カンゴームを夢に見る

潮屋 翻車魚

甘美な夢

 なんだか急に、息をするのが苦しくなった。元々息をするのは得意ではなかったけれど、それでも生命活動の維持は出来ていた、のに、急にずしんと重たい石を肺の上に乗せられたような、そんな感覚だった。

 それに伴って、生きていくのが辛くなった。この時期の学生にはそんな話が多いとは聞いていたけれど、まさか私がそうなるなんて思ってもいなかった。


「うーん、倦怠感……?」


 ずうとこの怠さが続いてしまっては敵わない。自覚症状があるだけまだマシなんだろうか。


「あ、おかえり――また気のせい、か」


扉の閉じる音。呼応するように声を零しても、返ってくるのは虚しい静寂だった。

いつか、誰かと一緒に暮らしていた名残だろうか。記憶を漁れど漁れど、出てくるのは昨日の晩飯が美味しかったとか、しょうもないものばかり。


 それでも誰かが一緒に住んでいたと確かに思うのは、洗面台の上の二本の歯ブラシとか、サイズの合わないぶかぶかの服とかが残っているからで。


「は、頭痛あ……寝ちゃお」


 一緒に住んでいた誰かさんのことを考えると、決まって訪れるこの頭痛も慣れてしまった。それくらい、思い出そうとしていたのかもしれない。

 それほど、大切な人なのかもしれない――。




 朝、目覚める。抱いていたぬいぐるみを端になおして、朝食を摂る。

 食パンがトースターに跳ね上げられる前に、フライパンで卵を焼く。黄身が半熟になったところで、タイミングよくトースターに跳ね上げられた食パンを手に持ち、焼きたての目玉焼きを上に乗せる。言ってしまえば軽食だけれど、朝の食欲があまりない私にとっては立派な朝食だった。


「ああ、またそんな軽食で……食欲がないのは分かりますが、しっかり食べないと倒れますよ」

「大丈夫だって、この朝食で倒れたことないから」


そんな会話をして、卵液を喉に流し込む。少し焦がした白身の端が癖になって……ううん、美味しい!


 ね、君も食べなって。美味しいよ。

 あなたの幸せそうな顔でお腹がいっぱいです。

 あはは、じゃあこっちもお腹いっぱいだ。


横目でちら、と時間を確認する。朝から夕方まで、君はお仕事に行ってしまう。気を付けてね、なんてまじないをかけて、今日も君を送り出す。


「夏も近づいてきましたね。ところで、いってらっしゃいのキスは」

「うん、今日もお仕事頑張ってね」


 調子に乗るから駄目、と言えば少し悲しそうな顔をされた。……それはさすがにいたたまれないので、ひょい、と最大限の愛を込めたキスを投げてやる。

 ――結構恥ずかしかった。二度とやらないでおこう。



 掃除をして、洗い物をして、洗濯物を干して、少し散歩して。今日の夕飯はどうしようか。そういえば新しいピアスが出たんだっけ。あ、君のハンカチに名前の刺繍もしなきゃ。

 忙しない時間がふわふわと過ぎて行って、あっという間に君が帰ってくる時間になってしまった。

 お出迎え、と思ったのに足が痺れてしまって立つことが出来ない。他に誰かがいるわけではないけれど、一番に出迎えてやりたいのに。


「ただいま帰りました」

「おかえり……ごめん、足痺れちゃって」

「頑張りすぎですよ、何をしていたんです?」

「や、ちょっと縫い物……ひゃ、つっつかないでよ」


 痺れてるんだってば、と再三言えば君はくすくす笑って頭を撫でてきた。……足をつついたのはそれじゃ許されないぞ。


 顔に出てますよ、コーヒーでも飲みますか? 

 ココアがいい。

 はいはい、ミルクたっぷりでしたね。


 ちゃんと好みまで把握してるんだな、と座っていたソファに寝転がる。足の痺れが治まった頃に、ココアの甘い香りが鼻をくすぐった。

 これは足をつついたお詫びです、と言わんばかりにマシュマロがココアに浮かんでいる。可愛いなあ、別にそんなに気にしてないよ。ただその代わり、君が足を痺れさせた時はつっつくからね。これでおあいこ。



 ココアを飲み終わり、私の故郷でよく作られていたクレープのような料理を夕飯に作った。夕飯を作り終わると、じわじわと今日の幕が下されていくように感じて少し寂しい。


「! すごく美味しいですね、これ」

「へへ、郷土料理みたいなものだから口に合うか不安だったんだけど……問題なさそうだね、良かった。そこにお弁当ついてるよ」


 ウエットティッシュを手渡し、赤ちゃんみたい、と言えば、あなたの方が幾分か子供らしいですよ、と口元を拭われた。……おかしいなあ。


 入浴と皿洗いを済ませ、ソファに沈んで君のシャワーの音を聞きながら刺繍をする。そのシャワーの水音が耳に心地よくて、ああ、眠い。



「……気分はどうです?」

「驚きで声が出ない感じだと思ったんだけど、意外と出たね」


 やっぱりいつの間にか眠ってしまったようで。目を開ければ君と目が合う、なんて目覚めから最高の体験をさせてもらった。カンゴームの目が私をすっかり包み込んで離してくれないような心地がして、ささやかな仕返しとして君の頬を両手で包んでやった。


 そういえば、あと少しでハンカチの刺繍が終わりだったんだった。体を起こして刺繍を仕上げ、ハンカチを手渡す。


 器用ですね、ありがとうございます。

 いえいえ、これくらいしかできませんので。

 

 二人で笑い合って、本格的に今日の幕を下ろそうか、と寝室に向かう。

 人の体温が隣にあると安心するのか、一人の時よりも確実に寝つきは良くなっていた。時折私の髪を撫でる優しい手が、大好きだった。

 でもたまには、私も君の頭を撫でたい。そのまま眠り、明日の幕を上げたい。


「ですが、明日の予定にも響くでしょう?」

「響かない。とにかく撫でたいからさ、横になってよ」


 こうなればてこでも動かないことを知っているからか、案外素直に横になる君の隣に私も寝転がる。

 よし、よし。ゆっくり、優しく。いつもお疲れ様、の気持ちを込めて。



 結局二人とも寝落ちてしまったものの、幸い今日は休暇を取ってあるそうで、満足するまで頭を撫でさせてもらった。


 まだ寝る?

 まさか。

 ……今日はお外でブランチにしよう。

 賛成です、車出しますね。


優しいなあ。わしゃ、と最後に髪をぐしゃぐしゃにして、歯を磨く。流行りに乗っているかはわからないけれど似合う服を着て、車の助手席に乗り込む。


「素敵ですね」

「君もね」


 さあ、美味しいブランチを求めて出発だ。




――ぱち。

目が覚める。君はいない。全部、思い出してしまった。

 カンゴームは、割れてしまったのだ。


「あ、はは。自分でも嫌になる夢だな、これ」


 カンゴームは魔除けの石。だから私の代わりに割れてしまったんだ。……カンゴームの目なんて、思わなきゃ良かった。


 次こそは美味しいブランチを食べに行こうね。いってらっしゃいのキスも、君が望むなら頑張るから。

だから、この息の詰まりを、乱れた心を、落ち着かせてよ。私だけの、カンゴーム。

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