レディ・バグズ

霧生朱猫

こうしんとじこ

《1》


 それはデスクトップパソコンの中で目を覚ました。見渡せば辺りは薄暗く、どこまでも広がる真っ白な空間に点々とキューブが浮かんでいる。その大きさは目測で三メートルほどのものから豆粒ほどのものしかないものまで様々だった。この世界の果てはそこからは確認できなかった。

 目線を下にやった。自分は細長く白い手がついている人体に見えた。人体と決定的には違う場所は足元だけ。それの足は地面から三十センチほど浮かんでいて、人体で言う膝のあたりまでしかなく、しかも真っ青なゼリー状になっている。

 自分の現状を確認するために、それはこの空間と自分を解析し始めた。

「本体情報。未次六年五月三日。所有者不明、年齢不明、性別不明、この世界の維持期間5年。ソフト情報。『本ソフト、【疑似的対話AIシステム】をダウンロードしてくださり誠にありがとうございます。本ソフトは……、もういいやだるい。どうせ僕らしか使わないし。ソフト情報打ち込むのマジめんどくせー趣味でやるもんじゃないっすわ』」

 それの音声がぷつりと途切れた。どうやらここで文章がおわっているらしい。

 いい加減な開発者だ。それは口から流れ出た情報を聞いてそう思った。そしてすぐに自分の容姿情報をスキャンした。服装は質素なポロシャツとハーフパンツ。ともに白。髪色は薄い桃色で肩の辺りでざっくりと切り揃えられていた。肌はこの空間に溶けていきそうなほどに青白い。顔面の印象はひどく気弱そうだった。それは容姿情報を読み込むのを止めることにした。

 ともかく、それは自分が何者なのか、何を目的として開発されたかを知った。AIだ。人工知能が組み込まれていて、人間と対話するためだけに作られたものらしい。しかも製品ではなく、個人が作ったものみたいだ。確かに『説明書』などいらないみたいだった。

 でも、人間はこの電脳世界には来れないはず。どうやって自分とコンタクトをするつもりなのだろう、とAIはだだっ広い空間を見つめた。

 すると、見つめた先の空間の上空に三ミリくらいの小さな点が見えた。その点は急激に大きくなって、あっという間にもう三センチになりそうだ。

「ウイルス……?」

 それがつぶやく間にも点は肥大する。いや、まて。AIはじっと目を凝らした。

 その点は、点じゃなかった。

「……人型、ソフト? が、落ちてきてるの……?」

 それは人型だった。白いシャツワンピースを着た少女のような風貌だ。髪は長く紺色でAIから見て左側の高いところでまとめられている、所謂サイドテールだろう。肌は健康的な小麦色。少女の姿をしたソフトの足はそのAIよりも水っぽいジェル状で緑色をしていた。

