11. 色のない世界

 かじかむ指先をホットミルクのカップであたためながら、もそもそとトーストを噛み締める。よくよく噛み締める。おいしいなんて思わないけど味わって食べる。そして口の中の水分がすべて吸い取られる頃、ホットミルクで流し込んだ。


「はあ、慣れない。やっぱり薄いな」


 朝食の牛乳を安い低脂肪乳に変えてから4ヶ月。そのうち慣れるだろうと我慢していたけれど、未だに濃い牛乳が恋しいまま。けれど倍以上高いそれは、今のわたしには高級品。食パンだってプライベートブランドの一袋88円のやつに変えたし(しかも78円に値下げされてたやつ)、ヨーグルトとチーズはやめた。わたしにとって朝食は、ただの栄養摂取にすらならない“気休め”的存在に成り下がっていた。


「うううううう、寒い! 今日はなんとしても灯油買わないと」


 4月はまだまだ凍えるほど寒い季節なのに、昨日の朝灯油が切れた。ところが残業でガソリンスタンドの営業時間内に帰れず、我が家の暖房は効きの悪いエアコンと、電子レンジであたためたホットミルクだけ。こんな生活のせいなのか、風邪をひいた。風邪薬を飲むと眠くなって頭がぼーっとするから迷ったけれど、これ以上悪化させるわけにいかないので、冷めた元ホットミルクの残りで薬を飲みくだした。



「先週までは雪なかったのに」


 3月に入ってから雪は徐々に解け、ここ一週間は自転車で通勤できるほどになっていたのに、外は10cmほど積もっている。4月半ばまでは、冬をぶり返すことがあるので、冬物のコートをしまってはいなかったけれど、ここまで積もると少し気持ちが落ち込んだ。アパートの前にある駐車場には、誰かの足跡がついている。ふらふらとした足取りで、それをなぞるようにわずかな積雪を踏み越えて通りに出る。その途端、15m先にいるひとと視線が合い、心臓がキュッと発作の一歩手前まで縮まる。


「おはようございます」


 出勤経路とは反対方向なのに、気づいたら宮前家の前まで来ていた。


「おはよう」


 啓一郎さんは自宅前の雪をザックザックと掻いている。わたしならもっと積もるまで待つか、運良く解けることに賭けて雪掻きなんてしない量だけど、マメなひとだ。気温が高くなってからの雪は重く、大きな塊を投げ捨てるとビシャッと水の音がした。


「雪掻き、大変ですね」

「うん。でもまあ、こんなものでしょ」


 啓一郎さんとの関係はあの温泉以降も特に変わっていない。態度にこそ出さないけれど、それでもお互いの中には確かにわだかまりがあって、あの夜の話題には触れないし、一緒に出かけることもなかった。当然ココアもあんこう鍋も実現していない。こうして道で会えば挨拶する程度のお隣さん。


「……久しぶりだな」

「あ、そうですね。何ヵ月ぶりかな」


 以前はわたしが合わせていたせいもあって、週二回の家庭ゴミの日には会っていた。


「雪降ってから徒歩通勤にしたので、この時間にはもう家を出るんです」

「徒歩……かなり遠いよね?」

「でも1時間はかからないので大丈夫ですよ」


 道の状態にもよるけれど、だいたい45分程度。大変だけど歩けない距離じゃない。


「なんか……変わった?」


 啓一郎さんが少し身体を傾けて顔を覗いてくるので、さっと前髪を手で押さえた。


「昨日、自分で前髪切ったんです。ちょっと切りすぎちゃって」


 指で伸ばして切ったのが良くなかったのか、切り揃えて手を離すとふわんと短くなり、またラインもギザギザになった。ちょこちょこ修正を加えるうちにどんどん短くなって、今は眉よりやや上で揃っている。


「ああ、言われてみればそうだけど、そこじゃなくて、なんだか痩せた気がする」

「あはは、ダイエットの効果、出ましたね!」


 啓一郎さんは笑ってくれず、さっきから探るように顔をじっと見る。そしておもむろにわたしの頬、そして額に触れた。


「……やっぱり。熱ある」

「え? 大丈夫ですよ。薬も飲んだし」

「いや、かなり高い。立ってるのも辛いはず」


 確かにずっと足元はふらふらするし、頭はぼんやりするけれど、それは風邪薬を飲めばいつものこと。熱があると言われてもこれから出勤だ。どうしたものかと回らない頭で考えていると、いきなり頭の位置が変わった。


