8. デートは秋色をまとって

 ハニートーストのモンブラン乗せ。安納芋タルトのバニラアイス添え。 シャインマスカットパフェ。秋の味覚はおとめ心をくすぐり、エンゲル係数高くわたし肥ゆる秋……。

 停電で仕事が止まったせいかバタバタした週明けを迎え、バタバタしたまま毎日が過ぎて行く。段階を踏まずに急激に気温は下がり、秋冬物を取り出すためにひっくり返したクローゼットもそのまま。忙しい毎日に痩せ細るのは思いばかりで、身体の方はなぜか楊貴妃街道爆進中……。


「あ、もうこんな時間!」


 ヨーグルトの残りを口に突っ込んで、空はゴミ袋に投げ入れる。身支度を整え、動きの鈍くなった身体とゴミ袋を抱えて家を出たのはちょうど7時23分。


「おはようございます!」


 間に合った!


「おはよう」


 規則正しい啓一郎さんは、今日もいつもと同じ時間に両手にゴミ袋を提げて現れた。夏のようなワイシャツ姿ではなく、チャコールグレーのスーツを着込んでいる。


「あ、そのネクタイ。この前食べたモンブランの栗とよく似た色です。似合ってますよ」

「褒められた気がしない」


 両手に持っていたゴミ袋を一度地面に置いて、片手でボックスの蓋を押さえて自分の分、それからわたしの分も入れてくれた。


「ありがとうございます。あ、おはようございます」

「おはようございます」


 顔だけは知ってる近所の奥様がゴミ袋をふたつ抱えてきた。啓一郎さんはもごもごと「おはようございます」と言ったけれど、ちょうど車が通りすぎたタイミングだったから、伝わったかどうかあやしいものだ。それでも奥様のゴミ袋も受け取って入れてあげている。


