第一話

 金曜の夜だった。大輔は官舎のマンションに帰ったばかりで、とりあえずネクタイをゆるめ、上着を脱いでくつろいだあと、ウィスキーを一杯入れて口に含んだ。なかば身を投げ出すようにソファに座り込むと、長く細い息をついて、目頭を強く指で押しながら揉む。すっかり癖になってしまったな、と少々苦く思った。

 ローテーブルの上のスマートフォンが、ちらちらと小さな光を瞬かせて、無粋な音をたてて震えながら机上を滑った。液晶画面には「香織」と交際している女の名前が浮かんでいるものと思った大輔は、出るのをやめようか、という考えが頭の片隅に浮かびつつも、やれやれとソファから起き上がる。

 すると目に飛び込んできた名前が、十年も顔を合わせていない少女のものだったので、少なからず驚いた。彼女がこの春からこちらの大学に通うため上京してきたのは知っているが、こんな夜遅くに前触れもなく連絡を寄越すような心当たりはなかった。

 電話に出ると、ふ、と笑みの気配がスピーカー越しに感じられた。大輔はほんの一瞬、向こうにいるのは美咲ではない誰か大人の女性なのでは、と思った。けれども、続いて聞こえてきた、お久しぶりです、こんな時間にごめんなさい、という声は、記憶のなかのものよりも深く大人びていたものの、あの頃の面影もまた確かにある。間違いなく、美咲なのだ。そして、美咲は耳慣れない大人の女の声で言う。

「ねえ、当ててみて。いま私は何処にいるでしょう?」

 大輔はひとまず、相手にちゃんと聞こえるようにため息をついた。美咲ちゃん、と久しく呼ぶことのなかった名前が、自然に口から出る。

「ふざけていないで早く帰ったほうがいい。いくら大学生とはいえ、女の子があんまり遅くまでいるのはよくないよ」

 大輔の言葉に、美咲はまた微笑みを浮かべた様子で帰れないの、と言った。どうして、と大輔は声に咎める響きをこめながら尋ねた。

「初めてお酒を飲んじゃった。身体がふわふわして、なんだか不思議な気分。いい気持ちなんだけど、うまく歩けなくて。ちょっと動くとね、思ったよりも三倍身体がぐわーんと傾くような、そんな感じ。だから、帰れないの」

 ふふふ、と笑う美咲に、大輔は不本意ながらなんと言ったらいいものか、すぐには思いつかなかった。

「いまね、渋谷の西武の前にいるの。エルメスのウィンドウがあるところ。わかるでしょう?」

 大輔はすぐにわかった。そこでたたずみ、電話をかけている美咲まで思い浮かんだ。可笑しいことに、その美咲は十年前と変わらないあどけない少女の姿をしている。そんなことはあり得ないとわかっていながら、大輔は十八歳になった美咲を思い描けない。

 大輔が返事をするよりも早く、通話が途切れた。仕方なく、タクシー会社に電話をかけたあとで、脱いだ上着を再び羽織った。


 西武の前につけさせた車の中で、大輔は一人の女性を見つけた。美咲は、とっくに灯りの消えたウィンドウの中の商品を、顔を近づけて眺めていた。それでいて、タクシーが停まるとすぐに振り向いて、大輔が降りる前から唇に笑みを浮かべる。

 十年の空白は、あどけなかった少女を輝くような若い一人の女性に変えていた。そこにあるのは、確かに知っている顔でありながら、大輔には馴染みがない。女性、ましてや成長という名の変化が著しい十年を経たとはいえ、こんなにも変わるというのは、少々信じられなかった。

 大輔がそんな風にして美咲を眺めている間、彼女もまた何かを検分するような眼差しでしげしげとこちらを見ていたことに気が付いた。その眼があんまりに澄んではっきりとした色をしていたので、大輔は美咲がさほど酔っていないことがすぐにわかってしまう。

「いま、何時かわかる?」

 美咲はちっともこたえた様子を見せずに、さあ、なんてとぼけた。そんな場合ではないのに、大輔はこの少女が一見いじらしいくせに、思いがけず芯が強かったことを思い出した。返事もせず本ばかり読んでいる男の膝の上で、ひたすらに話しかけているまるい頬をした幼女と、その熱とが甦ってくる。

 とにかくタクシーの中に押し込んで帰してしまうことにした。ほっそりとした腕を掴んだとき、てっきり駄々をこねられるかと思ったが、美咲はあっさりと後部座席に収まった。大輔は、適当な額を渡して運転手に彼女を送り届けるように頼むと、初老の白い頭は「どちらへ?」と尋ねた。

 座席に座った美咲は、眠ったふりなどしている。揺り動かすと、「スカイツリー」と言った。

 運転手が怪訝な顔で振り返る。面喰っているのはこっちも同じだ、と思いながら大輔は、後部座席に屈みこんだ。

「美咲ちゃん。君はいまから帰るんだ。確か、寮だったよね。その住所を言うんだ」

 けれども美咲は、また「スカイツリー」と言った。ここまでくると、大輔もさすがに苛立ちを覚えた。「いい加減にしなさい」と言って、幾分強めに美咲を揺すった。

「酔ったふりはやめるんだ。それくらいこっちだってわかるよ。住所を言って、帰りなさい」

 大輔の憤りはわずかながらも声に表れており、美咲がそれに気が付かないはずがなかった。いっとき薄く瞼が開き、迷うような間のあとで、また目は閉じられる。そして三度目のスカイツリーという言葉が、静かに車内に響いた。

 後部座席に屈みこむのをやめて、大輔はドアに手を置いた。このままタクシーに置き去りにすれば大人しく帰るだろうと本気で思い、あと少しでそうするところだった。しかし、白髪頭の運転手は、厄介事の気配を敏感に察知して、ウィンドウ越しに大輔を見上げてくる。運転手の隠そうともしない苦々しい顔に、大輔は挫けた。

 結局、大輔は美咲の隣に腰を下ろして、戻って、と言った。念のために自宅の住所を言おうとしたが、言い終えるよりも先にタクシーは滑らかに走り出した。

「入学して一週間目で無断外泊とはね。あとでどうなっても知らないよ」

 なるべく低い声で非難がましく言ってはみたが、美咲は目をつむったままで微笑んだ。

「平気。だって、届け出をきちんと出してきたもの」

 大輔は思わず振り向いたが、美咲は深く眠りに落ちたふりをして何も言わない。

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