機巧の肖像

藤光

機巧の肖像

 顔を見なくとも後姿を見れば、母が泣いていることは分かった。


 明るいけれどがらんとした部屋に据えられた四人がけのテーブル。うなだれて座る母の背中はとても小さく見える。ここは実家のリビングだ。でも、おかしい。おかしな光景だ。こんなはずはない。大阪から遠く離れた郷里に直人が戻ったことなどないのだから。


 直人に気づいたのか、おもむろに母が振り返った。泣き腫らしたその目がうっすらと赤い。


「お父さん、死んじゃったのよ」


 葬儀には帰らなかった。医師からがんと告げられていた父は、病気が見つかった当初から手の施しようがない状態だった。診断から一年、父は死んだ。しかし、遺伝子治療だナノマシンだと、死ぬのも難しい時代である。 父は楽に逝けたほうかもしれないと、母は自分自身を慰めるように話している。


 テーブルの上にあるのは遺影のようだ。黒っぽい額の中に父が収まっているのだろう。しかし、目を凝らしても一向に父の容貌は要領を得ない。どうしてだろう。


「なんとか言って、直人」


 でも、見えないんだ、父さんの顔が。こんなに近くで見ているのに。おまけに喉が張り付いてしまったかのようで声も出ない。変だ。


「直人」


 妙に明るく白いリビングで母の佇むところだけが、ぼんやりと浮き上がってくるように思える。それは確かに遠いとおいところでの出来事だった。


 誰かに呼ばれているように感じて目を開けた。直人の中で錯綜していた過去と現在が整列を始め、混然となっていた夢と現実が 切り分けられて、徐々に違和感が拭い去られていく。意識が明瞭になると、そこはマンションの自室だった。枕元の時計を見ると夜中の二時。両手は固く汗を握っていた。暗闇の中、額の汗を拭う。そうだ、明日は出勤しよう。何もしないでいると考えたくないことばかり考えてしまう。眠るんだ――。


 目を閉じるまでは、さっきのように実家の母や亡くなった父がまぶたの裏に現れるのではないかと不安だったが、一旦目を閉じてみると、結局、窓際のカーテンが明るさを孕む時刻になってもそうしたことにはならなかった。






 ようやく明るくなり始めたホールの吹き抜けにある螺旋階段をギャラリーまで上がると、厚いカーペットの床を踏んで『彼女』が現れた。


「カレン、おはよう」

「おは ようございます。もう出勤して大丈夫なのですか」


 ギャラリーに顔を出すと、真っ先に声をかけてくるのはいつもこのAI――『Karen』だ。整った顔立ちに、隙なく着こなされたダークグレーのスーツ、すらりと伸びた足元には黒のハイヒールが光っている。


「オーナーから、今宮さんはお父さんを亡くしたと聞いていたのですけれど」


 黒目がちの瞳が心配そうに直人の顔を覗き込んでくる。淀みない口調だが、彼女は自分が何を心配しているのか、また、心配しているふりをしているのか正確なところを自覚できているのだろうか。


「葬儀も終わったし、ぼくは平気だよ。仕事も溜まってるから少し早く出勤しただけさ」


 そして人の嘘を見透かすことができるのだろうか。


 そうですかと、 ひとつ頷いてカレンは安心したかのように、真っ暗なギャラリーを受付の方へ戻っていく。彼女の足取りに迷いはなく、所定の位置まで戻ると立ち止まった。他の従業員が出勤してくる九時までは、まだだいぶ時間があるのでカレンはそこで待機モードに入るのだろう。


 早朝、夜が明けきる前に直人はギャラリー『Albion《アルビオン》』へ出勤してきていた。父が亡くなったと連絡が入ったのが四日前、卓上端末には営業先から舞い込んだ用件も溜まっているはずだ。確認すると、やはり多い。メッセージをチェックしていくと、わずか四日間でもかなりの量が溜まっていた。


 どれから取り掛かろうかと考え始めたとき、カップに入れられたコーヒーがすっと差し出された。カレンである。受付で待機モー ドに入ったものと思っていたが、直人のためにコーヒーを淹れていてくれていたのだ。オフィスに良い香りが漂う。


