第六話

 白々と明けゆく窓の外の空を感じながら、大輔は胸元に身を預けて眠る美咲を抱き続けていた。とうとう一晩中、そうしたままソファから動けずにいる。夜中の間に、床の上に投げ捨てられた香織のパジャマの傍らで、ケータイが何度も無遠慮な音をたてたけれども、大輔はでようとも思わなかった。

 それは、大輔と美咲のための夜だった。他の何かや誰かのためには決してならない。大輔は、時が重い砂のように肌をざらざらと流れてゆくのを感じた。少しも眠くはなく、重くて残酷な時間の流れの向こうに押し流された幼い美咲が失くした何かを探すみたいに、ずっと起きて目を凝らしていた。

 美咲の身体は柔らかく、いかにも傷付きやすそうに思えた。濡れた髪はゆっくりと渇き、大輔の家のシャンプーの匂いを孕みながらも、確かに美咲だけの凛として甘い香りがした。息をするたび微かに上下する細い肩を見ながら、こういう細やかなひとつひとつを、たぶん一生の間忘れないんだろうな、と大輔は考える。現に、その夜の間中、頭のなかでは美咲の言葉や表情が、昔のものも今のものも、鮮やかな奔流となって渦巻いていた。

 大輔は、美咲の蠱惑的な微笑みや、こちらを誘惑する足先の動きや、とめどない涙を愚かだと思う。そのようなことをしたとして、何にもならない。ひどく愚かだ。けれども、その分眩しいほどに激しく、真っ直ぐだ。その愚直さが、本当は好ましい。

 幼かった美咲が、時折その年の割に合わずに大人びた女の目になるのに、大輔は気付いていた。 だけど、それ以上の何が起こり得ただろう? 確かに、美咲には将来の美人を想像させるものが備わっていた。あどけなくふっくらとした桃色の唇の上、丸みを帯びた顎の先、きらきらとしたつぶらな瞳を縁どる睫毛の震えや柔らかいばかりの髪が翻る様に、大輔はそれを見て取ることができた。けれども、二人の間には十年という絶対の年月が大きく横たわっていたし、何より美咲はまだようやく大輔の腰に頭の先が届くかどうかの子供でしかなかった。

 幼い美咲が、精一杯の言葉を尽くして語りかけながら、真っ直ぐに見上げる。しかし、大輔は応えない。いつも美咲にはわからない本ばかりを読み、それでいて膝の上の熱やひたむきな声音をありありと感じている。

 この構図が二人のあるべき姿だと大輔は信じて疑わなかったし、美咲もやがてもう少し大人になればそのことに気付くものだと思い込んでいたのだ。本当に、成長した美咲が思いつめた目でやってくるまでは。

 明け烏が鳴いた頃、またケータイが震えた。明滅の光とともに浮かびあがった香織の名前に、もしかしたら一晩中起きていたかもしれない、と思う。だが、まるで地球の裏側にいる見も知らないものを思うみたいに、まるで現実の質感がなかった。

 香織は、大輔の上席者の娘だ。日ごろから、特に目をかけてくれていた人で、ある日、今夜二人で飲まないか、と誘われた。そういうことはしょっちゅうだったので、なんの疑いもなく行った先で、見慣れない女性がいたのだ。それが、香織だった。

 大学を出て二年になる娘でね、たまたま近くにいるというんで、来させたんだよ。同席しても構わないかな?

 そういった上司の隣で、香織が恥ずかし気に微笑んだとき、つまりはそういうことなのだと、大輔は勘付いた。心構えをするには、ほんの一瞬目を伏せるだけで事足りた。もちろんですとも、と言いながら作り上げた微笑みは、自分でも呆れるほどによく出来ていた。

 その夜、ごく当然のなりゆきのように連絡先を交換し合い、休日には二人で会うようになった。

 香織は、ありふれた魅力的な女だ。生まれも育ちも東京で、一人娘。仕事の時には温和と言い難い上司が、家庭では、特に娘に対しては違うらしいとすぐに気付くくらい、香織は誰が見ても愛情を注がれて育った娘だった。

そのためか、香織は少しばかり他者への思慮に欠けるところがあるけれども、言い換えればそれでも許されるくらいには、周囲に愛される気質が備わっているということだろう。明るい表情がよく似合う、まず美人の範疇に入る容貌は、間違いなくその一つだ。そんな彼女は、恐らく大多数の目に好ましい女性として映る。

