(終)
学生を終えてからの日々は目まぐるしく、カウンセラーとして働きだしてからはいよいよ光陰矢の如しという塩梅だ。
気がつけば三十も半ばを過ぎ、結婚結婚と矢継ぎ早に言い立てていた両親もいよいよあきらめの雰囲気を漂わせつつあった。
今務めている中学校は今年が三年目で、主に担当している生徒は七、八人といったところだ。相談内容は様々で、多いのは家庭環境と友人関係。症状は軽い子もいれば、手のかかりすぎる子もいた。
そして目下の女子生徒、松尾佳代こそ、今最も手のかかる担当生だった。彼女の厄介なところは、自傷癖だ。
「今週はどうだった?また切ってない?」
「切ってませーん」
「じゃあ証拠、見せてみな」
しぶしぶ差し出してきた両腕を持って、手首のリストバンドを外す。リストバンドは、私が渡したものだった。彼女は傷をあからさまにしていたために、周囲からも異質な子に見られがちな部分があった。
確かに、新しい傷はなく約束はきちんと守っているようだ。
「本当だね」
「せんせー、だって今の別のことにはまってるからね、わたし」
「別のこと?」
嫌な予感がした。
「高いとことか、細いとことかを歩いて回るのね。生きてる感じがする」
彼女の自傷癖の厄介なのが、ここだった。自傷癖の子には他人の関心を引くためにそれを行う子も多いが、この子は生の快感のためにそれに手を出してしまう。
「高いとか、そういう難しさがスリルっていうのはわかるよ。でも周りを困らせるのはやめようって、この目標は覚えてるよね?」
「うーん……これって周りの人困ってる?困ってなくない?わたしが楽しいだけじゃん」
「見てる方がヒヤヒヤするのよ。サーカスの綱渡りと同じ。でもあれには安全ロープやクッションネットがある。松尾さんには、ないでしょ」
「まあねー」
また来週、傷を見せてね。そんな締めくくりで、この日のカウンセリングを終えた。
家に帰る前に、花屋に立ち寄る。今日は二十年来の親友、真由の結婚記念日だ。真由は二十代半ばにさっさと結婚してしまい、隣町に住んでいる。五年前に独立した美容師の旦那さんとは、相変わらず仲良くやっているらしい。
真由の仕事があがるのが五時。サプライズでぴったりに渡したいから三十分前には――。
さまざまに思考を巡らせながら店に行き、予定通り花束を受け取って帰る途中だった。町の中央を流れる川にかかる、寂れた鉄橋に差し掛かったところで、欄干によじ登ろうとする小さな人影を見つけた。人影は、セーラー服を来ていた。
サプライズを楽しんでいた頭が一気に冷める。
職業柄、この状況を放っておく訳にもいかない。車を脇に止め、刺激しないよう慎重に人影へと近づいていく。
セーラー服を着ている時点で予感はしていたが、的中した。欄干に脚をかけ、スカートの下のスパッツを惜しげもなく晒しているのは、数時間前に別れたばかりの松尾佳代だった。
「松尾さんっ!」
「あ、せんせー」
私が焦る一方、彼女はどこまでもお気楽だ。
「その足降ろして、早く帰りましょう?もうびっくりしちゃった」
「でもまだこれからだしー」
「これからなんてないよ!」
捕まえようとさらに距離を詰めると、彼女はすばしっこく欄干に飛び乗った。幅は二十センチ程だろうか。おまけに錆び付いていて、塗装の剥げた部分は金属まで侵食されている。一陣風が吹き付ければ、きっと向こうへ行ってしまう。欄干の向こうへ。あの世へ。
「絶対だめっ!」
松尾さんに抱きついて、力ずくでこちら側に引きずり戻そうとした。めいいっぱい欄干に寄って、思い切り腕を振りかぶる。
「え」
「せんせっ!?」
足が地面から離れた瞬間、何が起きたかわからなかった。まず視界に飛び込んだのは、夕日を映す川面。薄紺の波間に光が幾筋も差し込んでいる。手足は捉えどころなく宙をかすめた。そして橙に染まる街。空。夕陽。橋の上で唖然としている、松尾さん。
背中から水面に叩きつけられて、激しい飛沫とともに、痛みで意識はそこで途切れた。
イルカの夢をみたのは、ずいぶん久しぶりだった。
今度は、私はイルカではなかった。私は人間で、イルカの背に乗せられていた。