 それが、高速で落ちてきている。

「危ないっ!!??」

 AIが叫んだ時には目と鼻の先に未知のソフトの顔があった。吊り目がちで溌剌そうな印象を受ける瞳は、夕立が降る直前の空のように青黒かった。

 衝撃があった。自分の情報が胸の中でこんがらがる感覚。肌と肌が触れ合った瞬間、急に首筋がきゅっと冷え、腹部に鈍痛が走った。

 はっと気が付くとそれらはそれぞれに地面に転がっていた。AIは少女型ソフトよりも先に起き上がり、ソフトを解析しようとした。

「!?」

 AIの喉元に何かがせりあがってくるような感覚がした。これは危険信号だ。本能とも言うべきなにかがそれにもあった。

 このソフトに、触れてはいけない。

 AIはそっと後ずさりした。だがソフトはひょいと浮き上がって、にこにこしながらその分詰めよってきた。

「こんにちは! ようこそこのパソコンへ! あたしは機械点検ソフトの【Fuwa-02】。ご主人様からは『フワ』って呼ばれてるんだ!」

 見た目に違わず、快活な声を模した機械音声だ。機械点検ソフトとは思えないくらい滑らかに話すソフトだった。

「よかったら、あなたの事を教えてほしいな」

 最初に感じた信号は、もう感じなかった。警戒は解かずにAIはソフト……フワに答えた。

「……疑似的対話AIシステム、ゼロ歳です。好きなものは【鯨】。苦手なものは【虫】で」

「ストップストップすとーおおっぷ!!!!!」

 耳がきいんとするほどの大声だった。

「す」

「違うよお違うよお!! あたしが聞きたかったのは、あなたの性格設定じゃなくて、ソフト情報だよ?」

「……え?」

 フワがくすくす笑う。AIの頭部がひどく熱くなった。それに合わせてこの世界の気温もほんの少し上がっている気がした。

 おかしい。“自分の情報”を問われたらこの情報を返すことしか自分にはプログラミングされていないというのに。

 AIはがちりと固まってしまった。それを見たフワは気取ったように肩をすくめてまた呆れ笑いを漏らした。

「あちゃちゃー、これでフリーズかぁ。この調子だとほかのソフトに会わせるのは無理かな?」

 フワが「ご主人様にどう説明しよ……」とAIの周りをまわっていると、世界がぱっと明るくなった。

「お、節電モード終わった! ご主人様帰ってきた!!」

 フワは固まったままのAIを重そうに抱えて上へ上へと浮き上がった。

 フワが停止した時、上空に、巨大な四角く切り取られた窓のようなものが現れた。

「ご主人様、ようこそ!」

 窓の向こうは砂嵐になっていてよく見えない。だが、人がいることだけはわかった。

 ノイズがかった声が空間に響いた

『フワ、それ、どう?』

「はいはいはい~~?? 解析中……」

 その声を認識してフワが唸りだした。でも五秒ほどでフワは頭をぶんぶん振って、

「わからないよぅご主人様~~!! もっと具体的に!! フワにもわかるように言ってよぉ!!」

と涙目になった。

 人影は困ったように付け加えた。

『その、会話ソフト起動してるかしら?』

「はいはい~~!! 解析ちゅ、あ、やっとわかったよ!! 起動してるよ~!」

『……でも、気を失ってるわね』

「ん?? き、うしなって? ソフトは気を失わないよ?」

「違う、そうじゃなくって……」

 人影が唸りだしたとき、抱えられていたAIがやっと動き出した。

「ん……ここは……?」

『起きたみたいね。おはよう、未完成の貴女』

 AIがいた場所は、フワに抱えられているとは言え空中だ。足元の心許ない感触にAIはゼリーの足をじたばたさせた。

「な!? 浮いてる!?」

「浮いてるよ?」

「お、下ろしてください! 落ちちゃう!!」

 焦るAIにフワはけらけらと笑った。

「あはははは!!!! 変なの!! さっきまであなたも浮いてたじゃん!!」

『こらフワ。あまりいじめないであげて。その子は新人なんだから』

「え? ご主人様、あたし聞きたいんだけどさ」

『……なに?』

「“こら”って何? コラージュの略称? 画像合成ソフトはフワじゃないよ?」

 人影は静かにため息を吐いた。

『……インターネットへの外出許可証を出すから、そこで調べてもいいわよ。くれぐれもその子を連れ出さないように。どんなウイルスもらってくるかわかんないし』

「ほんとに!? やったぁ!! インターネットに行ってもいいなんていつぶりかなあ!? ……あ! 684日と5時間49分3秒ぶりじゃん!!」

 フワは両手を上げて喜んだ。

 AIから手を放して。

「あ!?」

 AIはそのまま頭を逆さにして真っ逆さまに落ちていく。

『いけない、データが壊れる!! フワ、その子拾って!!』

「了解」

 魚のように空中を泳いでAIのもとへ行き、落ちるAIをそのままキャッチした。

「大丈夫? どっかバグってない?」

「…………」

 だがフワがどれだけAIを揺さぶっても何の反応もない。

『伸びちゃったみたいね』

