膳を下げる娘を見送り、藤十は襖を閉めて「さて」と辰を振り返った。

「おい」

 それだけを言って、片手を差し出す。

 意図がわからず、辰はうろんな目でその手を見る。

「……なんだい?」

「羽織を貸せ」

 藤十は羽織と言うが、辰が羽織っているのは女物の打掛だ。そんなものを何に使うのか、辰は疑問に眉をひそめながら、それでもおとなしく藤十の手に渡す。藤十はそれを受け取ると、にっと笑って衝立の奥をあごでしゃくった。

「おまえは奥で待ってろ」

「奥……って……」

 衝立の奥には、褥が用意されている。経験はなくとも、そこで何をするかの知識ぐらいはある。辰は断固拒否するという思いを込めて渋面を向けるが、藤十は知ったことかと言うように背を向けた。

「藤十」

 仕方なく、辰は藤十を呼ぶ。

「なんだ?」

 藤十は愛用の薬箱を引き寄せ、がさごそと作業をしながら生返事で答える。

「じきに、さっきの娘が戻ってくるのだろう? 奥で待っているべきは、私ではなく、おまえじゃないのかい?」

「戻らねぇよ。下がらせたからな」

「なぜ……そのためにこの宿を選んだのではないの」

「さぁて、なんでだろうな?」

 言って、くっと喉の奥で笑った。何やらたくらんでいるような声音と表情で「いいから、おまえはいい子に蒲団で待ってろよ」と言い、それ以上は笑ってはぐらかすばかりだった。

 辰はため息をつき、渋々立ち上がる。

「……藤十」

 衝立の影から呼ぶと、やはり生返事が返るので、藤十に見えないことは承知で顔をしかめた。

「おまえ、蒲団で待っていろと言うけれども、ねえ。その蒲団が、一組しかないのだけれど」

 辰の言葉に、藤十は「そりゃあそうだろう」と笑う。

「そうだろうって……おまえ、ねえ。一組しかない蒲団を、私が使うわけにはいかないだろう」

「だが、おれがそこで待っていろと言ったんだぜ?」

「それは、そうだけれども」

 辰はぼやき、仕方なく蒲団の上で胡座をかく。せめてもの抵抗に、足下の隅へと縮こまる。

 やがて衝立の陰から顔をのぞかせた藤十が、案の定、舌打ちをした。

「そんな隅でなく、もっと堂々と使っていろよ」

「言われたとおりに、蒲団で待っていたろう? どこに居ようと、私の勝手──」

 反駁しかけ、藤十を振り返った辰は、思わず動きを止めた。藤十は、悪戯が成功したと言わんばかりに、にっと笑う。

「どうだ、化けるだろう」

 被衣のように被った打掛の下からのぞく肌には白粉を刷き、ざんばら髪を隠すように打掛の袂を引き寄せる手は、確かに藤十のものだとわかるのに艶めかしい。鮮やかな紅を引いた唇は婀娜っぽく、墨と紅で彩られた目元は流し目さえ秋波を孕む。普段の美貌から、それを損なう険を欠き、さらに化粧で彩られた様は、そこらの美女よりよほど美しい。

 藤十は、まさに傾国傾城と化けていた。

「──いったいどういうつもりだい、藤十?」

 まるで囲い込まれるように、辰は蒲団の真ん中へと追いやられる。

「どういうも何も、この暗がりだ、これならば一瞬ぐらいは見違うだろう」

 言いながら、藤十は科をつくり、辰の足下に手をつく。そのまま後退る辰の膝に手をかけ、くれる視線には、明らかに媚びが含まれていた。

「私がおまえを見違うものか。どこからどう見ても、おまえだろう、藤十」

 その言葉に、嘘はなかった。

 どれだけ化粧で彩ろうと、どれだけ美しかろうと、その顔は、紛うことなく藤十のものだ。

「騙されておけよ、阿呆」

 藤十は喉の奥でくっと笑い、辰の襟に手を掛ける。辰は、藤十から距離を取ろうと身を引くが、脚に乗せられた身体を押し退けられず、襟に掛けられた手すら振り払えず、ただ床に追いつめられただけだった。