「すみません。ありがとうございました」


 笑顔で頭を下げる奥様に、軽く会釈だけして応えている。奥様が背を向けて帰って行くのを確認し、元来た道を一緒に戻りながら、わたしは啓一郎さんに説教を始めた。


「啓一郎さん。ちゃんと挨拶返してるのに、きっと届いてませんよ」


 元からハキハキしたタイプではないけれど、慣れた人と話すときはちゃんと話せる。それが親しくない相手になった途端、唇の内側から言葉が出ようとしないみたいなのだ。


「……慣れない人と話すのは苦手で」

「よくそれで仕事できますね」

「仕事になれば平気。共通の話題に困らないし」

「言えばいいってものじゃないですよ。挨拶なんて伝わってないと意味ないんですから。啓一郎さんが失礼なひとだと思われるのは嫌です」

「……気を付けます」


 たったこれだけの会話で、もう家には着いていた。朝の時間は金より大事だから、引き留めるわけにはいかない。じゃあ、と帰ろうとすると、


「小花」


 と珍しく呼び止められる。何かを期待して胸を高鳴らせるわたしに、啓一郎さんは少し照れたようにうつむきながら言った。


「女のひとって、何をもらったら喜ぶのかな?」


 秋どころか、真冬の寒風が心臓を抜けて行った。


「………そんなの、人それぞれでしょ」


 わたしの声も吹雪のようだった。悩んでいる啓一郎さんはそれに気づいた風ではない。


「それはそうなんだけど、参考までに聞きたくて。他に相談できる人もいないし」


 それでもよりによってなぜわたしなのか。イライラしすぎて、さっき食べたばかりの白っぽい朝食が逆流してきそうだ。


「職場にも女のひとはいるでしょ? あとはおばさんにでも相談すれば?」

「それはできればしたくない。母のだから」

「おばさん?」


 なーんだ、おばさんかあ。“女のひと”なんて紛らわしい言い方しないでよ。

 心の中の雪は一瞬で解け、さらさらと春の小川が流れ出す。


「来月末に母が還暦を迎えるんだ。毎年特に何もしてこなかったけど、さすがに無視するわけにもいかないなって」

「……他に相談できる人、いないんですね?」

「職場の人にこんな相談持ちかけたことないし、小花ならうちの母を知ってるし」

「相談乗ります! ちゃんと考えます! だからご飯食べながら話しましょうよ!」

「……目的は食べ物か」


 いえいえ目的は……と親切に忠告したがる天使を心の中でタコ殴りにして、無邪気風の笑顔を作り込む。


「気になってるパンプキンタルトがあるんですよね~」


 啓一郎さんはくつくつと笑ってポケットから名刺を取り出した。


「何でもごちそうするから、都合いい日連絡して」


 裏に走り書きされた文字は、さらさらと書いたにも関わらずきちんと整った文字だった。


「何でもいいんですね?」

「何でもいいよ」

「何個でも?」

「何個でもいいよ。あ、ごめん。もう行かないと」


 時計を見て、大股で急ぐ背中に両手を振った。


「行ってらっしゃーーい!」


 啓一郎さんは一度振り返って笑ってくれた。


「小花も。気をつけて」


 車が出て行くまで見送って、わたしも自転車を引っ張り出した。身体の内側から溢れるエネルギーのままに漕いだら、ものすごいスピードになり、いつもは降りて自転車を引く橋の上り坂も、その勢いのまま駆け抜ける。


「きゃあーーーーー!」


 自転車任せの下り坂で見上げた空は抜けるように青い。女心と秋の空は、今日も快晴!



 「パンプキンタルトが食べたい」と言ってしまった手前、それがあるカフェに啓一郎さんを呼び出した。郊外のショッピングモールの一角にあるので、わたしは仕事終わりにバスで、啓一郎さんは車でそれぞれ向かう。


「ごめん。ちょっと遅れた」


 約束の6時半を3分しか過ぎていないのに、律儀なひとだ。


「大丈夫ですよ。とりあえず注文しましょうか」


 カフェなので軽食に近いものしかメニューになくて、悩む啓一郎さんに声を掛けた。


「付き合わせてごめんなさい。食べたいもの見つかりそうですか?」

「いや、付き合わせたのこっちだから。こういうところ久しぶりで、ちょっと物珍しいだけだよ」


 時折、啓一郎さんの背後に女性の気配を感じることがある。人見知りで照れ屋のくせに、自然と女性にペースを合わせるときとか。『こういうところ』『久しぶり』なら、以前は誰かとカフェに来ていたんだなってこととか。


「わたし、魚介のトマトリゾットとパンプキンタルト。あとブレンドコーヒー」

「じゃあ俺は、きのこのトマトソーススパゲティとブレンドコーヒーで」


 店員さんが下がると、


「さっそくですけど」


 と切り出した。こうして会うのはあくまで目的があるからで、わたしもそれに関しては真剣に考えてきたのだ。


「還暦祝いってお話でしたけど、特別『還暦』を意識する必要ないと思うんです。還暦って言えば赤いちゃんちゃんこのイメージですけど、そんなのみんな欲しくないでしょ?」


 商談でもするかのように啓一郎さんは背筋を伸ばして真剣に耳を傾ける。


「特に啓一郎さんはこれまで何もしてこなかったんだし、お祝いするだけでも十分特別なんです。だから、迷惑にならないものであれば何でも喜ばれると思うんですよね」


 一般的なものの参考として、サイトからプリントアウトした人気のプレゼントランキングをいくつか示す。


「おばさんはお花が好きだし、ブーケは間違いないと思うんですけど、もう少し何かあった方がいいですよね? 多分そんなに高価なものを喜ぶようなひとには思えないから、普段使いできるものがいいかな。だから、こういう貴金属とか高級バッグはなしですね。バッグでも、普段のお買い物に使えるものならいいですけど、それだと値段的に安すぎるし」


 ランキングのオススメにはマーカーで印をつけておいた。


「だからこの中ならお財布か時計がいいと思うんです。これなら多少高価なものでも日常的に使えますから。ブランドを押し出したものじゃなくて、あくまでおばさんの好みで選ぶのがいいと思います」


 見本の写真を眺めながら、啓一郎さんは「なるほど」とつぶやく。しかしすぐに紙をテーブルに戻して眉を下げた。


「母の好みがわからないんだよ。女のひとって、たとえば『花柄が好き』って言っても結局は『花柄なら何でもいいわけじゃない』ってなるだろ? そこが難しいよ」


 『花柄が好き』だったのは、“瑠璃さん”かな? その想像はわたしの気持ちを沈ませたけど、お水をひと口飲んで落ち着けた。


「そうですね。高価なほどリスクもあります。なので、『もらって迷惑にならないもの』という観点でも考えたんです。オススメは食べ物とか化粧品なんかの消耗品ですね。ただ、食べ物だとお歳暮っぽくなっちゃうし、息子から化粧品ってちょっと微妙なんですよね」


