10. 赤い涙
啓一郎さんが買ってくれたお茶のペットボトルを、おでこや頬っぺたにペテペテ当てながら、ひっそりしずかな廊下を歩いた。
「大丈夫か?」
「はい。あー気持ちいい」
一時間近く温泉に浸かった身体はかんたんに冷めず、防寒を意識したルームウェアの袖もまくってペットボトルを当てた。啓一郎さんは夜風に当たりながら調整して入っていたらしく、少し赤いけれど落ち着いた顔色をしている。その顔をちらっと見ただけで、温泉の熱なのか、心からわき上がる熱なのかわからない熱いものが、どんどん広がっていく。このまま抱きついて「好きです!」と言えたら楽になるような気がして、
「啓一郎さん」
呼び掛けたけれど、断られたら帰りの車が辛いと気づいて思い止まった。
「なに?」
「あー、えーっと、えーっと……あ! そうだケーキ!」
「ああ、ついでだから引き取って行こう」
行き先を変更して厨房の方に向かって歩いて行く間、誰とも会わない。まるで世界にたったふたりきりのようで、空気の密度がどんどん濃くなっていく気がする。
「……小花」
突然啓一郎さんが足を止めてわたしを見下ろした。
「はい」
「小花、あの、」
「はい?」
啓一郎さんは話を切り出すのが苦手らしいけれど、いつも以上に言葉に困っているようだった。わたしまで緊張して、ルームウェアの胸元をきゅっと握りしめる。
「……あ、やっぱりいいや」
「ええーっ! なんですか? 気になる!」
「いや、いい。今じゃない。今は母さんの還暦祝いだから、またちゃんと時間作って話すよ。あ! すみません」
ちょうど厨房から従業員さんが出て来て、その人にケーキを頼んだ。
「気になるなあ」
顔を見上げてまだ粘ってみたけれど、
「また今度」
と結局教えてもらえなかった。
「すっっっっっごくよかったわよ! 内湯も露天風呂も。きれいだし、しずかだし、露天風呂からは月も見えてね。何よりひとり占めできるって贅沢ね~。小花ちゃんも、絶対入って来た方がいい!」
おっとりしたおばさんには珍しく、とてもテンションが高い。踊り出しそうな足取りで室内を歩き回り、
「小花ちゃん、お茶飲まない?」
と急須にティーバッグを入れて言う。
「いただきます」
おばさんの様子に、啓一郎さんも満足だったようで、微笑みをわたしに向けてきた。喜んでもらえたのはわたしもとても嬉しくて、自然と笑顔になる。入れ替わりで貸し切り風呂に向かったおじさんも、まもなく帰ってきて、おじさんと啓一郎さんは持参した缶ビールを手にした。
「ケーキ食べましょう! ケーキッ!」
「まあ! 派手!」
ケーキの箱を開いたら、おばさんは少し大袈裟に驚いた。
「“とにかく赤く”ってオーダーしたので」
小振りのケーキはイチゴのムースがベースになっている。真ん中には真っ赤なソースがたっぷりかかっていて、その周りをたくさんのイチゴと赤いベリーが縁取っていた。“Happy Birthday 康恵さん”というチョコレートプレートの周りに太めのろうそくを6本、ずぶりずぶりと刺していく。
「電気消しましょうか」
火をつけて蛍光灯が消えると、太めのろうそく6本でも顔がやっと認識できる程度になった。
「なんだか懐かしいですね」
夏の終わりにあった停電から、季節はほんのひとつ進んだだけ。それなのに、ずいぶん昔のことに思える。あのときはハイスペックな電灯があって、これよりずっと明るかったけれど、今4人の顔をゆらゆら動く灯りは、懐かしいあたたかみを帯びて感じられる。
「じゃあ歌いましょう。せーのっ! ♪ハッピーバースデートゥーユー♪ハッピーバースデートゥーユー♪」
手拍子をしながら歌い出したのに、おじさんも啓一郎さんも手を叩くだけで後に続いてはくれず、結局わたしひとりで歌い上げる結果になった。
