カフェ・タイム 下

 私のコーヒーを淹れたあと、栗山くんは自分のための豆を挽きはじめた。

 店のものとも、私に出してくれたカフェ・オレとも違う、彼自身が一番好んでいるコーヒー。

 コーヒーの香りを味わいながら、私は未来の彼を想像した。

 木の質感があるお店で、コーヒー好きな客とおだやかに談笑しつつ、ネルドリップ(*)で、最高の一杯を淹れる彼。(*)最も美味しいコーヒーの抽出方法

 最近の私の夢は、そんな栗山くんの夢のお店で、初めてのお客としてコーヒーを淹れてもらうこと。

 あつかましい夢だろうか?

「あ、いらっしゃいませ」

 栗山くんの声が、私を現実にひきもどした。

 ふりかえると、近所の本屋の店員だった。

 はじめて来てくれたのは三ヶ月前だったろうか。

 それから、毎週土曜日、休憩時間にきてくれる。

 いつも黙ってコーヒーを飲み、本を読んで、帰っていく。しずかな人だ。

 本屋さんは、私があわててあけたカウンター席についた。

「いらっしゃいませ」

「ホット」

「はい、かしこまりました」

 いつもの席で、いつもの注文。

 私は目で栗山くんにオーダーを通した。

 土曜日は、お昼をすぎるとコーヒーのつくりおきをしない。

 注文を聞いてから豆を挽いて、淹れる。

 つくりおきをしても、むしろ他の注文ばかりで無駄にすることが多かったのだ。

 私はホールに立って、栗山くんに注目した。

 彼の、コーヒーを淹れるしぐさが好きだった。

 けれど。

「お待たせしました」

 栗山くんは、たったいま淹れたばかりの、自分用のコーヒーをそのままカウンターに置いた。

 本屋さんも、おどろいたようだ。

 いつも豆を挽くところから待っているから。

「どうぞ」

 栗山くんはそんな短い言葉だけを口にして、いたずらっぽく笑う。

 本屋さんは、困ったように頭のうしろをぽりぽりと掻いて、それからコーヒーをひとくち飲んだ。

「………おいしい」

 本屋さんから、そんなつぶやきがこぼれた。

 私は思わず頬がゆるむのを意識した。

 本屋さんは、土曜の午後、栗山くんが一杯一杯丁寧にいれるコーヒーのファンだったのだ。

 栗山くんを見ると、彼も全開の笑顔だった。

「いつものも好きですが、これはまた格別ですね」

「そうですね、本当は四百円で出せるコーヒーじゃないです。今日のは…僕の自腹です」

 本屋さんは、声をたてて笑った。

 私も、気がついたら一緒になって笑っていた。


         *


 六時になると、喫茶・立花は閉店する。

 お酒を出す小料理屋ならまだしも、ベッドタウンで夜に喫茶店を営業しても、はやらない。

 これは、両親の教訓だ。

「今日はもう閉めようか」

 閉店まであと十五分あったが、私は言った。

 そのとき店の外から、ザーッという音がひびいてきた。

「そういえば、こんな雨の日でしたね」

「え?」

「通り雨をさけるために、喫茶店に入ったんです。まだ二十代の店主さんは、ぱりっとしたシャツをきて、とてもてきぱきと働いてました。でも彼女はとてもいらいらしていて、店は客がおちついて休憩していける雰囲気ではなかった。もちろん、コーヒーの味は最悪。おまけに観察をしていたら」

 私は、ああ、と笑みをこぼした。


         *


『いま、なにしました?』

 カウンターに座っていた客に、突然声をかけられて、私はぎょっと手をとめた。

 声の主は、まだあどけなさの残る二十代前半の青年だった。

 彼はどうやら怒っているらしい。

 けれど彼のオーダーはすでに完了していたし、私も喫茶店の店員としておかしな行為はしていない。

『なんのことでしょうか?』

『いま、あなたがいれたアメリカンです。あなた、店主さんですよね?』

『ええ、まあ』

『おばあちゃんが昔からやってる喫茶店ならともかく、その若さでお店をはじめた方が、できあがったコーヒーをお湯で薄めてアメリカンですなんて、どうしてそんなデタラメなことができるんですか?』

