9. 湯けむりは白くてやさしい
隣県の温泉地と言っても、県境にある山の中にあるため、車だと一時間半ほどで行ける近場にその旅館はある。葉がすっかり落ちた山道は、昼間なら明るいはずだけど、仕事終わりで向かうわたしたちの行く道は、すでに真夜中のよう。
「啓一郎、気をつけてね」
前後に走る車も街灯もないため、頼りは車の ヘッドライトのみで、細くうねる山道を行く。
「大丈夫」
助手席にはおじさんが乗り、おばさんとわたしが後部座席に乗っているけれど、今できることは何もない。もし啓一郎さんが運転を誤れば全員道連れだ。おばさんは座席から身を乗り出すようにしてハラハラ行く先を見守っている。
「おばさん、大丈夫ですよ。ゆったり座って楽しみましょう」
「でも……」
「運転してるのが他の人ならともかく、啓一郎さんですよ?」
「啓一郎だって失敗することはあるわ」
「そうじゃなくて、啓一郎さんの運転なんだから、最悪死んでも諦めつくじゃないですか。これが社員旅行だったら別です。あの部長と心中なんて耐えられない! なんとしてもヤツだけ死んでもらいます!」
大袈裟な言い回しになるけど、誰かの運転する車に乗るということは命を預けるということだ。それなら啓一郎さん以外いないじゃない。他のひとなら、わたしももう少しハラハラしていた。
「崖っぷち走ってるわけじゃないから、死ぬようなことにはならないよ」
視線は行く先からチラリともそらさないまま、啓一郎さんは苦笑した。そうは言ってもやはり見通しは悪い。わたしなら細心の注意を払っても木に激突する自信がある。啓一郎さんも少し前屈みになって運転に集中していた。出発してから30分。あと一時間こんな様子では、着いた頃には疲れ切ってしまう。
「あ、じゃあ、啓一郎さんを除いたわたしたち3人でしりとりしませんか?」
山道だからラジオも入らず、なかなか会話も弾まない。啓一郎さんを巻き込むのは危ないから外れてもらって、少しはおばさんの気を紛らわしてあげたい。
「わたしから行きますね。しりとりの“り”から……“リンスインシャンプー”はい、おばさん。“ふ”でいいですよ」
しりとりとは不思議なゲームで、やる気がなくてもお題を振られるとつい考えてしまうものだ。
「“ふ”……“双葉”」
「おじさん、“は”です」
おじさんは困ったように一瞬振り返ったけれど、何も言わず付き合ってくれた。
「……“ハト”」
「わたしですね。“と”……“吐血”」
「“つ” ……“積み木”」
「おじさん、“き”ですよ」
「……“キツツキ”」
「また“き”か。じゃあ、わたしは……“危険思想”」
「“う”……“海”」
「……“道”」
「“痴漢冤罪”」
「“い”……“イス”」
「……“スイカ”」
「“肝機能障害”」
「“い”……“石”」
「……“白魚”」
「“老いらくの恋”」
「“の”が入ったらダメだろう」
おじさんから冷静な指摘が入る。“老いらくの恋”はこれでひとつの単語だと思うけど、これは楽しむためのゲームだから引き下がっておこう。
「そうですね。じゃあ、“踊り念仏”!」
「小花~~~っ!!」
行く先を凝視したまま、力の抜けた身体を支えるように、ハンドルにもたれかかっている。
「なんですか? 啓一郎さん」
「“踊り念仏”ってなんだよ」
「わたしもうろ覚えなんですけど、確か一遍上人が全国を回りながら広めた教えで……」
「そうじゃなくて、」
啓一郎さんは何かをこらえながら必死に前を向いている。
「そのしりとり、むしろ危ない」
積極的に死にたいわけじゃないので、無難な会話(ラ・フランスとキャラメルのケーキを食べ損ねた怨みつらみを含む)を心掛け、予定通り7時半に宿に着いた。
「啓一郎さん、お疲れ様でした。お腹すきましたね」
「わかってたことだけどギリギリだな」
時計を見ながら残念そうに言う。温泉の醍醐味のひとつとして、まずひと風呂浴びてから食事する流れがあるけれど、今回それは諦めなければならない。
山の中はひときわ冷え込み、吐く息が白く夜空に上っていく。
「寒い! 温泉がますます楽しみです。わたし多分おばさんより満喫する自信ありますよ」
「それでいいよ。俺や父さんに、それはしてあげられないから」
