となりの真剣師

吹井賢(ふくいけん)

前編




 思えば学校をサボったのははじめてだった。

 良い大学を狙い勉学に励む真面目君というわけではないし、毎日必ず会いたいほど仲の良いクラスメイトや一目見るだけで心躍るような憧れの先輩がいるわけではないのだけれど、休む理由もなかったので、欠席をしたのは数えるほどだ。漏れなく全て、体調不良。

 よくよく考えてみるとサボる必要もないが律儀に通う必要もないことに気付き、高校に行くフリをして家を出て、平日の街をブラついてみた。

 結論から言うと退屈そのものだった。世の不良は自主休講をして何をやっているのか本気で気になった。クリア前の携帯ゲームをやるだけならば授業中に隠れてできるし、見たいテレビ番組があるわけではない。学校をサボる奴というのは、サボって何をやっているのだろう?

 つらつらとそんなことを考えながら帰路に着く。

 両親は仕事で妹は学校。一人きりの家でのんびりネットサーフィンでもしよう。

 と、その時だった。


「かーっ! ねえちゃん、相変わらず強いなぁ!」


 公園の前を通り過ぎようとした時、そんな声が鼓膜を揺らした。

 なんとなしにそちらに目を遣る。休憩所には人影が二つ。

 ハゲ頭を掻きつつ首を傾げているのは、ガテン系の職に就いているらしい中年の男。テーブルを挟んで向こう側には、昼下がりの日差しを受け輝く金髪が見えた。

「おっちゃんが弱いんだよ」

 少女は静かにそう返し、将棋盤の駒を並べ直し始める。

 ワンレングスの金髪は数千円で着色されたそれとは異なる天然だ。翠緑色の両の瞳がその事実を裏付けている。しかし髪と目の色が生来のものでも、セーラー服の上に羽織られたスカジャンに下着が見えそうなほど短くされたスカートは、完全に「不良」という二文字に合致していた。

 川瀬照子だった。

 しょっちゅう欠席している――恐らくはサボっている、隣の席の女子生徒。

 同じクラスになって三ヶ月、週三の頻度で高校を休み、一体何をやっているのかと思えば、こんなところで将棋を指していたとは。不良仲間とバイクでも乗り回しているのだろうと勝手に思い込んでいたので正直驚いた。

「今日はちょっと自信あったんだがなあ……」

「昨日今日で将棋の実力なんて変わらないでしょ」

「そりゃそうなんだが。……じゃあほい、これ」

 少女に千円札を手渡した男は、「現場戻るわ」と公園を去って行った。

 なんとなしに彼女に近付いてみる。

 ぱち、ぱちと小気味良い音を響かせながら、川瀬照子は駒を並べている。僕の存在に気が付くと、全く驚いた風もなく、

「一回千円。やる?」

 と、問い掛けてきた。

 何が?と問い返すと、「将棋」とまた簡潔な答えが返ってくる。

「将棋、知らない?」

「いや将棋は知ってるけど……」

「じゃあ、とりあえず座ったら?」

 促されるままに彼女の対面に腰掛ける。

 金色の髪は指で弄ばれるとキラキラと輝き、エメラルドのような瞳は気だるげに細められている。白い肌は外国の血を強く思わせ、血色の良い唇とのコントラストはどきりとするような色気を醸し出していた。

