12. きみ色に染まる未来

 ようやく届いたその通知を見て、わたしは玄関先で泣いた。大袈裟だけどこの一年が結婚式の生い立ちVTRのように思い出されて、頭の中で小田和正が鳴り止まない。

 残業を終えて帰って来たばかりの夜9時。常識的には日を改めて連絡するべきなのだけど、もう一秒だって待ちたくない。電気もつけずに部屋を突っ切り、寝室の窓に張り付いて電話をかけた。灯りが透ける水色のカーテンは、雪夜の中でたったひとつの灯火のように見える。


『━━━━━もしもし』


 啓一郎さんの声は驚きを含んでいた。


「もしもし。お久しぶりです。小花です」

『久しぶり。最近会わないけど、まさかまた歩いてるの?』


 秋まではゴミを出すほんのひととき会えていた啓一郎さんとも、雪が降って通勤時間が変わってからはすれ違っている。


「いえ。最近はずっとバスです」

『そうか』


 ふっと笑うような気配があって、会話が止まった。急かすのではなく、わたしの言葉を待っているやさしい気配が、回線を通しても薄まることなく伝わってくる。大きく息を吸って、カーテンの向こうに届けるように言った。


「啓一郎さん、非常識は承知で言います。一生のお願いなので、今すぐ会ってください! お話ししたいことがあるんです。お願いします!」

『いいよ。今どこ?』


 前のめりに転がるわたしをさらっと受け止めて、啓一郎さんはかんたんに了承する。


「家です」


 水色のカーテンが10cmほど開いた。


『暗いけど』

「すみません。電気つける間も惜しくて」


 窓越しに視線が合っている気がした。啓一郎さんもこちらを見たまま話す。


『俺、そっちに行けばいいの?』

「何のお構いもできませんが、よろしければ」

『わかった。すぐ行く』


 言葉が終わらないうちに部屋の電気が消え、まもなく宮前さんの玄関ドアが開いた。凍るように冷えた雪道。ほんの15mを走ってくる啓一郎さんが見えて、その姿に見とれてるうちにチャイムが鳴る。急いで電気をつけてドアを開けると、コートを持ったままの啓一郎さんが、


「こんばんは」


 と笑った。


「こんばんは。すみません、呼びつけて」


 わたしの方はコートを着たまま、バッグも放り出したまま、朝に家を出てからティッシュの位置ひとつ変わっていない我が家に案内する。


「どうぞ。すぐにあったかくなると思うので」


 エアコンとファンヒーターの両方をつけて、手鍋に水を入れていると、啓一郎さんは、


「何のお構いもしなくていいよ」


 と、すでに聞く態勢を整えてローテーブルの前に座った。


「俺を待たせてた話なんだろう?」


 まだ外気温と大差ない部屋の中でコートを脱いで、テーブルの向かい側に座った。けれど、寒さはまったく感じなかった。


「これ」


 さっき郵便受けから取ったばかりのハガキを開いて出すと、啓一郎さんはそれを見て、


「何してるのかと思ってたけど、これか……」


 と納得したような声を上げた。


「奨学金、全額返還しました。もうスッキリサッパリきれいな身体です。……貯金通帳もスッキリサッパリしましたけど」


 もし今結婚式の招待があれば断らなければならないほど、“人の気配のしない”お財布事情。通帳に記された金額は一時“貯金額”というより“端数”という言葉がふさわしいほどに落ち込んだ。


「それであの、」


 強すぎる想いより先に、胃の中から別のものが出てきそうで、情けなくもモジモジうつむいたまま告げた。


「わたし、ずっとずっと啓一郎さんのことが好きなんです。お金なんていらないから、啓一郎さんのぜんぶが欲しいんです。……これでもかなり急いだんですけど、もう遅いですか?」


『奨学金返還完了通知書』

 生活を切り詰めても元々たいしたお給料ではないので、捻出できるお金もたかが知れている。それでも節約生活のおかげで、残業代とボーナスはまるまる返還に充てられた。先月冬のボーナスが入って、とうとう全額返還でき、ひと月してようやく送られてきたのがこの通知だ。ここまで来る道のりの遠さと苦労を思ったら泣かずにはいられない。わたしにとってそのハガキは、啓一郎さんへの想いそのものだった。