 けれど、大輔はときおり思うのだ。いま、香織を香織足らしめているもので、時間の経過に奪われないものは、いったいどれくらいあるのだろう、と。たとえば、容貌の美しさならば、それは若さが失われると同時に、その輝きを少なからずある程度損なわれる。それでもなお、周囲を今と同じく惹き付ける何かを、たぶん香織は持たない。

 美咲に再会してしまった今夜は、なおさらその印象が強くなる。香織が、人生から諸々を受け取ることになれた女性なら、美咲は、自ら定めたたった一つの目標のために、人生から手を伸ばしてあらゆるものをつかみ取ってきた少女だ。それらはきっと、たとえどれほど時間が流れても、けっして美咲を裏切ることはしないだろう。

 そういう物事は、考えても虚しいことだと大輔は知っている。世の中には、一過性の、大部分は若さとともにある、何かすら持ち得ない人間が大多数なのだ。こんなふうに考えている自分だって、半永久的に価値あるものが備わっているとは、大輔には思えない。

 現に思い返せば、そうとは気付かないうちに無くしてしまったものがある。それは、既に後ろへと流れ去ってしまった時の向こう、さほど遠いとも思えない彼方に目を凝らせば、すぐに見つけられる。なのに、もはや取り戻すことができない。

 大輔は、自分の将来のほとんどを、ある程度の視野の明るさを保って見渡すことができる。今年はたまたま東京にいるけれども、来年からはまた国中の街を転々とするだろう。そういう忙しない日々のどこかの時点で、きっとあるべき形で香織と家庭を持つことになり、どこかの街から別の街へ動くごとに少しずつ肩書きが上がっていって、しかるべき時期にまたこの都市に帰って来る。

 走って手を伸ばせば届くもの、どこかで何かを怠れば遠ざかるもの、そういう細かなものまで、大輔は見通せる。それはある種、人から羨まれるものかもしれないけれども、大輔はどことなく惰性の世界だと思っていた。

 まだ昔と呼ばなくていいはずの過去では、もう少し物事や世界は活気を帯びていて、毎日の朝の訪れはより晴れやかに清々しく、夜の深まりには肌を通して全身へと行き渡る、はじけるような期待が潜んでおり、頭の中にも手足にも常に真新しい何かがざわめいていた。

 しかし、それらはそうと気付く間すら与えずに手の平から零れ落ち、二度と還らない遠くへと流れ去ってしまっていた。

 どうして、さよならを言わせてくれなかったの、と耳の奥で、震える声が甦る。きつく目を閉じて細い肩へ微かに額を寄せてみれば、瑞々しい花の芳香めいた匂いがした。十年前のあの日、少年だった自分は酷なことと知りながら、何故そうするのかはっきりとした理由を持たなかったけれど、今思えばもしかしたら意識はせずとも、こういう将来を予感していたのかもしれない。

 美咲が触れたところの肌が、痺れたように熱を持っている。十年という歳月をかけて、大輔の目の前に立った美咲は、その声にも誘う動作の一つ一つにも、彼女の身体こそが耐えられないのでは、と思えるくらいの熱と衝動が滲んでいた。あの何ものにも留めがたい激しさを、大輔は本当に久しぶりに見た。行き着く先を見据えぬままにひた走る勢いは、愚かしいことこの上ない。ただ、それゆえに美しかった。

 それは、一体なんだったのだろう。あわい期待? かすかな感傷? 名残惜しさ? 名指して呼ぶことも虚しいけれど、定かには認めがたい何かを抱えていたことだけは確かだ。何故なら、たった一度の機会を避けただけでこうも彼女を追いつめるとは思わなかったにしろ、別れの言葉がついに交わされなかった、ただそれだけのために、美咲は幼い日の予感そのままに美しく成長して、ここまでやって来たのだから。しかも、大輔が失ってしまった諸々を、恐らくは損なわれることのない全き結晶として身に纏って。

 腕の中の美咲が身じろぎをする。ああ目覚めるな、と思った通りに美咲は瞼を開くと、遠いいつかの日にそうしたのをなぞるみたいに、ゆっくりと見上げて、そこに大輔がいることを確かめた。

 窓に見える空には、どこまでも広がる鈍色がある。その鈍い朝の光を感じながら、大輔は美咲が唇を開くのを待つ。二人を取り巻く部屋の中を、長く思い出や秘め隠された思いが緩慢に通り過ぎて行ったあとで、美咲はあの約束を口にした。

「桜を、見せに連れて行って」

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