第3話
窓を閉めようと手を伸ばした時、窓から強い風が押し寄せてきた。
あ、そうか。
今日の夜半から台風が来るのだった。
外の様子が気になって、少し身を乗り出してみたのがまずかった。先ほどよりも強い風が吹き込んできて、緩く握っていた手袋を私から取り上げた。
あっと声を上げて、窓から暗い夜に飛び出した手袋に手を伸ばす。風はぐるぐると舞っていて、手袋は遠くに飛ばされず、そこにある。だけど、後少し、届かない。焦って身を乗り出して更に手を伸ばす。と、その瞬間、ぐらりと身体のバランスが崩れた。
窓から身を乗り出しすぎたのだ。慌てて窓枠を掴もうとしたが手が滑った。
落下を覚悟して、絶望的な悲鳴を上げた時、落ちる寸前で後ろから私の身体を支えてくれた人がいた。肩を掴まれ、乱暴に部屋に引き戻された。
「お前、何やってんだよ!」
床にへたり込む私の顔を覗き込んだのは仁志だった。彼は珍しく怖い顔をして私に言った。
「お前、飛び降りようとしたのかよ?」
「……え? 飛び降りるって」
「馬鹿なことするなよ!」
「ちょ、ちょっと待って。仁志、何でここにいるの? あなたは出て行ったはず……」
「合鍵」
ぼそりと彼は言った。
「持ってたから、中に入れた」
「ああ……返しに来たのね」
「というか……話しをしに。ああ、それより飛び降りようとするなんて。ここは五階だぞ? 何考えてんだ」
仁志は大きく息をついて、私の傍に座った。
「何も死のうと思わなくても……」
「え? 死ぬ?」
「俺が出て行ったから思い詰めたのか?」
そして仁志はいきなり私を抱きしめた。
「ごめんな」
私の耳元で仁志は囁くように言う。
「俺、お前と一緒にいてはだめだと思って、出て行くことを決めたんだ。あのな、実は俺、就職、決まったんだよ。小さな会社で……お前にいつも偉そうなこと言ってるのに恥ずかしいけど」
「……働いているの?」
「うん。給料、安いんだけど。……でも、その会社は実力主義で頑張れば上に行ける。独立だって夢じゃないんだ。俺、落ち着いたらお前のところに戻ろうと思っていたんだ……」
「え? 別れるつもりはなかったってこと?」
「うん……」
「何でそうならそうと言わないの!」
私は仁志の胸を両手で押し返すと怒鳴った。
「何で黙って出て行くのよ!」
「だから、今、説明しようと合鍵を口実にしてここに戻ってきたんだよ」
仁志は恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「……ここを出て行った時はまだ何も決めてなかった。このままじゃだめだと衝動的に思って、いても立ってもいられなくなって、とにかくお前から離れた方が良いと思って、荷物をまとめてここを出たんだよ。だから、自分でもどうするか決めてないことをお前に説明できないだろ?」
「はあ? ただ、衝動的に出て行っただけ? まるで思春期の子供の家出じゃないの。……で、今まで、どこにいたの?」
「親に頭を下げて、一旦、実家に戻った。それからいろいろ考えて、プライドを捨てて就職活動を始めた。大手以外の企業も受けて、やっと採用が決まって……状況が落ち着いたから、こうしてお前に説明に来たんだ。それで、お前に拒否されたらその時は潔く身を引こうって」
「何よ、それ」
ぐったりと項垂れる私に、優しく仁志は言った。
「ごめん。だから、自殺なんて考えるな」
「自殺?」
「え? だって今、窓から飛び降りようとしてただろ、お前」
窓から……あ!
私は慌てて立ち上がると、窓に寄って身を乗り出した。窓の外。夜の闇の中に強い風に巻かれながら白い手袋はまだそこにいてくれた。手袋一対が仲良くふらふらと舞っている。もうこちらから手の届く距離にそれはいない。諦めて見ているしかなかった。
すると、突然、その白い手袋はまるで意志あるもののように、風に逆らってふわりと動き、手の平をこちらに見せて左右にゆっくりと開いた。
『種も仕掛けもありません』
まるで、こちらにそう語りかけるように。
「おい、どうしたんだよ?」
後ろから心配そうに仁志が言った。私は彼の腕に掴りながら、ついに風にもみくちゃにされて、遠く夜空に吸い込まれていく白い手袋をただ見ていた。
こうして、私の青いことりはいなくなった。
後ろから仁志が私をしっかりと抱きしめてくる。そして甘えるように私の名前を何度も呼んだ。そんな仁志の声にひたりながらも、私は手品師の言葉を思い出していた。
『さいわいが逃げてしまったら、わざわいが現れます。逆にさいわいが現れたら、わざわいは逃げだしてしまうものです』
さいわいとかわざわいとか私には判らない。
自分にとって、どれがさいわいでわざわいなのか?
仁志は私にとってどっちなのか?
私は幼い子供にそうするように、仁志の髪を優しく撫で続けていた。
おわり
さいわいなことり 夏村響 @nh3987y6
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