 隣の席なので十分理解していたが、改めて目にすると、バラエティーで賑やかしをやっている外国人タレントが裸足で逃げ出すような美少女だった。

「なに?」

「あ、いや……」

 じとりとした目を向けられ、思わず顔を背ける。

 理由は気恥ずかしさと恐怖が半々と言ったところ。

「で、将棋する? 一回千円だけど」

「その千円って言うのは……賭け金、みたいな?」

「みたいな、じゃなくて、賭け金だよ」

「賭け将棋ってことか?」

「要領悪いね、きみ」

 放っておけ。

「いやお前、博打はマズいだろ……」

「マズい?」

「警察とかに見つかったらどうするんだよ」

「そこの通りの交番なら巡査負かして黙認させてるよ」

「そういうことじゃなくって……って、警察とも勝負したのか?」

「するよ。仕事だから」

「仕事?」

 そう、と右端の歩を突いて、川瀬照子は言った。

「私、真剣師だから」





 「真剣師」とは、賭け将棋や賭け麻雀を専門にする博徒のこと。

 ……らしい。

「麻雀だと『裏プロ』って言ったりもする」

「そのギャンブラーがお前ってこと?」

「この国だとそうなるみたい。私が海外の生まれってことは?」

「聞いたことはあるが……」

 視線で催促され、3四の歩を進めて角道を空ける。川瀬はノータイムで5六の歩を突く。訳の分からない手筋だ。

「向こうだとストリート・チェス(賭けチェス)も合法で、よくやってた」

「でも、日本じゃ違法だろ」

「そうみたいね」

「そうみたい、って川瀬、お前……」

「テリコでいいよ。ニックネーム。照子って名前、カッコ悪いから嫌いなんだ」

 ぱちり、ぱちりと互いに手を進めていく。

 川瀬照子――テリコの戦法は袖飛車。奇襲戦法だ。

「いつもの調子でやってたら、いつの間にか真剣師って呼ばれるようになってた。専門は将棋とチェス。麻雀も少しする」

「学校サボってたのもそれか?」

「うん。手筋の勉強と、代打ち。人に頼まれて、代わりに勝負する仕事」

 事も無げに言ってみせるが、「大丈夫なのかよ」と言わずにはいられなかった。

「それ、色々危ないんじゃないのか?」

「危ないけど」

「今からそんなんで、将来どうすんだよ」

「それってきみに関係あること?」

 真顔で問われる。何も言い返せなかった。

 隣の席の奴が博打に嵌っていようが僕には関係のないことで、そもそも「将来どうするつもりなんだ」は他人に言えたことじゃない。僕も犯罪行為に手を染めていないだけでノープランなのだから。

 そのまま無言のまま勝負は進み、ほどなく僕は投了した。

 袖飛車なんて珍しい戦法に負けると思っていなかったのでかなり凹んだ。

「強いね、きみ。面白かったからお金は取らないであげる」

「……お前、本当に強いんだな」

「まあね」

 真剣師だから、と何処か誇らしげに言う彼女。

 どうやら「真剣師」という肩書に拘りがあるらしい。

「また機会があったら勝負しよう」

「いいけど……。金はないぞ」

「いいよ。じゃあ、またね」

 そう告げると、テリコは駒と将棋盤をリュックサックに仕舞い、公園を去っていった。

 一方の僕は彼女の残り香が漂うベンチで、暫くの間、テリコが口にしたことについて考えていた。





 翌日。

 予想していた通り、授業が始まっても隣の席は空いたままだった。

 今まで気にも留めていなかった出来事が、川瀬照子という少女のことを知ってしまうと、妙に気になってくる。今日もあの公園にいるのだろうか。それとも、誰かの代わりとしてヤバい人々と勝負をしているのだろうか。

 真剣師。

 賭け事を生業とする人間。

 任侠映画の中にしか存在しないはずの、フィクション染みた職業。信じるのは正直、難しい。

 しかし「嘘だ」と断じようにもテリコには嘘を吐く理由がない。注目されたかった? それとも単に、僕をからかった? 嫌でも人の目を引く姿形を踏まえると前者の可能性は低い。後者だとしても、わざわざ僕を標的にする意味が分からない。

 ……気があるとか?

「まさか、ね」

 独り言ちたその瞬間、教室の扉が開き、彼女が現れた。

 壇上に立つやる気なさげな数学担任は「川瀬、遅刻だぞ」と声を掛け板書に戻る。その教師より更に授業への意欲がないらしいテリコは、ぺこりと頭を下げた後、自分の席に腰掛けた。

 隣に目を遣る。

 テリコは机に肘を突き、昨日と変わらずキラキラと輝く髪を弄っている。絵になる奴だと感心し、ガラにもなく胸が高鳴る一方で、教科書もノートも開いていない様に「コイツは何しに来たんだ」との感想も抱く。

 ふと、彼女と視線が合う。

 バツが悪くなって目を逸らすと、次いでノートの切れ端を渡された。「ケー番教えて」と用件のみが記された書面に驚き、テリコの方を見る。彼女はようやく授業を受ける気になったのか、数学の教科書を開いているところだった。

