第四話

 美咲の母と大輔の母は、生まれも育ちも東京でありながら、それぞれの夫の職業柄転勤を免れず、転勤先のひとつだった神戸に、子供の教育のために腰を下ろしたところで共通していた。

 さほど性格が似通っていたわけでもなく、大輔の母親の方が六歳も年長だったにも関わらず、偶然同じマンションに住まい、自分と同じ出身で、単身赴任中の夫を持つ女性同士ということで、二人は格別親しく付き合うようになる。

 美咲は、初めて大輔に会った日のことを覚えていない。気が付けば美咲の思い出のなかには、自分よりも十歳年上の少年がいた。

 いつも本を読んでいる少年だった。美咲とその母が家を尋ねに行っても、その頃の大輔は十代の少年らしく、母親同士の交流などは気にもかけず、自分の部屋に籠って本を読んでいるのが常だった。あるとき美咲は、談笑する母親たちから離れて、一人少年のところへ行ってみた。ドアを開けて顔を覗かせた美咲に大輔は振り返り、珍しいものを見た顔をする。何をしているの、と美咲は尋ねた。本を読んでいるんだよ、と大輔は答えた。少し興味が湧いて、机の方まで近づき机の縁に手をついて伸び上って覗き込んだ。その本は、美咲の目には珍しい文庫本で、絵などなくて文字ばかり。面白いの? と見上げた美咲に、大輔は少し笑って面白いよ、と答える。どういう風に、と尋ねれば、少し考え込んでやがて大輔は話し始めた。

 それは、何の話だっただろう。何でも読む人で、その話も時々で多岐にわたったものだから、それぞれの話をいつ聞いたものなのか、よく思い出せない。けれども、ただの文字の羅列にしか過ぎなかったものたちは、大輔の口を通せばとたんに鮮やかに色づいて活き活きとしたものになった。背伸びをして本を覗き込んでいた美咲は、いつしか大輔の膝の上にいた。そこで美咲は、無味乾燥とした文章がたいそう面白い話として語られてゆくのを、驚きながら聞いていた。

初めて会ったのがいつかは、覚えていない。美咲にとっては、その本の内容を聞いたあの日が、初めての出会いだ。

 大輔が話すなめらかで落ち着いた言葉も、好きだった。前に住んでいた土地への愛着や、新しい場所での暮らしへの不安を抱くほど、美咲は大人ではなかったけれども、いざ飛び込んでみると耳慣れない言葉の波に驚き、たじろいだ。初めて聞く地方の言葉は、起伏の激しい響きで、アクセントが強く、語調が荒々しい言葉に聞こえた。しかし、そこで異質なのはむしろ美咲のほうで、幼い子供たちはその特有の異物を嗅ぎ当てる嗅覚と無邪気な残酷さで、美咲の話し方を気取っている、上品ぶっている、と言って笑った。

 だけど、美咲の言葉に大輔は笑わない。最初の頃ほど熱心に反応せず、美咲を膝の上に乗せたまま本に没頭するようになったけれども、大輔は奇矯なものを見つけた笑いやぶしつけな眼差しなど一度たりともしなかった。そこはどんな時であろうとも美咲の居場所だった。だからこそ、大輔が話してくれると、美咲は嬉しかった。面白い話を聞けるのはもちろん、親しみのある言葉で語りかけられることが。大輔は、言葉のつなげ方が上手いと美咲は思う。その言葉はほとんど途切れることがなく流暢で、そうあるべき調子と響きで調和が保たれている。耳に心地よい声にうっとりと聴き惚れて、胸に頭を預けながら見上げれば、視線に気付いた大輔がこちらを向いて、そっと微笑む。

 その微笑みに、胸が高鳴って、肌の下がじんわりと温かみを帯びるようになったのは、一体いつの頃からだったろう? 幼いばかりの美咲のなかでは、様々な感情がいまだ名前もないまま、混沌として浮かび漂っているだけだった。友情も、敬愛も、親しみも、恋も、愛も、区別がなかった。大好き。与えられた眼差しや微笑み、優しく撫でる手に、心の奥が揺れてふいに閃いた情動も、言葉として喉から出れば、そんな他愛もない言葉にしかならない。

 どこまでも曖昧で穏やかな感情で、美咲は満ち足りていた。子供が大人になることを知らないように、美咲も大輔もその間にある気持ちも、不変ではないのだと考えることさえせずにいた。けれども、いつの間にか自分の想いが、どうしようもないところまで育ってしまっていることに、ある日唐突に気付かされる。


