囁くのは『まり』だ。私は確かに『まり』ではある。けれども普通の、ちょっとドジで、料理が得意なのは『まり』であって、私は海沿いのしがない海苔工場の工員にすぎない。
純也くんを愛しているのは私だ。『まり』ではない。純也くんのグッズを貯金をはたいて買い集めたのは私。毎晩枕を抱きしめて眠っているのも私。
それならば、今から彼の誕生日を祝うのは誰なのだろう。ケーキを買った私だろうか。いずれケーキを買う『まり』だろうか。
意味のない問いかけだった。私は『まり』なのだから、今日のイベントが私と純也くんのものであることに疑いの余地はなく、それは普遍で不動の事実だ。当たり前のことだ。
そして当たり前のことについて考え込んでしまうのは、清澄な泉に墨をたらしこむ良くない思考の発露だった。
私は不意に小学生だった頃のことを思い出した。
それはきっと、四年生だった。心と身体が清さから、分かつ離れつもがくとき。運動場に出ることを厭い教室の後ろの席で静かに読書に耽っていた私は、図らずも、男の子たちの秘密の会合に相席してしまった。
教壇にはリーダー格の男の子が立ち、それを囲むように他の子達が座った。前に立つ子が興奮を抑えた調子で、クラスの付き合いたくない女子のランキングを発表すると言った。
私はすかさず耳をそばだてた。
一位に選ばれたのはクラスで一番デブで背の低い女の子だった。順当だ。男の子たちは必要以上に囃し立てた。次に名前が上がったのは、意外にも、先月転校してきたばかりの女の子だった。これは意外だった。私はその子を、中東系のエスニックな美人だと評していたから、男子も見る目が甘いなと嗤った。そうして私は、自分の名前が呼ばれるのを全身が粟立つようにして次か次かと待った。
ところが驚いたことに、私の名前はとうとう最後まで呼ばれないまま発表を終えたのである。私と、あと、クラスで一等目が大きく鼻のくるりと愛らしい女の子だけが名前が呼ばれなかった。
私は浮き足立った。誰か友だちに話したくてたまらなくなった。あのね、昼休みこんなことを男子がやっててね。あなたは×位だったよ。私の名前は挙がらなかったけど。
結局それは誰にも話さないままになった。
気づいたのだ。算数の時間に鉛筆をくるくる回しながら。
可愛いあの子の名前が挙がらなかったのは、彼女が本当に男子から気持ちを寄せられているからだ。でも私の名前が呼ばれなかったのは、私が誰の嫌いにも入らなかったからだ。
私は決して男子と気のしれた女子ではない。
誰の嫌いにも、好きにも選ばれず。おこぼれで授かった人気者の冠。
駅を3つほど通過して多少は余裕ができたものの、車内はまだ雑然としていた。私はスマホを立ち上げ、未処理の通知を消化してSNSにとんだ。
タイムラインを斜め読みで流すうちに、『ぴさろ』の投稿を発見した。
『今日は俺恋買って、スバ様のくじ5連して
きたwwA賞キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!』
俺恋もスバ様も『プリロマ』とはまるで違う漫画の話だ。こういうことはよくある。
でもダメだ。なにが好きだとキャーキャー騒いで、翌々週には別のキャラに乗り換えてしまうような人たちはむしろ多数派で、私はそんな浮気も許せなかった。遠藤結菜が吠える。
ふざけんなよ、ぴさろ。
車体が大きく揺れた。体勢を崩した拍子に、近くのサラリーマンや高校生の脚に立て続けに傘をぶつけた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
俯き気味に謝るけれど、どちらの反応もない。
切実に早く帰りたかった。狭いところも、人混みも、何もかもが不快だ。あとどれくらいか考えるのも億劫だが、ただひたすら時間の経過ばかりを祈った。
純也くんの誕生日に間に合わないじゃない。
電車は進んでいる。それだけが依るべきすべてだった。
ようやく下車までしばらくとなった段で、車両の中央に座った夫婦の赤ん坊がぐずり始めた。眠っていたのが、急に目を覚ましてしまったらしかった。乗客は少なかったものの、長時間の乗車で疲弊した私たちにとって、それは絶大に効いた。