 女子に携帯番号を聞かれるなんて何年振りだろう?と思案しながら十一文字の数字を書き込み、彼女に返す。

 なんだったんだ?と思う暇もなく携帯が震えた。

 『今度の水曜、暇なら公園』

 ショートメッセージで送られてきたのはサボりの誘いだった。

 僕は人生二度目の自主休講を決めた。





 平日の住宅街は「閑静」という二文字がぴったりの様相で、すれ違う人と言えば専業主婦らしい中年女性くらいのもの。通学通勤時間の喧騒が嘘のような街並みを一人で歩く。

 ベンチに腰掛けていたテリコは、僕を見つけると、黙って視線を盤上に戻した。

 前と同じく彼女の対面に腰掛けるや否や、彼女が九筋の歩を突いた。

「言っとくが、賭けはしないぞ」

「いいよ。私がやりたいだけだから」

 少し悩み、定跡通りに飛車先の歩を進める。彼女は角道を空け、7七の地点へと角を移動させる。次いで飛車を振り、こちらが角交換を挑めばノータイムで桂跳ね。奇襲戦法の王様・鬼殺しの派生形、鬼殺し向かい飛車。

「奇襲戦法縛りでもしてるのか?」

「花村元司って知ってる?」

「いや、聞いたことないな……」

「多分、最強の真剣師だった人。賭け将棋の世界からプロ九段まで上り詰めた化物」

 ぱちり、ぱちりと心地良い音を奏でながらテリコは語る。

 定跡から外れた手をあえて指し、力戦に持ち込みプロ棋士達を倒し続けた元真剣師。その特異な棋風は『妖刀使い』とまで言われ、恐れられたのだという。

「まるで漫画みたいで、カッコいい。そういう本物の強さに近付きたくて、力戦になりやすい奇襲戦法を研究してる。それが理由の一つ目」

「なら、二つ目は?」

 敗北濃厚の盤面を眺めながら問い掛ける。

 自称真剣師は伊達ではないようだ。ネットサイトで将棋を遊んでいる程度の僕では相手にならないらしい。正しく受けられれば不利になりやすい奇襲戦法を選ぶのは彼女なりのハンデなのかもしれない。

 テリコは言う。

「私のお父さんはプログラマーだった。チェス専用コンピューターの開発が専門で、本人も一流のチェスプレイヤーだった」

 チェスにはない飛車成りの一手を打ち、続ける。

「お父さんが何より大事にしてたのは、探求心」

「探求心?」

「新たな一手を探すこと、可能性を模索すること……。分かり切ったことばかりじゃつまらないから。捻くれ者と言われようと、面白い手を探したい」

 彼女が金を打ち、僕の玉が詰んだ。チェックメイトだ。

「常識外れも甚だしい初手端歩突きも、その一環か?」

 僕が問うと、彼女は駒を直しながら首を振る。

「昔読んだ将棋漫画の主人公が、必ず最初に端の歩を突いてたから。その真似」

「それだけえらくミーハーな理由だな……」

 尤もどれも憧れの相手の真似、という点では共通しているが。

「他にもあるけどね。もう少し強くなれば、きみにも分かると思う」

「ふーん。将棋サイトで遊んでるくらいの僕じゃ一生分からないだろうな」

「そんなことないと思うよ。『将棋王』ってサイトは、たまに強い人がいる」

「ああ、僕がやってるのもそこだよ」

「なら私と戦うこともあるかもしれないね。私のアカウント名は『でぃーぷ・ぶるー』」

「でぃーぷ・ぶるー……って、あの『でぃーぷ・ぶるー』か!?」

 驚きに目を見開いて彼女を見るも、テリコは平然とした様子だ。

 ひょっとしたら、賭け将棋をやっている、と聞いた時よりも驚いたかもしれない。

 『でぃーぷ・ぶるー』と言えば、インターネット将棋サイト『将棋王』において「最強」と名高いアカウントの一つだ。七代目将棋王であり、通算勝率は驚異の九割超え。あまりの強さにソフト使用疑惑やプロ棋士なのではないかという噂まであるほど。

