7. プラチナの海辺

 世の中で最も卑怯なもののひとつに『最後に温泉卵をのせる』があると思う。温泉卵をのせて、おいしくないわけがない。だから料理研究家でこの『最後の温たまのせ』をする人を、わたしは信用していない。カレーにのせた目玉焼きを崩すと、きれいに黄身が流れ落ちる。やはり卑怯だ。うつくしすぎて目眩がする。


「小花ちゃん、眠い?」


 じゅんさいのすまし汁から顔を上げたおばさんが心配そうに聞く。


「いえ、大丈夫です。黄身の鮮やかさに腰が砕けただけなので」


 昨日のカレーは少し煮詰まって味が濃くなっていた。それを目玉焼きがとろりとまろやかにしてくれて、また違った味わい。

 ざわざわと落ち着かない気持ちに翻弄され、いまいち眠れなかったわたしはすっかり寝不足だけど、宮前家の3人はほとんど夜明けと同時に活動を始めていた。彼らはカラスもニワトリも必要とせずに朝を察知する能力が、血の中に受け継がれているらしい。充血した目に食卓の彩りがしみて痛い。

 栄養たっぷりの朝ごはんを食べ過ぎて、くるしくなった胃を、高級緑茶で落ち着けていたら、携帯から久しぶりに、ぴんこーんという着信音がした。左手でお茶をすすりながら、右手でささっと目を通す。


「へえ! 中央のあたり、停電終わったみたいですよ」


 メッセージをくれたのは会社の同僚であり友人で、彼女の住む地域は、今朝から電気が使えるようになったらしい。コンビニも一応通常営業しているとのこと。


「順次回復するだろうから、ここも今日中には終わるかもね」


 啓一郎さんも携帯でやり取りしながらそう答える。いろいろあったから長いようで、あっという間の一日だった。当たり前のようにここにいるけれど、わたしは部外者なのだと改めて思う。


「買い物でも連れて行こうか?」

「へ?」


 顔を上げて気づいた。半分ほど減った湯呑みをぎゅっと握り締め、うつむいていたことに。帰りたくないって思っていたことに。


「停電終わった地域なら、スーパーでもホームセンターでも開いてると思う。でもこの辺はまだ信号動いてなくて危ないから、出掛けたいなら送って行く」


 行きたい。何が欲しいわけでもないけれど。とにかくもう少しだけ長く……。


「あ、だったら夕食の材料、何か買ってきて。お昼はなんとかなるけど、夜の分が足りないの」

「何でもよければ適当に買ってきますね」


 結局啓一郎さんにではなく、おばさんに了承の返事をした。


「職場も復旧したみたいだから、午前中はちょっとメールの確認してくる。だから午後ね」

「はい」


 停電が続くことを願う日が来るなんて、思ってもみなかった。



 スーパーは開いていたけれど、丸一日の停電でかなり廃棄された食品もあったようで、充実したラインナップとは言えなかった。冷凍食品の棚は空っぽ。冷蔵や生もの系もかなり少ない。各家庭でも食料不足に陥っていたのか、少ない商品に需要が殺到したらしい。お惣菜は空に近く、パンや麺類は残りわずか。結局思うような買い物はできず、おばさんとも電話で相談した結果、“貝出汁ラーメン”なるものとロールパン、グレープフルーツを買ってホームセンターに移動した。こちらも電池や大きな懐中電灯、ランタンの類い、カセットコンロなんかも売り切れ。他に緊急に買うようなものもなく、わたしはタオルやカーテンを眺めながら、レジに向かった啓一郎さんを待った。