「うわっ! ええ!」


 米俵を担ぐ要領で啓一郎さんはわたしを抱えて自宅へ入っていく。急に担がれたせいで、元々ぼんやりしていた頭が、今度はクラクラしてきて目を開けていることもできない。目を閉じても世界はぐるぐる回っていた。啓一郎さんはヒールのないブーツを玄関のたたきにポイポイ捨てて、ずかずか廊下を進む。


「あら! 小花ちゃん、どうしたの?」


 おばさんの声はずっとずっと遠くで聞こえたけれど、もう答える力は残っていなかった。


「熱ある。かなり高そうだから、母さん頼む」


 そのまま階段も上って行く間、わたしは役得だと感じる余裕もなく啓一郎さんにしがみつき、夢とうつつの間でとりとめのないことをぐるぐる考えていた。

 茶碗の欠けた半分はどこに行ったんでしょうね? 時間割がない、時間割がない。レーザービーーーーム。啓一郎さん、啓一郎さん、待っててね。がんばるから、待ってて。あ、クリームパンが!



 目覚めて、寝ていたのだとわかった。見えたのはいつもの白い天井ではなく、木目のある板張りの天井。そこから、四角い傘の電気がぶら下がっている。懐かしい部屋。身体はだるいままなので目線だけ動かして確認すると、畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。服は通勤時のままで、脱がされたコートはハンガーにかけて壁際に吊るされてあった。隅には使われていないカラーボックス、折り畳み式のテーブル、リンゴの段ボール箱。そして小さな反射式ストーブが、暑いくらい赤々と燃えている。停電のとき、わたしが使わせてもらった客間だった。

 ギシギシと階段を降りたら、居間からすぐにおばさんが飛び出してきた。


「小花ちゃん、起きたの?」

「はい。すみません。なんか、記憶も曖昧で」


 背中を押されるように居間のこたつに誘導され、おばさんのものらしき分厚いニットカーディガンを羽織らされる。


「起きて大丈夫なのか?」


 おじさんも新聞を畳んで、心配そうに聞いてくれた。


「まだちょっとふらふらしますけど、朝よりは楽になりました。ありがとうございます」

「私のパジャマで申し訳ないけど着替えて。おうちまで取りに行くのも大変そうだから」


 ピンクの花柄のパジャマを抱えておばさんは戻ってきた。


「いえ、もう帰ります」

「ダメよ。治るまでとは言わないけど、せめて明日まではここにいて。啓一郎も心配してたし」


 時計を見ると10時を過ぎていた。啓一郎さんもとっくに出勤したはずだ。


「あ! 仕事!」


 慌てて腰を浮かせたわたしを、おばさんは肩を押さえつけて座らせる。


「勝手に触って悪いとは思ったけど、携帯に『職場』から電話が来てたから、事情話しておいたわ」

「何から何まですみません。……お世話になります」


 携帯を確認すると、同僚からメッセージが届いていた。


『道端で倒れたって本当!? 仕事の方は大丈夫だから、ゆっくり休んでください。何か必要なものがあれば届けるから、遠慮なく言ってね』


 ちょっと大袈裟に伝わってしまったようだけど、その気持ちがありがたかった。


『知り合いのお世話になってるので大丈夫。それより仕事休んでごめんね』


 “知り合い”というのを彼女がどう理解するのかわからないけれど、今上手な言い訳を考える体力はない。職場にももう一度自分から連絡して、とにかくこれで当面の憂いはなくなった。

 やわらかい綿素材のパジャマに着替えると、それだけで楽になる。


「ちょっとは食べられる?」


 おばさんがうどんを作ってくれていた。出汁と醤油の匂いが湯気に乗ってふわっと届く。


「いただきます! うわー、おいしそう!」


 透き通った白だしのつゆに、つやつやのうどんと天かす、ナルト、鶏肉、ワカメになめこまで入っている。風邪で食欲も落ちていたはずなのに、五臓六腑に染み渡るってまさにこのこと。


「小花ちゃん、痩せたわね」


 口いっぱいに頬張った麺を飲み込んで、にっこり笑ってみせる。


「ダイエット、成功したんです」

「若いひとはそう言うんだけどね、こんな体調崩すようなこと、よくないわ」


 おばさんは厳しい顔でそう言い、おじさんも渋い表情でわたしを見ながらお茶を飲んでいた。


「……すみません」

「これ食べたらお薬飲んで寝ていてね。退屈かもしれないけど」

「はい。ありがとうございます」


 ひとり暮らしをしていると、体調を崩してひとり沈むなんてことは当たり前で、熱があろうがインフルエンザだろうが、コンビニまで食べ物を買いに行くしかない。同じような鍋焼うどんを買ったとしてもただの栄養摂取でしかないのに、おばさんの作ってくれたうどんは、差し伸べられた手そのもののあたたかさだった。



