海神様の祭り

山内 散王

第1話

 ざぶん、と勢いよく水の中に頭を入れる。心地よい冷たさを感じながら目を開けると、白い砂とどこまでも澄み切った海の色が広がっている。それを確認して、俺は両手両足で力いっぱい水を掻いた。それに合わせて、ぐん、と身体が前に進む。

静かな水音だけが響く世界で、何も考えずにただ深く、先へと水を掻く。

「ぷはっ……」

 いよいよ息が苦しくなったところで海面に顔を出すと、太陽の日差しで一気に顔が熱くなる。

 はぁ、はぁと息を整えながら浜を見ると、一息でかなり離れたところまで来ていた。

「はぁ……」

 息を整え終えて体の力を抜ききり、ぷかりと身体を浮かせる。

 ただ波の音だけを聞きながら雲一つなく晴れ渡った空を見上げて、今日の祭りは予定通り行われるんだろうな、とぼんやりと思う。

「………」

 せっかく振り払った思いがまたむくむくと首をもたげ始めて、俺は思いっきり息を吸ってもう一度海に潜った。

 ……海はいい。

 静かだし、穏やかだ。ここではただ生きていることだけが美しくて、それ以外は魚であれ人間であれ、何も変わらない。

 その静かな海の中で不意に人の声が聞こえた気がして、俺は迷いつつも海面に浮上した。

「お兄ちゃーん!」

 浜で誰かが叫んでいる。その見慣れた姿にもう一度潜ってやろうか、と考えていると「あ、いた!」と妹のアカリがこちらを指さした。

 ここで潜ったら母ちゃんに怒られるな、とひらひらと手を振って聞こえていることを伝え、浜に向かって泳ぐ。その速さがどうもゆっくりになってしまうくらいは許されるはずだ。

 浅瀬になってきて立ち上がると、波打ち際ぎりぎりまで来ていたアカリが「あ」と顔をしかめる。

「お兄ちゃんまた服着たまま海入ってる。水着に着替えろってお母さん言ってたじゃない」

 その言葉を耳に入った水を抜いているふりをして聞き流すと、アカリは不機嫌そうにさらに頬を膨らませて「お昼ご飯の素麺もうできるって。早く戻ってこないと食べきっちゃうからね!」と言って、さっさと背を向けて行ってしまう。

 濡れたTシャツを絞りながらその姿が鬱蒼と生えた木々の中に消えたのを見送り、履いてきたサンダルを手に持つ。

 自然とため息がこぼれた。


「ちょっとあんた、また服のまま海入ったんだって? いい加減にしなさい!」

 予想通り母ちゃんの怒声と共に家に迎えられた。アカリが「それ見たことか」と言わんばかりに得意げに素麺をすすっているのを横目に「その服はあんたが洗いなさい」と母ちゃんに怒られる。

「わかってるって」と答え自分の部屋に向かい、新しいTシャツに着替えて、洗面所にさっきまでの服を放り込んでから居間に戻る。

「……まったく。海神様の祭りの日ぐらい、大人しくできないのかね」

 そう言いながら母ちゃんは乱暴にツユと俺の分の素麺を置いて台所に戻る。

「あれ、父ちゃんとばあちゃんは?」

 いただきます、と手を合わせながら聞く。

「二人とも祭りの準備に行ってるよ」

「あんたらも食べ終わったら行きなさいよ」と言う母ちゃんに、素直に「はーい」と答えるアカリの声を聞きながら冷えた素麺をすする。

 海神様の祭り。それは、毎年お盆も過ぎたころに行われる、島独自の祭りだ。

 ――大昔、空が荒れ狂って作物はやられ、魚も獲れなくなったことがあった。島の人々はそれを嘆き、島の守り神である海神様に助けを求めた。海神様は島民の頼みに、島で一番美しい娘を妻に捧げるのなら、その頼み事を聞こうと言った。選ばれた娘には恋人がいたが、島のためにと娘は涙を呑んで海神様に嫁いだ。しかし、娘に想い人がいることを知った海神様は、娘に島に伝わる歌と踊りだけを求めて、逆にたくさんの宝物を持たせて岸へと返した。天候は回復し、娘は恋人と結ばれた。島の人々は海神様の優しさに心の底から感謝し、それから毎年海神様に感謝の歌と踊り、そして島の恵みを贈ることになった。……それが、今でも続く祭りの始まりだ。

