第二話
浴室の方から、美咲がシャワーを使う音が微かに聞こえてくる。大輔はまた少しウィスキーを注いで、一息で飲み込んだ。それから何気なしにケータイを取り出して見てみると、そこには今度こそ香織からの着信が数度入っていた履歴がディスプレイに浮かんでいた。
よりにもよってこんなときに、と思わなかったと言えば、嘘になる。かけるなりすぐに出た香織は、どうかしたのと、ややかたい響きの声で尋ねた。
こういうことは、上手く言い繕うとすればするほどむしろ厄介になると思った大輔は、実は、と今夜の経緯を素直に話した。それに対する香織の反応はといえば、なかなか複雑だった。香織が口にした、大変ね、という言葉が含む純粋ないたわり以外の女の声の響きに気が付かない大輔ではなかった。
ふと背後に気配を感じて振り返ると、それと同時にこちらへと腕が伸ばされた。なんの心構えもしていなかった大輔は、あっさりとケータイを奪われる。少女の無駄のない指の動作で、香織の声がふつりと途切れた。
美咲は画面から目だけを上げると、大輔を見据える。そして、大輔が「服は?」と尋ねる前に、眉一つ動かさず、手に持っていた女性用のパジャマを床の上に投げ捨てた。
「このパジャマ、誰の? 一人暮らしのはずなのに。その電話の女の人の?」
最初の驚きが通り過ぎたあとは、喜ばしいとは言い難い状況への徒労感が浮かんでくる。大輔は、ため息をこらえようともしなかった。
「美咲ちゃん。人の家でふざけるのはたいがいにしてくれないか。その布、どこから持って来たんだ」
ああ、これ? と美咲は自分の身体を見下ろすと、愉快そうな顔をして、見せつけるようにその場でくるりと回った。
「ベッドのシーツを引っぺがしたの。だって、得体の知れない女の服なんて、気味が悪くて着られないもの。ねえ、上手く着られたと思わない? 古代ギリシア人って、きっとこんな感じ」
ただの白い布は、少女の華奢な身体をゆったりと包み込む、いくつものひだを持った覆いになっている。そのひだの現れ方といい、身体の動きにあわせて頼りなく揺れる様といい、後世で巨匠と呼ばれる画家たちが描いた、イタリアルネッサンスの女神の有り様に似ているとも言えた。だが、もちろん大輔は純粋に綺麗だ、と言うことはできない。
美咲はソファに腰を下ろすと、ウィスキーの瓶とグラスの方に手を伸ばした。すかさず取り上げた大輔を、鼻白んだ顔つきで美咲は見上げる。
「君が、こんな風に人を困らせるようになっているとは思わなかったな」
苦笑を浮かべて言ってみせると、美咲はふいと横を向いた。
「別に、誰にでも困らせるようなことはしないよ。話を聞いてほしい相手の気を引くときだけ」
なるほど、と大輔は、読んでいた本を奪い取って投げた、今にも泣きそうな顔をした小さな女の子のことを思い出す。
「なにか話があるなら、素直にそう言えばいいのに。なにもこんなやり方をしなくても」
「そう? いつだって、私の話をきちんと聞いてくれなかったくせに。ずっと本を読んでいて、私がいくら一生懸命話したって聞き流していたじゃない」
その表情と言い方は、どことなく昔に通ずるものがある。大輔はしばらく沈黙していた。ふいに訪れた静けさの、美咲がじっと言葉を待っている間、大輔は次々と浮かんでくる、十年前の思い出に浸っていた。
幼い女の子は、いつだって一途な目をして、膝の上から語りかけてきた。少年だった大輔には、十も年下の話は面白いと感じることは難しく、ひとまずのご機嫌とりに背中を撫でてやりながら、読みたい本を読んでいた。
それでも不思議と、ふくれっ面の幼女が帰ったあと、ふとした瞬間に他愛のない話を途切れ途切れに思い出した。聞いていたとも思えないのに、明瞭に話は思い出され、あとで一人笑ったことすらある。
「聞いていたよ」
自分の言葉の響き方が、まるで長い間そっと大切に隠し続けていた秘密の告白めいていて、おかしく感じられた。うそ、と美咲がこちらを見る。なんという意味もなく、大輔は微笑んだ。
「じゃあ、どうして君は、あんなにしつこく何度も僕のところに来たのかな。普通、自分の話を聞いてくれない相手のところには行かないと思うけど」
美咲は目をそらして、しばらく黙っていた。まるで作戦を練り直しているみたいな横顔だ、と大輔は思う。それくらい深く真剣な表情をしていた。でも、と美咲は口にした。
「結局は、私の話なんて、真面目に聞くものじゃなかった。ただの子どもの話でしかなくて、本を読む片手間に聞き流すものだった。そうでしょう?」
「真面目に聞いていたかどうかはともかく、子供の話だったのは仕方ないんじゃないかな。実際、君は子供だったんだから。だけど、いまはそうじゃない。そうだろう?」
大輔の何気ない一言は、思いがけず美咲に響いたらしい。はっとした目になって、子供じゃない、と美咲はつぶやく。そして、大輔を見上げた。
「それは、世間一般的に見てということ? それとも、個人的に見てということ?」
言わんとすることは、なんとなくわかった。けれども大輔は「なにか違いが?」と気付かないふりをした。すると、探るような間のあとで、ふいに足の下の方からすぅっと這いあがるものを感じる。
白くほっそりとした女のつま先は、くるぶしをまさぐるようにしてから、痺れるような緩やかさでふくらはぎから腿へと這ってゆく。脚の外側をなぞっていたものが、とうとう足の付け根に辿り着くと、つかの間そこへ留まり、それからさらにゆるやかな動きでそっと内側へと寄っていく。
少女の身体を覆う白い布は、足が上がってゆくごとにゆるやかにすべり落ち、そのときには脚のなめらかな肌がすっかり見えるほどだった。肌の色は、シーツの無機質なものとは異なり、内側から輝くような鼓動を秘めた、鮮烈な白だ。その白を惜しげもなくさらした先で、少女はかすかに首をめぐらせ、微笑む。
そのとき大輔は、妙に落ち着いてしまった。無理に掻き立てようと誘われた、ちりりとするわずかな熱とは別に、頭の方は醒めていってくっきりとする。相手が何をしたいのかわからない困惑が、確信を得て平らかな静けさに変わっていった。
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