後編




 そうして川瀬照子はいなくなった。

 土日を挟んで、もう五日も姿を見ていない。学校は休みっぱなしで、もしかしたらと思い、あの公園に赴いてみるも、彼女の姿は見当たらなかった。まるで今までのことが全て夢だったかのように、テリコは消えた。

 今や送られてきたショートメッセージの履歴だけが、僕と彼女の対局が確かに現実だったということを証明しているのみだ。

 聡志には「浮かない顔してるぞ、喧嘩したのか?」と訊ねられたが、そうだとも違うとも答えられなかった。僕の気分が落ち込んでいることと彼女が欠席続きなことは全く関係がない。僕が勝手に傷付いているだけなのだから。


 ―――「きみってさ、なんで生きてるの?」


 彼女の言葉が、四六時中、ぐるぐると頭の中を回り、思考を占拠していた。

 いっそ悪口であれば良かった。そうすれば、「なんでそんなこと言われなくちゃならないんだ」と憤ることができただろう。そんなことを言う為に近付いたのかと、怒りと失望でその疑問を塗り潰すことができた。

 けれど、違う。

 テリコが口にしたのは、ただの疑問だ。

 「生きている価値のない奴だ」という軽蔑も「コイツと違って私は頑張っている」という優越感も裏にない、純然たる好奇心による、悪意のない問い。

 だからこそタチが悪い。彼女との日々はどうやら現実だったらしいが、最後のオチは、悪夢的と評せるほど後味の悪いものだった。

「……何もない。何もない、か……」

 呟きながら、一人、帰り道を進む。

 何もないのなら、これから夢中になれるものを探せばいい。それはそれだけのことなのだけど、それすらしていないのが僕という人間であって、恐らく彼女はそこまで読み切って疑問を投げ掛けてきた。きっとそうだろう、あれほど寄せが上手いのだから。

 将棋とは対話だ、と誰かが言った。

 無限にも等しい手の中から、たった一つを選び、手番を渡す。相手はそれを見て、こちらの思惑を探りながら、駒を進める。故に勝負であり、対話なのだ。

 対局者の人柄や信念は一手一手に現れる。「棋風」と呼ばれる戦法・戦形の特徴だけではなく、どのように駒を動かすか、何処を見ているか、どういった見た目をしているか、どんな言葉を紡ぐか……。盤外のことまで含めて全て「将棋」であり、だから、分かってしまう。

 テリコは僕を観察し続けていたのだ。そして、本当になにもない奴だと判断し、あんな質問をぶつけてきた。

 そして、彼女の読み筋は正しかった。

「…………」

 あの公園の前に差し掛かる。もしかしたらと視線を遣るが、やはりテリコの姿はいない。そのことに安堵している自分と、心配している自分がいる。

 一体、彼女は今、何処にいるのだろう?


「―――彼女に会いたいか?」


 突如、そんな言葉が鼓膜を揺らし、思わず振り返った。

 そこに立っていたのは白人の男だった。年は四十くらいだろうか。オールバックにした銀髪に、青い瞳。テリコと同じく一目で外国人だと分かる。極秘来日しているハリウッドスターだと言われても納得できただろう。

 男は胸元のネックレスを弄びつつ、再度問い掛けてくる。

「川瀬照子に会いたいか? その分だと、何も聞いていないようだが」

「えっと……。話がよく見えないんですが……」

「俺はジャスティン=ベネディクト。あの『白昼の棋士』――真剣師・川瀬照子の雇い主だ。カジノの運営を仕事にしている」

 簡潔に自己紹介を終え、ベネディクトはこう続けた。

「会いたくなくとも着いて来い。もしかしたら、お前がアイツに会える最後のチャンスなのかもしれないのだから」





 数分後、僕は大阪に向かうベンツの中にいた。

 白人の男・ベネディクトの部下にほとんど拉致られるような形であったが、「テリコと二度と会えないかもしれない」と言われてしまえば、断る理由はなかった。

 異様なほど乗り心地が良い車内、男が静かに口を開く。

「改めて名乗ろう。俺はジャスティン=ベネディクトだ」

「……あ、僕は、」

「お前は名乗る必要はない。凡その情報は調べてあるし、お前の役目は見届け人だ」

「見届け人?」

 そうだ、と頷き、ベネディクトは尊大に足を組む。

「その様子だとやはり何も聞いていないか。今晩、川瀬照子は大きな勝負に挑む。俺の代打ちとしてな。……そしてその結果次第では、お前と二度と会うことはないだろうし、日の当たる場所を歩むこともない」

