6. 瑠璃色の空の下

 わたしが貸していただいた客間は二階にある8畳間だった。畳敷きで、今は使われていないカラーボックスと、折り畳み式のテーブルがあるだけ。おじさんとおばさんの寝室は一階にあるらしく、二階は上ってすぐに啓一郎さんの部屋があり、その隣、廊下に沿ってベランダがあって、さらにその奥が客間という造りになっていた。

 お借りした懐中電灯と携帯を枕元に置いて、硬いそば殻枕の上で何度も寝返りを打つ。目を開けても閉じても変わらない闇のせいか、どこか気持ちが落ち着かなくてなかなか眠気が訪れなかった。

 トイレにでも行こうかと出入口の戸を開けると、闇に慣れた目にはまぶしく感じるほどの月明かりが、廊下を満たしていた。素足のまま引き寄せられるようにベランダに出て、空を見上げる。雲はほとんどなく、満月に近い月が明るいために星は思ったより見えない。しずかな夜だ。空が明るいせいで地上の闇が濃くみえる。風が窓ガラスや木々の枝を鳴らす音はいつも通りするのに、それでもなぜか町中が沈黙しているようで、内側に何か得体の知れないものを秘めたような不穏な感じがする。


「江戸時代とか、こんな感じだったのかな」


 毎夜闇が深くなるなら、不安も、悪感情も、人肌のぬくもりも、より一層強く感じられたのではないかと思う。

 からら、という窓を開ける音は、やはりいつもより大きく聞こえた。


「あ、こんばんは」


 音のした方を見ると、啓一郎さんが窓から外を眺めていた。


「枕が合わないのか?」

「なんかそわそわしちゃって。啓一郎さんは?」

「風を入れようとしたら、月がずいぶん明るかったから」


 啓一郎さんの部屋の窓とベランダは隣だけど、真夜中に窓越しでする会話は、町内に拡声されているように響いて聞こえた。声をひそめ、啓一郎さんにだけ届くように口元に手を添えて、


「よかったらこっちに来ませんか?」


 と誘ってみた。啓一郎さんは何も言わずに窓を閉め、その15秒後にパーカーを羽織って現れた。


「わ! 啓一郎さんが来たら、床がミシッてきしんだ!」

「……帰る」

「ごめんなさい! 帰らないで!」


 パーカーの袖をつかんだら、前がはだけて中のTシャツが見えた。やわらかい素材のTシャツをパジャマ代わりにしているようだ。板張りのベランダをやはりミシミシと言わせて、啓一郎さんはわたしの隣に並んだ。そしてガサガサという音にかき消されそうなほどのひそめた声で、


「これ、もらったの忘れてた。飲む?」


 とビニール袋を差し出した。中には何本かのペットボトルが入っている。


「どれにしようかなー?」


 月明かりでラベルを確認しながらひとつひとつ吟味する。


「あ、ライチ! これにしよう。楊貴妃になれそうだから」

「楊貴妃?」

「ライチ好きで南から運ばせたって逸話があるんですよね」


 いただきます、とごくごく飲むわたしを見て、珍しく啓一郎さんが盛大に吹き出した。


「なんですか?」


 眉を寄せて睨んでも、啓一郎さんの声はひくひくと震えている。


「いや、だってさ、楊貴妃って確かかなり太ってたはずなんだよ。真夜中にそんなの飲んだら太るだろうなって」

「ひどい!」


 思わずつかみかかるわたしの口を、啓一郎さんが慌てて手で塞ぐ。


「しーーっ! ご近所迷惑!」


 夜風で冷えた顔に、啓一郎さんの手はあたたかかった。重そうなパーカーの生地が頬をかすめる。小刻みにうなずいたらするっと手は離されて、ふたたび顔に夜風が冷たい。啓一郎さんも何本か月に照らして確認して、