「♪ハッピーバースデートゥーユ~~~♪おめでとうございまーす!」
「ありがとう」
おばさんは3回に分けてろうそくを吹き消した。一瞬真っ暗になったものの、啓一郎さんがすぐに電気をつけてくれる。
「取り皿忘れた。もらってくる」
啓一郎さんはそのまま部屋を出ていき、おじさんはビールのプルトップを開けて飲み始めた。
「ろうそくを吹き消すなんて、いつ以来かしら? 啓一郎の誕生日をしなくなってから、全然やってないわね」
まだ少し高いテンションのまま、おばさんはケーキからろうそくを抜き、ついてきたソースを指ですくって舐めた。
「おいしい。ケーキも久しぶり」
「よかった! そうですね~。悲しいけど、30歳過ぎた息子がケーキのろうそく消してる姿は、ちょっと無理がありますもの」
「30歳どころか、中学生のときにはもう拒否されたわ」
わたしは女だし、誕生日に限らずケーキが食べられる機会を逃すことはなかったけれど、それでもいつしかカットケーキになっていた。母も姉もわたしも、それぞれ好きなケーキを買い、主役だけは2個選んでいい、なんていうルールができていたものの、ホールケーキはしばらく食べていない。
おばさんの誕生日会を拒否した啓一郎さんは、誰にどうやって誕生日を祝ってもらっていたのだろう? おばさんさえ知らないその過去が、少し胸に痛い。
「ねえ、小花ちゃん」
抜いたケーキのろうそくを指先で弄びながれ、おばさんは少し話しにくそうに口を開く。
「啓一郎を、どう思う?」
「啓一郎さん?」
啓一郎さんに対する気持ちはたったひと言で言い表せるけれど、そのひと言ではぜんぜん足りなくて、痛いような胸の高鳴りを浅い呼吸で落ち着けようとする。
「小花ちゃんさえよかったら、啓一郎なんかどうかなー? って思って」
「あの、えっと……」
もうただただ身体が熱くて、けれど啓一郎さん本人にも伝えていないこの気持ちを、おばさんに話してしまうのは躊躇われる。言葉に詰まり、わたしは熱い額や頬をペタペタ触った。
「もちろん、無理にって話じゃないの。小花ちゃんの気持ちが一番大切よ。だけど、啓一郎のことが嫌いじゃないなら、ちょっとだけ考えてみてもらえないかしら? ああ見えて悪い子じゃないのよ」
「はい。それはよくわかってます。ただ……」
ここでわたしが返事をしてしまったらどうなるのだろう? おばさんは喜んでくれるだろうけど、啓一郎さんは?
「母さん、そういうことは本人どうしの話だから」
いつも静観しているおじさんが、珍しく間に入ってくれた。けれどおばさんの勢いは止まらない。
「もちろんそうよ。だからあくまで提案。小花ちゃんがお嫁さんに来てくれたら、きっと楽しいわよ。啓一郎だってまんざらじゃないと思う。それにほら、小花ちゃんが抱えてる奨学金だって、お嫁に来てくれるなら払ってあげられるもの。どうかしら?」
「奨学金……」
わたしの血の気が引いたのと、入り口の襖が開いたのは同時だった。
「母さん、人をお金で買うようなこと言うなよ」
お皿とフォークとナイフを重ねて持っていた啓一郎さんは、慎重に襖を閉めた。
「そういうつもりじゃ……」
厳しく咎められて、おばさんはしょんぼりと項垂れてしまう。おじさんも困った様子で、ビール缶をただ見下ろしていた。あまりにかわいそうな気がして、わたしも慌てて言葉をかける。
「あの! わたし気にしてませんから」
ゴトリとお皿をテーブルに置いて啓一郎さんは冷えた声で言った。
「うん。気にしないで。小花を今日呼んだのも、そんなつもりじゃなかったし。……困らせて悪かった」
「あ、いえ、はあ、そうですよね……。やだな、おばさん。啓一郎さんの気持ちを最初に考えないと!」
