第5話 言祝ぎ

 目を開ける前から、視界は白かった。その理由を、すずなは目覚めて暫くたってから理解した。

「ここは……、大樹の中か?」

 記憶は、混乱していた。大樹が放つ強烈な白光に引っ張られるように感じた辺りで、自分の記憶は途切れている。だがその代わりのように次々と流れ込んできた映像の奔流に、菘は強制的に全てのことを理解させられた。

「……そうか。そういうことか」

 目覚めてなお世界を覆うこの穏やかな光は果実と同じもので、気絶している間に触れた記憶は、大樹の、そして大樹に関わった者たちの歴史なのだ。

 そして自分がどうなったのかもまた、菘には理解できていた。

 大樹を傷付けてはならない。それはただの植物の育成からみる当然の掟のように考えられてきたが、違ったのだ。

 大樹を傷付けると、その大小に関わらず大樹は自己修復を行う。その際に、傷付けた存在をも巻き込んで傷を治そうとする。そのために大樹に囚われ、不帰となった者たちが少なからずいた。

 だから、文言にして伝え続けてきたのだ。そして他の掟の理由も、今の菘は知ってしまった。

っている実を採ってはいけないのは、成熟落下でない場合、次からそこに実が生らなくなるからなのか」

 そして落ちたものを全て拾いきってはいけないのは、たった一つを残すことでも再び大樹の栄養として大地に戻るから。果実以外のものを持ち帰ってはならないのも同じ理由だ。

「苦しませるためなんかじゃ、なかったんだな」

 そして、大樹に願ってはならないのは……


 ――……な! 菘! 菘!


 あおぎりの血を吐くような叫び声が、遠く水の膜を隔てたように優しく届く。あんなに必死な声を、初めて聞いた。大樹に怒っているのだ。大樹を切り倒してでも菘を取り返そうと暴れて、冬青そよご村の全員から止められている。

 それらの姿が、菘の目に直接見えているわけではない。けれど。不思議な感覚だった。

「……最初、相当の手練れなのに反撃しないでおれを連れて走り出すから、どんな企みがあるかと思ったんだ」

 まるですぐそこに朋友がいるように、菘は語りかける。目線の先には何もない。だがと、菘は知っていた。

「全く分からなくて、ずっと警戒していた。でも、……ただ優しいだけだった」

 つい一昨日のことを思い出しながら、呆れ気味に苦笑する。

 ずっと、病床の父のために果実を採ってきた。けれどついに先日、父が全身を白く染めて、儚くなった。まるで樹木が枯死こしするようなその姿に、恐ろしくなって悲しくなって、自分の行いが全て無駄だったように思えて、自暴自棄になっていた。

 そこに現れた梧は、まるで弱った自分に付け込もうとする、悪の手先のように思えた。けれど菘が警戒すればするほど空回りするだけの、本当に何の裏もない、ただそれだけのことだった。

「お前と一緒だ」

 何もない空間に微笑んで、そっと手を伸ばす。と、不思議にもそこに樹皮が現れ、触れることも出来た。温もりさえある。

「願われるたびに、何でも叶えてきたのだな」

 長く生きたいと言えば、そのように。食料がなくなったと言えば、果実だけでなるべく生きられるように。

 少しずつ自然の摂理に背きながらも、大樹は身勝手にも寄り集まっては諍いを繰り返す人間たちの願いを、ただ、聞き続けた。

 そして全てを叶える超常の存在は、それだけで不和を呼び、村を二つに分けた。分かれた後もまた、大樹を巡って争いが起き続けた。その死者の多さに、いつしか疲弊しきった村は、ついに最後の掟を付け加えた。