 何度か目を覚ましながらも一日寝て過ごし、濃い気配によって目覚めたときにはもう日が暮れていた。額に触れた手の感触に驚いて目を開ける。


「ごめん。起こした」


 部屋の中はすっかり暗く、目覚めたばかりのわたしには何も見えなかった。それでも、窓から入る明かりで陰になっているそのひとを、迷わず呼ぶ。


「……啓一郎さん」


 寝起きと風邪のせいで、声はかすれていた。


「熱はだいぶ下がったな。まだ微熱はありそうだけど」

「ありがとうございました。お世話になってます」


 暗いままの部屋で、わたしは啓一郎さんの顔のあたりを見つめて答えた。少し目が慣れて、コートを着たままのスーツ姿だということまではわかったものの、今日はどんな色のネクタイなのかわからない。


「啓一郎さん」

「ん?」

「なんでもないです」


 呼び掛けたら返事がある。そのことが嬉しかった。


「啓一郎さん」

「なに?」

「呼んだだけです」


 時間も曖昧で暗いしずかな部屋。それでも視線は絡まりあって、とろりとした濃度を持っていく。


「啓一郎さん」

「……呼んだだけだろ」

「うん」


 ほんの少し笑ったら、啓一郎さんも笑ったような気がした。掛け布団から少し出していた手を、啓一郎さんが握る。驚いたけれど、嬉しくて握り返したら、力が入らないわたしの手を、さらに強く握ってくれる。熱があるわたしより、啓一郎さんの手は冷たかった。


「もう少しで夕食だから、起きられそうなら降りてきて」

「はい」


 熱を分け合うようにしていた手が離れ、啓一郎さんは部屋を出ていく。そのときおこった風が切りすぎた前髪をそっと撫でた。


「啓一郎さん」


 今度は当然返事がない。自分のものとは違う、硬いそば殻の枕に顔を押し付けた。


「好きです」


 言えない言葉をここに残して行きたくても、今はただ闇に溶けるだけ。がんばらなきゃ。もっともっとがんばらなきゃ。



「ずっと歩いて通ってるの?」

「はい。この塩だれおいしいですね」


 おばさんが作ってくれた豚バラと白菜の鍋はしっかりした塩味がおいしくて、わたしの食欲は完全復活した。だけど鍋を取り分けるおばさんの眉間には深い皺が刻まれている。


「帰りだって遅いでしょう? いつも電気ついてないもの」

「残業は多いけど深夜にはなりませんよ。それにうちの会社、人遣いは荒いけど悪質じゃないので残業代はしっかり出ますし」

「夜遅くに歩いて帰るなんて……」

「そろそろ自転車使えるから大丈夫です」


 身体への負担を考えてくれたようで、わたしのお茶碗にはおかゆが盛られているけれど、本当はからあげにはほわほわ湯気の上がる白ごはんが食べたかった。


「そういえば車は? 駐車場からなくなってるよね?」


 啓一郎さんは、何にも関心がないように見えてよく気づく。


「故障しちゃって廃車にしたんです。お金貯まったら新しいの買います。すみません、いただきます」


 おばさんが3杯目の鍋をよそってくれる。


「お買い物とか灯油はどうしてるの?」

「お買い物は帰り道でしますし、灯油はガソリンスタンドまで歩いて買いに行ってます」

「歩いて!? ポリタンク持って?」

「はい。容器いっぱいに入れると重くて持てないから、半分だけ。近いし、なんとかなるものですよ」

「……………」


 ガソリンスタンドまでは400~500m程度だけど、灯油のポリタンクを持って歩くにはかなり大変な距離で、わたしの力ではポリタンクに半分が限度。そのためすぐになくなる。おばさんはおたまを持ったまま、おじさんと啓一郎さんも箸を止めてわたしを見る。