「小花ちゃん……ごめんなさい」
「いいんですよ! お気持ちはとっても嬉しかったです。また誰かいいひと紹介してくださいね」
啓一郎さんはまるで他人事で、変わらない淡々とした様子でわたしにナイフを渡す。
「小花、切って」
「えー、わたしこういうの苦手なんですけど」
「だろうな」
楽しそうに笑っていた。さっきまでの話なんて、まるでなかったことのよう。
「シンプルに四等分するだけですよね。五人じゃなくてよかった~」
赤いケーキにナイフを入れると、引っ張られるようにケーキがしずんで形が崩れていく。
「無理に押し切ろうとしないで少しずつ」
おばさんのアドバイスにうなずいてナイフを小刻みに動かすけれど、ふんだんに盛り付けられたベリーがそのたびにポロリポロリとこぼれ落ちる。それはまるでケーキが、痛い、痛い、と赤い涙をこぼしているように見えた。
「あれ? 結構バラバラ……」
十字にナイフを入れただけなのに、カットされたケーキのサイズには差が出ていた。
「半分にした時点でもうズレてたよ」
「わかってたなら啓一郎さんがやってくれればよかったのに!」
「いや、小花は本当に期待を裏切らないと思ったらおかしくて」
わたしは、うまくはしゃげていられただろうか? 例え鏡があったとしても、見ている余裕はなかったからわからない。
「このソース、酸味強いですね」
「あら、さわやかで食べやすいわよ?」
「イチゴもベリーも酸っぱい。……涙出そう」
おばさんは笑顔で、おじさんは黙々とケーキをビールで流し込む。啓一郎さんの顔は、見られなかった。
ペッタン、ペッタン。素足に吸い付くスリッパの音が、真夜中に向かう廊下に響く。あと30分もせずに日付は変わるけれど、深夜2時まで入浴は可能だった。
『先に寝ててください。わたし、貸し切り風呂の方も入ってきたいので』
おばさんにはそう言って、ひとり外に出た。それも嘘ではないけれど、一番の理由は、とにかくひとりになりたかった。
貸し切り風呂は、白木のうつくしい脱衣場と、明るい照明のためにひとりでも怖くはなかった。きっちりとした長方形の浴槽は、大浴場と違って趣には欠けるものの、内湯も露天も広々として清潔感がある。頭も身体もさっき洗ったばかりなので、さっと流すだけにして、早々に露天風呂に移動した。
貸し切りの露天風呂は、どういう理由なのかわからないけれど、翡翠のように澄んだ青色をしていた。大浴場とは違って明るいライトが要所要所に設置されていて周りもよく見える。でも高い柵がぐるりとめぐらされて庭木の類いもないため、柵で切り取られた四角い夜空を、湯けむり越しに見上げるしかなかった。ほうっと息を吐くと、星々はすぐに滲む。浴槽内にタオルを入れてはいけない、というのは常識だけど、涙が入るのはマナー違反だろうか。
モタモタしてないで告白してしまえばよかった。お風呂上がり、変な保身に走らずに想いを告げていたら、と思う。結果的にあれが最後のチャンスだった。
『小花ちゃんが抱えてる奨学金だって、お嫁に来てくれるなら払ってあげられるもの』
おばさんの気持ちは純粋な善意だし、わたしの啓一郎さんへの気持ちだって純粋なものだ。それでもあの言葉で、鍋の中には塩のひとかけらより小さな“打算”が入り込んで、元の味には戻らない。わたしがどんなに「お金じゃない」と訴えて、啓一郎さんがそれを信じてくれたとしても、舌の奥に残るしょっぱさはずっと後を引くだろう。
『“自分にはお金じゃない価値がある”って堂々と言える。俺には無理だな』