 いや、下手なプロならば返り討ちかもしれない。

 アマ最高峰とプロとの差は大きくはないとされている。況してや、賭け将棋を生業とする真剣師ならば猶更か。

「そんなに強いならお前、素直にプロを目指せばいいだろ」

「プロは無理じゃないかな」

「どうしてだよ」

「そんなに甘い世界じゃないよ、プロは。お父さんがグランドマスターだったから分かるけれど、人生を懸けた上で、才能がある一握りがプロになれる。そういうものだと思う」

 それに、と大きく伸びをして、続けた。

「私の専門は十分切れ負けと早指し。仕事でやる場合は百万以上から。……そういう場所じゃないと本気を出し切れないし……将棋以外の勝負も、好きだから」

 謙遜したような言葉だったが、僕にはこう聞こえた。

 「真剣ならばプロにも負ける気はないけどね」――と。





 聡志に「川瀬と付き合ってるのか?」と訊かれたのは、それから暫く後、ある日の昼休みのことだった。

「え、付き合……、は?」

「違うのか?」

「いや、あー……。違うよ、何の勘違いだよ」

 しどろもどろになりながら問いに応じると、小学校時代からの旧友は、ふーん、と訝しむような視線を向けてくる。

 彼女と将棋を指すようになり、数週間が経っていた。

 放課後の教室で、時には学校をサボり昼間の公園で。将棋盤を挟んで向かい合い、他愛もない話をしながら駒音を響かせる。時折はチェスやチェッカーのような他のボードゲームもやるが、大抵は将棋だ。

 親しくなったのは確かだった。

 それは事実なのだけれど、それを「付き合っている」と称するのは間違いなく間違いだし、それで気があると思うほど初心ではない。そういった都合の良い妄想は中学で憧れだった先輩が十才年上の男と付き合っていることを知ったのを機に卒業した。

 だから、そういうことではないはずで。

「それ、誰情報だよ」

「朱美。平町朱美」

「朱美って……ああ、アイツか。軽音楽部の」

「吹奏楽だよ。クラスメイトの部活くらい覚えとけよ、四十人もいないんだから」

 そう言われたところで、大して話した覚えもない女子が放課後何をやっているかなんて興味もないし、覚える気もない。

 中学から帰宅部の僕にとっては、そもそも部活動とかクラブのようなもの自体が遠い世界のもの。友人である聡志がやっているのもバスケというメジャー競技だから辛うじて記憶できているが、これが卓球やバドミントンなら忘れていたと思う。

 第一、こんなスポーツ弱小校で頑張ってどうしたいのだろう。必死で努力しレギュラーを勝ち取ったとしても、地方大会が関の山だ。好きなスポーツでわいわい遊ぶ、というのならば分からなくもないが、それなら友人を集めて市民体育館にでも行けばいい。

「心底どうでも良さそうな顔してるな、お前」

「そりゃあ心底どうでもいいからな」

 このごく平凡な公立校において、辛うじてだが全国が見える程度の強さの部に所属している聡志は、呆れたように溜息を吐き、「閑話休題だ」と告げた。

「で、付き合ってるのは嘘なのか?」

「事実無根。根も葉もない出鱈目だ」

「放課後に二人きりでいるところを見た、って奴がいたらしいが」

「ガキじゃあるまいし、二人きり、イコール、付き合ってるっておかしいだろ」

「仲良さげにしてた、とも聞いてるが?」

 苦笑交じりに僕は応じる。

「仲良さげ、はないな。勝負の最中だったんだから」

「勝負?」

「将棋。多分、その姿を見られたんだろう」

「へえ……。そう言えばお前、将棋だけはそれなりに強かったもんな」

「素人の中での話だろ。てか、将棋だけは、ってなんだよ、だけは、って」

 悪い悪いと鷹揚に笑って、次いで聡志はその表情を少し真面目なものに変える。

「でもさ、それって仲が良いってことじゃないのか? 考えてもみろよ、嫌いな奴や興味ない奴とゲームするか? 勝負したいか?」

「それは……。まあ、たまにはクラスメイトと遊びたくなったんだろうよ」

「だったら他に適任はいるだろ。お前はどうせ覚えてないだろうが、将棋部の奴、このクラスに二人いるぜ?」

「そいつらとは部室で一局やったりしてんじゃないのか?」

「あのなあ……。あの見た目だぞ? 母親は日本人らしいが、バリバリ外国人顔だ。何処にいても嫌でも目に付く。どっかの部に出入りしてるなんてことがあれば、そっちの方が噂になるし……。いくら他人に興味のないお前だって、隣の席なら分かってるだろ? 川瀬の取り付く島のなさは」

 彼女が男子の中で相当な人気があるのは噂に疎い僕でも知っている。そして、近付いてきた相手を幾度となく袖にしてきたことも。

 だとしたら、何故僕と?

