第三話
美咲のつま先が目指した場所を探り当ててしまう前に、大輔は穏やかに恭しく手で足を取り上げて遠ざける。彼女は恐らく、ひどく動揺するか、この上なく驚愕した顔を期待していたのだろうけれど、大輔はそんな表情はしなかった。かわりにうっすらと微笑んで見せる。
「いつの間にこんなことを覚えたのやら」
美咲は何かを探るような目つきで大輔を眺めたが、とうとう望んだものを見出せずに、大輔の手の内に収まった足を引き抜いてまたよそを向いた。十年、と唇が動く。
「どこかの薄情な人は、輝かしい新世界に夢中で、置いて行かれた私のことなんてちっとも気にしていなかったかもしれないけど、私にだって私の十年があったの。それは、八歳のちっぽけな女の子が十八歳の女に育つような時間で、その間に覚えたことなんて、数えきれないくらいあるんだから」
「らしいね。じゃあ、これもそのうちのひとつかな」
美咲は答えずに、自分の話を続けた。それはひどく内に閉じこもった回想なのに、打ち明け話の体で語られる。そんな風に話すことで、何かを内側と外側の両方から補強しようと試みているようだった。
「この十年、私が考えていたことといえば一つきり。ご近所さまのお兄さんに、どうやったら会えるかということ。もちろん、ただ無邪気に会いに行くのではなく」
言いながら美咲は上目使いにこちらを見たが、大輔は目を合わせずにグラスへウィスキーを注いで口に含んだ。それで美咲は、しっとりとした前髪が瞼に降りてきたのを、鋭く唇から吹いた息で払い、脚を組み直した。彼女いわく古代ギリシア風の衣装が揺らめき、そこから長くしなやかな腕が伸び、先端の一輪の純白の花みたいな手が開いて、何かがその上に乗っているような形を作った。
「私はいつも醜い灰色の石を思い浮かべていた。ごつごつして輝きなんて少しもない、くすんでみっともない石。それが私。それを十年という時間で、少しずつ少しずつ磨いていったの。他の同い年の女の子たちが、無邪気に愚かしく遊び回ったり自分を飾り立てたりするのに夢中になっている間、私はその石からきちんと宝石が出てくるのかどうかずっとびくびくしていた。ありきたりの宝石では足りない、一目で心を奪うような美しい石に磨き上げられるかどうか、そのことばかり考えていた」
美咲は唇を閉じると、目には見えない彼女の輝く石を乗せていた手を軽く握り込み、自らの方へと引き寄せる。それから、その手の内の中にあるものをじっくりと吟味しているかのように目を伏せたあとで、決意を込めた強い眼差しに変えて、手を差し伸べた。
「これが私の十年。全部、ここに来るための。こうして会いに来るための、十年」
その差し出された手が深遠な意味を含んでいるのは、もちろん大輔にはわかっていたし、生半可に握ってよいものだとは露とも思っていなかった。だから、美咲のことを思うのなら、その手を握るべきではなかった。大輔は、幼い頃の彼女を知らなかったら、少なくともこんなにもありありと思い出せなかったら、よかったのにと考える。そうしたらきっと、この手が微かに震えていることや、瞳の奥の強張りと怯えに気付かずに済んだだろうから。
大輔は、悟られないようにひとつ息をしてから、返事をした。
「少し驚いたよ。十年前では思いもよらないほど、君は知的で、綺麗で、素敵な女になった。男なら誰でも恋人にしたいと思うような、そういう素晴らしい女性になったよ」
だけど、と大輔はまっすぐに美咲を見て言った。
「成長することと、元からあった年の隔たりを埋めることは、イコールにならない。君は確かに魅力的な女性になった。だけど、僕と君の間に十年の年の差があることは、たとえ何年経とうと、どれほど努力しようと変わらないことなんだよ。それはすごく、残念なことだとは思うけれど」
でも、とか細く、けれども鋭い声が部屋に響く。
「あなたのための十年だった」
それまで危うい均衡の上でようやく保たれていたものが、あっけなく壊れてどうしようもなく溢れ出そうとするのが、美咲の顔の上にありありと見える。大輔はそこからあえて目をそらすまいと思った。
「そうかもしれない。だけど、それはあくまで君の十年だ。僕のじゃない」
ついに美咲の瞳から涙が流れた。美咲は力なく項垂れて、肩を震わせながらいつ尽きるとも知らない涙を拭い続ける。大輔は嘆息をかろうじて留めたけれど、脳裏でいたいけに泣く幼い美咲の姿が閃くのまでは止められなかった。あんなにも扇情的な笑みを覚えたのに、どうして泣き方だけは変わらないのだと、呆れて問うてみたくなる。
大輔が頬に触れると、美咲は何の躊躇いもなくその手のひらに頬を預けた。指で涙を拭ってはみるものの、とめどなく溢れるばかりでどうすることもできない。それで大輔は、美咲に求められるままに胸元に招き寄せた。
布一枚に隔てられたばかりの身体の熱やまろみを帯びた弾力は驚くほど間近に感じられたけれども、大輔のシャツを掴む美咲の手はもはや何かを惑わすほどの余裕がなかった。美咲はただただしがみつき、どうしようもなく遠く隔てられたものを嘆いて泣き続ける。大輔は、美咲がシャツを涙で濡らすのも、首筋に熱い頬を押し当てるのも、されるがままになっていた。それで、昔そうしていたように、ひたすらに背を撫で続けた。美咲が心の底では、そんな童女をあやすようなことではなく、もっと別のものを望んでいることはよくわかっていたけれど、それ以外にしてやれることなどはなかった。
ねえ、と苦しげな嗚咽の中で、美咲は問いかける。
「どうして、雨なんて降ってしまうの。桜が咲く頃に」
その問いが同じく発せられたときのことを、もちろん大輔は覚えている。恐らくそのときの大輔の答えを、美咲は十全には理解していなかっただろう。だが、いまの美咲なら痛いほどにそれを知っている。それでも、大輔の答えは変わらない。
「それは仕方のないことなんだよ。どんなに桜を惜しんだとしても、雨は降るんだ。誰にもどうすることもできない」
シャツを掴む手に力がこもり、嗚咽を噛み殺そうとする儚い努力が何度か試みられたあと、じゃあ、と美咲は二つ目の問いを投げかけた。
「どうして、さよならを言わせてくれなかったの。そうしたら、私はここまで思い詰めなくて済んだかもしれないのに。でも、雨が降ったというそれだけで、私はさよならを言わせてもらえなかった」
大輔はそれに答えずにいた。やがて答えを探り当てようと目を上げた美咲に、大輔はそっとその目に手を乗せて塞いでしまう。ひどい、と美咲は震える声で言ったが、それすらも自分の胸に顔を押し当てて、聞こえないふりをした。
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