「ありがとう」

「一日長いですからね。頑張ってください」


 にっこりと完璧な笑顔を作って立ち去る。今度こそ受付へ戻るのだろう。


 ディノテクニクス社製二〇四六年式人型汎用自律機体、タイプ『Karen』――。若い女性型のAIでオフィスでの受付、接客、事務の補助や、店舗での接客、販売補助のために開発された機体である。ディノテクニクス社のAIは、非常に高価であるものの「似人性」が高く、『Karen』は、髪の毛や肌の質感、発声音域、肢体の運動能力、五感の刺激に対するレスポンスまで、人とほぼ同じになるように調整されている機体だ。見た目は人間の女性と変わ りない。市場からは非常に人間らしい動作をする機体という評価を受けており、一流企業の受付や高級ファッションブランドの販売補助として多く採用されている。


 アルビオンのオーナーで経営者でもある成瀬は、顧客を富裕層にまで広げたいと考えており、数千万円を投資してギャラリーの受付にカレンを導入した。ディノテクニクス社のブランド力、富裕層への訴求力に期待したのだ。


 一息ついてカレンの淹れてくれたコーヒーを啜る。とても美味しい。AIには味覚も嗅覚もないだろうに、淹れるコーヒーは味も香りも完璧だ。カレンは感情を持たないが、肉親を亡くした人間の気持ちを慮ろうとする何かを備えているのかもしれない。


 コーヒーを飲みながら、直人は本格的に溜まっている仕事 に取り組み始めた。メッセージの中から早急に取り掛かる仕事と、時間に余裕があるものとを振り分ける作業に手間取ったが、他の従業員が出勤するまでには、仕事に目鼻をつけることができた。――気になる一通のメッセージをのぞいては。


 午前九時、いつものようにオーナーの成瀬が出勤し、アルビオンの一日が始まった。


「出てきて大丈夫か。もっと休んでていいんだぞ」

「いえ、葬儀は終わりましたし、仕事をしている方が気が紛れます」


 成瀬は、経営者としての手腕は今ひとつだが、資産家で芸術好きの好人物だ。直人のささやかな嘘に気づくはずもない。


「それより見ていただけませんか」


 直人は一通のメッセージを示した。件名は『ご依頼の肖像が完成しています。確認をお願 いします』とあり、画像ファイルが添付されていて、差出人に『衛藤鼎』とある。


「衛藤先生からの連絡だな。頼んでいた肖像画が出来上がった……ということだろう?」


 衛藤鼎は洋画家である。長年にわたって芸術系の大学教授を務め、画壇に一勢力をもつ実力者だったが、退官と同時に表舞台からは去り、今はひとり自宅で好きな絵を描いて暮らしている。


「どこか変か。おれには普通のメッセージに見えるがな」


 アルビオンでは、顧客からの要望に応じて肖像画の作成を画家に依頼することがある。衛藤は日本における肖像画の権威だ。


「おかしいです。先生に肖像画をお願いしたのは、五日前なんです。いくらなんでも早すぎます」


 六十代半ばで大学を辞めて十年余り、衛藤は八十近 い高齢のはずだ。五日で絵を描きあげるなど、ちょっと考えにくい。


「確かに早いな。先生は高齢なんだし、無理して早く描いてもらうことはないんだぞ」

「もちろん、そう伝えてあります。でも――」


 直人は端末を操作し、過去に衛藤に依頼した絵に関するデータをモニターに表示した。そのデータは依頼する度に仕上がりが早くなっていることを示していた。卓上端末に記録されている限りでは、平均的な所要日数は一ヶ月弱。それが前々回は二週間、前回は十日間、そして今回はわずか五日間で描きあげたことになる。


「手抜き……じゃないだろうな」


 ギャラリー経営は、信用の商売の側面が大きい。顧客の信頼を裏切るような絵画を販売しようものなら、顧客は一気にアルビオンから離れ ていってしまう。経営者としての成瀬がまずそこを気にするのは当然だ。


 メッセージに添付されてきた画像ファイルを開くとモニターに年配の女性の肖像画が現れた。依頼した絵に違いない。丁寧に書き込まれており、故意に手抜きされた絵には見えない。