 大樹に願ってはならないと。

 村の人々が長命なのか、この村の時の流れが遅いのかは知る由もないが、取り残されているのはそういうことだろう。

 けれど人間は、どんなに果実を摂り込んでも、完全に大樹や金鵄きんしのようになれるわけでもない。時に現れる病は、その弊害だった。

「だが、あいつまでこの中に招き入れても仕方がないよな」

 優しく微笑んでいた頬を引き締め、樹皮から手を放す。やり方は、もう知っていた。

おれは、大樹おまえには願わない。だから安心して、少し待っていておくれ」

 そして、一歩踏み出す。白い世界が、優しく解け出した。



 大樹に――否、他の何かにこんなにも強い感情を抱いたことも、こんなにも乱暴に刀を振り回すことも初めてだった。それ程に、あおぎりは戸惑い荒れていた。

「菘!」

 何度となく名を呼び、菘の消えた幹に斬りかかる。だがそれを冬青そよご村の全員が圧し掛かるようにして止めにかかる。しまいには刀も奪われ、頭を根の間にうずめるように押さえ付けられていた。

「……菘……っ」

 無数の手に押さえ付けられ顔を歪めながら、それでも名を叫ぶ。病を治すために来たのに、まさか大樹に存在そのものを奪われるなど。

『大樹の呪いだよ』

 菘の声が蘇る。そんな風には思いたくないのに、そうとしか思えなかった。くそ、と拳を握った時、

「な……何だあれ……!」

 誰かが驚きの声を上げた。ざわめきがさざなみのように一気に広がる。

「ひ、光が」

「大樹の光がまた強く」

「いや違う、光が膨らんで」

 頭の上で皆が口々に動揺を口走る中、緩んだ手の隙をついて梧も顔を上げる。人々の足の間から見えたのは、大樹から生まれた大きな光の塊だった。

(いや、違う)

 あれは。

「……菘?」

 その光は、人の形をしていた。輪郭も、性別すら判別しようもなかったが、梧には分かった。

「菘!」

 叫ぶよりも前に、圧し掛かる全ての手を押し返して駆けだしていた。

(生きていた。取り込まれたのではなかった!)

 そうだ、そんなことがあるはずない。

「菘!」

 何度も転びそうになりながら菘のもとまで走る。その場の全員が恐ろしさと不思議さに動けないでいる中、梧は微塵も躊躇わず光の塊のような菘に手を伸ばしていた。

 その手が触れる――寸前、

「梧」

「!」

 菘の声で、確かに名を呼ばれた。それだけのことなのに、梧は迸るような熱い情動が溢れるのを自覚した。

「無事だったんだな。良かった」

 寸前までの荒れ狂うような感情は嘘のように消え去り、安堵の表情で菘に手を伸ばす。

「……あぁ。無事では、あるな」

「菘?」

 意味深な物言いをする菘に、梧は再び不安を煽られて声調を落とす。しかし菘は手を握り返す代わりに、手に持っていた何かを差し出した。

「これを、梧に託したい」

 一見すると、大樹のように輝き続ける菘と同化してはっきりしないが、手を伸ばし受け取れば小枝だということが分かった。

「これは……」

 梧の手に渡っても、その枝は光を失わない。大樹の一枝だとすぐに分かった。だが、

「どうしたんだ、菘。こんなものを持っては、また……」

 原理はよく分からなくとも、大樹を傷付ければまた先程のようなことが起きるのでは、という懸念がまずあった。だが焦る梧とは反対に、菘はただ穏やかに微笑むばかりだった。

「これを、大樹の同化も届かないずっと遠くに植えて。綺麗な水と空気のある場所でなら、きっと根付いて、よく育つから」

「ならば、一緒に植えよう。一昨日通った泉のそばがいい。あそこまで離れていれば、いいだろう?」

 縋るように促す。あぁ、そうしようと、あの美しくもぶっきらぼうな表情で頷いてくれと、勝手な希みを抱いて。

 果たして、菘は頷いてくれた。一緒に逃げている間、一度だって見せたことのない優しい笑顔で。あぁ、と。

「そうだな。それがいい。きっと美しい大樹の子を育てられる。……お前なら」

「!」

 その言葉の意味が、分からないわけがなかった。突き放されたその意味に、一瞬頭が真っ白になる。

「梧……」

 名を呼ばれ、ハッと焦点を菘に戻す。見れば、まるで謝罪の代わりのように、白く細い両腕がそっと伸ばされていた。

 触れてしまえば最後だと、本能的に分かった。逃げたい、と思ったのは初めてだった。けれど、

(触れたくないはず、ないだろう……ッ)

