最終話

 大輔が連れて行ったのは、マンションの裏手にある川から一段高く作られた遊歩道に連なる桜並木だった。美咲は、故郷の二人で見るはずだった桜がある風景を思い起こそうとしたけれども、すぐにやめた。隔て難い差を埋めるには疲れすぎているし、もう十分だった。

 四月を迎えた桜の木々には、満開の盛りを過ぎた花が残り、わずかな時間を咲いている。それも風が吹いてしまえば、さらさらと風に流れて水面へ散ってゆく。

はかない、と美咲は苦く微笑ってつぶやいた。大輔は何も言わない。かわりに、ふと頭上へと目を向けた。美咲もつられて見上げた途端に、頬へと雫が降りかかるのを感じる。鈍い色の空へと手を差し伸ばせば、紛れもなく銀の針のような雨が降っていた。それも、すぐに本降りへと移ろう気配を秘めて。

 美咲の喉の奥で、悲しい笑みの音が鳴る。美咲は大輔へと振り返ったあとで、重なり合う桜の枝の下へと駆け出した。

 あっという間に雨は激しさを増して、桜の木と二人に打ち掛かった。みるみるうちに花が雨の勢いと水滴の重みに耐えかねて、ふわりと浮かぶことすらせずに散ってゆくのを眺めながら、美咲は樹上へと手を差し伸べる。次々に散る花びらを追うので、花影の下で美咲の身体は何度もまわり巡る。濡れていっそう艶を増した髪にも、か細い肩にも、雨に濡れた桜の花びらが降った。そうしているうちに、散った花びらで覆い尽くされて見えなくなりそうだった。

 いつしか頬に雫を伝わせていた美咲が、ふつりと動きを途切れさせるのが大輔には見える。おもむろに顔を覆うと、離れて見つめる目にも明らかに肩を震わせ始めた。すると、先ほどまで降り注ぐ雨とあわい色の花の中で、踊るようにも見えた姿は掻き消え、ただ雨に打たれて顔を伏せる少女がいるばかりになる。

 大輔は長く息を吐き出した。きっと、この少女はこれから先ずっとこんなふうにして泣くのだろう。たぐい稀な、しなやかな強さと美しさを持ちながら、それでも雨に押し流された桜の花を思って、何度でも。そうしてたぶん、この光景は打ち消してもなお消えない、脳裏に焼き付いた記憶となって、彼女の泣いた数だけ思い出されるのだ。

 気が付くと、美咲はあの熱を間近に感じていた。一晩中包み込まれていたはずなのに、こうして再び触れれば、それだけでもう身体は震えて、もっと、と求め始める。これほどの飢えを、美咲は醜いと思う。だからといって、際限なくこみ上げてくるものに、美咲は大輔の身体にすがりつくことしかできない。汚らわしいと思う心を裏切って、美咲は熱い首筋に頬を押し当てる。そうして耳元まで辿っていきながら、この熱を感触をせめて覚えておきたくて、身体を手でなぞった。耳で鳴った、たった一度の涙声の小さな喘ぎほど、大輔を狂おしくさせたものはなかった。

 しっとりとした髪に唇を寄せたところで、どれほどかけがえのないものを犯そうとしようとしているかに思いを馳せたけれども、当の美咲が逃げるどころかそのままじっと待っている。やわい耳の丸みに唇が触れただけで、美咲は声をあげた。大輔がこれまでに聞いた、全ての音のなかで一番切なく哀しい声だった。舌でなぞれば、美咲は声をあげながら泣く。そうして、何もわからないまま、ただ応えたくて、刻みこみたくて、大輔が動きを止めたときに、首から少し下のところをきつく吸った。大輔は拒まずに、美咲の気がすむまで動かずにいる。それから今度は大輔が、雨に湿ってもなお鮮やかに甘く香る首筋に顔を埋めた。美咲は背中に回した手に、強く強く力を込めて、嗚咽まじりにまた喘いだ。


 雨は降り続ける。激しさは増してゆくばかりで、あたりが煙ってそこにあるものを見通せないほどになる。けれども、それはほんの一時のことにすぎない。やがて雨は止むだろう。そして、あとには、抗う術もなく桜が散って失われた景色があるばかりなのだ。

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桜に降る雨 和泉瑠璃 @wordworldwork

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