「それは……かなり大変だろう。配送してもらえないのか?」


 器にため息を落としてから、おじさんは苦い顔でからあげを口に運んだ。


「配送は……高いので」


 頼めばそういうサービスがあることも知っていたけれど、1リットルにつき数円割高になる。ひと冬通すと、なかなかに負担だった。


「うちも毎週土曜日にまとめて買いに行くから、一緒に行きましょう」

「だったら明日だけお願いしてもいいですか? 昨日から空っぽで給油できてないんです」

「なんでそんなことになっても言わないの!」


 とうとうおばさんを怒らせてしまった。しずかな食卓で、ぐつぐつという鍋の音だけがにぎやかだ。


「言えないよな」


 啓一郎さんの声には色味がなく、それが一層しずけさを強く感じさせる。


「小花は家族じゃないんだから」


 当たり前のようにここにいても、わたしはこの家の人間じゃない。おばさんやおじさんの気持ちはありがたいけれど、そこの一線をどうしても越えることはできないのだ。


「本当にすみません。わたしの浅はかな行動が、こんなに誰かのご迷惑になるなんて思わなかったんです。今度から気をつけます」



 昼間たくさん寝たせいで、夜はなかなか寝付けなくなった。だけど、元気になったからと言ってお世話になっている身でふらふら遊び歩くわけにもいかない。ひたすら寝返りを打って、眠気が訪れるのを待つ。


「トイレ行こう」


 宮前さんの家のトイレは一階にしかない。朝が早いこの家は夜も早いようで、おじさんとおばさんも自室に引き上げ、廊下は小さな電気がひとつついているばかり。まるで、あの夜に戻ったみたい。

 トイレを済ませて部屋に戻る途中、ベランダから月が見えた。細い細い月は明るさもなく、今は街灯の灯りにさえ負けてしまいそうに儚い。それでも懸命に庭を照らしている。しばらくそうして、雲から出たり入ったりを繰り返すメロンの皮のような月を、ぼんやりと見ていた。


「━━━━━▲◇*△」


 ひそやかな人の声がした。誰かと会話していて、笑っているようだ。声はドアの向こう、啓一郎さんの部屋から聞こえる。


「━━━━━うん。そうか。よかったな」


 啓一郎さんが電話しているらしい。ときどき笑いながら、主に相手の話に相づちを打っている。さすがに寒くなってきたので帰ろうとしたわたしを、その言葉が引き留めた。


「瑠璃。じゃあ週末そっちに行くから」


 月は完全に雲に隠れ、廊下は一層暗く寒くなった。闇が濃く、まるですべての色を失ったよう。

 まだぬくもりの残る布団に潜り込んで、ひたすら眠くなることを願ったけれど叶わず、無情な夜は長かった。ついさっき、すぐそばにあると思えたぬくもりが、一気に遠ざかってしまった。こんな弱々しい月夜では、もう見えないくらい遠い。

 瑠璃さん。カフェに啓一郎さんと何度も行ったひと。花柄が好きだけど、花柄なら何でもいいわけじゃないひと。一度は啓一郎さんが生涯愛すると決めたひと。顔を赤くしてきれいな女性にプロポーズする啓一郎さんの姿を何十回も妄想したせいで、その映像は劇場公開できそうなまでに完成された。

 わたしの気持ちが変わらないからと言って、世の中が待っていてくれるわけじゃない。啓一郎さんの時間だって流れているのだ。



 翌日は、おじさんに灯油を入れてもらい、おばさんから手作りのお惣菜やおにぎりをたくさんいただいて自宅に戻った。仕事にも復帰して、変わらぬ日常に戻ったようだけど、わたしの内側は冷たく凍りついたまま。啓一郎さんが瑠璃さんとどうなっているのか、ただのお隣さんであるわたしに確かめることなんてできない。

 ぶり返した冬は一瞬で去っていき、春の日差しがふたたび雪を解かした。駐車場もすっかりアスファルトに戻っていたけれど、その週の土曜日、わたしはほとんどの時間をベッドで過ごした。もちろん風邪のせいではない。

 宮前さんの庭は、日陰に少し雪が残っているけれど、湿った黒い土から芽吹いていく春の音が聞こえてきそうだった。その中で、開け放たれた水色のカーテンの向こうに、人の気配はない。おばさんからもらったお惣菜の残りを食べ、うとうとすることを繰り返しているうちにすっかり日は暮れたけれど、啓一郎さんの部屋の灯りはいつまでもつかなかった。


『瑠璃。じゃあ週末そっちに行くから』


 何度確認しても啓一郎さんの部屋は暗い。開け放たれたままのカーテンが、主の不在を示し続けている。

 瑠璃さんと何を食べ、何を話しているのだろう。あの手は、わたしに触れるときよりやさしく、瑠璃さんを包むのだろうか。

 風邪は治ったはずなのに、胃の中に消化しきれないものが残ったような気持ち悪さがある。時折それはグツグツと沸騰したり、逆に全身を冷やしたりする。

 変化のない窓を見ることに疲れ、日曜日はあてもなく街をふらふらと歩いた。悩みのないひとなんていないと啓一郎さんは言ったけれど、親子連れも、友人同士も、恋人たちも、みんなわたしよりはずっと幸せそうに見えた。