「どういうことですか?」

「言った通りのことだ。彼女は真剣師として仕事を引き受けた。大きなヤマだ、負けた場合にはそれ相応の措置を取る。『身体を売る』、というやつだよ。どういう意味で売るのかはお前の想像に任せておこう」

「……つまり、アンタは人でなしってことでいいのかな」

「マフィアだからな。それに、奴も真剣師――裏の世界で生きるものだ。覚悟がなければこんな仕事など受けないだろうよ」

 至極当然のように告げて、彼は続ける。

「お前を連れて行くのは、雇用者である俺からの心ばかりのサービスだ。別れを言う相手がいないのは寂しいだろうからな」

 負けるとは思ってないし、負けてもらっては困るが、と付け加える。

 この対応から考えると、僕を選んだことに深い理由はないのだろう。ただ、川瀬照子の『日常』の象徴として、僕が選ばれた。彼女にとって、恐らくはほぼ唯一、女子高生として関わりのある相手だったから。

 目的地は梅田駅傍にある高層ビルだという。そこで今日、テリコは一世一代の勝負を行う。相手は暴力団の、同じく代打ちで、みかじめ料や諸々の利権を巡る諍いを将棋によって解決することになったらしい。

 今更ながら、僕と彼女の生きる世界は違うのだと実感する。

 僕に「どうして生きているのか」と問うた彼女は、どうして真剣師などになったのだろう?

 やはり、楽しいから――なのだろうか。

「……ベネディクトさんは、なんで生きているんですか?」

「さあな。楽しいからじゃないか? どうしてそんなことを訊く」

「いえ、テリコに訊かれて……」

 現地に到着するまでの時間潰しも兼ねて、僕は彼女との間にあったことを一通り説明することにした。「どうして生きているのか」と問われたこと、そして、それに答えられなかったこと、自分に何もないことは分かっていること……。

 マフィアのボスの回答は酷くシンプルなものだった。

「ありきたりな答えだが、生きている理由が分からないのならば、それを探す為に生きればいい。テリコの言葉を借りるならば、『楽しいこと』を探す為に」

「それは、そうなんですけど……」

「奴はお前のことを責めているわけではないだろう。不思議だから訊いてみただけに過ぎない。無神経だと批判もできるが、それについてはフォローを入れられないこともない」

「フォロー?」

「奴の父親がチェスプレイヤーだったことは聞いているか?」

 頷くと、ベネディクトは言った。

「奴の父、スティーブン=ティンズリーは身体に重い障害があった。若い頃に事故に遭い、頸椎を損傷した後遺症だ。彼がチェスを愛していたのは、その平等さ故だ。車椅子から立ち上がれないような彼であっても、誰に憚ることなく勝負をすることができた。不幸に涙を流すこと、不自由を感じること、他者から笑われること……。どれも幾度となくあっただろう。それでも俺の知る限り、奴の父は一流のチェスプレイヤーだった」

 僕は想像してみる。ある日突然事故に遭い、歩くことさえできなくなった時のことを。

 絶望し、泣き叫ぶだろう。どうして自分がこんな目に遭わなければならないんだと憤り、周囲に当たり散らし、そして、気付くのだ。「こうなるならば、元気な内に、色々なことをしておけば良かった」――と。

 ああ、そうか。ようやく分かった。

 ありえないほどの不運に襲われようとも絶望せず、次の一手を探し続けた。盤上に生きる者として最後まで誇り高くあった男。そんな人間を父親に持ち、間近で見続けていたテリコだからこそ、僕の生き方に疑問を抱いたのだ。

 どうして何も不自由がないきみが、何もせずに生きていられるのか、と―――。

「理解したか? 何故テリコが『何もない』ということに疑問を抱くのか」

「はい。なんとなくですけど」

「父親の件に加え、奴の両親は既に死んでいる。そういった事情からか、アイツは人生の呆気なさをよく理解している。そういうところが気に入って、代打ちに選んだんだがな」

「でも、そんな経験をしているのなら、もっと自分のことを大切にしてもいいんじゃないですか? どうしたってまた、賭け将棋だなんてリスキーなことを……」

 さてね、とにやりと笑い、テリコと同じく裏の世界で生きる男は応じた。

「それについては本人に聞いてみるといい。奴が勝てば、今後、いくらでも訊ねる機会はあるだろう」





 そのビルは大阪の一等地にあった。

 闇夜に刺さる塔のようなそれは、宣伝看板の情報が正しければ高級ホテルになるらしい。黒服の男に案内された内部は綺麗に整っており、落成間近であることを伺わせた。なるほど、この建物に纏わる揉め事ならば、何千万、下手をすれば何億という金が動くだろう。

