(後)


バス停から大通りを駅とは反対方向に歩いていくと、全面ガラス張りのビルがある。そのビルの1階にケーキ屋はあった。大通りからも一目でわかる、 ピクシーの人形で飾られた幻想的なショーウィンドウが印象深い。

去年の夏、母の友人宅を訪ねる手土産を探してふらっと立ち寄ったときに見つけた。やや値が張ったので結局その日は別の店で選んだのだが、私の胸には妖精の腰掛けた洋梨のタルトの芳醇なきらめきがいつまでも残り続けた。

降り出した雨は日没とともに激しさを増していた。大通りから逃げ込むようにビルに駆け込んだ私は、職場から借りてきた傘を畳みつつ、入口の脇からそっと店内を覗き込んだ。

中には2組の男女が居た。一方は手を繋ぎ中睦まじい様子の老夫婦で、もう一方は私と年の近そうなうら若いカップルだった。よくよく観察すると、カップルの男の方はどことなく純也くんに似ている。

私は図らずも胸を高鳴らせた。しかし店内に入る勇気はない。中の客が出るまで、そのまま待機することに決めた。

目の前の純也くんは見れば見るほど確かに本物に似て見えて、例えば、さり気なく腕を組む仕草や彼女を慈悲深く見つめる眼差しなどはとてもそれらしかった。もし彼の写真に『三次元じゅんじゅん』とタグ付けしてSNSに流したら、投稿は即時拡散、クラスタは狂気乱舞するだろう。

純也くんを思うとき、私は言い知れぬ高揚感に満たされた。

思えば、彼と出会ったのは大学一回生の秋も暮れのことだった。

原田さん、乙女ゲーとか好き?

そんな風に唐突に話しかけてきたのは同学科の女の子で、私はよくは知らなかったが、友人が欲しい一心で「興味はある」と言った。翌々日にはゲーム機とソフト一式をご丁寧に二重に袋詰めして貸してくれた。操作方法すらろくに知らない私は、それをインターネットで調べるところから始めなければならなかった。

ゲームを起動してチュートリアルを終えると、プレーヤーの名前を入力する画面に切り替わった。まり、と素直に自分の名前を使った。

私は成陽学園に転校した高校二年生の『まり』で、登校初日から次々と男の子に遭遇する。それは私のまるで知らない高校生活だった。男の子たちは機をみては『まり』に接近し、またときには距離を置いて、私をどきどきさせた。

出会いは突然だ。ある日『私』が保健室に健康診断表を届けに行くと、ふらりと男子生徒が出てくる。それが純也くんだった。彼は出会い頭の『私』に手を(後で書く)


店から先に出たのは若い男だった。 私はなんだか緊張してしまい入口の脇の、さらに端を探すように身を縮めた。彼は私に一瞥くれることすらなく彼女と連れ立って去った。

なかなか店内に入ろうとしない客を見かねたのか、店員のひとりが中に入るよう勧めてきたので、私は彼に従って店のドアをくぐった。

ドアの金属部分に移り込んだ私はいつもの私であって『まり』でなく、先ほどの彼もまた『純也くん』ではなくただの彼だった。当たり前のことだ。

思えば、彼はそれほど純也くんに似ていなかったような気もする。涙ぼくろはなかったし、前歯もちょっと出っ張っていたかも。

何より本物の純也くんなら、私を無視するはずはなかった。


『おれ、来週の金曜が誕生日なんだ』


『なんにもない普通の日だから、みんなからは忘れられるんだけど』


『おれにとっては大事な日だから、まり にはちゃんと知ってて欲しくて』


彼がそう言った普通の日は、私にとって特別な日だった。その日は私の誕生日の1日前の日だったから。(略)




ケーキの小箱片手にようやく家に帰れると噛み締めた安堵は、駅に着くとともに違和感へとすり替えられた。

改札付近に妙に人がごった返している。目に付くベンチはことごとく埋まっており、携帯で電話を掛ける人や退屈そうにスマホをいじっている人の姿ばかりが目立った。

嫌な予感は的中していた。

―ただいま××本線にて人身事故が発生したため、電車が遅れています。ご利用の皆様には大変なご迷惑をおかけしております。

平板なアナウンスが背筋を撫ぜ、ぞっとするような想像に駆り立てた。

すぐに時間を確認する。午後8時30分。豪雨に足をすべらせないよう慎重に紙袋を持ってここまで歩いて来たから、多少は時間が押している予感はあったが、たいして気にも留めていなかった。

だが、いつまで遅延するだろう。1時間か、それ以上か。この雨、暗がりの中では余計対処に時間を食うに違いない。

誕生日のイベントは日付に連動して発生する。ゲームの設定は現実と完全にリンクさせているから、今日が終わればもうプレイすることはできなかった。

つまり12時を回る前に家に帰らなければ、今日の楽しみがまるで消えてしまうのだ。

家まで2時間、遅延で上乗せが数時間。さらに駅から走った時間も加えなければ。頭をフル回転して電卓を弾いた。

隣で小刻みに揺れるヘッドフォンの男が視界の端でちらつき、私の苛立ちを刺激した。

ふざけんじゃねえぞ。

遠藤結菜が私の中で叫んだ。それは私の不安を吐き出すのに気持ちよく作用した。私は彼女を真似て不快さを吐き出そうとしたけれど、自分の口で形作るその言葉はあまりに頼りなく、脆く、不釣り合いだった。

ふざけんじゃ、ねーぞ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る