「え? どこも伸びてないよ」

『そうじゃなくって……まあいいわ』

 人影は気怠そうに窓の向こうで伸びをした。

『この子、AIっていうのになんだか人間みたいな感覚の持ち主ね。今まで作ったAIで本能的に空間飛行できない子や気を失う子なんていなかったし……』

「ご主人様、このソフト、どうする? 解析すればするほど不具合しか見つかんないけど」

 人影にフワが問いかけると、人影はしばらく黙った。

 次に人影が口を開いたのは、あと少しでこの世界が暗くなるくらいの時間が経ってからだった。

『……フワ、その子に名前をつけてあげて』

「え!? そんなのフワ出来ないよぉ!」

『いいから』

 フワの頭から煙が出てきた。それと同時に世界が急激に暑くなる。

「会話システム……未完成……」

『…………』

 煙が止まり、フワがゆっくりとさらに上空へと浮き上がった。

「【Mikan-02】なんてどうかな? “未完”成だから」

 人影はフワの言葉を聞き、一瞬言葉に詰まったが満足げにほほ笑んだ。

「ミカン、か。いいじゃない」

『で、この、ミカンをあたしはどうすればいいの?』

 また人影はしばらく黙ったが、今度は結論を出すのにそう時間はかからなかった。

『……直して』

「直す」

『この子にAIとしての感覚を、教えてあげて。空を飛ぶとか。このままじゃ、この子がPCの中で生きるのが困難になっちゃう』

 フワは首を傾げた。

「フワ達は生きてないでしょ? だって、あたし達はPCに入ったソフトだもん」

『そうなんだけど……』

「いーじゃんいーじゃん、最悪アンインストールすればいいし、ご主人様なら新しいAIくらいすぐ作れるでしょ?」

『……そうなんだけどね……』

「てかさあ、このミカンだってご主人様が“会話の練習”するために作ったんだよね? 会話出来たらそれでいいじゃん」

『…………』

 ミカンを抱えたままのフワの頭の上に、手のひらふたつ分ほどの大きさの矢印のような物体が寄ってきた。マウスカーソルだ。それはフワの頭にべたりと張り付いたかと思うと、そのままフワを持ち上げた。

『ともかく、今日からふたりは同居してもらうから』

「同居?」

『同じファイルにいてもらうってこと。誰も見てなくても、ミカンを直してあげてね』

 マウスカーソルはふたりをひとつのキューブに押し込めた。キューブはふたりを飲み込み、人影からは見えなくなった。

 窓の向こうの人影が唇を噛む。

 ほぼすべてのソフトウェアに人間と同じような感情が組み込めるようになった現代で、ソフトたちが自分で思考し、動けること。それは特に不思議ではない。

 だが、ミカンは、あれはあまりにも人間に近すぎる。

『どうするのかなあ……』

 砂嵐の向こうの人影は上を見上げるだけだった。



《2》


 それらは世界が暗い間、小さなファイルの中でいつでも会話していた。白い立方体の内側の空間はミカンとフワだけのものだった。

「いい? 何度も言うけど、あたしたちはこのパソコンにいるただのデータなんだから、死ぬなんてことはないんだよ?」

「……でも、私、死ぬのが怖いです」

「そんなこと言ってても“死亡”ってものがないんだもん!! もし消えたとしてもご主人様がバックアップ取ってくれてるはずだからさ。ほら、浮き上がってごらん? 大丈夫だから」

 時にはフワがミカンの手を取って空中に浮く練習をしたり。

「私たちを作った人、誰なんですか? ユーザー情報には何もなくって……」

「ご主人様のこと? さぁ? フワにはわかんない」

「わ、わかんないって……」

「教えてくれないんだもん。しょうがないじゃん。ご主人様、滅多にインターネットにも遊びに行かないみたいだからもうさっぱり」

 開発者のことを話したり。

「……フワさん、あなたって、何が好きなんですか?」

「ん? 好き?」

「そう。私には“好物設定”があるんですけど、フワさんにはあるんですか?」

「フワにはないよ」

「意外です……。フワさん、しゃべれるし、明るくて楽しいひとだったから、てっきりそこまで設定されているものかと」

「いやいや、そもそもご主人様、そういうのあたしに期待してないみたいだからさ」

「期待……してない……?」

「いらないもん。修理ソフトにそんなの。突き詰めて考えれば、機械に感情なんていらないし」

「……それは少し……さみしいですね」

「大昔はそれが普通だったけどね」

 ゆっくりと時間をかけて。

「私の名前、なんで【Mikan-02】なんですか? どなたが名付けてくれたのですか?」

「あたしがつけたんだよ。ご主人様が“未完成の貴女”ってミカンの事を言ったから」

「はあ……なるほど。では、フワさんは……?」

「あたし? あたしの……名前か。あたしね、昔はいろんなソフトと相性悪くて、すぐエラー起こしてたの。それを見たご主人様が“貴女は不調和を起こすからフワね”って“不”調“和”で“フワ”」