「甘いのばっかり」


 と、オレンジ水を手に取った。


「非常時はお茶とかお水は貴重ですもんね」


 こくり、と啓一郎さんの喉から音がする。そんなに強くない風と葉擦れの音がうるさく感じる。しばらく空や庭を眺めながら、お互いに無言でペットボトルを傾けた。すると、


「明るさは強さだよね」


 まぶしげに目を細めて月を眺め、啓一郎さんはおもむろにそう言った。


「そうですね。電気がないだけで、こうも生活が制限されるとは思いませんでした」

「電気もそうだけど、」


 月光に濡れそぼる庭を見下ろして、こくりこくり、と何度もオレンジ水を飲み下す。永遠にそれを見せつけられるのかと心配になる頃、風に言葉をさらわれながらようやく続けられた。


「小花がいてくれて助かった」


 月の色に染められたベランダでは、その表情は読み取りにくい。


「母は元々真面目な性格だけど、病気してから落ち込みやすくなったんだ。俺と父だけだったら気の利いたこともできなくて、きっと家の空気は暗いままだった」

「そんなことないです」


 真っ暗な自分の部屋の窓を眺めながら言う。


「わたしがいて、きっとおじさんもおばさんもすごく疲れたと思いますよ。たとえば、結婚って幸せなことだけど、ストレスの度合いとしては離婚に匹敵するって聞いたことがあるんです。環境の変化ってそのくらい疲れるんですって」


 わたしの適当な思いつきに、おばさんはいいわね! って付き合ってくれたけど、かなり振り回されたはずだ。疲れ過ぎて寝付けなくなっていないといいなって心配になる。


「初めてこのお家の居間に入ったとき、啓一郎さんのイメージそのままだって感じたんです。啓一郎さんはこの家で育って、この家に暮らしてるんだなって。ご病気しても停電になっても、啓一郎さんがそばにいて、おばさんは何より心強かったはずです。わたしじゃない」


 啓一郎さんはまたこくりとオレンジ水を飲んだ。そして落としていた目線を、意を決するように強くわたしに向けた。


「それでも、やっぱりありがとう」


 半分照らされた顔は、やわらかく微笑んでいた。うつくしい月に吸い寄せられるのと同じように、わたしはその笑顔に見入った。啓一郎さんの大きくもない瞳の中にも月の明かりは入り込み、艶めくようにそれを揺らす。しばらくそうして見つめていたら、戸惑うように啓一郎さんが表情を固くして、ふたたび庭へと視線を移してしまった。


「あ、連理の枝」


 唐突にそう言った啓一郎さんが指差した先には、裏の家の庭から伸びた枝が宮前家の庭木に届いていた。


「なんですか? それ」

「楊貴妃と玄宗皇帝を歌った『長恨歌』の一節。知らない?」

「知りません。啓一郎さんって歴史オタク?」

「俺は全然詳しくないよ。小花こそ、楊貴妃が好きなんじゃないの?」

「ライチ好きの美女ってことしか知りません」


 ライチの水をぐびぐび飲んで、


「あと、太ってたってこと」


 と睨んだら、またしても声を殺して爆笑された。啓一郎さんは確かに人見知りらしい。本当は普通に話すし普通に笑うひとなのだ。

 呼吸が整ったタイミングで啓一郎さんはしずかに話し出す。


「俺もうろ覚えだけど、『長恨歌』の中でふたりが交わした愛の約束らしいよ。“比翼連理の誓い”って言う。『翼を並べて飛ぶ鳥のように、枝を絡ませ合う木のように、ずっと仲良くいましょう』って感じの意味だったかな?」