 じっくりとそれを見た啓一郎さんは、気の抜けたラムネのようなへなへなとした表情をする。


「これまでいろいろ変だったのはぜんぶこれのため?」

「変でしたか?」

「たとえば車。ちょっとおかしいと思ってて」


 奨学金を返還してから告白する。そう決めて、一番最初にしたのが車を手放すことだった。元々中古で買い、3年乗った愛車は売値こそたいしたものにはならなかった。それでも駐車場代毎月3000円、ガソリン代に定期メンテナンス代。オイル交換など考えると、持っているだけでお金がどんどん出ていく。加えてスタッドレスタイヤが交換時期に来ていたことと、車検も近かったために猶予なく売り払った。


「はい。維持費が出せなくて」

「歩いて通勤してたのも?」

「バス代がもったいなくて」

「もしかして髪も?」

「美容院に行けなくて」

「ダイエットじゃないだろ?」

「あと削れるところ、食費しか……」

「きみはアホか!」


 わたしの想いそのもののはずの通知書でぺしっと頭を叩かれた。


「こんな無理しなくても小花の気持ちを疑ったりしない!」

「わかってます! だけど、一抹の不安も、差し挟むのが嫌だったんです!」


 ギリギリの生活を長く続けることで、思った以上に精神が追い詰められた。お腹はすく。食べ物は質素。気晴らしの外食どころか、甘いものひとつ口にできない。お湯をためると高いから毎日シャワーだけ。そのせいで疲れがとれない。テレビ、エアコンはコンセントから抜いて、土日はずっと図書館で過ごした。友達には事情を話し、仕事上必要な飲み会を除いて人と会うことさえ我慢した。二ヶ月を過ぎた頃から心が弱って、あのとき、啓一郎さんが瑠璃さんに会っていた週末。街をふらついていたわたしは、自暴自棄になってファミレスに入り、一番高いパフェを頼んだ。899円。一袋78円の食パンを食べるわたしにとって、その値段もさることながら、それは啓一郎さんへの想いを捨てるに等しい行為だった。一番上の生クリームをひと匙すくって、そこから先、どうしても口に運ぶことができず、ドロドロに溶けていくアイスを見ながらお水だけ飲んで店を出た。

 あのあと、啓一郎さんが「待ってる」と言ってくれて、改めて誓ったのだ。ここまで来たら啓一郎さんのためでなく、わたしのためにやり遂げるべきだって。これを途中で投げ出したら、わたしの恋が色を失う。


「少しは証明できましたか? 啓一郎さんがわたしにとって、お金より価値があるって。わたしの真剣な気持ち、ちょっとは伝わりましたか?」


 涙と鼻水で汚くなっていくわたしを見て、啓一郎さんが視線をさまよわせたので、自分でテーブルの下からティッシュを取り出して拭いた。


「母が俺を薦めたとき、小花はものすごく困ってたから、嫌なんだと思った」

「啓一郎さんに伝えてないのに、先におばさんに言えるわけないじゃないですか!」


 あのとき言えなかった心の叫びが、涙とともにほとばしった。顔中にティッシュを当てて、思い切り泣く。


「ちょっとくらい打算があったって、俺は構わなかったよ」


 気づいたら、啓一郎さんの腕の中にいた。まだあたたまらない部屋で、そこだけはあたたかい。明るいグレーのシャツはこぼしてしまった涙のラインがはっきり見える。その生地に涙を吸わせるように顔を押し付けた。