 ベネディクトとその護衛の男達と共にエレベーターに乗り込み、最上階へと赴く。

 今宵の勝負の場――ヘリポートの中央に、彼女が立っていた。

 川瀬照子がそこにいた。

「何しに来たの? 見物?」

「あ、ああ……」

「そう」

「……テリコ、訊きたいことがあるんだが」

「ああ、後で聞く。終わったらね」

 テリコは有り得ないほどに普段通りだった。対局の行方によっては途方もない金が動き、自らの人生すら捻じ曲がるというのに、緊張も不安も微塵も感じさせない。いつも通りのセーラー服にスカジャン姿で、夜空を見上げている。

「『棋士には月の光がよく似合う』……。でも、今日は曇りだから月は見えないね」

 彼女が立つ傍らには、ビルの屋上には場違いな机と椅子があり、机上には既に将棋盤と駒が揃えられていた。

 そして、その向こう側には別の一団が陣取っていた。ベネディクト等と同じような格好だが、こちらには着物姿の老人がちらほらと見える。そして全員が日本人のようだ。彼等がベネディクトと揉めている暴力団のようで、こちらに対し鋭い視線を向けてきている。

 しかし、それも当のテリコは意に介した風もない。

「予定時刻になりました。双方の代表者の方は椅子にお座りください」

 進行役らしい茶髪の女がアナウンスを行う。

 先に腰掛けたテリコに対し、「なっとらんな」と告げたのは年老いた和装の男だった。

「こういう場合、年長者を待つのが礼儀じゃろうに」

「ああ、ごめん」

 謝罪の言葉を紡ぎながらも全く態度を改める気配のない少女に対し、老人はぶつぶつと悪態を吐きながら向かい側の席に腰掛ける。

 両者の視線が交錯し、やがて双方が静かに名乗りを上げる。

「……『学府の異端』、西東学」

「『白昼の棋士』、テリコ=ティンズリー」

 それが真剣師同士の戦いの流儀だったのだろうか。

 二人が名を告げ合った瞬間、周囲がしんと静まり返った。

 振り駒の結果はテリコの先手となった。

「最後の確認をさせて頂きます。今回の対局、チェスクロックを使用した十分切れ負けで行います。西東学様からの要望はなかったので、テリコ=ティンズリー様の条件に沿う形になりました。お二方、よろしいですか?」

「構わんよ」

「うん、早く始めよう。このシチュエーション、見た感じはカッコいいけど、駒が夜風で飛ばないか心配になる」

「……結構です。では、始めてください」

 よろしくお願いします。

 二人の真剣師がそう告げ――そして、運命の十分間が始まった。





 ルールは十分差し切り。

 これは十分という持ち時間が切れた場合、切れた方が即時に負けとなるものだ。

 テリコが提案したというこの方式は彼女にとって圧倒的に有利なものだった。

 まず一般論として、早指しの場合、若い棋士の方が有利だとされている。時間を使って深く読み切るということができない為、瞬発力や発想力に秀でる若者の方が相対的に有利、というのが定説だ。

 加えて、この「十分切れ負け」というルールは彼女が普段遊んでいる将棋サイトと同じもの。勝率九割超えという彼女にとって、不利なわけがない。

 ……しかし、これは相手が同格であった場合。

 キャリアや定跡研究が重要視されるのも将棋だ。あの男の実力は分からないが、こと経験という面に関しては、年若いテリコの方が不利と言えた。

 そんな彼女は一手目を指し、軽快にチェスクロックを押した。

「なっ……!」

「……は?」

 眼鏡の男が顔を歪める。周囲がどよめく。困惑していたのは僕も同じだった。

 テリコの初手は9六歩――端歩突きだった。

「……お前、ふざけておるのか……?」

「ふざけてないけど」

 やはり平然と少女は返す。

 将棋の初手はほぼ決まっている。角道を空ける7六歩か、飛車先を進める2六歩だ。他にしいて挙げるとすれば、中飛車狙いの5六歩くらいのもの。一手目から九筋の歩を突くことなどまずありえない。