 “○○牛サーロインステーキ”なんてもらっても、おばさんは普通に夕食のひと品にしてしまいそう。また息子とは言え、男性に美容のことを言われるのは、気持ちのいいものとも思えない。


「あと、わたしの母親にリサーチしたら、洗濯機が欲しいって言ってました。家電とかちょっといいお布団とかも喜ばれそうですけど、ムードはないですよね」


 数だけはたくさん挙げたつもりだけど、啓一郎さんの表情は一向に良くならない。


「家族で外食するくらいがいいのかな」


 どれもピンとこないようで、啓一郎さんも諦め気味にそう言う。


「あ! だったら旅行をプレゼントしたらいいんじゃないですか? 家族旅行!」

「旅行か……」


 初めて啓一郎さんの表情が明るくなった。


「母さん、温泉好きだったんだよ」

「だったら決まりです。温泉旅行にしましょう。これからの季節は特にいいですし」


 口を固く結んだ啓一郎さんがテーブルに身を乗り出してきた。不思議に思って近づくと、声をひそめて言う。


「母の病気のことは?」

「聞きました。乳ガンだったって」


 啓一郎さんは言いにくそうに更に声を小さくする。


「母はそのせいで、……その、……片方、取ったんだよ」


 口に出しにくいことだとわかったので、小刻みに強くうなずいた。


「だから温泉は無理なんだ。本人が一番気にしてることだから」


 命が助かったのだから何でもいいというわけにもいかない。コンプレックスを抱えてしまう気持ちは同じ女性としてよくわかる。自分でも見たくないと思うから、他人の目にさらしたくないだろう。


「じゃあ、温泉以外のどこか観光地ですかね?」

「父親が人混み嫌いで。だから旅行ってほとんど行ったことない」


 このタイミングでリゾットとパスタが運ばれてきた。赤いソースにエビ、イカ、ムール貝。啓一郎さんのパスタも彩りがきれいなのに、頭を使っているせいかお互い楽しむ間もなくかき混ぜてしまう。

 おばさんならどこが一番楽しめるだろうか? あまり騒がしくなく、ゆっくりできて、他人に気兼ねしなくてもいいような。


「京都、金沢、北海道、人気の観光地はどこも人多そうだし。高原は夏のイメージですよね。おばさんのために指宿まるごと貸し切れたらいいのに。……ああっ!」


 急に声を上げたので、店内の視線が集まってしまった。ペコペコ頭を下げて謝罪してから、啓一郎さんに提案する。


「近場になっちゃうんですけどね、貸し切りできる温泉があるんです。隣県の小さな温泉宿で、空いていればいつでも何回でもお風呂を貸し切れて、内風呂も露天風呂もあるんですよ。家族でもゆったり入れるくらい広いしきれいだし、ご飯もおいしかったです」


 部屋に露天風呂がついたホテルなんかも多いけれど、余程の高級旅館でもないとサイズは小さなものだ。それに比べて、普通の旅館の大浴場クラスのお風呂を独り占めできる贅沢はそうそうない。


「学生時代に友達と行ったんですけど、ものすごくよかったです。小さな旅館だから宿泊客も少なくて、宿ごと貸し切った気分になるんですよ。それでちょっとお話できない醜態も晒しました」

「それは言わなくていいよ」

「ちなみに学生でも楽に行けるくらいのお値段でお得なんですよね」

「そこ教えて」


 作ってくれた人に申し訳ないないほど、啓一郎さんは残りのパスタをやっつけ仕事のように片付けて、携帯で予約を取る。


「大人3人だと2部屋か。部屋取れるかな?」

「そうですね。小さい旅館だから、そもそもの部屋数もありませんでした」


 携帯を操作する啓一郎さんを盗み見ながら、少し冷めたリゾットを黙々と食べた。酸味があって魚介の味が濃くておいしいけれど、お米ならばやっぱり土鍋で炊いた白ご飯の方が好きだと思った。特に今は新米の季節。