「ふーん。全然ピンとこない例えですね」

「全否定」


 啓一郎さんはまた肩を震わせている。その顔が見たかったけれど、反対側を向いているから見えなかった。


「だけど確か楊貴妃って、最初は玄宗の息子の嫁だったんだよな」

「うわ、ドロッドロしてますね。それで鳥とか枝とかぬけぬけと」

「まあ、詩だからね」


 しずかな夜に冷静な指摘は冴え冴えとしていた。


「うーん、でも、」


 ベランダの手摺りにもたれかかって、伸びた枝を見下ろす。


「玄宗に見初められて楊貴妃はどう思ったんでしょうね。『最高権力者イエーイ!』って感じなのか、『権力には逆らえない』って泣く泣く従ったのか」

「さあ? そこは知らないな」


 一度「この人」と決めた人と離れて別の人と結婚するってどんな感じなのだろう? 離婚再婚は今なら普通だけど、本人の意志を無視して進められることはほぼない。


「前の旦那さんのこと引きずってても、キッパリ割り切ってても、どっちも嫌だな。自由恋愛の時代に生きててよかった」


 空を見上げて笑ったわたしに対して、啓一郎さんは月に背を向けて、手摺りに寄りかかる。


「それは否定しないけど、」


 啓一郎さんの表情は完全な陰になって全然見えない。


「自由だからこそ、結婚できない、しない人が増えた面もあると思う。昔は強引にでも結婚させられたから」

「そんなの虚しい。お互い好きじゃないのに」


 家のため、子孫を遺すための結婚なんてバカバカしい。世間体や常識としての結婚なら尚更嫌だ。


「そうとも限らないんじゃいかな。一緒に生活していれば愛情は後からついてくることもあるよ」

「そんなのただの“情”でしょう?」

「“情”は悪いものじゃない」


 オレンジ水のキャップを開けて、飲まずにふたたび閉める。


「楊貴妃がお金や権力目的だったとしても、玄宗は構わなかったんじゃないかな。“心が手に入らない虚しさ”よりも“彼女がいない寂しさ”の方が辛いかもしれないから」

「わたしはそうは思いません。お金目当ての結婚するくらいなら、ひとりぼっちでいいです」


 啓一郎さんはふっと笑ったけれど、ひそやかな吐息だけでやはり顔は見えなかった。


「それは若さかもね。“自分にはお金じゃない価値がある”って堂々と言える。俺には無理だな」


 そんなことない。啓一郎さんは十分に魅力がある。確かに第一印象はいいとは言えなかったけど、彼はいつだって相手と一生懸命向き合う穏やかで慈愛に満ちたひとだ。このひとを好きになる女性は、絶対にたくさんいる。


「俺は一度家を出て戻ってきたから、結婚も含めて“家族”って、わずらわしくて鬱陶しいって気持ちも、わからないではないけどね」


『だけど、瑠璃さんとはうまくいかなくなっちゃったみたいなのよね』


 啓一郎さんは、“瑠璃さん”と別れてしまった。わたしも恋人と別れたことはあるけれど、プロポーズも婚約も経験していない。「生涯を共に生きたい」と思うって、どんな感じなのだろう? そして、そこまで想った相手と別れるのは、どのくらい辛いのだろう? 啓一郎さんは寂しいのかな。

 さっきの言葉を否定してあげたいけれど、言葉にしてしまったら、穏やかならざる熱を持ってしまいそうで言えなかった。


「鳥とか枝なんてものじゃなくて、もっとみんなが共感できるような例えって何かないかな? ちょっと考えてみましょう」


 結局口にしたのは、どうでもいい話だった。


「またそういう突拍子もない」


 初めて話したときのように、それでも啓一郎さんは拒絶しない。


「仲良くふたつ並んでいるもの……金剛力士像?」

「最初に思い付くのがそれ?」

「何百年のときを寄り添っているじゃないですか」

「愛の誓いなのにごつごつし過ぎだろ。おしどりあたりが一般的じゃない?」

「あ、おしどりって毎年相手を取っ替え引っ替えするらしいですよ。全然ダメです。“手袋”とかどうかな?」

「よく片方なくす」


 少し身体が冷えてきたけど「寒いなら戻ろう」と言われたくないから我慢して、ペアになるものを連想し続けた。それでも月は少しずつ少しずつ西に移動していくから、回転しすぎた地球が立ち眩みを起こして、しばらく立ち止まってくれないかな、なんて願ってみたりもした。けれど、


「風邪ひかせちゃうな。引き止めて悪かった」


 そんな言葉で啓一郎さんはあっさりと幕引きをして、ミシミシとベランダを出ていく。三千世界のカラスも四千世界のニワトリも閉じ込めて、この夜を引き延ばしたとしても、朝まで一緒にはいてくれないのだ。

 頂点より傾いた月はまだ煌々と光を放っていて、そのせいか夜空もいつもより明るい。透き通って深みのあるきれいな青。あれは、“瑠璃色”っていうんじゃなかったっけ?








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