この家族にはこの家族の素敵な雰囲気があると思うのだけど、中にいるとその価値は見えにくいのかもしれない。
おばさんがお手洗いに行っている間に、用意しておいたケーキを旅館の人に渡した。啓一郎さんは宿泊の手続きを終えて、あとは案内を待つだけ。
「啓一郎さん、これ」
封筒を差し出すと、察した啓一郎さんはそれを押し戻した。
「俺が頼んで来てもらったんだからいらない」
「そういうわけにはいきません。わたしは自分の意志で来たんですから」
まったく相手にしようとしない啓一郎さんの荷物の上に封筒を乗せる。
「わたし図々しい性格なので、ごちそうになるときは遠慮しません。今回は受け取ってもらわないと、わたしが楽しめないんです」
封筒を拾い上げ、尚も納得しない啓一郎さんに笑顔を向けた。
「そのお金で、今度は何か豪華な食事をごちそうしてください。今回の打ち上げとして。そうだなあ、あんこう鍋とかいいですね。だから今日は、一緒におばさんをお祝いしましょう」
啓一郎さんはふっと笑って、封筒をポケットにしまった。
「あんこう鍋、結構高いよ。ふたり分だとこれで足りるかな」
「足りない分は奢ってください。そのときは遠慮しませんから」
結局わたしとおばさんが相部屋となり、8畳ほどの和室に荷物を運び込んだ。
「真っ暗で景色なんて見えませんね」
旅館は山の中腹にあるから窓からは山の木々が見えるはずだった。今は外が暗いせいで、窓ガラスに映った室内の様子しか見えない。温泉地なので他にも温泉宿はたくさんあるけれど、それぞれ距離があって喧騒は届いてこない。
「本当にしずかでいいところね」
荷物は丸投げしていたわたしに対して、おばさんはコートをハンガーにかけ、ボストンバッグから貴重品だけを小さなポーチに詰め替えている。
「温泉の他にはアミューズメントないですけどね」
おばさんもわたしの隣に並んで、真っ暗な山なのか、部屋の中なのかを眺めた。
「温泉地って賑やかだとゴミゴミしてるところも多いから、わたしはこういうところの方が好きよ」
おいしそうなお茶菓子(売店で好評販売中)を楽しむ間もなく夕食の時間になり、そろって食堂に降りた。おじさんとおばさんが並んで座ったので、向かい側に啓一郎さんと並んで席に着く。
「わー、わたしのときよりずーっと豪華!」
まぐろ、サーモン、鯛のお刺身、銀ダラの照り焼き、茶碗蒸し、ナスと大葉とえびと舞茸の天ぷら。ひとり用の鍋の中には鶏つみれやお豆腐、きのこなどが入った豆乳鍋がろうそくであたためられている。さらにこれからステーキ肉とお蕎麦、デザートのフルーツが控えていて、希望により白ご飯かおにぎりもつく。
「食べ切れるかなあ?」
「食べ切るつもりだろ、小花は」
日本酒のメニューを眺めてビールを待つ啓一郎さんに、そっと耳打ちする。
(食後のケーキまで考えてるんですよ)
(だから、それも含めての話だよ)
おじさんと啓一郎さんのビール、おばさんとわたしの烏龍茶が届いて、みんなグラスを持ち上げた。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
乾杯するポーズのまま全員黙って誰かが発言するのを待っている。
「……………啓一郎さん」
「……………」
「ここは啓一郎さんですよ」
「小花に譲る」
「はあ!? わたし完全なる部外者ですから!」
「そんなことは関係ない。向き不向きの問題」
「小花ちゃん、」
主賓であるおばさんがしびれを切らして言う。
「小花ちゃんにお願いする。啓一郎やお父さんにやらせたら、いつ食べられるかわからないから」
「……そうですか? では、ご指名ですので簡単に」
ものすごく居心地が悪いのだけど、もぞもぞ姿勢を正して気合いを入れた。
「おばさん、お誕生日おめでとうございます。これまでもたくさんいいことも悪いこともあったかと思いますが、こうして還暦を迎えられたことは本当に素晴らしいことだと思います。これからも健康で幸多い人生が長く続きますように! かんぱーい!」
「乾杯」
「乾杯」
「ありがとう!」
啓一郎さんはああ言ったけど、さすがに全部食べ切るのは難しそうなボリュームがある。