早く黙らせてよ。私はひやひやして赤ん坊の同行を見守った。
夫婦は不穏な空気をこれ以上濁すまいとして泣き止ませようと懸命になったが、なかなか収まりがつかない。天井には母親が手放したインチキ臭い笑顔を浮かべたウサギの風船が浮かんでいる。
私が気にしているのは、すぐ向かいに座っている、いかにもその道の人という風体の男だった。赤ん坊が泣き始めてからというもの、しきりに左脚を揺すっている。ついぞブチ切れて父親を殴り飛ばすのではないかと肝が冷えて仕方がない。
車掌が警笛を鳴らした。不安を煽られたのか、赤ん坊は火がついたように声を張って喚きだした。男は今にも立ち上がらんばかりだ。早く早くと、私は視線で夫婦を急いた。
男が立ち上がった。私は軽く目を瞑った。しかし男は立ち上げたばかりの腰を再び低く降ろし、赤ん坊の前にしゃがみこんだ。
「坊ちゃんかあ、嬢ちゃんかは知らんが、俺今何もえらいもん持ってないんや。飴ちゃんで機嫌、直してくれへん?」
関西訛りの低い声だったが、夫婦はそれで救われたというように笑顔で飴を受け取った。赤ん坊は泣き止まないが、車内の淀みはふっと綻んだ。
私は恥ずかしくなった。赤ん坊を煩わしく思ったのは厳つい男ではなく、私自身だった。苛立ちを彼に擦り付け、自分は温情の乗客を気取ったのだ。
浅ましさが見え透いて、吐き気がする。下車駅はもうすぐだったが、窓を覗くことができずに床の五大湖みたいな染みばかり眺めた。窓を見ればそこには醜く歪んだ私が写った
だろう。
浅ましいといえば、『ぴさろ』のこともそうだ。純也くんを愛でる返信のふりをして、自分の誕生日をそれとなく知らせた。祝って欲しかった。
栓が抜けてしまったように、記憶が留めなく溢れた。
中学のとき、修学旅行の班の人数を超えたために仲良しグループから別の班に移されたのは私だった。高校のとき、友だちのデートの引き立て役として誘われた私は、直前に腹痛を装ってたいして器量良しではないが気の良い友人にその役を任せた。受験の日に貸したシャーペンを返さない友だちに、何も言えないまま卒業式を迎えてしまった。
遠藤結菜が嫌いなのは、あの子の影にどうしようもない記憶の断片を見るからだ。取るに足らないが、切っ先の鋭く、落ちてゆくとき確かに私を傷つける断片を。
電車が停車するとともに、私は勢いよく闇へ駆け出した。12時まで間もないことはわかっていた。走らなければ間に合わない。
しかしそれ以上に、思い出の洪水に飲まれないように必死だった。
下着にまで染み入るほど全身ずぶ濡れになってアパートの部屋の前にたどり着いた時、膝が砕けるように一気に力が抜け、そこでふと電車に傘を忘れたことに気がついた。
明かりをつける気にはなれなかった。濡れた靴下は廊下の端に転がして、壁伝いにリビングに向かう。シャツにパンツ、ブラジャーを脱ぎ、長めのTシャツに着替えた。
ケーキの紙袋は濡れてすっかり変色し、揉まれて角が傷んでしまっている。全力で走ったから、中身はひっくり返っているかも知れない。
私はゲーム機を手に取りベッドに寝転んで、静かに電源を入れた。お馴染みのオープニング。セーブデータを選択する画面になり、『まり』を選ぶと、画面が暗転した。
テロップでイヤホンを接続するよう指示される。ジャックをはめ込み、スピーカーの部分を耳に押し込むと、聞きなれた彼の声がした。
『ハッピーバースデーまり』
私はどうやら間に合わなかったらしい。それなのに彼は殊勝にも、私に愛を手向けるのだ。雨音をかき消すように、音量は最大で。
『好きだよ、まり。君と幸せになりたい』
隙間だらけの私の心に彼の言葉が染み渡る。
携帯はもう鳴らない。ベッドシーツは冷たい。膝を抱えて、耳を塞いで、二十六年間呼吸している。
シリカ すくなしじん @MaC773
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