「行こうか」


 楽しみにしていたのに、あまりにあっけないお出かけの終わり。がっかりして黙ったまま車に乗り込むわたしに、啓一郎さんは今買ったビニール袋を差し出した。


「あげる」

「わたしに?」


 中身はなんてことない小さな白い懐中電灯だった。わたしの手のひらに収まるほどのそれは安っぽく、機能はごくシンプルなもの。だからこそまだ少し売れ残っていたらしい。


「ありがとうございます!」


 パッケージを開けてみると、小さいながら白っぽくて強い灯りが点灯した。


「これ、上に向けた状態で置ける形状だったから」


 啓一郎さんは懐中電灯を天井に向け、その上にボトルホルダーに残っていた空のペットボトルを置いた。


「水の入ったペットボトルをこうして乗せると、乱反射してランタンみたいになるんだって」


 今乗せたペットボトルは空で、懐中電灯の明かりはただ通過していっている。


「そうしたら少しは、」


 言い淀む啓一郎さんの顔はどんどん朱に染まっていく。


「少しは、シンデレラの舞踏会みたいに、なる、かも」

「……そんな顔するなら、言わなきゃいいのに」


 感染するみたいにわたしの顔も熱を持つ。押し黙った啓一郎さんは少し車の窓を開けた。走らせると冷たい風が頬を冷ます。


「嘘です。ありがとうございます。今夜試してみましょうね」


 カチカチと意味もなく懐中電灯をつけたり消したりした。嬉しくて嬉しくて。小さな懐中電灯にペットボトル。安っぽいシャンデリアでは王子様にもシンデレラにもなれないかもしれないけれど。

 でも啓一郎さん。無理矢理手を取ったら、わたしと踊ってくれますか?



 入ってくる風が、あまりに強くなったので窓を閉めると、同じように啓一郎さんも窓を閉めた。


「この辺、海近いから風強いんだ」

「海? どこ?」

「この家の向こうはすぐ海だよ。直線だと300mないくらい」


 目を凝らしてみても、建ち並ぶ家々の間から青い色は見えなかった。


「すぐそこ海水浴場だけど、行ってみる?」

「行く!」


 家と家の間にある、細い路地を車は下っていった。



 こんな景色、初めて見た。

 ああ、そうだ。海の色も空の色も、太陽光の反射か何かなんだっけ? 小さい頃は、すくってもすくっても青くならない海の水を、不思議に思っていた。太陽光の話は、今でもやっぱり理解できない。だって今、空も海も、虹にはない色をしていた。一面のプラチナ色。今日の夕陽は赤くなく、白っぽいやわらかな色をして水平線の近くに浮いていた。空の青みは薄く、艶消しされたプラチナのような雲が、水平線に向かって流れるラインを描く。海もそれに呼応して同じ色に染まり、銀糸で編まれたアンティークレースのように繊細な波が、それを幾重にも縁取っている。


「………………きれい」

「うん」


 晩夏の日暮れも近い海水浴場には、わたしたち以外はたくさんの海鳥しかいない。暑くもなく寒くもなく、けれど塩分を多く含んだベタベタとした風が、ゆるやかにずっと吹き続けている。あまりに幻想的で、現実感が薄くて、ここが黄泉の世界だと言われたら信じてしまいそう。

 コンクリートで固められた駐車スペースと砂浜の間には、そこそこの高さがあり、足場のつもりなのか太い丸太が無造作に置かれていた。勢いよく啓一郎さんが丸太を渡ると、それは不安定にゴロゴロ揺れた。丸太に片足を乗せて、思い切って飛び降りた方が安全だろうかと思案に暮れていると、視界の端に大きな手が入ってきた。王子様のようにスマートなものではなく、したたるほどの照れを含んだ啓一郎さんの手。