啓一郎さんにはお金じゃない価値がある。それを伝えたかった。お母さん想いの啓一郎さんなら、おばさんのためにわたしと結婚するかもしれない。本人も言っていたようにそのうち“情”が芽生えて家族になれるかもしれない。でもわたしが望むのは“情”ではなく“恋”だし、もしうまく行かなくなったときは必ず「お金のために結婚した」という言葉が頭をよぎるだろう。もう、わたしの気持ちは、啓一郎さんに真っ直ぐは届かない。
無理だと理屈でわかっていても、啓一郎さんの過去も未来もすべてがほしかったのに、ただ一片の今さえ思うようにはならないものだ。
美肌にも効果があるという温泉に、塩辛い涙が落ち続ける。今夜の温泉は、ずいぶん肌に悪そうだ。
朝の早い宮前家の人たちはここでも健在で、わたしが目を覚ましたとき、おばさんはすでに朝風呂とお化粧をすべて終えていた。
「朝のお風呂もとってもよかったわ。空気がきれいでね」
何もかもボロボロのわたしは、布団の上で髪をなでつける。
「とりあえず、わたしも入ってきます」
「行ってらっしゃい」
朝の時間帯はさすがに混んでいるかもしれないと思ったけれど、大浴場に向かう気持ちにはなれなかった。ひとりになりたいというよりも、あそこは啓一郎さんとの思い出ができてしまって、今は辛い。だけど案の定貸し切り風呂には『使用中』の札がさがっていて、仕方なく踵を返した。
「おはよう」
背後で引き戸の開く音がして、啓一郎さんの声がした。
「おはようございます」
「今空いたからどうぞ」
引き戸を開けたまま、わたしに場所を譲ってくれる。中から、湿ったあたたかい空気が流れてきて、ほわんと硫黄の匂いがたちこめた。
「ありがとうございます」
啓一郎さんはこくんとうなずいただけで、そのまま行ってしまった。元々言葉数の少ないひとだから、別に不機嫌というわけでもないのだろう。以前ゴミ収集所で会ったときと同じ程度だ。だけど最近は出勤ギリギリまでおしゃべりに付き合ってくれていたし、もう啓一郎さんに無口なイメージはなくなっていたから、今の態度はひどく悲しかった。
「ここ、嫌いになりそう……」
朝の山々に囲まれた翡翠色の温泉は、立ち上る白い湯けむりと相まって女神でも誕生しそうなほどに神秘的なうつくしさだった。けれど、今はとても楽しむ気持ちになれない。時間ギリギリまで入って、全裸で外に立っていてもまったく寒くないほどに身体はあたたまったけれど、気持ちは少しも上向かなかった。脱衣所にある温泉の効能には美肌やリウマチ、腰痛などはあっても、当然「失恋」なんてない。
昨日あんなに食べても、気持ちは落ち込んでも、食欲って湧くものらしい。和洋どちらか選べる朝食で、洋食を選んだわたしの前には、トーストにヨーグルト、牛乳、サラダ、オムレツなど洋朝食のお手本みたいなメニューが並んでいる。レタスの緑色やトマトとイチゴジャムの赤、オムレツの黄色、ヨーグルトに入ったフルーツの色で、色彩は豊か。普段とよく似たメニューでもまったくの別物だ。
「小花ちゃん、具合悪い?」
食欲はあってもはしゃぐ元気まではなく、おいしい朝食を無言でお腹に収めていた。わたしがしゃべらないと、この家の食卓はとてもしずかになる。
「欲張ってお風呂に入りすぎたのか、湯疲れしたみたいです」
温泉はやはりただのお湯ではないようで、あったまった身体がかんたんには冷めにくい。心地よいだるさに身を任せて眠りたい。二度と目覚めなくていいくらいに。
「そうね。本当にすごくよかったもの。また来たいわね」
おばさんはにこにこと何度目かになる言葉を繰り返している。還暦祝いとしては大成功だった。
「そうですね」
おばさんはきっとまたここに来るだろう。わたしもいつかまた来るかもしれない。けれどそれは、別々の旅行だろうなと、鮭をほぐす啓一郎さんを見ながら思った。
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