 島にある三つの村落が一つに集まって、古くから伝わる歌と踊りを踊り、言い伝えの劇をしたりする、観光客もそれなりにやってくる、夏の一大イベントだった。

 伝統的な祭りとはいえ出店も出るし、それぞれの家が作るごちそうは挨拶さえすれば食べ放題だし、と子供からしても楽しい祭りなのだが。……今年はどうも気乗りしない。

「………」

 わかっているけど気づきたくない理由をできる限り考えないようにして、俺はずるずると無心で素麺をすすった。そこに、「おばさーん」と外から明るい声が聞こえてくる。今一番聞きたくなかったその声に、俺は素麺を慌てて口の中に吸い込んだ。そのまま量を無視してごくりと飲み込む。

「こんにちはー」

「あら、ルリちゃんじゃない!」

「あ、ルリ姉ちゃん!」

 ガラガラというドアの音ともに聞こえた声に母ちゃんとアカリが明るく答える。恐る恐る顔を上げると、戸口に一人の女性が立っていた。

 小麦色の肌に、後ろの高い位置で一つに束ねた艶やかな黒髪。Tシャツに短パンというラフな格好なのに、なんだか少し輝いて見えるのはここから見た戸口がやけに明るいからだろうか。

 その女性は母ちゃんに「お久しぶりです」と頭を下げてから、くりくりとした大きな黒目をこちらに向けた。そうして、くしゃりと綺麗な顔を歪めて笑う。

「アカリちゃんにアオイちゃんも。久しぶりー」

顔の横で振られた手を自然に見えるように振り返しながら、できる限り平静な声で「久しぶり」と返した俺の隣で、アカリがルリ姉に駆け寄って、勢いのまま抱きついた。ぎょっとなった俺をよそに、ルリ姉は力強くアカリを抱きしめる。

「うわーアカリちゃんまた大きくなったね。しかも前よりも可愛くなってる」

身体を離しながらそう言って、「ほんと!」とはしゃぐアカリの頭を「ほんとだよ~」とくしゃくしゃに撫でるその手つきからは彼女の優しさがにじみ出ている。

「ほら、上がって上がって。素麺食べる?」

 そう言って麦茶をなみなみと注いだコップを渡しつつ言う母ちゃんに、ルリ姉は「いえ、食べてきたので大丈夫です」と笑顔で答えながら上がり框に腰かけた。その横にちゃっかりアカリも腰かける。

「久しぶりで嬉しいけど、ここにいて大丈夫なの? 劇の練習があるんじゃない?」

 洗った手を前掛けで拭きながら言う母ちゃんの言葉にぎくりとして、ルリ姉を見る。

「今の時間はお昼休憩なので大丈夫です。まぁ午前も午後も練習で結構大変ですけどね」

 ルリ姉はそう言って明るく笑う。

「やっぱり大変よねー、花嫁役は。うちの従妹が昔やってたんだけど、忙しさに目を回していたわ」

「え、おばさんもやってたんですか?」

「やぁね、従妹がよ。うちの親戚の中では一番美人だったから、選ばれてね。もう本島に嫁いじゃったけど」

 楽しそうに喋る声を聞きながら、溶けた氷の中に沈んだ素麺を汁につけ、音を立てないようにそっとすする。

 ……毎年祭りの中盤で行われる海神様の伝説を再現する劇は、島の若者たちがやることになっていた。島民の役、海の役、海神様の役、などと中高生の島の若者のほとんどが参加する劇で、かなり本格的なのだが、その中でも主役の海神様を抑えて人気の役が二つあった。

 一つは、海神様に捧げられた花嫁の役。そしてもう一つは、その花嫁の恋人役だった。

 度胸があって声が大きい人が選ばれる海神様役とは違って、この二つの役は島で一番の美人と美男が選ばれる。そして選ばれた二人は、将来結ばれるというジンクスがあった。

「………」

 所詮ジンクスだ、と言われそうなものの、夏のあいだ劇の練習で毎日顔を合わせれば自然と距離は縮まるもので、結婚まで行かなくても、よっぽど仲が悪くない限り、付き合いはするらしい。島民の中でも高齢な方々は「海神様の加護が今なお続いている証だ」と、なんでもありがたがっているけど、加護でもなんでもなく、それなりに裏のある話だった。