「ありがとうございます」


 ぎゅうっと握ったそれは、あたたかかった。その胸に飛び込むようにして、グラグラ揺れる丸太を一気に駆け降りる。手はすぐに離されてしまった。


「ふたり占めですね!」


 波打ち際まで歩く間に、外も中もすっかり砂まみれになったスニーカーを脱ぎ、その中に靴下も入れて素足になる。


「え、入るの?」


 啓一郎さんは驚いていた。


「当然でしょう?」

「タオルも何もないのに」

「足だけなら砂をまぶせば大丈夫ですよ」


 海水はさすがに冷たくて、入ったことを一瞬だけ後悔した。けれど、


「うわ、冷たい……」


 啓一郎さんがついてきてくれたから、すぐにどうでもよくなる。


「透明度高いですね」


 カフェオレ色の砂に透明な波が何度も何度も押し寄せる。とろとろの砂に足を埋めては出すことを繰り返していると、その中に時折、白い小さな貝殻が見えた。


「あ、かわいい! いっぱいある」


 少し砂を掘るとかんたんに見つかる。ちょっとした宝探しみたい。きれいな形のものばかり選んで拾い集めても、すぐに両手がいっぱいになっていた。


「♪ら~らら~らら~~ららら♪」


 結局歌詞を覚えていないまま朝ドラの主題歌を口ずさみ、砂の上に貝殻を並べていった。


「えへへ、ちょっと少女趣味過ぎたかな?」


 白い貝殻で作ったハートマークは少しくらいの波では崩れず、きれいに輝いてみえる。


「そうやって遊ぶんだな」


 感心したように啓一郎さんが言う。


「何もなくても、小花はいつでもどこでも楽しそうにしてる」

「よく言われます。『悩みなさそうだね』って」


 わたしだって涙に暮れる夜くらいあるのに。誰だって泣いてるところは見せないはずなのに。


「そんなわけない」


 啓一郎さんは海に小石を放るように笑い飛ばした。


「悩みのない人なんていない」


 夕陽がやさしい。波の音がやさしい。きっと悩みが多いだろうこの人の隣は、いつだって穏やかでやさしい風が吹く。


「夕陽が目にしみて泣きそう。胸を貸してください。鼻水拭くから」


 冗談めかして本音を言った。そうしないと、本当に泣いてしまいそうだったから。


「車にティッシュあるから箱ごとあげるよ」


 現実を知らせるようにブー、ブー、と携帯のバイブ音がした。メールだったのか、啓一郎さんがポケットから取り出して内容を確認している。


「母から。電気ついたって」

「そうですか」


 地球の自転は止まらない。立ち眩みを起こしてくれない。白っぽい夕陽はゆるゆると水平線に溶けていく。


「小花」


 プラチナ色の啓一郎さんが、わたしを呼ぶ。


「はい」


 プラチナ色のわたしも、まっすぐに啓一郎さんを見る。


「これからもまた、ときどきでいいから、家に来て」


 砂浜を海鳥がととととと、と歩いて行く。それを目で追うようにして、啓一郎さんはわたしから視線をそらした。


「……母が、喜ぶから」


 貝殻で砂に作ったハート型は崩れないまま、波が運ぶ砂に少しずつ少しずつ埋もれていった。



 濡れた足を砂にまぶして、乾いたところでほろほろと払う。太陽が雲に隠れてしまったせいか、海も空もさっきまでの輝きを失い、どんよりと暗い色に沈んだ。海沿いの家々にもぽつりぽつりと灯りがともり始めている。きっと宮前さんの家の居間にも。


「遅くなっちゃいましたね」

「うん」

「おじさんもおばさんも待ってますね」

「うん」

「夏も終わりですね」

「うん」


 「そろそろ帰ろう」その言葉をどちらが言うのか、伺うような時間が流れていく。さっきより街の灯りは数を増し、隣にいる啓一郎さんも少し見えにくくなってきた。


「帰りましょうか」


 啓一郎さんが言わないから、とうとうわたしから言った。


「うん」


 それでもしばらく佇んで、ようやく海に背を向ける。たくさんいた海鳥も、遠くの方へ移動していた。

 丸太は下りるよりも上る方が大変で、しっかり握らせてもらった啓一郎さんの手は、海風のせいかさっきより冷たい。それでもその手が離れると寒くて、カーディガンの襟元をしっかり合わせた。



 『生きてきた中で一番』と言っても、それは『とても』の最上級の言い回し、要は言葉の綾であって、事実であることは少ない。けれど、貝出汁ラーメンは、誇張でも何でもなく、生きてきた中でも一番まずいラーメンだった!