 一応、9六歩を突く手筋がないこともない。次に9七角と上がり、中央突破をめざす「端角中飛車」だ。ただ、自らの人生が賭かった場面でそんな戦法を取るものだろうか? それとも、他に狙いがあるのか……。

 見れば、対局者の老人・西東も思案していた。

 当たり前だ。少しでも将棋の心得がある人間ならばまず動揺する。

「……ふん。馬鹿な」

 結局、西東は3四歩という極めて常識的な手を指した。何をやってくるとしても、正面から受けて立つつもりなのだろう。

 が、テリコはノータイムで7六歩を突き角筋を通す。先ほどとは打って変わっての平凡な一手だが、ここで再度西東は長考に入る。

 将棋とは対話だ。角換わりを得意としていても相手が角道を空けてくれなければ角交換はできず、相手が真っ直ぐに飛車先の歩を突き進めてくれば受けなければならない。

 簡単に言うならば、向こうの対応によって取れる戦法が制限されるのだ。そしてそれは相手とて同じ。プロ棋士が二手目、三手目という序盤から長考を行うのはそういう理由であり、今の西東も彼我の実力差や得意戦法を踏まえ、遥か先の手のことを考えているのだろう。

 やがて8四歩を突いた彼に対し、テリコはまた即座に2六歩と進める。

「なるほど、横歩取り狙いか。考えたな」

 隣に立っていたベネディクトが感心した風に呟く。僕も同意見だった。

 横歩取りは横歩を取らせることから始まる戦法の総称だ。序盤から飛車角総交換、一手でも読み間違えれば即詰みまでありえる激しい戦いになる。一手目から詰みまで定跡化されているものがあるほどと言えば壮絶さは伝わるか。

 この横歩取りは手を読む難しさから力戦・乱戦になりやすい。テリコの狙いはノーガードの殴り合い。十分切れ負けという自分の土俵を生かし戦うつもりなのだ。

 意味の分からない初手端歩突きの理由も理解できた。横歩取りの中には後手番専用の変化も多い。後手が横歩を取らせるように誘導することから始まるのだ。先手で指そうと思えば、あえて一手捨てることで、無理矢理自分を後手番に変えるしかない。当然、端歩突きに西東が浮き足立てば、そのまま奇襲で攻め潰すつもりだったのだろう。

 テリコは騒がしそうに翠緑色の目を細め、問う。

「……受ける? まだ拒否はできるけど」

「挑発のつもりならば、やはり礼儀がなっておらんな」

 言いながら西東が歩を進める。テリコも同じだ。二筋の歩を伸ばす。角頭を守る為に金を上げる。これも両者同じ。

「力戦ならば勝てる、というのも大きな勘違いだ」

 飛車先の歩を交換し、7六の歩を取る。

 横歩取り。

 横歩を――取らせた。

 テリコの白い指先が角を動かす。角交換。西東は当然同銀。

 死闘の始まりだ。

「さて、やろうかな」

 都会の空を厚く覆っていた雲。その切れ間から月光が差し込み、彼女の金色の髪を輝かせる。

 それよりも強く光を放つのは、エメラルドの瞳に宿った闘志。

 交換した角で飛車を狙う。飛車逃げ、歩打ち。銀で取られてからの飛車交換。角成を受ける。桂跳ねの変化。打たれた香車を角で取る。通常の将棋ならば明らかな駒損だが、横歩取りではその常識は通用しない。即座に五筋への香打ち―――。

 ぱちり、ぱちりと駒音が響く。静かで厳かな音は、この場においては日本刀での丁々発止にも聞こえる。玉を囲う暇などない。一瞬でも気を抜けば命を絶ち切れる局面が続く。真剣師、それも何千万という金銭と己の人生が掛かる一戦となれば、「殺し合い」と言っても大袈裟にはならないだろう。