「小花はいつも、仕事は何時に終わるの?」


 頬杖をついてディスプレイを見下ろしながら、啓一郎さんはそんな質問をしてきた。


「うーんと、定時に上がって何もなければ、6時前には家にいますね」


 こくんとひとつうなずいてから口元に軽く手を当てて、いくつかタップを繰り返す。


「……やっぱり、今からだと土曜日の夜は予約取れないな」


 そもそも貸し切り風呂はどこも人気で、場合によっては半年先、一年先の予約も当たり前なのだ。おばさんの誕生日は来月末。今は月初めだけど2ヶ月を切っている。


「金曜日ならまだ空いてる」

「都合つくなら金曜日でもいいかもしれませんね」


 携帯を置いて、啓一郎さんはお水を飲む。そして結露で濡れた手をおしぼりで何度も拭いた。


「それで……もしお願いできるなら、小花も一緒に行かない?」

「は? わたしですか?」


 啓一郎さんは大真面目にうなずいた。


「空きは2部屋あるみたいだし、せっかくだから人数は多い方がいいかと思って」

「いや、でも、わたし完全な部外者ですよ?」


 ただのお食事会ならまだわかるけど、これは家族旅行。そこに隣人でしかないわたしが入っていいものなのか。


「小花がいてくれた方が明るくて楽しい」


 停電の夜のように、啓一郎さんは言う。


「母は喜ぶから」


 何度も言われた、嬉しいけれど、どこか喜び切れないこの言葉。言葉通りなのか、それ以上の意味を含んでいるのか、まだ判断はつかない。


「わたしは構いませんよ。だけどまず、おじさんとおばさんの気持ちをよーく確認してくださいね。部屋割りについても、3人と1人に分かれるのか、2人ずつに分かれるのか。わたしはどっちでも大丈夫なので、おばさんに聞いてみてください」

「ああ、そうか。部屋割り……」


 広い部屋ではなかったから、基本的には2人1部屋をイメージしているようだけど、状況によっては融通してくれるだろう。


「啓一郎さんとおじさんの二人部屋……何話すんでしょうね? だけどわたしとおじさんだと、ジェネレーションギャップがすごそう」

「そこは話題の問題じゃないだろ……」

「あ! 来た!」


 メインとも言えるパンプキンタルトとコーヒーが運ばれてきて、わたしはうきうきとテーブルの場所を作った。


「きれいですねー!」


 黄色いパンプキン生地の上に、真っ白でふわんふわんのホイップクリームが流れるようなドレープを描いている。


「いただきまーす!」


 ホイップクリームに手応えはなく、その下のねっとりとしたパンプキン生地へとフォークを突き立てて、ちらっと目の前をうかがう。


「……すみません。暇ですよね?」

「なんで?」

「することないからって、そんなに見られると食べにくいです」


 わたしの一挙手一投足を観察するように見ていた啓一郎さんは、少し前のめりになっていた身体を起こした。


「え? ああ、ごめん。つい。大丈夫だからゆっくり食べて」


 啓一郎さんが背もたれに落ち着いたのを確認してから、パンプキンタルトを頬張った。


「あ、おいしーい!」


 かぼちゃの味だけでないかと思うほど自然な甘味と、甘さを抑えたホイップクリーム。濃いのに重くない。下心のダシに使ったのが申し訳ないほど、これは本当においしい。啓一郎さんはふっと表情を緩めて、自分のコーヒーに手をつけた。


「あ、口つけちゃったけど、ひと口食べます?」


 新しいフォークを添えてお皿を滑らせるけれど、


「いや、いい」


 と戻された。


「おいしいですよ? 甘いもの苦手ですか?」

「甘いものは好きだけど、カボチャはそれほど好きじゃない」

「ええー! おいしいのにもったいない!」

「好きな人はそう言うよね」

「もしかして、芋栗南瓜ぜんぶ苦手?」

「食べられるけど、好んでは食べないな」


 こんな人に食べさせるのはもったいない、とさっさとお皿を引き戻す。


「人生の108分の1くらいは損してますよ」

「その程度なら他で取り返せるから問題ない」


 モール内はどこもハロウィン一色。オレンジ色のカボチャ、黒いコウモリ、紫色のオバケ。赤、黄、橙、茶色と紅葉した枝も実もふんだんに飾られていて、空調や人の流れにひらひらと舞う。


「世の中は心浮き立つ秋色をまとっているというのに、楽しめないなんて残念ですね。あ、でも今日のネクタイはバーガンディですか? しぶくて飲みにくいワインみたいで素敵です」