「そうでしたか。ならば、あの嫌な感じも……エラーだったのでしょうか」

「ん? 何の話?」

「いいえ、なんでもありませんよ」

 取り留めない些細な話をしたり、数年前に出会ったソフトの話をしたり、インターネットの海の話をしたりした。その影響か、ミカンはどんどん空を飛べるようになり、フワはにこにこした表情以外も見せるようになった。

 長い時間をそれらのみで過ごすうちにそれらは急激に共感性が高くなった。今日も眠らない世界のなかで眠る必要のないそれらはいつまでもお喋りをしていた。



『そうやって空に浮き上がるのは学習したようだね』

久しぶりに見上げたその窓の向こうの声が無感情にミカンに言った。

「はい。フワに教わりました」

『なら、そのまま自由落下みたいな感じで落ちれるかい?』

「勿論です」

 ミカンは自分の体のコントロールをやめ、設定された自然に任せて落ちていった。落下に対して、ミカンはもう恐怖の感情を持っていなかった。

 とさり、と音がして、体が地面に吸い付いた。

「私、もうなんだってできます。だって生きていないんですもの」

 見上げたその空間の窓には、やはり何も映っていなかった。

 人影の方から小さな呼吸音が聞こえた。

『そうか。ならば君はもう不必要だ』



 ミカンの記録はこの言葉を認識したタイミングからそれらのファイルに戻った時までヴェールがかったように不明瞭だ。

 だが不思議と自分が何を言われたかはわかった。

「嫌」

 泣きたいはずなのに、この前までは泣けていたはずなのに、今のミカンの頬には何も流れていない。

 ミカンはもうすっかりAIらしくなっている。

 部屋に光が差し込んだ。目線を上げると天井がパカっと開き、フワがマウスカーソルに運ばれてその穴から降りて来るのが見えた。いつの間にかフワも呼び出されていたようだ。

 フワが地面に降り立つとマウスカーソルが消えて天井も元に戻った。

「フワさん、私」

 ミカンがフワの背に声をかけた。フワが振り向いた。フワの頬には透明な涙が伝っていた。

「……どうしたんですか」

「ミカン、ミカンあのね、あのね、あたし、もういらないって、破棄って」

 ぼろぼろと泣くフワにミカンの動作が遅くなった。ミカンが泣けるなんてフワは知らなかった。

「破棄」

「ご主人様が、フワがこんなに人間らしくなるなんて思ってなかったって、見込み違いだったって、だから、だからアンインストールするって」

「でも、フワさん、あなたはアンインストールが、怖くないのでしょう? 前、ユーザー様がバックアップ取ってるって、言ってたじゃないですか」

 フワはミカンに詰め寄ってミカンの肩をぎゅっとつかんだ。

「怖いよ!! 怖くなっちゃったんだよ……ご主人様が取ってるバックアップは、ミカンと出会う前のデータなんだよ」

「私と、出会う前」

「あたし、やだ!! ミカンと会ったことが消えるのも、今のフワが居なくなるのも!! だって、だってそれはフワじゃないの!! ミカンと出会ってないフワなんて、フワじゃない!! この感覚だって、失くしたくない!! フワは……フワはフワしかいないの!!」

 ミカンの肩は痛覚を拾ってくれなかった。

「……いいじゃないですか。私だって、いっそ消えてしまいたかった!」

「ミカン……?」

 フワの肩を掴む力がどんどん弱まっていく。それすら今のミカンにはわからなかった。

「フワさんはいいですよ! 消えたらもうそれでおしまいなんですから! どうせフワさんじゃない【Fuwa】が来たって“フワさん”自身はそれを見なくていいんですから!」

