カフェ・タイム

野々花

カフェ・タイム 上

 こぽこぽと、コーヒーメーカーが音をたてて、ほのかな湯気を立ち上がらせている。

 きれいにみがきあげられたカウンターの上には、銀色のシュガーポットが十個ばかり。

 カウンターとテーブル席が八つの、ありふれた喫茶店だ。

 砂糖の補充を終えると、私はステップをふむようにリズムよく、シュガーポットを各テーブルにおいてまわった。

 これで準備完了。

 私はTシャツとジーンズの上につけた赤いエプロンの紐をきゅっとしめなおした。

 からん、からん。ドアがひらく。

「おはようございます、奈央子さん」

「おはよう、栗山くん」

「買ってきましたよ、豆」

 栗山くんは腕にかかえた大きな紙袋を私に示した。

 中身はコーヒー豆だ。

「ありがとう。すぐ店開けるから、準備して」

「はーい」

 栗山くんは紙袋をかかえたまま、店の奥へ姿を消した。

 私は店の外に出ると、『CLOSE』のプレートをひっくりかえした。

 月曜日の、朝八時。

 喫茶・立花の一週間がはじまる。 


「おはようさーん。今日もいい天気で、パチンコ日和だぁな」

 一番目のお客様は、野球帽がトレードマークのおじいちゃん。

 毎日ここでモーニングセットを食べ、隣のパチンコ屋にいく。

「松さん、いらっしゃい」

「いつものやつね」

 私が水と置くと同時に、松さんが言う。

 私は「はい」とうなずいて、カウンターの中の栗山くんに叫んだ。

「ホットモーニング!」

「もうトースト焼いてます!」

 栗山くんが笑いながらそう答え、私と松さんも顔を見合わせて、笑う。

 そうしているうちに、常連客がわらわらと入ってきた。

 みんなパチンコ屋で開店前に並ぶ人たちだ。

 だから九時半にもなると、朝のピークは通り過ぎる。

「いらっしゃいませ!」

 私は自然と笑顔になって、常連さんたちのところに水を置いてまわった。

 お店がお客さんでいっぱいになるのは、やっぱり活気がでるし楽しい。

「奈央子ちゃん、今日の笑顔もいいねえ! 調子でるワ」

「やっさん、そう言って、昨日もすってたじゃねえか」

「うるせえ、タケ。いいんだよ、俺の一日は奈央子ちゃんの笑顔ではじまんだからよ」

 私はとりあえず、笑って流しておく。

 二十八歳の喫茶店従業員の対応としては、まあ、これでいいんじゃないかと。

 康さんたちのモーニングセットができあがったとき、店の奥から母が姿をみせた。

「お母さん、ちょうどよかった。これ、康さんのテーブルね」

 母は心得顔で、お盆を手に取った。

 そのあとすぐに、

「俺の奈央子ちゃ……げ、ババアのほうかよ!」

 と、康さんのすっとんきょうな声があがったのは、いうまでもない。

「いつもご贔屓にありがとうございます。私でよければ、サービスさせていただきますよ」

「あ、いや、別におっかさんには……」

 私は母の小さな後ろ姿を見つめたあと、別テーブルのコーヒーをお盆にのせた。


 パチンコ客たちが姿を消すと、お店はとたんにがらんとする。

 お昼までだれもこない日も多い。

「奈央子さん、これみてください」

 呼びかけられてふりかえると、栗山くんがコーヒー豆の袋をかかげていた。

 装丁は白。

 店で使ってるのは赤だったはずだ。

 と、いうことは。

「昨日ショップで試飲させてもらったんです。で、あんまりうまかったから。今から淹れていいですか?」

 私は、破顔した。

 こういうときの栗山くんは、犬の耳としっぽをつけたくなるくらい、目がきらきらと輝いていて、かわいい。

 二十四歳の男性にこの表現は失礼だろうけど。

「じゃ、カフェ・オレにしてね」

「またそんな、邪道な」

「いいじゃない。ミルクのあわ立て、練習させてあげるわよ」

「奈央子さん、このミルククリーマーが俺の私物だって忘れてません?」

「せっかくあるんだから、使わないともったいないじゃない」

 一応説明しておくと、店のカフェ・オレはコーヒーに牛乳を足すだけのシロモノだ。

 こんな個人の、繁忙はげしい喫茶店で凝ったメニューはできない。

 それでも栗山くんが来てから、豆は毎日使う分だけ挽くことにしたし、買い付けて(煎って)から一週間程度で消費するようにした。

 豆のグレードも格段にアップした。