 まさに、真剣勝負―――。

「……ああ、」

 なんて――綺麗なんだろう。

 場違いにも僕はそんな感想を抱く。足が震えた。鳥肌が立つ。感情を抑え切れなかった。

 賭博など野蛮だと罵られようと、所詮は外れ者達の遊びだと蔑まれようと、この瞬間の彼女の姿は他の何よりも美しい。一手ごと、いや一瞬一瞬に輝きが増していくようで。

 ……いや、違う。この勝負が特別なのではない。

 何かに真剣に打ち込む様は、それ自体が既に、形容のしようがないほどに格好の良いものなのだ。

 僕が他人に興味を持たなかったのは、必死で興味を持たないように努力していたのは、その光が怖かったから。何もない自分の劣等感が暴かれていくようで、そんなことに何の意味があるんだと笑わなければ耐えられなかった。そうやって貶めていなければ、自分が保てなくなりそうだった。

 でも、今は少しだけ違う。

 彼女のように命まで賭けようとは思わない。けれど、こんなに格好良いのならば、ほんの少しだけで良いから、努力をしてみたくなる。

 生きて、みたくなる。

 「真剣師だからね」――いつだったか聞いた彼女の言葉を思い出した。何処か誇らしげに見えたテリコ。人の懸命さを好む彼女にとって、その肩書きは魅力的だったのだろう。

「まったく、負ければ命がないかもしれないというのに……。随分と楽しそうな顔をするじゃないか、お前の彼女は」

「僕の彼女じゃないですよ。でも、本当に……楽しそうだ」

 ベネディクトの言葉には同意する他になかった。

 頬は緩んでいない。唇は固く結ばれている。気だるげな雰囲気もいつもと変わらない。けれど、その瞳を見ればテリコが喜んでいるのは分かる。

 十分切れ負け将棋。

 持ち時間だけで数時間にも及び、タイトル戦ともなれば数日掛かりにもなるプロの対局。それと比べれば刹那のような勝負だろう。けれど、互いに命を賭して戦うその真剣さを、誰が笑うことができるだろうか。

 短くも長い一局は、彼女が唐突に席を立ったことで終わりを迎えた。

「ありがとう。楽しかった」

 眉間に皺を深く刻み、左手で袴を強く握り締めていた西東は、やがて「……負けだな」とポツリと零した。

「……何処でミスをしたかな。桂捨ての変化に戸惑ったところか」

「多分、一番のミスは十分切れ負けなんて条件を受けたこと」

「はは、それもそうか。名の聞かない真剣師だと侮り条件を飲んだのが敗因だな」

「また会えたら、今度は一手十秒でしよう」

 騒めく周囲とは対照的に、テリコはもうここには用はないと言わんばかりに屋上を去ろうとする。慌てて僕も続いた。

「では只今の勝負、テリコ=ティンズリー様の勝利で、決着です」

 立会人の女の言葉を背に受けながら、そこでテリコはようやく、ほんの少しだけ、笑みを零した。

 それは紛れもない安堵の表情だった。





 購買で買った焼きそばパンを齧っていると、対面に座る聡志が言った。

「お前さ、最近、なんか変わったよな」

「え? そうか?」

「ああ、背筋が伸びてるっつーか、心なしか大きく見えるような……。でもこの短期間で身長なんて伸びないしなあ。むしろ、伸びる方法があるなら俺が教えて欲しいくらいだ。……川瀬とヤったとかか?」

 下世話な問いには思い切り肩を殴ることで返答としておいた。「いってえっ! 弁当落としたらどうすんだ!」と騒いでいるが、自業自得なので無視を決め込んだ。

 肩を摩りながら、やや真面目な顔をして聡志が言った。

「でも、大人になったんじゃないなら、何だろうな」

「さあ。気のせいだろ。それよりいいのか? 昼練、行かなくて」

「じゃあ行ってくるかな」

 残りの白米を一気に食べ終え、弁当箱を雑に仕舞いながら立ち上がる。「……本当にそうだったら教えろよ」との言葉を残し、勢い良く教室を出て行った。何処までも下世話な男だ。そして勘違いも甚だしい。

 聡志に告げたことは事実だった。特に、何があったわけでもない。

 あの勝負の後、二、三言葉を交わし、テリコと別れた。負けたら場合は日の光を拝めなかったらしいが、勝ったは勝ったで賞金の受け取り等の事後手続きが色々とあるらしく、ベネディクトの取り巻きと「何百万ってお金が入る鞄ってあるかな」などと話しながら、夜の街に消えて行った。