「画面ではよく分かりませんが、絵のタッチは衛藤先生のものです。もちろん、手抜きされたようには見えません」

「ふむ。描き急ぐ理由でもあるのかな。……経済的に苦しいとか」


 それにしても高齢であることだし、体を壊したりでもしたら大変である。急いで描く理由は分からなかった。


「なんだか気になるな。今宮、ちょっと衛藤先生のお宅に伺って絵を見てきてくれないか。あわせて先生の様子も」


 直人は老画家のアトリエを訪 ねることになったのである。







 タクシーが走り去ると、しんと静かさが耳に沁みた。鮮やかに色づいた街路樹が並ぶ手入れの行き届いた歩道に人の姿はなく、小春日和というのだろうか、雲ひとつない青空には陽の光がいっぱいである。大阪湾を遠くに臨む六甲の山懐には、穏やかな晩秋の午後が訪れていた。


 衛藤の自宅は、住宅街に沿って走る道から少し入ったところにあった。敷地に足を踏み入れると、広い庭に植えられたいくつものメタセコイアが見事に紅葉している。玄関のチャイムを鳴らし、しばらく待つと解錠される音がして扉が開き、現れたのは見たことのない若い女だった。


 だれだろう。直人は衛藤が若い頃からずっと独身を貫いていると聞いていたので戸惑った。以前に訪問した 時には、こんな女はいなかったはずだ。しかし、どこかで――。


 女はあらかじめ直人がやってくることを承知していたようだ。どうぞお入りくださいと案内されるまま玄関を入り、ホールのすぐ脇にある衛藤のアトリエに通された。画家らしい家といったらいいのか、この家で一番大きな部屋はこのアトリエである。


「衛藤が参りますまで、しばらくお待ちください」


 女が去り、部屋には直人だけが残された。ぐるっとアトリエを見渡す。高い天井に白い壁、板敷きの床には画材やキャンバスが並んでいる。先ほど通ってきた庭に面した壁は、一面が天井まで届くガラス窓になっていて、そのそばに木製のイーゼルが立っている。


 窓に近づくと青い空がよく見えた。庭いっぱいに立ち並ぶ紅葉したメ タセコイアとの対比が美しい。午後の日差しが窓を通してアトリエに降り注いでくるようだ。その陽だまりのちょうど真ん中にイーゼルは据えてあって、さほど大きくないキャンバスが架かっている。描きかけの肖像画らしい。


 あの女だ。


 キャンバスの中から、若い女が視線を投げかけてきている。整った顔立ちに、ショートカットの髪。玄関で直人を出迎えてくれたあの若い女に違いない。この遠くを見るようなまなざし――やはり会ったことがある。これは衛藤が描いたものだろうか。


「待たせて申し訳ない」


 男の声に振り返ると、車椅子に身を沈めた老人が部屋に入ってきたところだった。頭髪は真っ白で、顔色も不健康そうな土気色をしている。衛藤だ。車椅子にはあの若い女が手を添えている。


「ご無沙汰しています、先生。……お加減が悪いとは、存じませんでした」


 以前、ギャラリーで会ったときは、矍鑠とした老紳士だった衛藤だが、こうして車椅子に座っている様子は、病み衰えた老人としか見えない。


「いや、お加減も何ももう歳だよ。八十も近くなると足腰が言うことをきかなくなってね」


 そう言うと衛藤は、ひとり車椅子で近づいてきた。自走式の電動車椅子である。


「気になるかね」

「え――」

「気になるんだろう。その絵が」


 衛藤はイーゼルに架かった絵を指差した。


「最近、彼女をモデルに描いているんだ。カレンだよ」


 不躾にも衛藤の後ろに控えている若い女――カレンに視線を送ってしまった。女は慎ましやかに頭を下げてみせた。


「 AIをモデルに絵を描いてるなんて、昔の仲間が聞いたら笑うだろうな」


 会ったことがあると感じたのは間違っていなかった。面差しに似たところはないし、背丈も衛藤家の機体の方が高い。声も低くて似ていないが、そのどこか遠くを見ているような目は同じだ。『Karen』の瞳だった。


「私もずっとひとりでやってきたが、言ったようにもう歳だよ。この車椅子の世話にならないと歩行もままならない。炊事や洗濯、掃除など言わずもがなだろう? アルビオンにAIがきたと聞いて、うちにもきてもらうことにしたんだよ」


 ディノテクニクス社のAIは、巷に溢れる家事ロボットとは違って完全な受注生産である。機体は顧客の要望に応じたカスタマイズが施されるのが通常で、同じように「カレン 」と呼ばれはする彼女たちだが、それぞれ世界にただ一台――、いや、ただ「一人」の機体なのだ。