 彼の言わんとすることがまったく理解できず、私は首をかしげた。

 彼はそれを不真面目と受け取ったのか、ますます険しい顔つきになった。

『あなたね、いったい、なにがやりたくて喫茶店をはじめたんですか?』

『なにがって……』

『奈央子ちゃん、時間よ。あとのことは私に任せて、いってらっしゃい』

 パートのおばさんが私たちの間に入った。

 時計をみると、母の病院にいく時間だった。

『あっ! ──佐藤さん、あとよろしくお願いします!』

 私はクレーム客のことをすっかり忘れ、店を飛び出した。


 その日、私がもどったのは、喫茶店の閉店時間を大きくまわった、午後八時だった。

 通り雨もやみ、ぬれた傘をぷらぷらともてあましながら私が帰りつくと、照明の消えた暗い店先に、人が立っていた。

 クレームの彼だ! 怒られることを覚悟した私に、彼はいきおいよく頭をさげた。

『昼間はすみませんでした! なんの事情もしらずに、勝手な思い込みで責めたててしまって……本当にすみませんでした!』

『えっ? あ、あの?』

 私のとまどいに気づいたのか、彼は顔をあげ、説明をはじめた。

『あなたのことを企業家だと思ったんです。こんな…ええと、昔なじみの喫茶店をやるような方にはとても見えなかったので。それで、そういう人なら、イマドキのスタイルで、もっとこだわりをもってやるべきじゃないかと、そう思って。あのあと、おばさ…佐藤さんに叱られました』

『ああ、そういうこと』

 そこでようやく私は理解した。

 そして、あらためて自分の服装をふりかえった。

 襟たてシャツに、グレーのパンツに、黒のハイヒール。

 お店では、この上に喫茶・立花の制服である赤いエプロンをつけていた。

『たしかに、こんな喫茶店には似合わない格好ね。いままで仕事っていったら、これだったから』

『いえ、本当にすみません。僕のいったことは全部忘れてください』

 彼はそう言って、再度頭をさげた。

 私は、ふと思いついて、言った。

『ひとつ、聞いてもいいですか?』

『はい、なんでしょう』

『アメリカンって、どうやって作るんですか?』


         *


 アメリカン用のコーヒー豆を使うか、それが無理ならせめてコーヒーメーカーにセットする粉の分量を少なめにして、最初から薄めに淹れる。

 それが彼──栗山くんの答えだった。

「あのときは本当、生意気いってすみませんでした」

「もういいって」

 私は笑って、手をひらひらとふる。

 店の外では、雨が地面をたたく音が厚みをましていた。

 鼓膜をうつ水音の心地よさに、ふと聞き入ってしまいたくなる。

 彼とふたり、こうしていられる心地よさに、ひたりきってしまいたくなる。

 そんなわけには、いかないのに。

 たとえ私が会社より店を選んだとしても、この毎日はつづかない。

 彼はいつか、ここを去っていく人だ。

 こんな、古いだけの喫茶店に埋もれていい人じゃない。

「栗山くんのほうはどんな感じ?」

 口にしてから、私は質問ミスに気付いた。

「って、パートさんが急に家の都合でやめちゃって、満足なお給料も出せないのに栗山くんに来てもらって、遠回りさせちゃってるよね」

「あ、いえ、ここで働くのは俺から申し出たことだし、俺のことはいいんです。それより───奈央子さんは会社にもどられるんですか?」

 彼が言った。

「うーん、どうかな」

 正直に答える。

 SEの仕事はやりがいがあった。

 私にとっては、自己表現の場でもあった。

 母のためと思いながら、母の行動をトレースするだけの日々にうんざりしていた時期があったのも事実。

 だけど、いまの私は、会社にもどりたいと即答できなかった。

「俺は…もどってほしくない…です」

 ぱちくり。

 と、私は目をしばたいた。

 たったいま、自分の耳がひろった言葉が信じられなかった。

 たぶん、すごくハトが豆でっぽうな顔をしていたと思う。

 栗山くんは、すこし身じろぎしたあと、私の目をまっすぐ見た。

「だからむしろ、俺はここで、奈央子さんと一緒にいたいなって」

 私は、完全にかたまった。

 どういう意味なのか聞き返したかったけれど、体も口も金縛りにあったみたいに動かなかった。

 からんからん。ドア鈴が鳴った。

 びっくりして入り口を見ると、スーツの肩を雨でぬらした男性がいた。

「あの…営業してますよね?」

「はい。いらっしゃいませ」

 私は、男性に笑顔をむけた。

 水をお盆にとる。

 スーツの男性は、ほっとしたようにテーブル席についた。

 テーブル席に向かいながら、私は栗山くんに視線を送った。

 ひとまず話は中断、と。

 彼も目でうなずいた。

「ホットコーヒーください」

「かしこまりました。───ホットお願いします!」

 私は声をはりあげた。

 と、またドアが開いた。

 突然の雨をさけて、お客さんがつづけてやってくる。

 ちらりと店の時計に目をやった。

 もうすぐ六時。

 今日は、閉店時間が遅くなりそうだ。

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カフェ・タイム 野々花 @nonoka2018

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