「だから褒められてる気がしないんだよな、それ」


 しぶくて飲みにくそうな表情で、ブレンドコーヒーを口に運ぶ。


「啓一郎さんって何が好きなんですか?」


 カップをソーサーに戻し、宙をふりんふりんと飛ぶオバケを睨むようにして、考え込んでいる。


「……特にないな。どちらかというと魚より肉が好きだけど。これといった趣味もないし」

「好きな季節は?」

「うーん、春かな。暑いのも寒いのも嫌だし、秋は物寂しいから」

「秋はぜんっぜん寂しくないですよ! 世界が色を変える、うつくしい季節じゃないですか」


 降り注ぐ色彩。黄金の稲穂をなでる風。澄み渡る空。どこもうっとりするほどうつくしい。


「お洋服だって、夏には着られない落ち着いたグラデーションを楽しめてわくわくします」

「小花は秋に限らず年中楽しみが多いだろ? 俺は面白みのない人間なんだよ」


 卑下したようでもなく淡々と啓一郎さんは言う。確かに啓一郎さんは口がうまいわけでもないし、おしゃれなデートスポットに詳しそうでもないし、趣味もないっていうし、アミューズメント性には欠けるかもしれない。だけど人間の“面白み”ってアミューズメント性とは別物だ。


「啓一郎さんは面白いですよ。反応とか」

「それは単に小花が俺で遊んでるだけだろう」


 モンブラン、ピオーネ、ハロウィン、チェックのスカート、ワインカラーのストール、きれいな曲線のブーツ。わたしをドキドキさせるものが秋にはたくさんあるけれど、おいしいパンプキンタルトへの食欲すら失わせるほど、わたしをドキドキさせるものが他にある。季節が変わっても、わたしの中にはいつも、あの甘やかなエメラルドの風が吹いている。


「だって、啓一郎さん、扇風機みたいなんだもん」

「…………だめだ。それはさすがに全然意味わからない」


 テーブルに両肘をついて頭を抱える啓一郎さんは、やっぱり面白い。パンプキンタルトがこんなにおいしいのだって、きっと同じ理由。



 わたしはずーっとこうしていられたのに、膀胱のほうが限界を訴えてきたのでしぶしぶ席を立った。ブーツのヒールがつぶれるくらい急いで戻るも、啓一郎さんはカフェの前で待っていた。


「そろそろ行こうか」


 お会計はすでに済ませたようで、もうカフェには戻れない。こんなことになるなら、膀胱摘出手術をしておくべきだった。


「あ、あの、ごちそうさまでした」

「いや、こちらこそ助かった。ありがとう」


 平日夜のショッピングモールは、人が少なくてからんとしている。閉店時間まではもう少しあるけれど、ショップによっては閉め作業に入っている空気もあって、もう帰れと背中を押されている気分になった。相談にかこつけたデートももう終わりで、かこつけたためにこれ以上引き伸ばす理由はない。広いフロアに響くブーツのカツカツという音が胸に痛い。


「小花、急ぐ?」


 数歩前を歩いている啓一郎さんが、振り返りもせずに聞いてきた。首を横に振ってから、それでは伝わらないと気づいて返事をする。


「いえ」


 啓一郎さんは立ち止まって、さっきお会計したレシートをわたしに差し出した。


「だったら、せっかくだから……映画でも、観に行きませんか?」


『映画館ご利用の方に限り、ドリンクSサイズ、1杯無料』

 レシートにはそんなクーポン券がついていた。併設された映画館で使えるらしい。


「行きます!」


 レシートに飛び付いたわたしを見て、啓一郎さんは声を立てて笑った。



 モールはさびしげだったのに、映画館には人が溢れていた。


「そういえば、先週公開されたばっかりだっけ。じゃあ、それにしましょう」


 啓一郎さんはやはり何でもいい(でもできればアニメ以外)というので、人気漫画の実写化というのを選んだ。レイトショーで安くなることもあるだろうし、その漫画のファンなのか、人気俳優がたくさん出ているせいなのか、とても混んでいる。


