ドーナツ・ホール

甘柚

ドーナツ・ホール



 アトリエ、といっても物置をそうしているだけの粗末な小部屋から、時折くしゃみが聞こえる。ついさっき、パーカー取ってください、と申し訳なさそうに言ってきた声はいつものよりもずっと低くがさがさに枯れているようだった。

「先生、お願いですから休んでください」

 パーカーを渡しながらそうは言ったけれど、私は描き続けなければならない理由を知っている。

「あと少しだから、締め切りなんだし迷惑をかけるのは申し訳ない、から……」

 はっくしょん、と大きいくしゃみをして、先生はちらっとこっちを見て気まずそうに肩をすくめた。箱ティッシュと一緒に人肌程度に冷ましたゆず茶を持っていくと、先生は無理やり口角を上げたような弱々しい笑顔で、ありがとう、と言った。


 数日の締め切り前の手続きや看病で、私の部屋の白いキャンバスは隅に置かれて綺麗なまま……と、言い訳にしていることを自覚している。私はずっと、歯にくっついたキャラメルみたいに、描けない自分を飲み込めていない。

 たくさんの反対の声を押し切って芸術大学に進んだものの、特に芽が出るわけでも伸びるわけでもなく就活の時期になった。絵以外なにも取り柄のなかった私は自己アピールが下手くそで、何社受けても丁重に今後をお祈りされるだけ。ついには新しいアルバイトさえ不採用になるほど落ちこぼれていた。そんなときに見つけたのは、木目の塀に貼られた、ラミネートされた簡易的な手書きのポスターだった。

「画家のアシスタント募集。難しいことはないけれど、絵が描ける人ならとてもいいですし甘いもの好きなら僕が嬉しいです。時給は最低でも深夜のコンビニくらいで要相談。」

 優しい字体と、ポスター背景の暖かい色遣い、何一つ具体的なことが書かれていないのに惹かれる募集要項。あの時期はずっとスーツで過ごしていたから、それを見て即座にその家のインターホンを押した。

 ガチャ、と開いたドアから、眠たそうな目をこすりながら細身の男性が出てきた。

「いやぁごめんね、今まで寝ててさ……お昼回ってたんだね、君ごはん食べた?」

「あ、えと、おやすみのところすみませんでした。お昼はまだです」

「そうなの? じゃあなんか用意するから待っててね。うん、上がって、こっちこっち」

 え?と思う間もなく、冷蔵庫から作り置きのおかずがあれよあれよと出てきて、電子レンジのターンテーブルが回る音が聞こえる。後頭部の寝癖が自由気ままに跳ねて、灰色のスウェットパーカーに黒いジャージのズボン、スリッパは紺色。こすったときに付いたのだろう、額や頬には緑の絵の具。だが手の爪や指先は綺麗で、清潔感があった。

「男の一人暮らしだとさ、心配されちゃって。これ僕の母が作ったおかずだから、大丈夫なはず。あ、昨日送られてきたやつだから傷んでないよ!」

 戸惑う私に安心させるように畳み掛けてくれるものの、私の頭の中はクエスチョンマークで一杯だった。状況を整理しきれなくなった私の脳は、とりあえず腹は減ってるのでいただこう、という結論を出した。ご飯をいただいた後に本題に入ったのだがなぜかケーキが出てきて、デザートを食べながら面接をした。芸大に在学中、今日は就活の途中でポスターを見た、その二つほど話すと、画家はにこにこ笑って、「採用!」と言った。頬についた絵の具がハート型に見えた。


 そうしてアルバイトとして不思議な形で雇われてから5年経って、私は住み込みアシスタントとして正式に雇われた。先生は筆が遅いものの、描けば必ず高値で売れるので、周りから筆を早めるためにも誰か雇えとずっと言われてきていたらしい。正式に雇われたといっても、仕事は色を作るとか、足りなくなったものの買い足し、片付けとかいう簡単なものなので、全く苦じゃない。もっと何か仕事することないですか、と言っても、じゃあ喋り相手になってくれる?と笑顔で返されるだけだった。


 無事遅れることなく取引先に絵を渡すと、先生はほっとしたようにいきなりその日から高熱を出した。家族ではないので病院に連れて行くことはできず、先生も歩くことすらしんどそうな状態だった。

「昔からさぁ、ここぞ!っていうのが終わったらこうなっちゃうんだよねぇ」

 だから心配しないで、という意味なのだろう。実際この5年間でも、何度かこういうことはあったし、住み込みでというのは周りから「見ている人がいないとお前熱出してそのまま死にそう」と言われたらしい。

「なにか食べたいものあったら買ってきますよ」

 ポカリと、ゼリー……いや先生ならプリンか?と考えていると、

「ドーナツたべたい」

「えっ?」

「オールドファッションみたいなやつがいいなー、コンビニでも売ってるやつ」

「…………了解です」

 甘党もここまでくると天晴れである。買って帰ると、先生は弱々しかった笑顔とは打って変わって子どものようにキラキラした目でドーナツを食べてしまった。はっくしょん、と大きなくしゃみをして、明日は病院に行ってくる、と口元を押さえたまま恥ずかしそうにこちらを見た。


 自室に帰って私は、ドーナツと子どもの絵を鉛筆で描いた。キャンバスはまだ、──あと少しだけ、白いままである。



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ドーナツ・ホール 甘柚 @HinaArare

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