「これ、何かな?」
小さなピンク色のグラスに黄金色の液体が入っている。
「食前酒じゃないかしら」
おばさんはそっと口をつけ、次の瞬間うっと眉根を強く寄せて咳き込む。
「リンゴのお酒ね。甘くておいしいけど、ものすごく強い。私は無理」
「どれどれ?」
グラスに唇がつく前からさわやかな香りが鼻を抜けた。ただ、硫酸でも飲んだかと思うほど、液体に触れたところからビリビリ熱を持ち、ほんの少量で胃まで真っ赤に燃えるようだった。
「本当だ。すっごく強い。でもおいしいですね。気持ちとしてはジョッキで飲みたいくらい」
気持ちと実際は別問題で、舌と喉を焼きながらちびちびと舐め続ける。
「あげる」
啓一郎さんがわたしの方に食前酒のグラスを押しやった。
「これも。俺は甘い酒苦手だから」
と、おじさんも。
「いいんですか? あ、天ぷらひとつと交換しましょう。何が好きですか?」
「そんなのいらないよ」
おじさんは遠慮したけれど、天ぷらのかごを押し付けた。
「助けると思って」
おじさんが大葉を、啓一郎さんが舞茸をそれぞれ取った。
「ふたりともやさしいー。わたしならエビ取っちゃうな」
まぐろにつけたワサビに涙し、茶碗蒸しでやけどし、残してくれたえび天にかぶりつく間にも、リンゴのお酒を舐め続けた。ジョッキいっぱいには程遠い量だけど、週末仕事終わりで移動した疲れもあってか、頭の芯がぼうっとする。
「酔っぱらっちゃったー」
「あらあら大丈夫? お風呂入れそう?」
「そこまでヘロヘロじゃないので大丈夫です。だけど、ものすごーく気分いいですー」
「それはよかったわ」
へろへろ笑うわたしに、ほほほと上品に返す。おばさんは食前酒を舐めただけだし、おじさんと啓一郎さんはビール2~3杯では酔った気配もない。
「啓一郎さんはちゃんと酔ってます?」
「飲んでるんだから酔ってるよ」
「嘘嘘嘘嘘! 飲んだふりして、そこの植木鉢にでも捨ててるんじゃないんですかー?」
「なんのために」
わたしが啓一郎さんに絡んでる隙にも、おじさんは何杯目かのビールを注文している。
「お酒強いのはおじさん譲りですかねえ。お酒の失敗なんてなさそう」
「ないな」
「小花ちゃんはあるの?」
熱々のお鍋にもがっついてやけどすることなく、おばさんは冷ましたつみれに舌鼓を打っている。
「そうですねー。いろいろあるけど、最近ひどかったのは去年の忘年会で、トイレから戻ったら部屋を間違えたことです」
同じ襖が廊下に沿って並ぶ造りだったために、右なのか左なのかわからなくなったのだ。
「お膳の内容も一緒で、食べたはずの土瓶蒸しが丸々残ってたんです。『食べてなかったんだ! やったー♪』っておいしくいただきながら、隣のひとと楽しくおしゃべりしてたんですけど」
「気づかなかったの?」
おばさんも鍋を往復させていた箸を止める。
「『初対面のひと多いなー』ってくらいでした。で、中締めの挨拶した部長に心当たりがなくて……」
「どうしたんだ?」
過去の話にも関わらず、啓一郎さんは心配そうな表情を浮かべて言った。
「トイレに立つふりで逃げました」
「申し訳ないんだけど、」
おじさんがステーキの付け合わせの人参をポンッと口に放り込んだ。
「それは酒の失敗じゃなくて、ただの失敗じゃないかな」
くすくすとおばさんが笑って、足りない言葉を補足する。
「つまり、小花ちゃんなら酔ってなくてもやりそうだってことね」
「そうだな」
啓一郎さんも深く同意。
「え? え? わたしの評価ってどうなってるんですか?」
「いいの、いいの。それが小花ちゃんのいいところなんだから」
いいところかどうかはさておき、褒められるのは悪い気がしないので、またすぐにへろへろと笑う。
「おばさんがそう言うなら、まあいっか」
末席を汚しているだけのわたしが一番酔うという失態だった。それでも宮前家のみなさんは酔ったわたしを肴に食事を楽しんでくれていた。
「おばさんが人生で一番幸せだったことって何ですか?」
わたしは啓一郎さんと出会えたことです~。
「そうねえ。月並みだけど、啓一郎が生まれたことかな」
「なるほど~」
同じ意見だなんて、気が合いますね!