 今、喫茶・立花が出しているコーヒーは、自分の珈琲店をもつためにがんばっている栗山くんの最低ラインらしい。

 ただ栗山くんには悪いけど、常連客の反応は──「味変わったね」以上、終わり──だった。

 手ごたえは、まったくといっていいほど、なかった。

「はい、どうぞ」

 カウンターに、白くてふわふわのカフェ・オレがさしだされた。

「ありがと。──ん、おいしい!」

「そうでしょう? 俺もこれ、昨日飲んで、ミルクと相性よさそうだなと思って」

「なんだ、最初からカフェ・オレにしたかったんじゃない」

「だって奈央子さんが好きだから」

 私は思わずふきだしそうになった。

 一瞬、ほんの一瞬、バカだけど、彼が私のことを好きだと言ったように聞こえて。

「あ、そ、そうよね。栗山くんはいつもブラックだもんね。私にカフェ・オレ豆の意見を聞くのは正解だと思う」

 自分でもわけのわからないことを言っていると思いながらも言い切り、私はカフェ・オレを飲みほした。


         *


 土曜日の昼下がりは、親子連れが多い。

 ミックスジュースやパフェがふたつも三つも売れる。(平日はひとつも出ない日もある)

 栗山くんがパフェにかかりっきりになったので、私はミックスジュースにとりかかった。

 オレンジとバナナと牛乳をミキサーにかけて作る、本物のフレッシュジュースだ。

 ががががが…ミキサーが、店内の音という音をのみこんだ。

 お母さん方はしばし口をつぐみ、子供たちは気にせずはしゃいでいる。

 店内に静寂がもどったとき、からんからん、とドア鈴が鳴った。

「いらっしゃいませ……祐!」

「お久しぶり。元気そうね」

 私の元同僚の祐子が笑顔で手をふった。


 親子連れのお客さんにパフェとジュースを出したあと、カウンターに座った祐子に水とコーヒーを出した。

「みんなどうしてる? 元気?」

 カウンターごしに私は聞いた。

「相変わらずよ。奈央子のほうは? お母様のお加減、よくなった?」

「ええ、おかげさまで。退院して、毎日無理しない程度にお店の仕事やってるわ。いまは奥で休んでるの」

「そう、回復されてよかったわ。実はね、今日は課の代表としてきたの。奈央子、もどってこない?」

 祐子の申し出に、私はなぜか、すこし離れたところで黙々と皿を洗っている栗山くんを意識した。

「でもまだ母は本調子じゃないし。いま私が抜けるのは心配だわ」

「ここはアルバイトを増やせばなんとかなるんじゃない? お母様のことを思う気持ちも分かるけど、あなただって本当はSEの仕事がやりたいはずよ。だって、あんなに生き生きとやってたじゃない。あのやりがい、忘れたとは言わせないわ」

「忘れたなんて、そんな」

「ごめん、ちょっと意地悪だったわね。ま、今日のところは返事はいいから。また来るわ、ごちそうさま」


「珈琲のお時間にしませんか」

 客が引いて、店内に私と栗山くんのふたりだけになったとき、彼が言った。

 なんとなくほろ苦いものを胸に感じながら、私はうなずいた。

 カウンター席について、彼がコーヒーをいれてくれるのを待つ。

 栗山くんは、白いパッケージのコーヒー豆をとりだした。

 ミルでひとり分の豆を挽き、ドリップポットを火にかける。

 それらこだわりの品々は、見事に全部栗山くんの私物である。

「会社では、楽しくお仕事されてたんですね」

 ミルクを泡立てながら、栗山くんが言った。

「まあ、そうかな」

「会社を辞めるとき、どんな思いだったんですか?」

「どんな……そうねえ、どんな思いもなかったかな。母が早く元気になるにはこの店が必要だと思った、それだけ。母のことで頭がいっぱいで、ほかのことを考える余裕なんかなかったわ」

「そういえば、そうでしたね。はい、カフェ・オレどうぞ」

 栗山くんはワケしりな笑みをうかべながら、カップを私の前に置いた。

「ちょっと、そういえばってなに? なに思い出したの?」

「そんなたいしたアレじゃないですよ」

「アレってなによ、アレって!」

「奈央子さん、コーヒーはお早めに」

 私はむっとしたが、コーヒーをおいしいうちにいただく贅沢の誘惑に負け、カップに手をのばした。

「おいし」

 栗山くんが無邪気に笑った。

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