 忘れかけていた疑問が頭をもたげ、思考を支配していく。

 あの公園で出逢ったのはたまたまだ。でも、そこで会話を交わしたことと、それ以降の交友は紛れもなくテリコの意思だ。携帯番号を教えて欲しいと言ってきたのも向こうだし、恒例行事になりつつあった対局だって全て彼女からの誘いによるもので。

「……ほら、なんか心当たりがあるんじゃないのか?」

 反論が思い付かない間にチャイムがなり、話はそこで打ち切られた。





 面と向かって突き付けられた疑問を忘れられるほど僕は器用ではない。

 対局にも身が入らず、駒の利きよりも彼女の長い睫毛やふとした瞬間に聞こえる吐息が気になってしまい、何もできないまま玉頭を攻め潰された。

 敗勢が確定的になった盤面よりも夕陽に照らされ輝く髪の方に目を遣ってしまう。負けを認める言葉を紡ごうにも、いやに口の中が渇いて、言葉が上手く紡げない。顔が熱いのは西日のせいではないだろう。

 そういう相手ではなかったはずなのに。

 そんな気持ちを抱くわけがなかったのに。

 僕はらしくもなく、緊張していた。

「……川瀬は、さ」

 勝負が終わり、将棋盤を片付ける彼女に問い掛ける。

「あー、なんつーか……」

「何を悩んでいるか知らないけど、『テリコ』って呼んで欲しいって言わなかったかな」

「ああ、ごめん」

 今まで何も感じてなかったその呼び方も、今後は上手く口にできないかもしれない。

 そんなことを思いつつ、意を決して僕は訊いた。

「なんで、僕なんだ?」

「…………何が?」

 何言ってんだコイツは、と言わんばかりの彼女に言う。

「いやほら、将棋やるだけなら他の奴でもいいだろ? この学校にも将棋部あるらしいし、第一、ネットでいくらでもできるじゃないか。なんで僕を誘ってるのかなーと思ってさ。ほら、実力が拮抗してるとか良い勝負になって楽しいとか、そういう感じでもないしさ……」

「将棋、飽きたの?」

「そういうわけじゃないよ。ただ、そっちからしたら、僕を対局相手に選ぶ理由がないんじゃないかって不思議に思ったんだよ」

 テリコは黙って、翠緑色の瞳を細め、僕を見た。

 思わず視線を逸らしたくなるもぐっと堪え、見つめ返す。

「きみは気付いていないようだけど、私はずっときみのことを見ていた」

 永遠にも感じる沈黙の後、彼女はそんな言葉を紡いだ。

「僕のことを気にしていた、って……?」

「うん。公園で逢ったことはキッカケに過ぎない。将棋が指せるのも良かった。私、口下手な方だから」

 視線を鞄に戻し、帰宅の準備を再開する。

 発言の意味も、彼女の心情も、分からない。

「……あの、どういうことか、ちょっと……」

「うん。だと思う。……先に断っておくけど、言ったように口下手だから、誤解させたり嫌な気分にさせたりしたらごめん」

 そう断りを入れて。

 彼女は、言った。



「きみってさ――なんで、生きてるの?」



 僕は訳も分からず押し黙る。

 質問の意味が、理解できなかった。

 告白されると思っていたわけではない。全く考えていなかったと言えば嘘になるが、きっとそういう展開は都合の良い妄想で、多分「実は昔会ったことがある」とか「両親を知っている」とかその辺りだろうと、そうでなければ僕なんかをわざわざ気にする必要はなく、だから彼女が言った「僕のことを見ていた」も深い意味がない文句で……。

 とにかく確かなのは、何故この話の流れで存在理由を問われないといけないのか、意味が分からないということだった。

「あの、まだちょっとどういうことか……」

「そのままの意味。きみって、どうして生きてるの? 多分、答えられないでしょ?」

「それは……! ……答えられない。答えられないけど……なんで今、そんなことを訊かれてるのか、マジに意味不明なんだが」

 一拍置き、彼女は言った。

「日本に来てどれくらいかな。お父さんが死んで、お母さんが死んで、親戚に引き取られることになって……。まあ、それはどうでもいいか。結論から言うと、この高校に入って一番気になったのがきみだった」

「……何も結論になってない気がするんだけど……」

「つまり、きみほど何もない人間を見たことなかった。だから、気になった」

 僕ほど何もない人間を見たことがなかった?