白い泡が結んでは消え、結んでは消えしていく。小魚の群れは見当たらない。代わりに広がるのは、藻類の森だ。森の上を、イルカが滑るように私を運んでいくのだった。
「意識はあるぞ!」
聞き覚えの無い声がする。それから、少し知った感じの泣き声。
全身が重たくて、動かそうとしても動かない。まぶたはなんとか、ゆっくりと持ち上がった。
鼻の大きな男性が私をのぞき込んでいた。
「目が開いた!おけっ!」
「意識はありますか?何でもいいので、何か言ってください」
隣から色黒の、まだ年若い青年が加わる。
「あ、あの、私は……」
「意識確認出来てます!今のところ異常はなさそうです!」
「おけっ!」
身体を動かそうと力をこめていると
「多分全身打撲の上服が水吸ってるんで、やめた方がいいですよ」
と色黒の青年に止められた。
「ぜええんぜええぁい」
青年の背後から、顔をくしゃくしゃにして泣く松尾佳代が現れた。
「ごめんなさいごめんなさい。わたしはどーでもよかったけど、せんせーが死ぬと思ったら怖くて怖くてダメだった」
ごめんなさいごめんなさい、彼女は呪文のように繰り返した。膝がまだ震えている。
手足はぴくりともしないが、声はかろうじて普段通り出すことができた。
「私が死ぬのが怖かったの?」
少女は頷く。
「人が死ぬのは嫌でしょう?」
「うん」
「あなたの周りの人も、同じくらいあなたが傷つくのが怖いんだからね」
「うん」
よほど怖かったのだろう。意外なほど素直な反応だった。根のこういう真っ直ぐな部分が、表面的な部分と軋轢を生んでいるのかもしれない。
松尾佳代にはとりあえず家に帰るように言い、私ひとりが隊員の方々と救急車で病院へ搬送されることとなった。
車へ乗せられるのを待つ間、私は夢のことをぼんやりと思い出していた。イルカの背に乗って運ばれる私。
果たしてあれは夢だったのかという、疑問が頭をもたげた。
救急隊員の話によれば、鉄橋から落下した私は川の流れにしたがって次第に浅瀬の方へ運ばれていったそうだ。幸運な方ですわ、とあの鼻の大きな隊員は快活に笑った。
幸運、か。
記憶の底から、栓を抜いたように懐かしい声がこぼれだしてくる。
もし君が死んじゃったら、ヒーローになってよ。ヒーローになって、かっこよく私を救ってよ
じゃあ、努力するよ。アリカちゃんのピンチに駆けつけられるようなヒーロー、ね
もしかしたらあのイルカは、薫くんだったのかもしれない。薫くんが約束通り私を救いに来てくれたのかもしれない。
それならもっと会いたかった。
話せなくても、見つめ合っていたかった。
次の約束は、もうないのだから。
死ぬほど泣いたあの朝、もう彼のことを思い出すのはやめようと決めた。それでも結婚しないままでいるのは、結局未練を捨てきれずにいるのだ。いや、捨てきれないどころか。
白い肌、筋張った手、真っ黒な髪に長いまつげ。
すべての日々を取り返したいと願うのだ。
「それにしても、橋から落ちて全身打撲で済むなんて、君は本当にスーパーラッキーガールだなあ」
聞き覚えのある台詞まわしだった。
「もう若くはないんだから、無理はやめてくださいね」
でもそれは、知ったその声とは違った。
首を声の方に傾けると、そこに座っているのは色黒の若い救急隊員だった。
「あれ、イルカは……」
「イルカ?懐かしいなあ」
青年は目を細めて笑った。
「二度も続けて人間になれるなんて、すごい確率なんだからね。このすごさ、わかってる?」
身体の動かない私の心中を察したように、青年は自分の手をそっと私の手に重ねた。
「ヒトはいいよ。自由な身体と言葉がある。野性も理性もある。唯一難点なのは、大人になるまでに時間がかかりすぎることだよね。二十年もかかるんだから」
二十年。溶け出した雪が春先のまだ硬い土壌に染み込むようにゆっくりとその歳月の意味を理解する。そして、彼がこうしてここで私の手を握っている意味も。
「ただいま、アリカちゃん」
そう呼ばれる日をずっと待っていた。
前世 すくなしじん @MaC773
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