 ……まぁ、裏がないと言って笑い飛ばせたらどんなにか良いんだけど。

 あともう一口食べようと箸を動かして、素麺がもうないことにようやく気付く。少しばかりの食べたりなさを感じつつも俺は箸をおいて手を合わせた。

「……そう言えば、話し込んじゃってたけど、うちに何か用があったんじゃない?」

 母ちゃんが言うと、ルリ姉は「ああ!」と声を上げた。

「すっかり忘れてました。うちのお母さんが揚げ餅作りすぎちゃったらしくて、祭りの時に是非食べに来てください、って」

「わざわざ言わなくても、カオリさんの揚げ餅は美味しいからいただきに行くのに」

「いや、お母さん本当に分量間違えたんですよ。いつもの倍はあります」

「それは……確かに多いわね」

 神妙な顔で頷いたと思うと、母ちゃんはまたすぐにパッと顔を輝かせた。

「まぁ大丈夫よ。うちには食べ盛りのアオイがいるから。そっちに派遣するわ」

「え、俺?」

 突然話を振られて驚いていると、ルリ姉が笑顔でこちらを振り返って「それは期待できるね」と言ってから身軽に立ち上がった。

「じゃあそろそろ失礼します。午後の練習が始まっちゃうんで」

 母ちゃんに頭を下げてから、アカリと俺に「また後でね」と手を振って去っていく。

 その姿を見送ってから、いつの間にか上がり框に座っていた母ちゃんが「よいしょ」と立ち上がって俺を見た。

「食べ終わったなら、器こっちに持って来て、手伝いに行ってちょうだい」

 無言で頷きながら台所のシンクに残った汁と素麺を入れていた器を入れる。

「……ルリちゃん、きっと花嫁役似合うわね」

 野菜を炒めながら「楽しみね」と言う母ちゃんに「そうだね」とだけ返しながら、俺はため息をつくのをなんとかこらえた。


 アカリと一緒に家から追い出されて広場に行くと、いつもはただだだっ広いそこに舞台が組み上げられていた。一年に一回だけ現れるその舞台に圧倒されていると、知り合いのおじちゃんたちにバラバラに仕事を言いつけられてアカリと別れる。

 舞台で使う機材の搬入をして、貝殻の灯りを倉庫から取り出して、それを広場に飾るための紐を高い木や電柱に括り付けて……と、考える間もないほどに動き続け、一息ついたころには空ピンク色に染まっていた。

「おし、完成!」

 大工であり、祭りの設計監督をしているおじちゃんがそう宣言すると、広場にいた男手から一斉に歓声が溢れた。その中で俺もほっと一息ついて静かにガッツポーズをする。

すでにビール瓶を片手に宴会を始めた大人たちをかき分けて何とか家までたどり着き、「ただいまー」と上がり框に倒れこむと、「おかえりー」と上機嫌な声と共にアカリがやってきた。

「お兄ちゃん、ねぇどう?」

 そう尋ねてきたアカリは、島の伝統的な服を着ている。体の線に沿うような上衣と、たっぷりと裾が広がった下衣、ウエストを薄い帯で縛ったその衣装は、どこの国の民族衣装にも属さない、不思議なデザインだ。

 目の前でくるりと回ってみせたアカリのゆったりとした袖が、風をはらんで少し膨らむ。

「似合っているんじゃない?」

 疲労感に押しつぶされそうになりながらなんとかそう言うと、何を気に入らなかったのかアカリは「それだけ?」と顔をしかめる。

「今年から帯の色が変わったのよ」

 呆れたように母ちゃんに言われて、「あぁそっか、もう十歳だからか」と納得した。

 女性の衣装は、帯の色によって年齢を表していて、子供は黄色、十歳ぐらいからはピンク、十七歳になって結婚適齢期になったら赤、その後結婚したら緑になって、五十を超えたら全員が青になる。成人したら帯が黒くなるだけの男性とは違って細かく分けられているのだ。

「そんなことも気が付けないからモテないのよ」と言って足音も荒く去っていくアカリにそれは今関係ないだろう、と心の中で突っ込みながら目を閉じる。準備だけでものすごく眠い。

