(後)


二年生に進級し学期も折り返し地点になると、進路について考えなければならなくなる。私もまた、例外ではなかった。

単純に大人になったら就職するんだという程度の認識しかない人間には、数百ある大学のどこがどう違うのかよくわからない。担任から配られた分厚い資料は、めくれどめくれど同じような文句や校風をうたうばかりで、金太郎飴の方がいくらか変化に富んでいるような気がした。

「薫くんは、何になるの?」

「進路の話?」

いつもの会話の前にそう話題を降ってみると、彼は淡々と進学だと言った。

「市立の予定。先生はもう少し上を目指せって言うけど、あんまりやる気ないし」

市立はここらでは一番近場の大学で、親が進学を勧めるのもそこだった。地方の中堅で、地元の就職はまずまず堅いというのは父さんの受け売りだ。ただ私の学力ではE判定のさらに二つ下の成績でもたたき出しそうな有様だったから、手は出なかった。

「進路希望二回も白紙で出したから、さすがに怒られちゃった。でも、私って何が向いてるんだろう」

「こういうのって漠然と何が向いてるとか考えてると、何の結論にも至らないことが多いよ」

それは納得できた。枠が三つあるだけの白い紙とにらめっこしているだけじゃ、二時間たっても三時間たっても、手は動かなかったた。十時を回った時計に目をやったところで好きなアーティストのでる音楽番組を見逃したことに気づき、ああっと叫んだのは昨夜のことだ。

漠然としていてはダメだと彼は言う。

例えば、じゃあ、薫くんなら何に向いてるだろう。

消しゴムを弄びながらしばらく考えていると、不意に閃いた。

「薫くんは先生!絶対先生!」

急に矛先を自分に向けられて、薫くんはきょとんとした表情を浮かべた。

「お、俺?先生?」

「だって薫くんの話は、心に届くんだよ。物知りだし、話し方が丁寧だし、すとんと腑に落ちる感じ。それに動物や昆虫に詳しい人はいても、なったことのある人なんていないでしょ」

一度閃いてしまえば、想像するのは容易かった。教壇の立ち姿なんて目に見えるようだ。薫くんはきっと穏やかで、頼りがいのある、優しい先生になるだろう。

「でも、俺はアリカちゃんの方が先生って感じするけど」

今度は私が驚く番だった。

「勉強なんて教えられないよ!」

「そうじゃない先生もいるじゃん」

「どういうこと?」

「例えばさ、保健室の先生とか」

開けさらしていた窓から風が吹き込んで、机の上に広げていたシャープペンシルが床に転がった。カッ、小さな音がした。

「カウンセラーとかもかな。アリカちゃんは、聞き上手だから」

聞く、先生。

心の中で反芻する。

「大切なのは、相手を否定しないことだって聞いたことがある。アリカちゃんは全部聞いてくれたよね、俺の前世の話。そういうのって、実は結構難しいことなんだよ。誰でもができることじゃない」

先生になる。それは私の目の前にこの瞬間に開けた、まったく新しい道だった。手に持った白紙の進路希望用紙を一瞥し、軽く唇を噛んだ。

先生になる。

「まあ、ゆっくり決めればいいんじゃないかな。担任の再提出くらい、また軽くいなしとけばいいし」

帰ろうと言って、薫くんは立ち上がった。私は後を追いかけて、その手をそっと掴む。

背中の方からは、グランドで精を出す野球部員の掛け声が届いた。


薫くんが死んだと知らされたのは、翌日のホームルームだった。担任が涙を拭きながらそのことを告げた時、クラス中の視線が私に集まった。

私は泣かなかった。泣けなかった。

あまりに唐突すぎて気持ちが追いつかず、死に至る運びもほとんど他人のニュースでも聞いているように右から左へと聞き流した。

ホームルームの後、一斉に私の周囲に人だかりができた。辛いねとか、大丈夫?とか、そんな言葉を沢山かけられたけど、それもやっぱり他人のニュースだった。

掃除時間に忘れ物入れに残った薫くんのシャープペンシルを見つけて、ようやく悲しいという感覚が追いついた。

薫くんの死が直接連絡されなかったのは、ひとえに私たちが家族に明かしていなかったからだ。だから葬儀への参加を申し出ることも控えた。特別な関係だったと今更紹介されても、彼がいないならば、お互いもう何のつながりもないのだから。

その夜行われたお通夜に、私はクラスメイトのひとりとして参列した。式場に入ってから葬儀が始まってもずっと、隣の席の真由は涙を流し続けていた。一方、私はやはり泣くには至らず、どこか地に足の着かない感覚で脇に飾られた白百合の花束に見蕩れていた。

ご焼香の順が回ってきたとき、棺に収まった薫くんを見て、初めて彼は死んだんだと思えた。元々白い肌からは赤みが引き、左頬には薄い打撲の痣がある。眼鏡は外され、素顔の長いまつ毛は潤沢に伏せっていた。この目はもう二度と開くことはないという。

ねえ、と私は心の中で話しかけた。

ここにいないんでしょ。

もうどこかで生まれ変わっちゃったんでしょ。

私のこと覚えてるよね。

忘れないよね。

特別な私のこと、特別に忘れたりしないでね。

約束だよ、来世の薫くん。

心臓の近くに白百合の花を手向けて、そのまま席に戻った。

薫くんのお母さんの挨拶のときに初めて知ったことだが、死因は事故死だったらしい。河川敷沿いの道路を渡る途中で、信号無視で曲がってきた車に跳ねられたそうだ。近くには中型の亀が転がっていたため、亀を川に返そうとする途中で事故にあったのだろうというのが警察の見解だった。亀を返すなんてばかばかしいと思う一方、彼だからこそわかるつらさがあったのかもしれなかった。なんにせよ、息子に逝急された悲しみには筆舌しつくし難いものがあるだろう。最後はぐずぐずに泣き崩れて、見ている方が苦しくなった。


有花は結局最後まで泣かなかったね、と真由は赤く晴らした目で帰り際に言った。強いね、とも。

涙の量で良いも悪いが決まるとは思わない。ただ映画を見ただけで号泣することもあるのに、こういう場面では自分は存外冷静だというだけだろう。

その日の夜は、久しぶりに夢を見た。イルカになって、珊瑚礁の広がるコバルトブルーの海を泳ぎ回る夢だった。初めて食べた生のイワシは信じられないくらい美味しくて、私はやみつきだった。ふと隣のイルカを見ると、そいつもそれは美味しそうにイワシを食べている。目が合うと、そいつは笑って、アリカちゃんと言った。

朝目覚めた私は、涙が枯れるほど泣いた。

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