 カレンのいる生活は快適だという。人間の家政婦と違って気を使うことがないし、仕事に文句を言うこともない。その本質はコンピューターと同様の情報処理機器なので、その方面に弱い衛藤の仕事を代行させても効率がいい。


「それはそうと、絵を受け取りに来てくれたんだね。失礼した。カレン、先日描きあげた絵を今宮君に渡してくれ」


 カレンが数あるキャンバスの中から小さめの一枚を選び出して、直人に差し出した。白髪の女性が描かれた絵でメッセージに添付されていた画像と同じものだ。すでに完成しており、キャンバスの片隅に小さく『family』という文字と『E.K.』――「Eto Kanae」であろう――サインがある。衛藤作品に特徴的なタッチが随所にみられ、故意に手を抜いて描かれたような形跡はなかった。手早く、確実に絵の確認を済ませた後、ところでと直人は切り出した。


「この絵をお願いしたのは、確か先週のことだったと思いますが、ずいぶん早く出来上がったようです」


 衛藤は口元に笑みを浮かべて直人の話を聞いている。


「こんなに早く仕上げるのには、なにか先生でご無理をなさったんじゃないでしょうか」

「そんなことはないよ。最近、調子が良くてね。筆が進むんだ――。なんだい、私の身体を気遣ってくれてたのか。平気だよ」


 衛藤の笑顔に屈託はなく、言っていることに嘘はなさそうだった。いや、仮にその言葉に嘘があったとしても、なんらや ましいことはないと信じている口ぶりだったといったほうがいいだろうか。


 お茶にしようと促されて、直人はアトリエの片隅に置かれた応接セットのソファに、衛藤とふたり腰を下ろした。その際、直人は衛藤が電動車椅子から伸びたマニピュレータの介助を受けているのを見て驚いた。肘掛の下から金属製の腕がいくつか現れて、自律的に衛藤の手を取り、体を支えようとするのだ。


「これもAIさ。マトリクス社の自律型車椅子『Knight』だよ」


 衛藤は深くソファに体を沈めると、応接セットのテーブル上に置かれたチェス盤を指して笑った。このアトリエの王〈衛藤〉を支える騎士〈ナイト〉というわけだ。


 高齢者介護施設での人手不足もあり、介護・介助事業はAI化がもっとも早く進んだ分 野である。なかでもマトリクス社の自律型車椅子は最も先進的な機体と言われている。しかし、実際にAIによる介助を受ける人を見るのははじめてだった。機械の腕に介助されるなど怖くはないのだろうか。


「むしろ、カレンやナイトとの生活は楽しい」


 衛藤に倣って運ばれてきた紅茶に口をつけた。やはりここでも、カレンの作るお茶はおいしい。


「これまで私は一人で絵を描いているつもりでいた。自分の才能と技量だけが私の絵を芸術たらしめていると信じてきた。でも、身体が思うようにならなくなって、はじめて自分が大勢の人に支えられていたことが分かったよ」


 画家仲間はもちろん、絵を購入してくれる人、それを仲介するギャラリーの人々、ときには絵を酷評しもする評論家、マス コミ等々、すべてが一人一人の画家を支えているという。


「そして、家族だ。私に肉親はいないが……、カレンやナイトは私を支えてくれる。彼らは家族だ」


 家族との生活は楽しい――。衛藤はそう言っておいしそうに紅茶を飲み干した。






 アルビオンでは直人の帰りを成瀬が待っていた。営業時間を過ぎたギャラリーは暗く、直人と成瀬のふたりきりだった。


「先生はなぜこの絵を急いで描く必要があったんだろう」


 依頼どおりに絵が完成していることを確かめながら成瀬が尋ねる。直人はそれは分からないが、衛藤が以前のように絵を描くことは難しくなっていると答えた。


「……どういうことだ?」

「先生に絵を描いているところを見せていただいたんです」


 紅茶を飲んだ後 、実際に衛藤が絵を描いているところを見ることができたのだ。見いていくれと、上機嫌でカレンを描いた絵に向かった衛藤だったが、絵筆に絵の具をとり、キャンバスの上に置く、そのいちいちが慎重で時間がかかっていた。車椅子のマニピュレータが滑らかに衛藤を介助するのと対照的に、老画家の手の動きは重く、ぎこちなかった。