にやにやと啓一郎さんを見たけれど、相変わらずの顔色でパイナップルを食べている。当たり前だけど、このひとはおばさんから産まれたのだ。おじさんとおばさんに、心から感謝したい。
「啓一郎さんってどんなお子さんだったんですか?」
「その話はしなくていい」
本人の許可は下りなかったけれど、おばさんはさらっと無視した。
「とにかく人見知りでおとなしくって、幼稚園に馴染むのも一年以上かかったから心配したの」
「今とあんまり変わってませんね」
「だから小学校入学もかなり心配だったんだけど、近所のかわいいお姉ちゃんが一緒に連れてってくれて、意外にもすんなり馴染んだのよね」
「へー」
このオレンジ、味うっっすい!!
お皿に残ったオレンジの皮をフォークでザクザクと突き刺した。
「なんかちょっとそのときのこと思い出して。小花ちゃんがいると、啓一郎もよく話すから」
ほほー、人見知りの啓一郎君も、そのお姉さんとはよく話したんだ。ふーーーーん。
「話しかけられたら嫌でも答えるよ」
不貞腐れたような態度で啓一郎さんは言った。まるで仕方なく付き合ってやってるかのように。
「それに、小花の発言って放置したら危険なこと多いし」
突き刺し過ぎて、オレンジの皮はペナペナになっていた。
「すみませんでしたっ! 話しかけないように気をつけますから、どうぞ放置してください」
やっぱりわたし、酔っぱらってる。いつもなら笑って流せる言葉にイライラして仕方ない。
「まあまあ、喧嘩しないで」
主賓であるおばさんに気を使わせてしまい、反省してペナペナのオレンジを解放する。
「すみません。空気悪くしちゃって。さて、熱いうちにお蕎麦食べよーっと!」
精一杯笑顔を作ってみたけれど、さっきまでのへろへろとしたものにはならず、うまく場か収まった自信も持てなかった。
貸し切り風呂は空いてさえいれば、何分でも何回でも利用していいことになっている。利用者は“使用中”の札を出して、鍵をかけるだけでよかった。
「ごめんね、小花ちゃん。お先に使わせてもらうわね」
「わたしは大浴場の方に行きますから、存分に浸かってきてください」
おばさんが貸し切り風呂を使うので、こだわりのないわたしは宣言通り大浴場に向かった。浴衣はうまく着られないので、パジャマにもなるルームウェア持参。お風呂のあとは、おじさんと啓一郎さんの部屋で、もう少し飲むことになっていて、ケーキはそのとき出す予定になっている。
小さな旅館だからか、お客さんも少なくて、廊下を歩いてもさほど人と会わない。従業員さんも見かけなくて、夜の山に取り残されたような、少しさみしい気持ちになって、大浴場までの廊下を小走りで駆け抜けた。
「あ……」
廊下の先に啓一郎さんがいた。わたしを見ると少し困ったような顔をして、
「小花」
と呼ぶ。「啓一郎さんもお風呂ですか? 一緒ですね」いつもならスラスラ出てくる言葉が出なかった。ここでちゃんと話をした方がいいことはわかっているのに、何か自分の中に意地が残ってそれをさせてくれない。元来話しかけることが苦手な啓一郎さんではこの空気を打破できず、わたしは無言のまま女湯ののれんをくぐってしまった。
ここって貸し切り風呂だっけ? と一度外を確認したほど、誰もいなかった。脱衣場は換気扇の回る音しかせず、わたしのひそかな足音が一番大きいほど。ムードを出すために抑えられた照明は暗くて、何か別のムードを醸し出している。
カラララララ……