 だから、気になった?

 ブランド物の赤いリュックサックを背負いながら、平然とテリコは続ける。

「人間が生きる理由って色々ある。でも、大抵は『楽しいから』だと思ってる。何かしたいことがあって、それをしていると楽しいから、それができたとしたら嬉しいから、頑張ってるんだと思う。そう考えた時に、きみほど何もない人って、珍しくて。興味が沸いた」

「何もない何もないって、お前……!」

「ごめん、悪気はない。でも、事実だと思ってる」

 それは、そう。

 「彼女がどうして僕に構うのか」という問いよりも、遥かに昔から心の中にあった疑問であり、そして同時に必死で見ないフリをして覆い隠し、他人には絶対に悟られないように無意識に気を張っていた、僕という人間の根幹に関わるもので。

 どうして生きているのだとか、そんな中二臭いことを考えること自体が馬鹿らしいと冷笑し、所詮人生に意味はないと結論付けて、何も好きなわけじゃなく、誰に好かれてるわけでなく、何かを為す義務なんて以ての外で、「こうなりたい」とか「ああしたい」とか、そんな願望すらなく、ただ頑張っている人間に対して無駄なことしてるなーと心の中で嘯くことで貶めて、自らの惨めさを直視しないようにして、ここにいる。

 それが、僕――なのだ。

「……ああ、事実だよ。別に好きなこととかないし、お前みたいにヤバい仕事して大金稼いでるわけでもないし。でもさ、そういうのって珍しいことか? 『何もない』って面と向かって言われると流石に凹むが、考えればそんなもんだろ、僕等くらいの年齢って」

「年齢は関係ない。その人の性質の話」

 ……分かっている。

 言われっぱなしは嫌だから言い返してみただけだ。

 誰に指摘されるまでもなく、分かっていた。

 聡志は毎朝六時からバスケの練習をしている。僕達のことを噂していた平町朱美は、片想いしている先輩を今度の演奏会に呼ぶのだと聞いた。目の前の席の眼鏡は国立大学に行く為に休み時間も単語帳を捲っている。ネタにされがちなオタクのアイツだって、仲間とアニメについて話し合ってる時の表情は真剣そのものだ。

 誰かから見てどうか、という話ではない。

 自分がどうか、という話を、テリコはしているのだ。

「勘違いしないで欲しいのは、それが悪いって言ってるわけじゃない。でも、私からすると不思議で……。だから、気になった」

「……それだけか?」

「うん、それだけ。……ごめん、電話」

 元々乾き、ひび割れていた僕の心が砕け散ってしまいそうな話題も、彼女にとっては本当に悪気がないものだった。それを象徴するかのように、テリコは僕に軽く会釈すると、そのまま教室を去ろうとする。

 彼女にとって、これはただの世間話だったのだろう。僕の問いに率直に答えただけで、深刻な話でもなく、議論をするような内容でもなかった。

「……ベネディクトさん? うん、うん……分かってる。来週ね。うん……迎え? 要らない。大阪駅の近くでしょ? ……梅田? よく分からないけど、自分で調べて行くから。じゃあ、そういうことで」

 折り畳み式の携帯を懐にしまったテリコは、不思議そうにこちらを見た。

「帰らないの?」

 教室の扉を開けかけて彼女はそう問い掛けてくる。

 僕は少し悩んで、言った。

「……用事思い出した。今日は一人で帰る」

「そう。きみには言っておくけど、私、来週大きな仕事があって、しばらくいないから」

「それを僕に言ってどうするんだ?」

「公園に来てもいないよ、ってこと。じゃあ、また」

 最後の最後まで、あまりにもいつも通りで、彼女は帰っていった。

 あんな会話をしても尚、また僕と将棋を指すつもりでいる辺り、テリコにとっては本当に質問に答えただけだったのだろう。僕が勝手に期待して、一人で失望して、自分の中にあった劣等感に向き合わされただけだ。

 彼女が閉めていった教室の扉。

 それが僕と彼女を隔てる決定的な壁に見えたのも、きっと僕だけだっただろう。



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