「アオイ、あんたも衣装あるけど、どうせ着ないんでしょ?」

 そう聞いてくる母ちゃんの声に「んー」とだけ答える。

「自由に遊んでいいけど、最初におばちゃんの家とお世話になっている人の家に行ってからにしてね。九時には帰ってくるように。あと、挨拶はしっかりしてね」

「んー……」

 そう答えながら伸びをしていると、「いつまでそうしているの、邪魔」と頭を軽くはたかれて、ゆっくりと起き上がる。

 やっぱり行きたくないな、と思いながらも「着替えて行ってくる」と化粧までばっちり決めた母ちゃんに言って、部屋に戻る。

 本日三枚目のTシャツに袖を通し、「よし」とつぶやいてから俺は家を出た。

 空を覆っていた橙色が紺色に追い出され薄闇が広がる中、道のあちこちに飾られた貝殻のランプが柔らかなピンク色の灯りをともす。

 ご近所さんと親戚の家、ルリ姉の家を回り終えたころには日もとっぷりとくれ、お腹もすっかり膨らんでいた。途中友達と話しながらもいつの間にか足が広場に向かう。

 明るい弦の音と、乾いた太鼓の音、軽やかな口笛に元気のいい歌声が響く。それに合わせて広場に集まった人々が舞台上と下とで分け隔てなく楽しげに踊る。

 その様子を見ながら木陰に座っていると、今までとは雰囲気の違った緊張感のある太鼓の音が低く鳴り響いた。その音に、騒いでいた人々はわっと一度歓声を上げて、それぞれが手ごろな場所に腰を下ろした。

 静かになったところで太鼓の音が鳴りやみ、代わりに派手な衣装に身を包んだ役者が出てくる。

「今から始まりますのは、この島に古くから伝わる御伽噺。慈悲深い海神様と、美しい娘の話にございます」

 拍手と共に役者が深々と礼をして去っていくと、劇が始まった。

 この劇は内容は同じものの、台詞や動きがしっかりと決められているわけではないらしく、毎年少しずつ違うので、見ていて飽きない。今年の劇は動きが大きいな、と思って見ていると、舞台の下手からルリ姉が出てきた。

その瞬間、その場にいた全員がすっと息を飲む。

 白い上衣と、涼しげな海色の下衣。歩くたびに赤い帯と下ろした長い黒髪が夜風にそよぎ、金色の光を照らす髪飾りがしゃらりと澄んだ音を奏でる。

「美しいな……」

 そんな声が周りから自然と漏れるほどに、ルリ姉は美しかった。舞台上に立つ役者たちの中で、一人だけ纏っている空気が違う。

 そのルリ姉を追って入ってきた恋人役のハヤトは、これまた爽やかな笑顔を浮かべてルリ姉に近づく。すらりとした長身には、薄緑色の水干姿に近い衣装がよく似合っていた。

 ルリ姉がハヤトを振り返り、そしてくしゃりと微笑んだ。その笑顔に胸がずきりと痛くなる。

 二人は手を取りあい、にこやかに話し始める。

 お芝居の中とはいえその姿は絵になりすぎていて、それこそ本当に昔話の中の二人のようだった。

「今年は当たり年かねぇ」

 近くでつぶやかれたそんな声を聞きながら、俺はただ静かに劇を見た。

 海神様が出てきて、ルリ姉が嫁いで、戻ってきて、と劇は何の問題もなく終わった。去年よりも、おととしよりも良い出来に、カーテンコールでは割れんばかりの拍手が起こった。

 その中央で、光る汗の球を浮かべながらも笑顔でお辞儀をするルリ姉を見て、俺はそっと立ち上がって広場を出た。

「あ、アオイ。ヒナタの家の揚げ餅はアイス付きらしいんだけどさ、お前も行かね?」

 広場を出てすぐにリツたち友人の一団に声をかけられたものの、「ちょっと今頼まれごとしているから」と断り、俺はただひたすら西に歩いた。

 村を抜けると灯りの一切ない道は真っ暗だったが、それを気にせずいつもの感覚で歩いていると、すぐに目が慣れてくる。

 そのまましばらく進むと、道の両側に茂っていた木がなくなり、目の前が一気に開けた。

 満天の星空と、それを映す海。その中に道が一本続いている。

 俺はその一本道――桟橋の終わりまで行って、そこに腰を下ろした。潮が引いている今の時間は、桟橋から足を下ろしても指先が軽く水に触れる程度だ。

 しばらくの間ただ黙ってサンダルを脱いだ足先でぴしゃぴしゃと波を蹴っていたものの、それもすぐに飽きてしまって、俺は声を出さずに叫びながら桟橋に倒れた。

 ごつごつとしたコンクリートをTシャツ越しに感じながら、星空を見上げる。

雲一つない空に星が無数に散らばるこの光景が都会では当たり前ではないと知った時は本当に驚いた。それじゃあ都会の人間は夜何を見ているんだろう、なんてどうでもいいことを考えてみても、心の中のざわつきは消えてはくれない。

