星影の魚
さはらさと
.
バイト先の店長が、縁側にたらいを出してほうけていた。時刻は夕闇、終業時間の5分あと、自宅になっている店の裏だ。とっくに作務衣に着替えて、水しか入っていないたらいに釣り糸を垂らす。あじさいが咲き始めて、梅雨は近い最後の晴れの夜空がたらいの水面に映る。足元には蚊遣り豚が煙を吐くが、その香りは異国のもので蚊取りのそれとは違っていた。
「ついにぼけたか」
喫茶「Soi」でアルバイトを初めて半年、高校二年になった静村玲子は声をかけた。まだ三十路には早い店長は、ちらりともこちらを見ずに答える。
「星影を待ってる。水に影が映ると魚が逃げるだろ、下がってくれ」
「星を見るなら望遠鏡を使え、それがまともな人間のすることというものだ」
文句をいいつつ、静村は店長の横に制服のまま腰掛けた。女のような美貌で、真剣に店長は釣り竿を握っている。黄色い救急車の番号は何番だったかと静村は考えつつ膝を抱えた。
「楽しい?」
答えはない。そのかわり、彼の指が水面を指さした。その水面には満天の星空が映る。鎌倉とは思えない星の海だ。思わずのぞき込みそうになると、以外にたくましい腕が彼女を制した。
星が落ちる。
水面に、スピカが、アンタレスが、プレアデスが、月の無い夜に燦然と輝く。光はぼうと照ると、タコをかたどった浮きが数度動いた。浮きのタコの目が開く。店長は竿を上げる。
針のない糸の先には、ブドウのように鈴なった光がある。魚の形をした星影だ。
「プレアデスか」
彼はつぶやくと、横に置いていた琺瑯の小さな洗面器をとった。そっと星影を洗面器に泳がせる。目を丸くして見ている静村の前で、プレアデスの星影は尾びれを動かし出した。宵闇の底に、淡い光が灯る。
「星は星を食う」
そう言って、店長は懐から瓶を取り出した。青い金平糖がいくつも入っていた。「だから、星の骨をこうして播く」
コルクの栓を抜いて、青白い金平糖がたらいに落ちていく。水に触れると、橙の光がしゅうと音を立てて弾けた。
流星雨が降ってくる。
たらいの海に後から後から降り注ぎ、針のない糸に食いつく。シリウス、カノープス、デネブ、レグルス、落ちて燃えて消える星もある。
「星の骨って?」
「石さ。今日は人形石をアルベド化して、賢者の石を少しまぶした。撒き餌としてはいいんだが、あんまり釣れないんだよな」
そう言いつつも、琺瑯の洗面器の中には魚がひしめいている。「だめだ、だめだ。大きいのは釣れない。今日はもうおしまい」
彼は釣り竿を置こうとした。
「なあ、わたしにもやらせてくれないか」
「星釣り?いいけど」
そら、と渡された釣り竿は短いけれど、見たことのない文字がびっしり書き込まれていた。触れるとひやりとして冷たい。針のない糸を垂らす。星が、泳ぐのを待つ。
水面を泡立てて、一つの星が糸に近づいた。静村は息を殺して待つ。星は糸の周りを泳いで、ひらりと身をかわしては近づく。
店長はと言えば、すっかり諦めて寝転んでいた。指を洗面器に突っ込んで、星影の魚をからかっている。夜の風が冷たくても、静村は黙っていた。
浮きが沈む。いちど、にど、それでも彼女は指先に神経を集めて待った。三度目、強く引かれ、彼女は竿を立てた。
青い骨を輝かせた一等星がかかっていた。背びれ尾びれは長くたなびきレースのようで、真珠がいくつもそのひれに挟まっていた。
「……スピカだ」
寝ていた店長が起きてきた。「一等星じゃないか」
糸を引き寄せ、静村は釣果を見た。まだ生きている星の目が、彼女を見返した。
「……これ、離してやってもいいか?」
「いいぜ」
「どうすれば?」
彼は無言でたらいを示した。糸につけたまま星を水に戻す。魚ははねて、また泳ぎだした。
「さて本当におしまいにするか」
店長は懐から取り出したものを水に放った。ぱしゃりと落ちたそれは小さな鏡で、自分の中に天を映す。鏡に空は映り空は水面に映り道は開け、天へ架け橋がつながった。魚たちは次々とたらいから天へ登る。鱗には千の輝きがあり、鰭には億の沈黙がある。彼らは光の飛沫を撒き散らしながら、あじさいの花びらを一枚落とした。たらいには花びらだけが残る。
「釣れなかったねえ」
たらいの水を彼はあじさいの根本に捨てた。琺瑯の洗面器には、まだ残った魚がある。
「洗面器のは?」
「ほっときゃ消えるよ」
「可愛そうだよ」
彼は渋い顔をして、たらいから鏡を取り出した。
「そら帰れ帰れ」
一匹、天に帰らない星影の魚がいた。静村の周りを泳ぐと、魚は身を翻して登っていった。一枚だけ鱗を残して。
落ちた鱗を土産に、静村は帰宅した。枕元に置いておいたが、朝になると無くなってしまった。夢だったか現だったか、彼女は問わなかった。
星影の魚 さはらさと @ANOVELANOVELZMLEVO
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