第五話

 追いかけよう、と思いつくのに時間はかからなかった。今度こそ、大輔と対等に立ち得る、いつかの少女よりも美しく知的な一人の女として、けりをつけに行くのだ。そのために大輔の半生をなぞり辿ろうと調べたところで、彼が呆れるくらいに高い学歴の持ち主だと知る。けれども、そのくらいのことで諦めがつかないほど、美咲は思いつめていた。

 通っていた小学校は、黙っていてもエスカレーターで高校まで進学できたのに、わざわざ中学受験をし直した。幸い、明晰な頭脳を持っていた美咲は、大輔の通っていた中高一貫校は男子校だったために叶わなかったけれども、それと双璧と言える女子校へ進学する。

 入学後の美咲が、一目置かれるようになったのはすぐだった。それも当然で、美咲ほどひたむきかつ貪欲に何事も取り組む生徒は稀だったのだ。やがて、生徒からも教師からも、素晴らしく前向きで、まっすぐ未来へ邁進していくように思われるのを、美咲は内心可笑しく感じていた。前向きでも、未来を見据えてもいない。美咲を駆り立て、心を掴んで離さないのは、過去なのだ。

 美咲はいつも、石を磨く音を聞いていた。がりがりと、醜く汚い石の表面を削る音。石のなかには輝きがある。それは、ただのありふれた輝きかもしれない。求めるような鮮烈な魅力を持った、宝石にはなり得ないかもしれない。けれども、一刻も早く取り出さなければ。

 そうして磨き続けた十年間で、最も忌まわしい思い出がある。

 美咲は、たったの一度だけ、大輔の母校の学園祭へ行った。まわりの高校生の少女たちは女子校という隔絶された空間のなかで、まだ見ぬ恋への夢を胸いっぱいに秘めていた。学園祭のシーズンがやって来ると、その夢との出会いを求めてめぼしい学校へ赴くのが、一時の病の熱のように流行った。もちろん、美咲も友人たちから声がかかったけれども、そんな無邪気できらきらとしたはしゃぎ方が出来るはずもなく、何かと理由をつけてのらりくらりとかわしていた。ただ、大輔の母校の名前を聞いたときだけは、心が揺れてしまった。

 全国に冠たる名門校の中庭の特設ステージ前のスペースが、ケータイを片手に談笑する男女のたまり場になっているのに瞠目し、一緒に来た少女たちが吸い寄せられるように、その一団に加わるのを見送った美咲は、にわかに沈んでいく気分を抱えながら、漫然と校舎を見上げた。クリーム色の石造りの壁はどこまでもしかつめらしく、確かに伝統と格式を伝えていたが、いまはあまりにも騒々しかった。ステージからは絶え間なくスピーカーを通した轟きが鳴り、雑然とした少年少女の声が無秩序に耳を騒がせる。美咲は、母校といえども、このような場所であの大輔に通じるものを見出すことはできなかった。

 そんな風にして校舎を見上げている間、誰も美咲には声をかけない。こんな賑やかさの中で、つまらなそうに校舎を眺めているといかにも超然として見えるのだと、しばらくして美咲は気付いた。すると今度は、ちらちらとこちらに目を向け、通り過ぎてゆく視線が鬱陶しい。やりきれない思いで、友達には適当な理由をつけて帰ろうかと思ったところで、一人の少年と目が合った。私服姿でここの生徒らしい彼は、数人の仲間と連れ立って学園祭を楽しんでいる最中のようで、美咲と目が合うなりはにかんで顔をそらす。そのはみかみ方が、つと興味を引いた。

 美咲は、あの笑みを昔見たことがある。ついぞ自分へは向けられることがなく、それゆえに打ちひしがれて、いまも絶えず求めているものだ。少年だったのだ、と唐突に思った。大輔も一人の少年であり、年相応の憧れや欲望をきっと秘めていた。美咲にとっては未知なるもの、こちらから手を伸ばさなければ、決して触れられないそれが、いま目の前にある。そのときの美咲は、あの少女と大輔がどういう風に出会ったのか、はっきりと思い描けるような気すらした。

 鏡の中の自分を、思い出していた。溌剌と明るい笑みを浮かべる幼い女の子は、たった一つの激しく辛い物思いを胸に抱いて、聡明な人の後を追いかけるうちに、鏡像の顔はだんだんと無邪気な光を消してゆき、かわりに冴え冴えとした理知的な輝きが備わった。それは、人と親しむにはいささか冷たすぎる。けれども、ひとたび微笑めば、甘やかな華が現れるのだ。

 それを思い出しながら、美咲は再び視線が出会った時に、彼へと微笑んで見せた。善也という名前だった。

 一種のゲームだった。異性との交際は初めてだったけれども、それくらい美咲はすぐにわかった。善也は驚くくらい純粋に美咲を恋慕い、夢中になった。そんな彼を、喜ばせたり、やきもきさせたりしながら、美咲は温度差を感じていた。全部わかるのだ。いつ笑えばいいのか、目を合わせまたはそらせばいいのか。それに対する彼の反応も。何故かは知らない。

 美咲はその気になれば、ぎりぎりのところまで善也を駆り立てることができた。何度かは、善也の一途さに心打たれて、応えるつもりでそうしたこともある。しかし、記憶の中の大輔とは、あまりにもかけ離れていた。それは思いの分だけ毎日美化されて、現実に目の前にいる人と比べるのはとても酷だと頭ではわかってはいるけれど、どうしようもない。

 美咲は、傍目には甘い時間を過ごしながら、こう誘えばこうなるのかと新たに学び、それは大輔にも通用するのだろうかと、そればかりを考えていた。ほどなくして、善也の方がそのことに気付く。つまるところ、彼は彼でじゅうぶん賢く聡い人間だったのだ。それで善也は初めて、自ら仕掛けた。

 善也の腕に抱かれながら、美咲はじっと考え込んでいた。少年は、その額を美咲のそれにつけて静かに息をしている。こうして腕に抱いているのだから、すぐにでも美咲の唇を奪うことができるのに、善也は寸前のところで留まり、許されるのを待っていた。彼がこの年齢の少年にしては、類稀な誠実さの持ち主だと、美咲は気付いていたし、このまま受け入れてしまったほうが、ずっと幸せだともわかっていた。

 けれども、やはり美咲は瞼の裏に大輔を思い描いてしまう。その温もりと、いま感じる熱との違いを考えてしまう。それが、この少年によって掻き消されるものだとは、美咲には思えなかった。だから、美咲は善也の胸を押し戻した。彼はもはや強いず、悲しげに笑った。

 それを見て、美咲はいかにこの優しい少年を傷つけたのかを知った。その傷は、美咲を耐え難く痛めつけているものと同質のもので、誰よりもその痛みをよく知っている。善也と別れてから、美咲は泣いた。本当はそうして泣く権利などないほどに、ひどく汚らわしい女だと美咲は思う。自分の愚かさを呪い、この上なく嫌悪した。それなのに、美咲はこれしか知らないのだ。

 これが私の恋。自分ではもうどうすることもできないほど醜く膨れ上がった、愚かしい妄執。それを終わらせる唯一の人を目指して、決着のためだけに十年を駆け抜けた。だから、応えて。どんな形へ行き着くのだとしても。

 ようやく追いすがって掴んだ腕の中で、美咲はそんなふうに繰り返し唱え続けた。

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