「……いっそ海に入ったら楽なんだけどな」

 頭を真っ白にできる。嫌なことはすべて忘れられる。

 つぶやきながら目を閉じていると、「何が楽なの?」と返ってこないはずの声が返ってきた。

 その声にぎょっとして目を開けると、星空を背にルリ姉がこちらを見降ろしていた。

「え、な、なんで?」

 声を裏返して叫びながら飛び起きると、まだ衣装姿のままのルリ姉は「アオイちゃんがふらふらと広場出ていくのが見えたから、体調悪いのかと思って」と言って笑う。

「それで、来てくれたの?」

「うん」

「舞台衣装のままで? 舞台の皆とこれから宴会やるんじゃないの?」

 つい、問い詰めるような口調で聞いた俺に、ルリ姉は「詳しいね」とただ目を丸くした。

「まぁ、宴会ならいつでもできるから。服は着替えるか迷ったんだけどね」

 そう言って恥ずかしそうに頬を掻く。

「あ、体調は? 大丈夫?」

 思い出したかのように慌てて聞いてくるルリ姉は花嫁役ではなくいつものルリ姉で。そのギャップに笑いながら、「何もない。元気だよ」と答えた。

「そっか」とルリ姉もくしゃりと笑う。

 その笑顔を見ただけで、胸の奥につかえていたものは驚くほどあっさりと消えてしまった。

「あ、これ持ってきたんだった」

 そう言って、ルリ姉は袖から小さな包みを取り出す。

「揚げ餅。食べない?」

 笑いながらそう言って、桟橋の端に腰かける。綺麗な衣装なのに何のためらいもないその行動に一瞬圧倒されたものの、ルリ姉は元からこんな人だ、と思い直して隣に座る。

「はい」と手の平に揚げ餅を乗せられて、「ありがとう」と言いながら口に放り込む。

「やっぱり美味しい」

 揚げ餅は一口大の餅を揚げて砂糖をまぶしたお菓子で、うちの家でも良く作るけど、ルリ姉の家のは冷めても美味しいから不思議だ。

「それを聞いたらお母さんも喜ぶよ」

 そう言って笑いながら、ルリ姉は次から次へと揚げ餅を口に運んでいる。

「……やっぱり演技ってお腹すくの?」

「演技がすくってわけじゃないんだけど、衣装だとかメイクだとかで昼ご飯から何も食べてなくて」

 そう弁明しながらも食べ続け、ルリ姉はものの数分で揚げ餅が大量に入っていたタッパーを空にしてしまった。

「ごちそうさまでした」と手を合わせて言って、そのまま桟橋に倒れて大きく伸びをする。

 大胆にもほどがあるな、とあっけにとられていると、ルリ姉はゆっくりと息を吸って「この場所、いいね」と穏やかに言った。

「アオイちゃんはよくここに来るの?」

「一人になりたいときとかは来るかな。こんなところには夜誰も来ないし」

 俺が言うと、ルリ姉は「そっか」と小さく笑った。そうして俺にも寝ころべと言わんばかりに桟橋をぽんぽんとたたく。

 俺が素直に寝ころぶと、ルリ姉はふふ、と満足そうに笑って、そのまま空を見上げた。それに倣って俺も空を見上げる。

目には星空だけが、耳には波の音だけが届く。とても静かだった。

「アオイちゃんはハヤトって言ったら誰かわかる?」

 突然の言葉に「恋人役をやっていた人だよね?」と聞き返すと、ルリ姉は「そう」と頷いた。

「その人にね、さっき告白されたの」

 何でもないことのようにさらりと言う。

「え?いつ?」

 一拍遅れて聞き返すと、ルリ姉は顔色を少しも変えずに「劇が終わった後、カーテンコールの前に」と答えた。

 そんな時に……じゃあルリ姉もハヤトもそんなことがあった直後に皆に笑顔でお辞儀してたのか。

 俺が茫然としている間、ルリ姉は一言も喋らずに空を見ていた。寝ころびながらその横顔を見て、ごくりと生唾を飲む。

「……付き合うの?」

 心臓が鳴り響く。血が濁流のように体の中をめぐっていて、全身に心臓があるみたいだ。

 恐ろしく長く感じる一瞬の後、ルリ姉は「どうしようかなぁ」と言ってまた大きく伸びをした。