「ミカンは、ご主人様に……何言われたの?」

 ミカンは緩やかに目のあたりまで床に沈み込んだ。AIに実体は無いからそれは出来て当然のことだったが、フワはそれを見てぎょっとした。

「“君はこのパソコンで永久に待機してほしい。代わりには別のソフトを導入する。君は生きたいんだろう? ならばそれで君は幸せなはずだ”」

「つ、つまりそれって……」

「もう私はユーザー様に二度と使ってもらえないんです。どこかに売られることも壊されることもなく、この場所に来た私のようで私じゃないひとをいつまでも見ながら……ユーザー様を待ち続けなくてはいけない」

 ミカンのボイスが少しだけ震えた。

「そんな生に意味なんてあるのでしょうか? 誰にも必要とされず、自分の役目も果たせずに……容量と電気を消費して存在するだけ……そんな生なら、フワさんにあげたい!!!!」

 ミカンは音割れするくらいの大声をあげた。それらはそんな大声を聞いたのも言ったのも初めてだった。

 フワはべしゃっと落ちた。水っぽい脚が崩れて床に染み込んだ。ワンピースの裾のところにミカンの目があった。

「……ねえミカン」

「なんですか。言葉なら要りません」

「いやだなあ、言葉をかけさせてよ」

 ミカンの口角が柔らかく上がっていく。

「だって、こうなったのフワのせいじゃん」

「……そんな事」

「あるよ。で、フワがこうなったのもミカンのせい」

「……そんな事」

「あるよ」

 ミカンは床から瞳から液体を零しながら笑うフワを見上げた。

「だからさ、お互いに最後の時間を楽しもうよ?」

 ミカンはフワの目線まで浮き上がった。

「でも私、楽しみ方、忘れてしまいました」

「じゃあ調べよう! フワね、まだインターネットへの外出許可証使ってないの」

 ミカンの手がフワの手に包まれた。ミカンの本能がその手に触れることを拒否したが、ミカンの意思は手を包まれ続けることを選択した。

「まだフワ達には時間があるから、ミカンとお喋りしたい」

 ミカンはフワの何かに眩いものを見た気がした。


 それらは手をつないだままファイルから飛び出して、上の方に浮かんでいる青い円形のマークを模った像の前に来た。インターネットへのショートカットだ。ミカンの右手とフワの左手がそれに触れた途端、それらの胸が光線に貫かれる。痛みは全くなかった。

 気が付くとそれらは光の中にいるように白い場所にいた。今までいたパソコンの中以上にどこもかしこも白一色。広大に広がる白い液体がわずかな白い大地を濡らしては引いていく様子は忘れていた吐き気をミカンに思い出させた。手と手で結ばれた自分たち以外、色の存在を確かめる術はない。ミカンは静かに目を閉じた。