「繊細な筆使いが衛藤絵画の生命線なのに。それは先生も辛そうだったろう」


 最初は直人もそう考えた。しかし、アトリエの陽だまりの中で、車椅子に支えられながらAIをモデルに絵筆をとる老画家は満ち足りた様子に見えた。滑らかさを欠いた緩慢な筆の動きも、その行為そのものを慈しんでいるかのようで、その光景自体が一枚の絵画と錯覚するほどに完成されていた。


「ということは、この絵はだれが描いたんだ」


 成瀬は小ぶりなキャンバスを目の高さまで持ち上げて、老婦人の肖像画を眺めた。衛藤に五日間でこの絵を描くことはできない。直人は介助を受けながらキャンバスに向かう衛藤を見て直感した。彼一人では不可能だ。


「衛藤先生のカレンが描いたとは考えられないでしょうか」


 直人は自分の声が幾分か固くなってることを自覚した。衛藤家からの道すがら、ずっと頭を離れなかった考えだ。そんなことはないはずだし、あってはならないことだが、その疑念は直人の心にしっかりと根を下ろしてしまっていた。


「まさか。いくらカレンが人間そっくりに行動できるからといって、所詮はコンピューターの組み込まれた機械だ。創造的な行為は できない。鑑賞に耐える絵を描くこと、それは人間にしかなし得ないことだろう?」


 一般にはそう考えられているし、ついこの間まで直人もそう考えていた。絵を描くこと――それを芸術と言い換えてもいい――は、人が人の感性に訴える創造的な行為だと。


 しかし、本当にそうなのだろうか。


 そこへアルビオンのカレンが、コーヒーを持って現れた。衛藤家のカレンより幾分か小柄で童顔のAIは、朝と変わらない笑顔だったが、直人は今朝のようには笑顔を返せなかった。


 カップをテーブルに並べて立ち去ろうとするカレンを成瀬が呼びとめ、衛藤から受け取ってきた絵をカレンに手渡した。キャンバスには半ば白髪となった女性が穏やかな表情でこちらに視線を投げる様子が描かれている。 絵筆のタッチは繊細でありながら窮屈さを感じさせない。衛藤独特の優しさとモダンが一体となった肖像だ。


「この絵をどう思う?」

「……素敵な絵だと思います」


 しばらくキャンバスに目を走らせていたかと思うと、口元に柔らかな笑みをたたえながらカレンはそう言った。アルビオンにやってくる顧客の中には、カレンをAIと気付かず、ギャラリーに掛けられている絵についてカレンに尋ねることがあるが、カレンは個々の絵について評価をしない。『素敵な絵だと思います』と彼女は答える。人でない機械が芸術を評価することに意味はないからだ。


「今宮――。『素敵な絵』だとさ。カレンに絵のことはわからない。分かりもしないことをAIが自律的に行なえるはずもない」


 カレンは 、成瀬と直人のやりとりに戸惑っていた。少なくとも表面上はそうした様子に見える。今度は、直人がカレンに話しかけた。


「その絵に描かれた女性は、依頼人のお母さんなんだ。すでに亡くなっていて、写真から肖像画を起こしてほしいという依頼だった」


 絵の依頼を受けたのは、他ならぬ直人だ。依頼人の女性はアルビオンで開かれていた個展で見た衛藤の絵を気に入り、その肖像画のタッチが亡くなった母親の雰囲気にちょうど合うだろうと考えて肖像画を依頼したのだった。


「生前のお母さんとはいろいろあって、疎遠になった時期もあったそうだけど、衛藤先生の描くお母さんとなら優しい気持ちで向き合えそうだと。この絵の依頼人の気持ち、分かるかな」


 直人はそう言いながら、AIを 家族と話していた衛藤のことを思い、次いで自分自身と家族のことに思いを巡らせざるを得なかった。


 カレンはしばらく困ったような表情を作って考える様子だったが、小さな声で「素敵なことだと思います」とだけ言った。


 カレンには、人の感情は分からないんだよ――成瀬はどこか勝ち誇ったような調子でそう言うと、ギャラリーを閉めるように指示し、部屋を出ていった。このあと神戸市内のホテルで個展の打ち合わせを兼ねた食事会があるらしい。成瀬のいうことが正しいのだろうか。しかし――。