サッシの音が広い内湯に反響する。洗面器を置く音、バスチェアーを引きずる音、シャワーの音、全部わたしひとり分。頭からシャワーをかぶって目を閉じると、不安は一層強くなった。誰もいないのに誰かいるような気がして背中がぞわぞわする。ふと、誰かの声がしたような気がしてシャワーを止めて振り返る。けれど、そこにあるのは広い内湯と、内湯より一層暗い露天風呂だけ。露天風呂の様子は暗すぎて、こちらからはよくわからない。ただ、見つめていると、見えてはいけないものまで見えてしまいそう……。
ピチョン。
しずか過ぎる浴室に、水がしたたる音が響いて、心臓がキュッと縮まった。天井から水滴が落ちるなんて当たり前のことなのに、恐怖感が増す。
ピチョン。ピチョン。
「やっぱり……明日の朝入ろうかな」
中途半端に濡れた髪の毛から、冷たくなった滴が背中を伝う。相変わらず誰か入ってきてくれる気配はないし、今ならまだ乾かすのも早くて済むだろう。軽く身体をシャワーで流し、いそいそと帰り支度を始めたとき、
カラララララ……
サッシの音が浴室内に響いた。期待して目を向けたけれど、出入口のサッシは閉じたまま。
カコン。ズズズズズ。シャーーーーッ!
音は続いている。どうやら男湯の方らしい。姿は見えないけれど、誰かの気配があるだけで、今までの不安は少なくなっていた。帰るのはやめて、ふたたびシャンプーをしながら、壁の向こうの音を拾う。身体を洗っているのか、今はシャワーの音もせず、さっきまでと似たような静けさに戻っていた。ふたたび不安になって、向こう側の音を待つ。するとときどき、洗面器に手を入れるような小さな水音はしている。
「……啓一郎さんですか?」
突然思い至って、声を掛けてみた。向こう側の物音もひとり分。もし違ったら、鉢合わせないように逃げてしまえばいい。こちらを伺うような気配が続いていて、しばらくしずかだったけれど、
「小花?」
と躊躇うような返事があった。
「よかった! 啓一郎さんで。おひとりですか?」
「ひとりだけど」
「こっちもわたしひとりなんです。それで、なんだか怖くって、諦めて帰ろうかと思ってたんです」
暗くて広い浴室にひとりという恐怖感と、顔が見えない環境のせいで、さっきまであった溝を忘れて話しかけていた。壁の向こうに啓一郎さんがいると思うとずっと安心できて、わたしはふたたび身体を洗い始めた。
「啓一郎さん」
「なに?」
「何か話すとか、音出してください。そうじゃないとさみしい」
カコンと洗面器を置く音と、お湯を出す音がする。そしてわざと大きくしたように荒く身体を擦る音が続いた。
「そんなに強くこすったら皮膚ズル剥けませんか?」
「小花が音出せって言ったんだろ」
「話すとか歌うとかすればいいのに」
「歌うよりならズル剥けた方がいい」
バシャン。カコン。シャーーーッ! 目を閉じても少し大袈裟なその音はちゃんと聞こえる。
「わたし終わったんですけど、終わりました?」
「まだもう少し」
「じゃあ内湯に入って待ってますから、終わったら教えてください。露天風呂に行きたいです」
返事の代わりに、カコンと洗面器が鳴った。
低い気温と熱いお湯のせいで、露天風呂は湯けむりで真っ白だった。岩を並べたようなつくりは不安定なのに、足場も底も見えにくい。寒くて飛び込みたい衝動に耐えて、慎重に足を入れる。
「ううーー、あったかい! 啓一郎さん、入りましたか?」
「入った」
反響のない露天風呂はさっきより声が拾いにくい反面、距離はすぐ近くになったような気がする。
「湯気で景色もよくわからないですね。あ、でも星きれい」
もくもくと上がる湯気に掻き消えることなく、ザラザラとたくさんの星が夜空に散らばっていた。