 気持ちよく晴れた空の下を、美咲は新しく習った歌を口ずさみながら歩いている。住んでいるマンションまであと少しというところの、住宅街らしい車の通りが少ない道路で、等間隔に街路樹が植えられて、白く細い柵が歩道と車道を分けていた。美咲は、反対側の歩道に見慣れた後姿を見つけた。嬉しくなって声をかけようとしたところで、少女の笑い声が聞こえて、はっとする。

 街路樹の陰から、大輔と同い年くらいの少女が現れた。その手は当たり前のように大輔の腕に組まれて、慣れ親しんだ者同士の心許した笑顔を浮かべている。大輔が少女に向かって何かを言うと、彼女は頷いて腕から手を離した。じゃあ、と大輔の唇が動き、手を振る動作を交し合ったあとで、大輔は歩き始める。美咲がなぜだかほっとしたのもつかの間、少女の手が再び大輔の腕をとった。

 美咲には、その少女がどういうつもりなのかなんて少しもわからなかったけれど、大輔は振り返って彼女の微笑みを見た瞬間にわかったらしい。いつもの笑みとは少し違う、はにかみを含んだ笑みを浮かべる。大輔がそんな風に笑うのを、美咲は初めて見た。それだけでもう心は痛んでいたのに、大輔は少女の頬に手を添えると、静かに顔を寄せた。

 制服のない高校に通う大輔は、薄い緑色のポロシャツを着ていた。年齢の割に背が高く、普通の大人かそれ以上の身長だった。そんな姿で外を歩いていると、まるで大人みたい、と美咲はずっと思っていた。そう思うことに、胸の痛みを伴うことなんて、そのときまではなかったのに。

 少女の方は制服こそ着ていたものの、間違っても大輔の膝の上に収まるような幼さはなかった。肩も腰もまろみを帯びて、胸は服の上からでもわかるふくらみがあって、手足はすらりと長い。そして、つやつやとした黒髪をまっすぐにのばした横顔は、紛れもなく美しかった。

 身体のどこか奥深くで、弾けるように沸き上がった激しい思いを、美咲は今でも上手く言葉にすることができない。美咲は、ランドセルやワッペンのついた帽子を、短くて細いばかりの手足を、幼い身体を疎んだ。ひどくみっともないものに思え、自分を投げ捨ててしまいたいと思った。そして、あの少女を跡形もなく滅茶苦茶に引き裂いてやりたいと思った。もしあのとき、ナイフかハサミを持っていたら、本当にやっていたかもしれない。

 怒りでもなく、嘆きでもない、憎しみと言ってもまだ足りない、ひどく恐ろしい凶暴な感情は、あまりにも荒々しくて、幼すぎる美咲にはとても耐えられなかった。それまで美咲は、明るくて綺麗なものの中に生きていて、こんな風に濁って汚らわしく、獣のような感情がまさか自分のなかにあるなんて想像すらしなかった。

 少女の遠ざかる足音で、美咲はほんの少し自分を取り戻した。それで少女を見送る大輔を見て、言いようもなく切なさに襲われていまにも視界が曇りそうになったとき、本当に奇跡みたいに大輔がこちらに気が付いた。そのときの大輔の表情を、美咲は忘れない。驚くことなく、慌てることなく、照れることすらせずに、大輔はにっこりとした。その瞬間、美咲は駆け出した。

 曖昧で穏やかな想いが、はっきりとした強い感情へと変わった。美咲はもうこのときすでに、狂おしくて愚かしい想いを全身で覚えてしまった。同い年の子供たちは、まだままごとめいた恋の噂や関係に喜んでいたというのに。その日以来、美咲は歌いながら道を歩くのを、やめた。

 だからこそ、あの約束は必要だったのだ。あの春の日、大輔が大学のために上京する別れのときにきちんとさよならを告げられたのなら、きっとひとつの区切りとなっただろう。美咲は、秘めていた想いもそっと打ち明けることができたかもしれない。そうすれば、あの大人びてそつのない少年は、優しく宥めて、この想いを断ち切ってくれたに違いない。そして、美咲は別れを言えばよかった。親切だった年上の少年に。彼に寄せた想いに。そのための約束だったのに、その日は永遠に訪れなかった。ただ無残に捨て置かれた美咲がいるだけだった。物思いは終わることなく、月日と共に膨らんでゆく。

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