「小花ちゃん、もう風邪はいいの?」

「もう完全復活です! ありがとうございました」


 洗ったタッパーとお礼のチーズケーキをおばさんに届けると、おじさんも珍しく玄関先に現れた。


「灯油は間に合ってる?」

「はい。いっぱいに入れてもらったし、あまり家にいないので週末までもちそうです」


 ちらりと見回したたたきに、啓一郎さんの靴はなかった。

 頭がぐわんぐわんと揺れる。作り笑いが疲れる。息ができない。

 お茶をすすめるおばさんをなんとか断って自宅に戻り、コートも脱がずにベッドに倒れ込んだら、睡眠不足のせいかそのまま深く寝入っていたらしい。起きたときには、すでに夜の入り口だった。薄闇の中で目覚めると、まるで世界でひとりぼっちのような心もとなさを感じる。本当に世界にひとりぼっちなら、こんなに悲しい気持ちにならなくて済むだろうか。

 身体を起こして窓から外を見ると、水色のカーテンは閉まっていた。それを透過して、存在を示すように漏れ出す灯り。そのやわらかい色を見ただけで涙があふれて止まらなかった。ひとりなのをいいことに、声を我慢せずに泣いた。固いコートの生地でさえ、袖がすぐにべちゃべちゃになる。


「啓一郎さん」


 見えるほど近くにいても、声すら届かない相手だ。あの日返ってきた返事が聞こえることはない。


「啓一郎さん」


 水色のカーテンはちらりとも動くことがない。啓一郎さんの心にも、わたしの声は届かないのかもしれない。



「おはようございます」

「おはよう」


 翌月曜日。ゴミ袋をふたつ抱えた啓一郎さんと並んでゴミ収集所まで歩く。もう会いたくない。そう思ってゴミを捨てる時間を変えようかと思った。それなのに、7時23分が近づいたら居ても立ってもいられず家を飛び出していた。どんなに心が痛くても、会わずになんていられない。わたしにとって啓一郎さんはそういうひとだった。


「『チーズケーキごちそうさま』って母が」

「いえ。お世話になりっぱなしなので、それくらいは」


 子どもっぽくてどうしようもないけれど、一応大人なので、ドロドロに焼けただれた嫉妬を誤魔化す程度の精神力は残していた。


「今日も曇り空みたいでいい色のネクタイですね」

「もう少しいい例えはないのかな」


 これから晴れ間が覗き出すような、明るく希望に満ちたグレー。太陽光が漏れ出すように艶のある生地が朝の光を反射して輝く。


「素敵な春の色ですよ」


 ボックスの蓋を開けてふたつゴミ袋を入れた啓一郎さんは、もう馴染んだ仕草でわたしの分のゴミ袋も入れてくれる。


「ありがとうございます」


 たった50mの往復を泣きたいような、怒りたいような、愛しい気持ちを噛み締めて歩いた。この恋を終わらせたら、引っ越しした方がいいな、と考えながら。


「小花」


 いつもはそのまま別れる啓一郎さんがわたしを呼び止めた。


「はい?」


 大好きなその顔に見入っていたら、やさしい手がふわっと頭の上に乗った。


「なんだかずっと頑張ってるみたいだけど、ちゃんと待ってるから、あんまり無理するな」

「『待ってる』って?」

「『待ってて』って小花が言ったんだろ」

「わたし、そんなこと言いましたっけ?」

「言った」

「覚えてません」


 心地よい重みが、頭の上から消えた。


「じゃあ、待たなくていいの?」


 このひとは何をどこまでわかっているのだろう?

 たくさんの疑問が身体中を駆け巡って、結局口にしたのはひとつだけ。


「待ってて」


 停電の夜みたいに、海辺のときみたいに、デートしたときみたいに啓一郎さんは笑って、もう一度わたしの頭に触れた。そして、


「じゃあ、気をつけて」


 と仕事に行ってしまう。

 たったあれだけで。

 離れてしまった手に手を重ねるように、自分の頭に手を乗せる。その手がたとえ瑠璃さんに触れたものであっても、わたしは何度だって容易く堕ちるのだ。啓一郎さんは『明るさは強さ』だと言ってくれたけど、あのひとの風はもっとずっと強い。覆いつくした雲を一瞬で払うほど。


「無理するよ。全力で無理する」


 だから、どうか待ってて。







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