 僕はと言えば、自腹で帰る羽目になったので交通費の分、数千円の損害だ。行きと同じように送って欲しかった。ケチなマフィアだ。

「……なんか変わった、ね……」

 しいて挙げるとすれば一つだけ。

 ほんの少しだけ、少しだけで良いから、これまでよりも真面目に生きてみようと思い始めたくらいのこと。それも思っているだけで何か具体的に努力しているわけではない。まだ夢中になれることを探している段階だ。

 昼飯を食べ終え、あの日の彼女との会話を思い出す。

『お前が楽しそうなのは見ていても分かったよ。でも、命を賭けるなんて危な過ぎるし、数千円の賭けだってトラブルになったらヤバいんじゃないのか?』

 そう問い掛けた僕に対し、彼女は珍しく真剣な面持ちで、こう応じた。

『私は、人生ってギャンブルだと思ってる。真面目に勉強して、良い大学に行く。そういうのは定跡や安パイではあるけれど、絶対に安全、ってわけじゃない』

『お前のお父さんが、事故に遭ったみたいに?』

 テリコは言う。

『人は皆、最後は死ぬ。人生がゲームだとしたら勝者になれる人間は一人もいない。だって、最後には皆死んじゃうから。人生なんて無意味なものだよ。だからこそ、私は真剣に生きること――その人なりの意味を見出すことが大切だと思ってる』

 私のお父さんは不運だったかもしれない。

 でも、真剣に生きていたお父さんのことが私は大好きだった。

 彼女は静かに呟いた。

『それでお前が見つけた意味が賭け将棋ってことなのか?』

『そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない』

『なんだよ、それ』

『ギャンブルがしたいわけじゃない。ただ、見たことがないものが見たいだけ。そう思っていたら、結果的に真剣師になってただけってこと』

 将棋のプロは、まずアマの人間には負けないだろう。アマチュアトップの棋力がプロと伯仲していたとしても、そこには超えられない壁がある。将棋に全てを懸けている、という差が。それがプロというものだ。

 けれど、アマチュアや学生が考え出した戦法がプロの世界で使われるようになることだってあるのだ。それが将棋の奥深さである。彼女がかつて語ったように、真剣師からプロになった人間もいる。その面白さをテリコは愛しているのかもしれない。

『いつだったか、プロにならないのか、ってきみは言ったよね。奨励会には年齢制限がある。二十六才までにプロになれなければ、退会しないといけない。でも、真剣師には年齢なんて関係ない。そして、現代に至るまで、「女流棋士」はいても「女性棋士」になった人間は一人もいない』

 もし本当に強くなれたら、と彼女は続けた。

『もし真剣師として、誰にも負けないくらい強くなれたら……。その時は、プロに挑むよ。元真剣師で、史上四人目のプロ編入者で、初の女性棋士。そうなったら、グランドマスターだったお父さんにも負けないくらい、カッコいいと思わない?』

 昨日までの僕なら「夢みたいな話だ」と馬鹿にしていただろう。でも、今は笑わない。

 人生の意味を当人が見出すものならば、誰に嘲笑されようとも懸命に生きる過程はそれだけで価値がある。意味がある。そして、格好が良いのだ。

 そのことを今の僕は知っている。

 人生がギャンブルのようなものだとしたら、人は皆、真剣師なのかもしれない。

 誰もがそれぞれの戦場で必死で戦っている。真剣に生きている様は、それだけで魅力的で、意味があるものだ。

「……もうこんな時間か」

 ふと気付けば、そろそろ午後の授業が始まる頃だった。生真面目な地理の教師が五分前にやってくると、教室が一気に慌ただしくなる。僕も教科書を出して、少しばかり前回の内容を思い出しておく。

 右側に目を遣ってみる。隣の席には誰もいない。今日もテリコはサボりだ。

 その時、教室の扉が空いて、彼女が入ってきた。午前は丸々欠席だが、五限目には間に合った。代わり映えのしないスカジャンに赤のリュックサック姿。気だるげな表情も変わらない。

 自らの机に腰掛けた彼女は鞄すら開けずに頬杖を突く。一体何しに来たのやら。

 ポケットの携帯電話が震えた。

 テリコの方を見る。

 翠緑色の瞳と目が合うと、次いで彼女が笑う。

 携帯に届いたのは、きっと隣の真剣師からの誘いだろう。




おわり


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となりの真剣師 吹井賢(ふくいけん) @sohe-1010

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