「品薄でも余ってた理由がよくわかりますね。これすごいです。最強です。うちのセクハラ部長の退職祝いはこれにします」


“貝出汁”はスープだけでなく麺にも練り込まれていたようで、茹ですぎた蕎麦のようにベタベタキシキシ歯触り悪いことこの上ない。


「本当に“貝出汁”ね。もう少し別の出汁も合わせてあればよかったのに」


 おばさんはお醤油とお湯を少しずつ足してみたけど、貝出汁が緩和された様子はなかった。


「そうですね。鶏出汁足して貝出汁抜いたらおいしいスープになりそうです」


 おじさんと啓一郎さんは何も言わず、ハイスピードでラーメンを平らげた。テレビから流れるニュースでは各地の台風被害を知らせていて、県内は停電さえ復旧すれば大過なくやり過ごせたらしい。他県でケガをしたり避難所生活を余儀なくされた人に比べて、非常に呑気に過ごさせてもらった。

 洗い物を済ませてしまえばもはやすることもなく、お茶を何杯もごちそうになった。それもさすがに限界でわたしは少ない荷物を持って立ち上がる。


「お世話になりました。とっても助かりました」

「こちらこそ。小花ちゃんがいて楽しかったわ」

「わたしも楽しかったです」


 おじさんとおばさんと啓一郎さん。全員が見守る中、少し緊張して靴を履く。


「またおいで」


 よく見るとほんの少し口角を上げておじさんが言ってくれた。


「はい。ありがとうございます」

「啓一郎、送ってあげて」

「え! いえ、大丈夫ですよ。ほんの15mくらいなんですから」


 わたしが手をぶんぶん振っている間に、啓一郎さんがスニーカーを履いて玄関のドアを開けるので、急いでその後を追う。


「あ、じゃあ、おやすみなさい!」



 街灯に照らされた通りは明るく、雲の多い空の方が暗かった。門を出て本当に15mも歩けばもうアパートの敷地。駐車場を抜け、階段を上ったらわたしの部屋だ。どんなにゆっくり歩いても2分とかからない。


「ありがとうございました」


 ずっと何も言わない啓一郎さんにドアの前でそう言うと、小さくうなずいたけれど動く様子がない。だからドアを開けて中に入ろうとしたら、


「小花」


 と呼び止められた。


「はい」


 アパートの廊下につけられたライトは、汚れのせいでぼんやりしている。そろそろ寿命なのか、そのぼんやりした明かりもときどき少し震える。その不安定な明かりの下で、啓一郎さんの言葉をひたすら待った。


「……おやすみ」


 たっぷり時間をかけて、啓一郎さんはたったそれだけ言った。


「あ、はい。おやすみなさい」


 名残惜しいけれど、これ以上迷惑はかけられない。ドアを閉めて耳を澄ますと、少ししてからジャリジャリという砂を多く含んだ靴音が階段を降りていく。リビングを突っ切り、寝室の窓から外を見たら、啓一郎さんが家に入って行くところだった。曇り空の下の庭は暗く、居間から漏れる明かりの中にムラサキシキブが見える。

 『おやすみ』たったそれだけ、と思ったけれど、わたしと啓一郎さんはそれさえ言い合うことができない間柄だ。啓一郎さんという人を多少知ったところで、ほんの少し親しくなったところで、好きになったところで、この距離はかなり遠い。


「あ! そういえば……」


 啓一郎さんからもらった懐中電灯にペットボトルを乗せてみようと思っていたのに、電気が復旧したから忘れていた。懐中電灯を逆さまにし、水をいっぱいにした500mlのペットボトルを乗せて、電気を消した。するとペットボトル全体が発光したように明るくなった。舞踏会のシャンデリアには程遠いけれど、これはこれでロマンチックに思える。きっと啓一郎さんなら、渋い顔をしながらもわたしのめちゃくちゃな踊りに付き合ってくれたような気がする。けれど、それももうできない。


「350mlの方がよかったかな」


 小さな懐中電灯に500mlペットボトルは不安定で、指で触れただけでかんたんに倒れてしまった。






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