「こっちは月も見える」
「わたしの方からは見えません」
温度が高いせいか肌がピリピリと熱くなり、足場の段差に腰掛けて半身を夜空にさらした。
「啓一郎さんってば。何か話してくれないと怖くなります」
影しか見えない庭木が背中の後ろでザワザワと揺れる。明るいときならばリラックスできるそれも、今は怖かった。
「小花」
「はい?」
「さっきは悪かった」
蒸し返されるとは思わず、息を呑む。
「小花と、仕方なく話してるわけじゃない。俺は話を切り出したり、繋げることが苦手だから、むしろ助かってて……その……」
ザワザワと枝が鳴る。露天風呂に注ぎ込むお湯とその枝の音しか聞こえない。星の方がうるさいくらいに、啓一郎さんはまた黙ってしまった。
「わたしがいた方が楽しいですか?」
「それはもちろん」
「おばさんが?」
ちゃぷ、という音しか聞こえなくなった。お湯に入って男湯の近くに移動する。そして啓一郎さんに繋がる石壁を叩いた。
「わたしがいて楽しいのは、おばさんだけ?」
「……俺も楽しい」
「よかった!」
遠くでザワザワと木々の枝を揺らす音がして、数拍遅れてこの庭木の枝も揺れた。大きく強い風は冷たくわたしの顔を叩いて去っていく。
「……寒い」
石壁の向こうで声がして、ちゃぷんと水音も聞こえた。こうして仕切りで分かれていても、同じお湯、同じ風の中にわたしと啓一郎さんはいるのだ。
「啓一郎さん、ペナルティとして、恥ずかしかった過去をひとつ暴露してください」
「ええっ!」
「さあさあ、早く」
啓一郎さんが黙ってしまうと、わたしはひとりぼっちになる。それでもさっきまで感じていた恐怖感はもうなくて、むしろ星のまたたきは輝きを増して見えた。
「……小学校のとき、」
注ぐお湯の音に紛れそうな声で、啓一郎さんは話し出す。
「井山誠一郎君っていう絵のうまい子がいて、全国のコンクールで入選したんだ。当然全校集会で表彰された。俺はそれをぼんやり見ていたんだけど、突然名前を呼ばれた気がして慌てて『はいっ!』って返事したら……」
くくくくっと笑いが漏れて、あったまった手で口を押さえたけれど、きっとバレてしまっただろう。
「似てますね。『いやませいいちろう』と『みやまえけいいちろう』」
「全校生徒に笑われた」
「あはははは! かわいいなあ!」
自分も笑って誤魔化すなんて器用なことはできないタイプだから、その時間は長く辛かったことだろう。タイムマシーンがあったなら、笑われている啓一郎君の元に走って行って抱き締めたい。
「よくありますよね。わたしも公園で名前呼ばれて返事したら、犬の名前だったってことが何回もありましたよ」
「犬?」
「『ハナ』って犬、近所に2匹くらいいたんです」
「そういえば従兄弟の家で飼ってたネコも『ハナ』だったな」
「単純過ぎるんですよ、ネーミング! わたしももっと派手な名前ならよかった」
「例えば?」
「うーーーーん、『胡蝶 蘭』とか?」
「名字まで変わってるぞ」
「『
「だから名字……」
のぼせてもいいからこのままずっと話していたいような、さっさと上がって顔を見たいような不思議な気持ちだった。文字通り石にかじりついて会話を続けていたけど、
「さすがにもう上がろう。これ以上は危ないから」
と言われてしまった。立ち上がるとくらくら目の前で星が舞う。あ、本当に危なかったんだってようやく気づいたけれど、それでも名残惜しさは消えなかった。
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