「え?返事してないの?」

「だってすれ違いざまだったし、カーテンコールの後私抜け出してきちゃったし」

そう言ってから思い出したかのように小さく笑って「ハヤト、今頃そわそわしてるかもね」と言ってくる。

その返事にいい加減じれったくなって、俺は上体を起こした。ルリ姉の目が俺を見る。

「ルリ姉は、ハヤトのこと、好きなの?」

 心臓が口から飛び出しそうになりながらもそう尋ねるとルリ姉はあっさりと「好きだよ」と答えた。逃げようのないその言葉に、一瞬目の前が真っ暗になる。

「ハヤトだけじゃなくて、アオイちゃんもアカリちゃんも、ミナもアヤカもサトルもみんな好き」

「……え?」

 自分が何を聞いたのか一瞬わからなくて聞き返すと、俺を見てルリ姉は顔をくしゃりと歪めて笑った。

「私はみんなが好きなの。誰が一番でもないの」

 そう言って、よいしょ、と上体を起こす。

「私はこの島で家族やみんなと笑って、楽しむのが好きなの。自然がきれいなこの島が好きだし、温かい家族やみんなが好き」

「それだけなんだよね」と海を見ながら言うルリ姉の目は、どこか寂しそうだった。

そんなルリ姉を見るのは初めてで、思わず息を飲む。

ルリ姉の黒髪が夜風にさらりと流れた。

 それを見て、ぐっと自分の手の平を握りしめる。

「俺は、ルリ姉が好きだよ」

 ルリ姉の驚いた目がこちらを向いた。詰まりそうになる喉をなんとか通して「俺は」と続ける。

「ルリ姉と同じように、この島が好きだ。青い海が好きだし、きれいな夜空が好きだ。馬鹿みたいに騒ぐのが好きなみんなが好きだ」

 ルリ姉の目が星空を映してきらりと光る。

「だからさ」

 笑ってよ、と言おうとした俺を、ルリ姉がぎゅっと抱きしめた。驚いて離れる間もなく、ルリ姉の手が頭をガシガシと撫でまわす。

「よし、よし、よし、よし……」

「え、いや、ちょ、ルリ姉!」

 何とか俺が身体を離すと、何がおかしいのか、ルリ姉はお腹を抱えて笑いだした。

 何が起こっているのかわからずに固まった俺の前でルリ姉はなんとか息を整えて、「ふう」と吐きだした。

「ありがとう」

 その声に目を上げると、ルリ姉がいつものようにくしゃりと笑う。

「元気出たよ」

 その言葉に、もう何でもいい気がして俺も笑った。

「良かった」

 ルリ姉はくすり、ともう一度笑ってから「じゃあ戻ろうか」と言って立ち上がった。そのまま俺に手を差し出す。普通逆だろうと思いながらも、差し出された手を取って俺も立ち上がった。

「あれ、良く考えたらハヤトの申し出断ったらジンクス壊れちゃうのか」

 二人で桟橋を歩いていると、ルリ姉が思い出したかのようにそう言った。

 その時になって、なんやかんや俺もハヤトとまとめてルリ姉にフラれたことになるのか、と気づく。……たぶん、ルリ姉は俺の言葉をただの慰めとしか思ってないだろうけど。

 なんだか少し複雑な気持ちでルリ姉を見上げると、ルリ姉は少しだけ顔をしかめて、「さすがにちょっとまずいかな」と聞いてくる。

 満天の星が映るその目は言葉の割に楽しそうで、俺は本当に、もうどうでもよくなってしまった。

「ルリ姉らしくて、ちょうどいいよ」

 笑いながら言うと、「どういうことだ」とルリ姉がまた俺の髪を撫でまわす。

 笑ってされるままになりながら、俺たちは道を急いだ。

 鬱蒼とした木々の間を抜けると、もう村が見えてくる。柔らかな貝殻の灯りと明るい音楽がここからでも聞こえてくる。

 それを見て、俺たちは顔を見合わせて駆けだした。

 祭りの夜はまだまだ長そうだった。

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海神様の祭り 山内 散王 @SunShain

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