第2話

「きれい」

 呟くと、手品師は笑って言った。

「欲しいですか?」

 私は素直に頷いた。

 欲しい。

「では、差し上げましょう、このさいわいなことりを」

「さいわいなことり?」

「ええ。けれど、ひとつご用心」

 彼は不意に声を落とした。

「あなたはこのことりだけを可愛がり、でなくてはなりません。飽きてしまったり、他のものに心を移せば、このことりはさいわいと共にどこかへ逃げてしまいます。よろしいですか?」

 仁志のことが頭をよぎった。

 けれど、どうしても私はこのことりが欲しかった。

「判ったわ。それで、このことり、おいくらなの?」

 にやりと手品師は笑って、そって私の耳元に唇を寄せて囁いた。彼の言う値段は決して安くはなかったが、払えない額でもなかった。私は承諾した。


 手品師は懐から一対の新しい白い手袋を取り出した。

「これが、あなたの『さいわいなことり』です。この手袋をつければことりは現れます。初めのうちは部屋の中だけで手袋をつけてください。ことりが逃げないように扉も窓もきちんと閉めてください。ことりが慣れてすっかりあなたのものになれば、私が先ほどやってみせたように外でことりを出しても決して逃げたりしません。それまではくれぐれも気を付けて。

 さいわいが逃げてしまったら、わざわいが現れます。逆にさいわいが現れたら、わざわいは逃げだしてしまうものです」

 さいわいとかわざわいとか、実のところ、私にはよく判らなかった。この怪しげな手品師に騙されているのかもしれない。けれどそれもどうでもよかった。

 ただ私は、あの青く美しいことりが欲しかっただけだ。



 部屋に戻って、私は呆然とした。

 仁志がいない。そして、仁志の荷物もすべて無くなっていた。

 私の男は……わざわいは逃げてしまった、ということなのか。

 一通のメールがスマホに届いた。

『お前と一緒にいたら俺はずっとだめなままだ』

 なるほど。

 と、私は得心する。

 随分前に、仁志の母親にも同じことを言われた。

『部屋の合鍵はまだ持っている。落ち着いたらそっちに行くから』

 つまり、鍵を返しに来るってことか。

 わざわざ返しに来なくても、送ってくれたらいいのに。

 妙なところで仁志は律儀で、つい私は笑ってしまった。



 それから、私と青いことりとの生活が始まった。

 初めはなかなか上手くいかなかったけれど、何度も手袋をつけるうちに、ことりはすぐに姿を現すようになった。玉虫色の光沢のある美しい青い羽根をそろそろと動かして、黒いつぶらな瞳で私をみつめるのだ。そして、ぴろろろと可愛い声で鳴いた。

 私の手袋をした手の平の中にじっとしていたことりも、しばらくすると状況に慣れたのか、手の平から飛び出して部屋の中を自由に飛び回るようになった。

「ことり」

 と、私が呼ぶと、少し戸惑うようなそぶりを見せながらも私の手の中に戻ってきた。

 もうこの子は私のものだ。

 私のことり。

 私のさいわい。


 少しずつ、生活も安定してきた。

 私がぎすぎすしていたせいで、こじれていた職場の人間関係も、私の心に余裕が出来て人あたりが良くなったせいか、気が付くと円滑になっていた。それに伴い仕事も順調に回るようになった。

 そして減るばかりだった貯金もちゃんと蓄えられるようになり、自分へのご褒美として少しばかりの贅沢も出来るようになった。仁志にばかりお金を使っていた過去の自分が嘘のようだ。

「最近、きれいになったね」と言われることも増えてきて、私は笑顔でいることが多くなった。


 その日の夜も仕事から戻ると、私はいつものようにことりを出そうと、白い手袋を手に取った。

 気が付くと窓が開いていた。帰ってきてから部屋の空気を入れ替えるため、少しの間、開けておいたのだ。

「あぶない、あぶない」

 ことりは既に私に慣れている。けれど、まだ窓を開けたまま、ことりを出す勇気は私にはなかった。

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