「小花どうする?」

「うーん、烏龍茶」


 啓一郎さんは烏龍茶とコーラを注文して、お財布を出す。


「さすがに! さすがに、わたしが!」

「小花の分はクーポン券で払ったから」

「映画のお金も出してもらったのに。いくら図々しいわたしでも、いただきすぎです」

「じゃあ、ごちそうになろうかな。ありがとう」


 たった250円には過分な笑顔を残して、啓一郎さんはトイレに行ってしまった。ごく普通のスーツ姿は人混みに紛れてすぐに見えなくなる。あやしまれないように少し離れたところからトイレの出入口を凝視していたのだけど、その視線すらかいくぐっていたらしい。


「その服、すごくいい」


 すぐ真後ろで啓一郎さんの笑い声がした。ふいを突かれてビクッと肩を跳ね上げながら振り返ると、わたしのカナリアイエローのニットワンピースを視線で示した。


「そんなに笑うところですか?」

「いや、ごめん。遠くからでも見えるから便利だと思って」

「褒めてるように聞こえなーい」

「それはお互い様」


 入場の列に並ぶ啓一郎さんから離れないように気をつけつつ、ワンピースの肩部分を軽く引っ張る。


「かわいいけど、秋冬物は値段が高いのが玉にキズなんですよね」

「そうなの?」

「さらにワンピースは高くて700円でした」

「ポップコーン&ドリンクMサイズセットと同じ値段だな」



 映画館のイスは距離が近いものだけど、むしろ啓一郎さんと反対側に座る男子大学生がこちらに寄りかかっているせいで、そっちの方が気になった。予告中の館内で、啓一郎さんはわたしとの間に置いていたコーラを持ち上げ、手すりを軽くとんとんと叩く。了承と感謝の意味を込めてゆっくりうなずき、大学生の腕に触れないように烏龍茶を引き抜いて、啓一郎さんの方に詰めて座る。大学生との間には、バッグを置いて小さなバリケードも作っておいた。画面からの明かりが啓一郎さんの顔でチカチカ揺れるのを見ていたら、ほんのり笑ってくれる。わたしも笑顔を返したところで会場は暗転した。


 内容は面白かったものの、漫画原作だけあって設定が突飛で、原作を知らないわたしは最初戸惑ってしまった。


「むしろ原作読んでみたくなりましたね。よくわからないところもあったし」

「俺は途中までは読んでた」

「啓一郎さんって漫画読むんですか?」

「これ、俺が中学生くらいのとき連載始まった漫画だから」


 中学生の啓一郎さんはどんな感じだったのだろう? 今とあまり変わらない気がする。


「だったらわたしは、小学校低学年か幼稚園のときですね」


 啓一郎さんが目を見開いた。


「そんなに違う?」

「7歳差でしょ? そうなりますよ?」


 髪の毛をくしゃくしゃと触りながら、そうかあ、7歳……そうかあ、と繰り返す。その黒髪に天井からキラキラ灯りが落ちている。


「髪の毛の色、変でしたね。安いコスプレみたいで」


 アニメの再現らしく、登場人物の幾人かは苔むしたような緑色とか、腐りかけのミカンのようにおかしな髪の色をしていた。


「見慣れないからな、ああいうのは」


 学生時代には奇抜な髪の色をしている人もいたけれど、社会人になるとさすがに見かけない。


「啓一郎さんはカラーリングとかしたことなさそうですよね」

「ないな」


 深いその色に、見入っていた。


「本当に真っ黒。闇に堕ちたみたいできれい」

「……やっぱり褒めてないよね」


 ショッピングモールは閉店時間を過ぎて照明が落とされている。


「送る」

「いいんですか?」

「どうせ隣だろ」


 ところどころに街灯は設置されているので真っ暗ではないのに、わずかな灯りはなぜか闇を濃くしていた。冷たい空気がニットワンピースを通り抜けて身体を冷やす。


「寒いですね」

「車に着いたら暖房入れるから、そこまで我慢して」

「冬になりますね」

「そうだな」

「ココアのおいしい季節ですね」

「……わかった。ごちそうするよ」


 今にもどこかへ向かいそうだったので、スーツの裾を引いた。


「違うんです! 今の話じゃなくて、」


 間近で見上げたのに、啓一郎さんの顔は暗くて見えない。


「もっと寒くなったら」


 見えないのに、笑っているとわかった。声と、頭に軽く触れた手があたたかかったから。


「いいよ」


 寒くなったら、あたたかくて甘いココアを啓一郎さんと一緒に飲める。啓一郎さんがいてくれれば、この先やってくる季節はどれも素敵なものに違いなかった。








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