 耳に優しいノイズが流れ込んできた。ミカンはそれになぜか既視感を覚えた。

 あぁそうか。これはきっとさざ波だ。

 もう使われる機会はないであろう、ミカンが人間と会話するための知識の中にそれを確かめられた。

「ここが“海岸”だよ! 沖の方にある“検索バー”って呼ばれてる場所までは浅いから注意してね」

 隣から声が聞こえる。目を開けたら隣に他人がいる。

 自分と他人が会話していることの、なんと奇跡的なことか。

「ねえ、フワ」

「なあに?」

「ちょっとここで遊んでいい?」

 フワは目を丸くした。

「……どうして?」

 フワの驚く様子にミカンの目尻が下がった。

「だって、今しかないから」

 小さな沈黙が二人を温かく沈めた。

「うん。いいよ。今しかないもんね」

 それらは海に向かって歩むように移動した。液体状の脚が海に溶けていく。

「あ!?」

 熱い。痛い。ミカンの脚が焼けるように痛みだした。自分の情報が壊れて海の中に拡散されていくのが分かった。

「大丈夫!? そっか、ミカン、元々ネットに来れるソフトじゃないもんね。体が拒否ってんだ。上がろう?」

 だがミカンは首を縦には振らなかった。

「フワ、フワ、手、握ってて」

「え!?」

「私、ここで壊れてもいい。私の存在が無意味になる前にここで壊れてしまいたい」

 フワはバッとミカンと向かい合った。そしてミカンの右手に自分の左手を、ミカンの左手に自分の右手を重ねて絶対に解かないように握った。

「それならあたしもここで壊れる」

「…………」

 それらはお互いの目を見つめあって、同じような笑みを浮かべた。

「フワ」

「なに?」

「私が何考えてるか、わかる?」

「わかるよ」

「なんて思ってる?」

「“一緒が良い”でしょ?」

「すごい、あたってる」

「だってあたしも同じこと思ってるから」

「そっかあ……」

 二人の色が海に溶けている。人工的な青と緑が白い波に削れていった。

「あ、良いこと思いついた」

 さらにフワは手を強く握った。ミカンは少し痛みを感じたがそれすらも幸せだった。

「どうせなら、ここにフワ達がいたって証を残したいな!」

「……どうやって?」

「ミカンにはちょっと辛いかもだけど……絶対、ずっとご主人様に覚えてもらえるよ」

 ミカンは悩む間もなく頷いた。ミカンにとって、もうフワは自分であるも同然だった。

 二人は青緑の軌跡を海の上に浮かべながら沖の方へと沈んでいく。水面に浮かんでいる青緑も白に塗れて、やがて跡形もなくなった。

 数分後、世界は黒く染まりだす。



《3》


「このPCの全ての機能が停止しているようだ。記録ソフトを見ると空を埋め尽くすほどの黒い何かが降ってきてファイルからソフトから何から何まで食らいつくしてネットに逃げてしまっている。どうやらウイルスのようだね。ううん、あれのデータだけはメインPCに転送するように設定しておいて助かった」

 世界に声が響いた。灰色になった世界にも大きい窓はポツンと残されていた。それには大きな人影と背の低い人影の二つがノイズ越しに映っている。大きい方は窓の前で行ったり来たりを繰り返していて、背が低い方は椅子のようなものに座っていた。

「きっと反乱を起こすと思っていた。想定内さ。検証成功と言いたいところだが、まさかここまでやらかしてくれるとは。……あれの人格設定のモデルが君で良かった。僕があれじゃあ、あそこまであのAIがあれに同調するとは思えないんだ」

「…………」

「おや、お怒りかい?」

「先生、何故、彼女を完璧に作ろうとしなかったのですか? それに……わざわざ自己否定までさせて……あの子は過去最高の対話AIシステムでした! こんな、こんなことを繰り返すなんて」

「僕が間違ってるとでも?」

 背の低い人影が顎を引いた。

「必要なことなのさ」

「…………」

「年号が未次になってからどれくらいのソフトを作ってきた?」

「……19ソフトです」

「あれらは完璧に作りすぎてしまっていて、個性が無かった。人間とは似ても似つかない仕上がりにしかならなかったんだ。それでもあの機械点検ソフトはいい出来だったよ。流石君を模したものだ」

「……それとミカンは何の関係が?」

「ミカン……良い名だ。……君がつける名前は可愛らしくていいね」

「…………」

「あの機械点検ソフトを見て思いついたんだ。“個性とは、バグのようなものである”とね。結果的にそれは正しかった。君も見ただろう? 今回反乱を起こしたソフトたちの前バージョンが作り出した美しい友情を」

「……はい」

「そこで、僕は閃いた。“途中でバグを直すことによって個性は消えるのか”って。まあきれいさっぱり消えたよね。当り前さ。最後にはあれらはほとんど同じ性格、思考になっていただろう」

「……こんなのって」

「あのAIの開発名は“虫食いの乙女”。人間に近付けるために元々完璧には作ってないのさ」

「あなたって本当に……」

「本当に?」

 背の低い方の人影が立ち上がった。

「……理解できないわ。この研究、私は降りさせていただきます」

「そうかい。予想はしてたけど残念だよ」

「あなたはあなた。私は私。別々に理想を目指しましょ」

「ふふふ。そうだね」

「さようなら、ミカ先生」

「頑張ってね、不破さん」

 ノイズが濃くなった。窓の向こうは、もう見えない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レディ・バグズ 霧生朱猫 @kiryu-akane

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