 打掛が帳のように垂れ、藤十の顔に陰を落とす。

 上下は逆。だが、その距離は夢の再現だった。

 無理な体勢でしなだれかかる藤十の身体を押し退けることは、容易なはずだ。だが、何かのはずみに自分の爪がその肌を裂いたらと思うと、辰は身じろぎすらできなかった。

 辰が身動きの取れないのをいいことに、藤十はその身体を組み敷いて妖艶に笑む。

「験の悪い夢なんぞ、呑んで食って抱いて、厄を落として忘れちまえばいい。おまえが女を抱かねぇのは、万が一にも孕ませて、犬神憑きの血の遺るのが嫌だからだろうが──」

 言いながら、襟に掛けていた手をするりと辰の肌に這わせ、その胸元の痣──この世ならざる狗の歯形をついとなぞる。

「──おれが相手なら、その心配もあるまい」

「……」

「まあ、夢の内容は察しがつくがな」

 誘うように襟元をなぞる手つきはそのままに、藤十は口の端をつり上げる。

「おおかた、おれを縊り殺す夢でも見たのだろう。わかりやすいやつめ。だから、こうして化けてやったというのに」

 くつくつと笑う藤十の顔を隠すように、辰は両手で自分の顔を覆った。

「──縊り殺す程度で、済むものか」

 絞り出した声は低く震え、まるで、地獄の底を這う呪詛だった。「ほう?」と、おもしろがる風情の藤十が恨めしく、吐き出すように白状する。

「私は、おまえを喰ったのだよ、藤十……」

 その低い声に、藤十がふっと失笑する。

「そいつぁいい」

「何がいいものか」

「おれは、おまえになら食われてももかまわんぜ?」

 藤十は誘うようにささやきながら、胸元に這わせていた手で辰の手を取る。甘やかな声音も、優しく和らいだ表情も、まるで夢の再現で、辰は背筋が粟立つのを感じた。

「やめてくれ、藤十」

「なぜ」

「私は、おまえを、喰いたくなどない」

 やっとのことで答える辰に、藤十は肩をすくめる。

「なら、喰わなきゃいいだけの話だろう」

「それは、そうだけれど……」

 辰は、捕らわれていないほうの手で目を覆う。これ以上、夢のように無防備な藤十の様を見ていたくなかった。

「頼むから……私に喰われてもいいだなんて、言わないでくれ……」

「……」

「おまえが拒んでくれないのなら、私は、眠ることもできないじゃないか……」

 片時も休めることなく、身の内の化け物を抑えていなければならない。その、先の長さに、思わず目頭が熱くなる。

 だが、藤十はさも呆れたと言わんばかりに、辰の不安を鼻で笑った。

「おまえ、何を莫迦な勘違いをしている?」

「勘違いだって……?」

 辰は指の間から藤十を見上げる。紅を引いた形の良い唇はへの字に歪められているが、その表情に乗せられているのは、不機嫌や怒りではなく、明確な呆れだった。

「おまえな。おれは、おまえになら、食われてもかまわんと言ったのだ。誰が狗になど喰われてやるものか」

「それは……」

 辰は、自分の身体から力の抜けるのがわかった。藤十は呆れた表情のまま、再び鼻を鳴らし、身体を起こした。

「まさか、そんな阿呆な悩みだったとはな。ばかばかしい」

「阿呆なと言うけれども、おまえ、私は真剣だったんだよ」

「だから阿呆だと言っている。──それで」

 言って、立て膝に頬杖をつき、口の端をつり上げて笑った。

「おまえは、おれを食いたくはないのか?」

「……」

 その挑発的な物言いに軽くため息をつき、辰は上体を起こす。そのまま、にやにやと笑う藤十に手を伸ばした。鍛えられた肩を、打掛の上から掴んで身を寄せる。

 藤十は、ただ黙ってなされるがままだった。

 間近から見下ろすと、相変わらずおもしろがる気色の瞳と目が合う。

 口を開き、喉に噛みついた。傷をつけぬよう、牙を立てないように気をつけながら、歯で挟む。そうしておいてから、舌をのばし、首を走る太い血管を舐めてなぞった。

「くすぐってぇよ」

 言葉こそ抗議だが、声は笑い含みで、藤十の手はまるで誘うように辰の手を撫でる。

 たっぷりと時間をかけてから、辰は口を離した。

「不味い」

 口の中に、舐め取った白粉のにおいが広がる。

 辰は顔をしかめて身体を離し、ごろりと蒲団に寝転がった。壁を向いて、ふてくされる。

「そんな不味いおまえなど、食えたものか」

「そうかよ」

 程なくして、背後でくつくつと笑う声と、藤十の寝転がる気配がした。

「おい、辰」

 呼ばれ、辰が寝返りを打って振り返ると、行灯の薄暗がりの中、藤十が両腕を広げていた。要求は言われるまでもなく明らかで、軽くため息をついて身体を寄せる。

 藤十の腕に頭を乗せると、そのままぐいと抱き寄せられる。

「藤十、さすがに、息が苦しいのだけれど」

「おれの知ったことじゃねぇよ」

「あのねえ、藤十……」

 不満げに声をあげながら、辰は藤十が手足を絡めてくるのに任せて身じろぎをした。なんとか顔を上げ、息を吸う。

「この宿に決めた時から、おれは今晩、独り寝をする気じゃなかったんだよ」

「それはそうだろうとも」

 何しろ、そのための宿なのだ。何事もなく寝つこうとしている今の状況のほうが、おかしいぐらいである。

「わかってるなら、そのままおとなしくしていろよ」

「わかったよ、まったく……」

 辰はやれやれと息をついた。

 いつにも増して寝苦しく、けれども、ゆっくりと眠れそうだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

藤花走狗乃譚~小噺の章~ 日向葵(ひなた・あおい) @Hinatabokko1015

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