藤花走狗乃譚~小噺の章~

日向葵(ひなた・あおい)

 宵闇の中、水の滴る音がした。

 はたはたと口からこぼれる滴を目で追い、ふと、辰は口の端を上げた。滴の滴る先、自分の下に仰向けで伏しているのは藤十だ。

「たつ……」

 自分を呼ばうよう、唇が動くが、その声は聞こえない。初めから抵抗するつもりがないのか、両腕は無造作に投げ出されたまま、辰が肩を押さえる手に力を込める時だけ、反射のようにぴくりと跳ねる。辰を見上げる瞳に咎める色はなく、どころか、歓喜の色さえ見えた。

 そのことに、安堵する。

 安堵し、そして、絶望した。

 瞳は徐々に生彩を欠き、投げ出された手足の先から熱が失われていく。もはや口は動かず、裂かれた喉から漏れる吐息は途切れるほどに細い。血溜まりは広がることをやめ、辰の身じろぎの他は波紋を立てるものもない。

 辰だけが、取り残された。

 すべてが止まった宵闇の中で、辰だけが動けるものだった。

「藤十……」

 一抹の望みに縋るように、頬を撫で、名前を呼ぶ。だが、返る声はない。

 当然だ。

「ああ……私が、おまえを、喰ったのだ……」

 はたはたと滴がこぼれる。

 口ではなく目から、赤ではなく透明の滴が、溢れて落ちる。

「ふ……は、はは……」

 思わず、笑いがこぼれた。

 何を嘆く必要があるというのか。これは、辰が自ら望んだことだというのに。

 そんなはずはない、自分は藤十の死など望んでいないという辰の叫びは、自身の喉から溢れる哄笑にかき消される。せめてもの抵抗のような嗚咽は、もはや獣の咆哮だった。


──真っ暗な闇の中に、獣の遠吠えだけが響く。


 遠く獣の声を聞き、辰は跳ね起きた。

 すぐさま、傍らで眠っているはずの藤十を探す。

 雑魚寝の安宿はすし詰めで、藤十は寝入った時と変わらず、身じろぎをすれば触れられる位置で寝息を立てていた。規則的に上下する胸に、ほっと息をつく。息をついてから、なぜこんなにも焦燥に駆られていたのかを思い出し、口を押さえた。

 夢の中でのことだというのに、血のにおいは妙に現実めいていて、離れない。

 夢とは決定的に異なる生き物の気配に縋るように、辰は小さく身を縮こまらせた。


 *


「おい」

 翌朝、出立を前に、藤十は辰を振り返って首を傾げた。

「何があった?」

「何って、なんのことだい?」

「顔色が悪い」

 端的な藤十の言葉に、辰は答えに詰まる。慌てて、「なんでもない」と絞り出した。

「少し、夢見が悪かっただけだよ」

「途中で倒れても背負ってやらんぞ」

 それは、暗に次の宿場まで歩けるかと尋ねる言葉だった。辰が踏破は難しいと言えば、ここでもう一泊するのだろう。それが察せられるので、辰は眉根を寄せて顔をそらした。

「別に、そんな手間はかけさせないよ」

「そうかい」

 藤十は肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。背を向けて歩き出す藤十をちらりと見やり、辰は再び視線をそらす。

 自分に対してあまりにも無防備なその様は、いつにも増して目の毒だった。

 なるべく顔を上げないよう、自分の足下だけを見るように、辰も後に続いて歩き出す。


 日が傾く頃に到着した宿場は、それなりのにぎわいだった。街道沿いに、宿を探しながら歩く。

「お? おい、辰」

 それなりの宿の中でも、袖引きの立つ一角を見つけ、藤十は辰を振り返った。久しぶりに話しかけられた気がして、辰は思わず顔を上げた。そう言えば、今日は丸一日近く、藤十と口をきいていない。そのことを思い出し、もしや藤十は気を悪くしているだろうかと表情をうかがった。

「おれはここにする」

 そう言う藤十は悪戯っぽく笑みを浮かべているほどで、辰は安堵する。それと同時に、後悔した。

 つい、目がその首に引き寄せられる。

 その肌は夢で見たように柔らかいだろうか。

 その血は夢で見たように温かいだろうか。

 目の前の男は、まさか夢で見たように自分の牙を受け入れるのだろうか。

 その想像に怖気が走り、辰は袖で口を覆って顔をそらした。

「……藤十の、好きにすればいい」

 なんとかその一言を絞り出し、藤十が動くのを待つ。いつものように、辰に一泊分には十分すぎる路銀を渡し、さっさと袖引きの娘に声をかけに行くのだろう。

 だが、藤十はしばらく動かなかった。

「ふむ……?」

 思案顔でうなっていたかと思うと、「ここで待ってろ」と言いおいて踵を返す。しばらくおいて辰がおそるおそる顔を上げると、藤十が娘に何やら話しかけているのが見えた。やはり、藤十はその宿に泊まるらしい。自分のことはどうするつもりなのだろうかと、足下に視線を戻し、辰はぼんやりと考えた。

 程なくして、藤十の戻ってくる気配を感じ、わずかに視線を動かして藤十の足下を見る。

「行くぞ」

 藤十は、それだけを言って辰の腕を掴む。そのまま、引きずるように件の宿へ足を向けた。

「な、ま、待ってくれ、藤十」

 辰はぎょっとして宿と藤十を見比べ、青ざめた顔で首を横に振る。

「私は、女は、」

「知ってる」

 女はやらないと抵抗する辰の言葉を、藤十は有無を言わせない態度で遮る。だが、声音に怒りや不機嫌さは一切なく、辰はかえって困惑した。面食らったまま、藤十が手を引くのに任せて宿に連れ込まれる。藤十は娘とにこやかに言葉を交わしていたが、何一つ耳に入ってこなかった。

 案内された部屋はそれなりに広く、荒ら屋と安宿に慣れた身にはかえって落ち着かない。さらに衝立の奥に用意された褥が嫌でも宿の性質を意識させ、辰は眉間の皺をふかくさせる。

「せっかくの器量良しの前だぞ。少しくらい笑ってやれよ」

「それは、おまえにだけは言われたくないよ」

 あまりの出来事に夢のことを忘れていた辰は、思わずいつものように軽口を返す。返してから、ばつが悪く視線を泳がせた。藤十は、おもしろがるようににやにやと笑みを浮かべていた。

「お食事はすぐにお持ちします」

 二人を案内した娘はそう言って、すぐに二人分の膳を持ってきた。

 この手の宿は、部屋ごと、あるいは人ごとに娘が付き、食事から床に至るまで客の世話をする。遊郭よりも手軽で、夜鷹を買うより質が良い、つまりは流れ者のための遊び場だ。

 そう聞かされていた辰は、娘が食事の支度をする間、居心地悪く身を縮こまらせていた。まさか、藤十は辰の居る前で閨事に興じるつもりなのだろうか。いったい何を考えているのか、辰にはいい迷惑である。動転して味のわからない料理を、それでも無理矢理口に押し込むように食べながら様子をうかがうと、藤十ではなく酌をしていた娘が振り向いた。にこやかににじりよってこようとするので、辰は思い切り首を横に振り、酌も酒も断った。

 藤十は、なぜか終始上機嫌だった。

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