 ずるい、と、苦しい程の恋心で、思った。

「…………ッ」

 どうしようもない葛藤の果てに、梧は結局硬直したまま菘の両腕を受け入れた。両の拳をぐっと強く握りしめ、開き、また爪が食い込むほど握り込む。その間にも菘を包む光は優しく梧も包み込み、まるで光の繭に抱かれているように心地が良かった。

 そして同時に、様々な映像が梧の頭の中に流れ込んできた。大樹を巡って争う村人たち、口論する男女、枝を折って修復に巻き込まれる者、大樹と果実の仕組み……。

 あぁ、と。音にもならない声が漏れた。

(菘は、選んだんだな……)

 大樹と共に在ることを。

 願えば、拒絶することも出来ただろうに。

 そして梧にも受け入れてほしいと思っている。それが、大切な人を亡くしたための、自暴自棄ではないということも含めて。

(……一目惚れ、だったんだ)

 様々な言い分と文句と愚痴と反駁はんばくが上がったが、最後に言葉になったのは結局それだった。

 声にせず伝えると、菘が可笑しそうに笑うのが分かった。こんな男女に、おかしな奴だと。

 その声があまりに愛おしそうなものだから、梧はついに観念するしかなかった。

(そんな笑い方も、するんだな)

 菘は死んだわけではない。大樹は命を奪わない。与えるだけだ。その証拠に、二人の傷も綺麗に治っていた。

 菘は、大樹の精のような存在になるのだろう。となれば、二つの村で別々に生きるよりも、ずっと簡単に会えるようになるはずだ。この小さな若芽が生き続ける限り。

「……分かったよ、菘」

 握り続けていた拳を解き、根負けしたように、菘の思ったよりも細い背中に手を回す。菘が満足げに頷くと、腕の中の光と温もりが大気にとけるように広がり、消えた。



 強い光が掻き消え、いつもの大樹と果実の輝きばかりに戻った中で、梧は長い間悄然と立ち尽くしていた。その間、誰も果実を拾わず、梧にも近寄らなかった。

 果実が落ちきり、いつもの光舞う幻想的な光景が終わるのを見届けてから、梧は後ろでどうにもできずただ待ちぼうけを食らっていた冬青村と河骨こうほね村の者たちを振り返った。戦士頭の枳を見付け、ただ事実だけを告げる。

「菘が――大樹が、若芽をくれた。俺はこれを二つの村の中間に植える。俺はその番人として生きる」

 その宣言を、誰ともなく驚き、反論し、騒ぎ出す。その一切を無視して、梧は続けた。

「あと、病には、果実を多く摂ってもあまり意味がない。たくさんの野菜と果物と、綺麗な水を飲ませてくれ。暫くしたら良くなると、大樹が教えてくれた」

 果実を摂って生きてきた村人の体は、長い時の中で大樹に似てきた。大樹に良いことは、村人にも良い。

「そ、そんなことを言って、その間に冬青村の連中がこっそり奪うんじゃないのか」

 河骨村の誰かが、尻込みしながらも叫ぶ。だがそんな声は、梧には最早何の価値もなかった。するかしないかは自由だ。してくれることを願うしかない。

 梧は一歩大樹に歩み寄って、そっと樹皮に触れる。思えば、大樹本体に触れるのは、それが初めてだった。遠くから綺麗だとばかり言って、眺めているばかりだった。

(大樹も、俺たちと同じように生きていたのにな)

 梓が良くなったら、この若芽も見せてやろう、と思う。近付いてはならないという掟だけは、村人たちの勝手な決め事だったから。

 寂しく笑って、梧は手を放す。

「また、すぐに会いに来る」

 大樹の中の菘に、そう誓う。

 応えるように、自分なりの答えをやっと見つけられた梧を言祝ぐように、黄金色の枝葉が優しく揺れていた。

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黄金の大樹と優しい願い 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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