「ケーキ奢って奨学金返して、それで小花がそばにいてくれるなら悪い話じゃないなって」

「だから! そう思われるのが嫌だったんです! だって、」


 啓一郎さんのきれいな黒髪を鷲掴むようにして、真っ直ぐに目を合わせる。


「だってわたしは、啓一郎さんのことが本当に本当に大好きなんだもん!」


 しっかり固定したはずなのにあっさり手を取られて、赤い顔を背けられた。


「こういうひとだってわかってたはずなんだけど、まともに来られると反応に困るな」

「困ってないでちゃんと答えて」

「いや、ちょっと待って。俺、こういうの本当に苦手で……」


 手から力が抜け落ちた。


「やっぱり、瑠璃さんがいいですか?」

「は? 瑠璃?」


 変わらない呼び捨てが、わたしの悲しみにガソリンを注ぐ。


「わたし、間に合いませんでしたか? それとも最初から届いてなかった? 啓一郎さんはずっと瑠璃さんが好きだったんですか?」

「なんで瑠璃の話になるの?」


 きょとんとして啓一郎さんは言う。


「だって啓一郎さん、瑠璃さんと会ったんでしょ?」

「は? いつ?」

「わたしが熱を出した日のすぐあと」


 啓一郎さんは首をかしげてますます不思議そうに顔を歪める。


「瑠璃になんて、もう何年も会ってないけど?」

「嘘! 瑠璃さんとの電話、しっかり盗み聞きしたもん! 週末家にいなかったのだって、ちゃんと見張ってたんだから!」

「……堂々と言うか、それ」


 宙を見上げて考え込んだ啓一郎さんはしばらくして、


「ああ、あの日か……」


 と、小さくうなずいた。そして落ち着き払って、しかも多少楽しげに話し出す。


「瑠璃は一昨年、俺の同期の日野と結婚したんだよ」

「……へ?」


『ドウキノヒノトケッコン』頭をそんな字幕が通過していった。


「瑠璃は隣県の事業所にいた時の後輩で、日野とも同じ職場だったんだ。俺と別れたあとふたりは付き合って、そのまま結婚したんだけど、去年子どもが生まれて出産祝いを送ったら、『内祝い返しがてら一緒に飲もう』って日野が。あれは日野からの電話だよ。瑠璃とはちょっと話しただけ」