「間違ってはいない。確かに『素敵なこと』だ」


 マンションに戻ると夜の十二時を少し回っていた。テーブルに荷物を投げ出し、シャワー浴びてベッドに横になると、すぐに夢を見はじめた。 父の遺影を前に母が泣いている。そして何度か物言いだけな視線を直人に寄越す。そんな夢だ。


「ぼくのことは放っておいてくれ」


 思わずそう口にして目を開けると、直人はベッドにいて目尻には涙が滲んでいた。眠り込んでいたのだろう、夜明けが近づいて薄明かりが差し込む寝室に、携帯電話の着信音が低く不穏に響いていた。


 この朝、直人は衛藤の死を知った。







 直人が再び衛藤のアトリエを訪ねたのは、画家の死から二週間あまり経った冬の午後だった。『アルビオン』が、故人の親族から生前衛藤が描いた絵の整理と保管を委託されたのである。


 抜けるような青空はあの日のままだったが、立ち並ぶメタセコイアはすべての葉を落としていて、広い庭いっぱいに暖かな日差しが降 り注いでいた。さくさくと赤茶けたセコイアの葉を踏みしだいて玄関ポーチに至り、ドアに触れる。取っ手のじんとするほどの冷たさに住む人のない家の寂しさを感じた。


 解錠して入ったホールは暗く、冷え切っていて、直人は上着の襟をかき合せた。と同時につんと鼻をつく匂い。絵の具だ。画家の家には画材の香りが染み付くものなのだろうか。この前の訪問時には感じたことのない強い匂いだった。絵の保管されているアトリエはホールの右脇で、そこに続く背の高い扉は閉じられていた。近づくに従って匂いがいっそう強くなっていく。


 衛藤は、末期のすい臓がんだった。あの日、直人が辞した後にアトリエで倒れ、搬送先の病院で亡くなった。この扉の向こうで……。


 直人はつかの間躊躇し たが、意を決して木製の扉をぐっと押しひらいた。足を踏み入れたアトリエは斜めになった日差しを受けて眩しく、鮮烈な光に満ちていた。


 ――赤、橙、黄、茶、黄緑、赤、群青、青、黄、黄……。部屋いっぱいの色、色、色。色彩の氾濫。


 どこまでも饒舌で、はみ出していて、とりとめのない色と形。色彩と図形の尽きることない連なり。アトリエは、色とりどりの絵の具で埋め尽くされていた。真っ白だった三方の壁は、巨大なキャンバスとなって様々な色がうねり、のたくっていた。


 ただ、庭に面した天井まで届く大きな窓にだけは何も描かれてはいない。そう、壁の絵の具は何者かが意図的に描いたものと感じられる。直人の目にはまだ具象を成さないが――。


 窓際の陽だまりには、あの日据 えられていたイーゼルと衛藤の車椅子がそのままになっていて、イーゼルにはキャンバスが架かっていた。覗き込んで直人は息を飲んだ。あの日、描きかけだったカレンの肖像画は細部まで描き込まれ、完成していたのだ。いったいだれが描いたのだろう。


 キャンバスの右隅にサインが書かれていた。『family』の文字と共にある署名は『E.K.』。直人の視線がキャンバスから車椅子の上に落ちた――これは「Eto Knight」なのだ。


 車椅子型のAI<ナイト>はめちゃくちゃに汚れていて、まるで絵具箱を逆さまにしてひっかぶったかのようだった。両側の肘掛の下からは何本ものマニピュレータが力尽きた画家の腕のように、絵筆を握ったまま床に伸びて動かなかった。


 機械の手が握る何本もの絵筆。


 途端に周囲からの視線を感じて直人はぞっとした。壁にぶちまけられた絵の具の無秩序と思えた図形が瞬く間に具象を成した。


 顔だ。男の顔。小さな顔、巨大な顔、横顔、上を向いた顔、黄色い顔、赤い顔、笑顔、泣き顔、顔、顔。顔――画家の肖像。


「衛藤……先生」


 失くした家族への思いが、部屋中を家族の肖像で埋め尽くしていた。


 芸術とは人が人の感性に訴える創造的な行為である。

 この言葉が正しいとするならば、この日直人は「芸術の終焉」か「新たな人類の誕生」いずれかに立ち会ったことになる。

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機巧の肖像 藤光 @gigan_280614

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