 親しげで安心しきった笑い声、くだけた口調、ごく親しい相手との電話なんだとすぐにわかった。それで『瑠璃』って言うから……


「えー、紛らわしい」

「勝手に聞いて、勝手に誤解したんだろ」


 さっきまでとろけるようにやさしかった手が、わたしの頬っぺたを両サイドから思いっきり引っ張った。


「いいいいいいっ!!」


 啓一郎さんはそのまま頬っぺたを両手で包み、今度はやさしく撫でる。


「誤解は解けましたか?」


 うなずいたら、知らずに溜まっていた涙がこぼれ落ちた。


「俺が好きなのは小花だけだよ。だから何か考えてるんだろうなって、ずっと待ってた」


 またわたしの頭の中で、小田和正が流れ出した。今度は啓一郎さんとの出会いから、今この瞬間までの。


「瑠璃さんに、海の見えるレストランでプロポーズしてるんだと思ってた」

「……今度は何の話?」

「深い瑠璃色だった海が夕日で赤く染まって、真っ白なテーブルクロスも瑠璃さんが生まれた年のシャンパンも、きれいな茜色に染まる」

「……………」

「その茜色のシャンパングラスの底には、茜に染まらないダイヤモンドが一粒、一番星のように輝いていて。『きみの瑠璃色をまるごと俺色に染めたいんだ』って」

「……誰だよ、それ」

「啓一郎さんが瑠璃さんに会うと思って、ずーっとこんな妄想ばっかりしてたんです!」


 元カノのことなんて笑って流せるオトナの女性になりたかった。けれど、啓一郎さんの過去をまるごと焼き付くしてしまいたいくらいに嫉妬心が燃え上がる。


「本当によく思い付くよな、そんなの」

「妄想はタダですから。節約生活中の善き友でした」


 わたしの涙を拭いつつ、啓一郎さんは確認するように頬っぺたを何度も撫でた。


「よく頑張ったな。こんなに痩せ細るまで。大変だっただろ。元に戻るまで、責任取って何でもごちそうする」

「元に戻るまでですか?」


 不満で尖ったわたしの唇が、啓一郎さんによってなだめるように包まれた。やさしく触れて、離れる瞬間、少しだけ音がした。


「元に戻ってからもずっと」

「……何回でも? 何年でも?」


 今度は約束を残すようにしっかり唇が重ねられ、頭がぼんやりしてしまう。


「何回でも。何年でも」

「楊貴妃になっちゃう」


 ぎゅっと強く引き寄せながら、声を立てて啓一郎さんは笑う。


「なってもいいよ。そばにいてくれるなら」


 ああ、今ならわたし、きっと愛しさで吐ける。近くて遠い、届きそうで届かなかったお隣さん。やっと、やっと届いた。


「過去はどうすることもできないけど、過去より未来の方がずっと長いから。……多分」


 真面目でやさしい啓一郎さんは、ロマンチックな夢ではなく、真面目でやさしい未来を話す。


「だったら、ボケてわたし以外の女性ぜーーんぶ忘れるくらい長生きしてくださいね」


 欲張りで図々しいわたしは、欲張りで図々しい約束を迫った。


「……頑張ります」

「あー、はやくボケないかなー」

「それは嫌だよ」


 暑くもない部屋で頬を赤くする啓一郎さんにしがみついて、少し速いその胸の音を聞いていた。


「……わたし、まだ晩御飯食べてないんですよね」


 啓一郎さんの吐息が、頭にふりかかる。


「何が食べたい?」

「あんこう鍋」


 わたしを抱き締めている腕がビクッと震えた。


「何でもごちそうするって言ったそばから悪いんだけど、あれは予約が必要で……」

「ええーーっ! じゃあラーメンでいい。龍華苑の中華そば」

「いいよ。行こう」


 立ち上がった啓一郎さんが差し出した手を拒んで、自分で立ち上がる。


「やっぱり今日はわたしがごちそうします! ここで奢ってもらったらお金目当てみたいだもん」

「お金ないくせに」

「大丈夫です! 水道代は少しくらい滞納しても待ってもらえるので」

「頼むから奢らせて!」


 初めて啓一郎さんと手を繋いだ。少し力をいれると、それより強く握り返してくれる。


「小花、ありがとう」


 そうして見た世界は、家々の灯りを雪が反射して、泣きたいくらいに明るく輝いていた。



 初夏。

 全開にしている窓からは空気を揺らす程度の風と、朝ドラの会話が入ってくる。いつも賑やかで休む暇もなく次から次へと波乱の展開を見せるドラマだけれど、庭を渡ってくるその会話は、なぜか不思議な安心感を運んでくる。


「ほら、聞こえる」


 ころんと寝返りを打って、隣で寝ていた啓一郎さんの腕の中に潜り込んだ。


「何が?」


 寝起きとは思えないすっきりした声で返して、わたしの背中に手を回す。土曜日でも朝が早い啓一郎さんにとって、この時間はすでに活動中なのかもしれない。


「朝ドラの音」

「……ああ、本当だ」


 会話を届けてくる風も、緑の気配を日々強めて、夏の匂いを帯びていく。


「もっと早い時間には、お茶碗の音も聞こえるんだよ。朝ごはんのときの。去年、奨学金返還中もよく聞いてた。あの音の中に、啓一郎さんもいるんだなって」


 食器の音、車のエンジン音、カーテン越しの灯り。啓一郎さんの変わらない確かな日常は、わたしの気持ちを支えてくれた。いつかこの庭を越えて、会いに行くんだって。

 あの日々を思い出して切なくなっていたわたしを、やさしいキスが今へと呼び戻してくれた。どの季節にあっても、触れるだけで溶けてしまいそうなくらい大好きなひと。


「母親がそれとなく探りを入れてくるんだけど」


 急に帰りが遅くなったり、外泊が増えたのだから、家族なら“彼女”の存在に気づいて当然だ。思い当たることがあって、啓一郎さんのTシャツをギュッと引っ張る。


「この前『最近啓一郎が家にいないのよね』って言われたんだけど、あれって何か探られてたのかな?」

「母さんの真意はわからないけど、小花はなんて返したの?」

「『へえー、どこのネットカフェ行ってるんでしょうね』」


 啓一郎さんはため息をつきながら、ゴロンと仰向けに転がった。


「……そろそろバラしたい」

「いや! ちょっと待って! まだ心の準備ができてない」

「もう半年経つし、この前ここに入るのを下山さんに見られたから、遅かれ早かれバレると思うよ」

「ええーっ! 大事な息子さんキズモノにして、いったいどんな顔で会えばいいの?」

「よく会ってるだろ。その顔で」


 わたしの頬っぺたをちょっとつまんでから起き上がるので、わたしもそれに続いて身体を起こした。そして……啓一郎さんを思い切り突き飛ばす!


「あら、おはよう。小花ちゃん」

「あはは、おはようございます~」


 タイミング悪くおばさんが洗濯かごを手にベランダに出てきたところだった。服をちゃんと着ているか一瞬で確認してから、網戸を開ける。


「今日はいい天気ねえ」

「そうですね。お布団も干せそう」


 そのお布団には、ゲリラ兵かのように啓一郎さんが必死に伏せて姿を隠している。


「あ、そうだ! 昨日親戚からたくさんさくらんぼいただいたの。あとでいらっしゃい」

「さくらんぼ! 大好きです。では、またあとで伺います。失礼しまーす」


 窓をきっちり閉め、カーテンも閉めたところで、ようやく啓一郎さんが身体を起こし、腕組みして睨む。


「『あとで行く』って、俺は?」

「……時間差で帰る?」

「だからもうちゃんと話した方がいいよ」

「この流れでは無理だよ! 生々しすぎる!」



 宮前家より数時間遅い朝食は、ふたたび白っぽいものに戻っていた。


「スッキリしたらつい気持ちが緩んで、最近ではすっかり贅沢が身についちゃって」


“極濃”と書かれた牛乳を遠慮なくコップに注ぐこの瞬間、わたしは何とも言えず満たされた気持ちになる。


「“贅沢”ねえ」


“極濃”を飲むことに何の感慨も感じない啓一郎さんを、わたしはひそかに“セレブ”と呼んでいる。


「節約中はマーガリンも塗ってない激安食パンを食べてたんだけど、最近では一流メーカーの一袋156円もするパンじゃないと口に合わないの。しかもとろけるチーズを乗せるだけでは飽きたらず、シラスまで乗せる有り様」

「…………」


 啓一郎さんがコップを置いたガチッていう音と、わたしがパン屑を払うパンパンという音。やはりこの家からは情緒ある音がしない。


「ヨーグルトなんてほら! フルーツ入り! 金遣い荒くて、そのうちカード破産するかも」

「ヨーグルトで破産したら、ある意味すごいよな」


 上目遣いで様子を伺っても、啓一郎さんはテレビを観ながらシラスチーズトーストを咀嚼していて、まったく気づいていないようだった。ヨーグルトが空になり、カンッと強くテーブルに置いたら、ようやく一瞬不思議な顔をして、それでも情報番組のとれたて魚介類をその場で食べるコーナーに視線を戻してしまう。


「啓一郎さん」

「なに?」

「何か、わたしに言うことありませんか?」

「……誕生日おめでとう」


 わたしはおごそかにうなずいて、それでも厳しい表情は崩さない。


「忘れてたよね?」

「忘れてないよ。いろいろ考えてたし」

「待ってても全然言ってくれなかった」

「今の会話に差し挟む余地なんてなかっただろ……」

「どっちにしても指摘されてから言うなんてダメー」


 くるりと啓一郎さんに背を向けて、わたしはわざとズズーーーーッと音をたてて“極濃”をすする。


「小花」


 ズズーーーーッ!


「誕生日おめでとう」


 ズズーーーーッ!


「悪かったって」


 ズズーーーーッ!


「小花ーーー」


 すするものがなくなって、不本意ながら振り返った。啓一郎さんは弱り切った表情でわたしを見ていたけれど、おもむろに牛乳の残りをイッキ飲みして、白くなった口元をティッシュで拭う。


「俺のこと好きだろ?」


 あまりに予想外の発言で、飲み込んだはずの牛乳が気管に入りかけた。


「けほっ! ……好きだけど、何? 急に」

「お前は俺のものだ」

「はあ、まあ、そうだね」

「お前を一生離さない」

「……………?」


 さすがに何か様子がおかしい。


「あと、何だっけ。『きみをまるごと、俺色に染めたい』?」

「その前に顔がものすごい色に染まってるよ?」


 耐えきれず手で顔を覆った啓一郎さんは、浮いてきた汗をさっきのティッシュで吸い取っている。


「俺の一番の恥をプレゼントしたんだから、これで許して」

「あははは! 許す許す。機嫌直った」


 他人事だと窓枠のほこり程度にしか思えなかった台詞も、啓一郎さんに言われたらものすごくドキドキした。笑って誤魔化してもまだ動悸が激しい。このひとの隣りは、やさしい風も、すべてをさらう強風も、どちらも同時に吹きぬける。


「小花」


 お皿を片付けようとしたわたしの手を啓一郎さんが引いて、すぐ目の前に座らされた。


「改めて、誕生日おめでとう。来年から、十年後も、二十年後も、一番最初に言うって約束するから」

「うん。わかった」


 強く握っていた啓一郎さんの手から力が抜ける。


「あの、意味わかってる?」

「わかってる、わかってる」

「大事な話だよ?」

「わかってるって」

「…………そう? それならいいけど」


 落ち込み気味に離れかけたその手を、両手で握り直した。本当の本当にわかってる。嬉しくて恥ずかしくて、まともに受け取ったら破裂しそうなほど。

 啓一郎さんに言われてからちょっと調べた。“比翼の鳥”は片方ずつしか羽のない鳥で、ふたり一緒でないと飛べないらしい。“連理の枝”は死して尚引き離された夫婦のお墓から木が育ち、互いを求め合って絡まった故事に由来するそうだ。とても強い結び付きの話。それでも思う。


「啓一郎さん」

「ん?」

「並んで飛ぶ鳥を、手を繋いで見ましょうね」

「へ? ……ああ、うん」

「枝を絡ませ合う木の下でカレーライス食べましょうね」

「そうだな」


 啓一郎さんは吹き出すように笑って、


「金剛力士像みたいに」


 と付け加える。それから誓うように真摯な深いキスをくれた。


「ふふふふ! “極濃”!」



 鳥にも枝にもなりたくない。わたしはわたしのまま、啓一郎さんは啓一郎さんのまま、エメラルドの風に包まれながら、こんな風に生きていきたい。










 fin.



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やさしく包むエメラルド 木下瞳子 @kinoshita-to

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