微熱に酔って得るものもあり

「だから、そうやってじぃ〜ってこっち見るなって」

「なんで?」


 一週間前、熱っぽくぼんやりしている洋太が肌にくしゃみを連発して最後にあーちきしょうめとオッサンのように呻きながら鼻をかむ一部始終をなんとなく眺めていると、熱以外の理由で顔を赤くした洋太がそう呟いたのだ。ちなみに洋太がくしゃみを連発して鼻をかむまでを凝視していたことに深い理由はない。強いていうなら猫や犬なんかがユーモラスな仕草を見せている時についつい見入ってしまうようなものに近い。


「つか、そんなに俺、気になる程お前のこと見てた?」

「ああ見てた。学校でも俺以外のやつ時々じーっと見てるぞ。──気ぃつけろ。誤解されっから」

「──誤解?」


 確かに俺には気になる対象を無意識に凝視する癖がある。授業中、内職をしているクラスメイトに気づいたりするとついじいっと見入っててしまうのだ。他意はない。ただ気になるから見てしまうだけだ。

 しかしさりげなく凝視するのが苦手で、本人に気がつかれて気まずい思いをさせたり、教壇の先生にわざわざ授業を聞いていない不届きな生徒の存在を教えるセンサーの役割を果たしてしまう時も度々でその都度改めようと決意する悪癖ではあった。


 ──しかし誤解ってなんだ?


 一週間前のそのとき理由がわからず、瞬きをしながら洋太のやつを見上げていた。そのとき既に熱っぽかった洋太は顔ごと視線を背けた。


「だからなあ、そうやってじいっと見んなって。お前、自分の目がでかくていい形だって覚えといた方がいいぞ? ぶっちゃけ女子でもここまで完璧な目してるヤツいねえぞ」


 二重でまつ毛長くて黒目がデカくて……と、その時微熱に浮かされていた洋太は俺の目の形をうわごとのように褒め称えた。それを聞かされる俺はどうにもムズムズする。

 自慢じゃないけれど目の形や大きさに関しては褒められることは確かに昔から多かった。ただこの目とゆったりした成長速度のせいで俺はいつまでたっても幼く見られがちだった。幼いならいい、たまに女の子と間違えられることもあったりしてコンプレックスの源でもあったりしたのだ。


 微熱のせいだったのかやや熱い洋太の手が俺の顔に触れ、頰のラインに沿って指を上から下に滑らせる。その流れで俺の顎を持ち上げる。


 ――あ、これ顎クイってヤツじゃないか、何やってんだコイツ?


 と思った瞬間、洋太の顔が近づいてきた。俺はそのまま思いつめた表情の洋太の顔が近づくままにする。もちろんじいっと見つめたままだ。


 ゴツ、とじんわり熱い洋太の額が俺の額とぶつかった。洋太の額はじんわり熱かった。


「洋太、おまえ熱出してるぞ? 風邪だろ?」

「……ああ、確かにそれっぽい」

「馬鹿も風邪ひくんだな」

「うっせえな。──つか、なんだよ。なんで目ぇつむらねんだよ?」

「この状況とお前の行動から判断して、目を瞑ったら取り返しのつかないことになるって判断した。――何やってんの、お前?」


 あの時本当は、心臓が口から出そうなくらい跳ねまくっていたのだけど、それが顔やら声やらに出ないように俺は全神経を集中させていた。

 こうやって呆れて、バカにしたような声を出していればきっと、洋太も変な気を起こさず引っ込めるだろう、というのが俺の戦略だった。なぜそんな無駄な策を練ったのか。答えは単純に「怖かった」の一言になる。


 だって、怖いだろう。誰だって。

 予想もしていないタイミングで、幼馴染と、親友と、そういう関係になってしまうのはやっぱりどうしても怖いの一言だ。


 その相手が、物心ついた時から一緒にいる洋太で、元々は冬場も半そでで駆け回るようなバカで、チビで女顔なのをネタに俺のことをいじってくるようなヤツがいるとかどこからともなくすっ飛んできて殴り返すような頼りになるやつで、中学に入るとなんか背が高くなって顔つきが精悍になってガラの悪い上級生から目をつけられて同学年の女子からは別の意味でひっそり目をつけられるようになって、でも中身は相変わらずザリガニ獲ったりしてたようなアホのままな洋太と、幼馴染で親友という枠からはみ出した関係になるのは怖かった。


 もっとつきつめれば、本当はそうなっても構わないと思っていたのをこの図体だけ育ったバカに見透かされていたんじゃないかと脅えていた。その点が怖かったのだ。

 目を閉じた瞬間どんっと突き放され、覚悟の決まった俺のことを思い切り笑う魂胆なんじゃないか。隙あらば悪戯をしかけてくるこのバカは……と疑っていた気持ちもあった。そんなことがあったら俺は生きていけない。


 だから俺は目を開けて、洋太の熱っぽい顔を至近距離でじいっと見上げていた。お前の見た目だけは日に日に引き締まって鋭くなってく顔なんて、別に格好いいともなんとも思ってねえしな、という思いをこめた真顔で見返していた。


 そういう顔で見ていれば洋太の気分も萎えて、顎から手を離すと思っていた。

 そうすればいい。そして今日も、特に面白くもつまらなくもなかった普通の一日として過ぎ去ればいい。そんな願いを込めて見上げていたのに、洋太もじいっとこっちを見下ろす。


「――」

「……なんだよ?」

「なんだよって、お前目ェ瞑らねえから」

「瞑らないし! いい加減手ぇ放せって。だいぶ恥ずかしいぞこの状況」


 そもそも根競べのようになってお互い凝視しあう状況になっていたから、開きっぱなしの眼球が乾燥して悲鳴を上げ始めていた。そのうち限界に達してしまい、素早く瞬きをする。

 それが良かったのか悪かったのか。目を閉じた瞬間に洋太が動く。素早く開こうとしてた瞼に何かがそっと触れる。息を伴う湿った何か。唇か舌かだと判断する。


 この状況で、真顔を保ってられるわけがなかった。

 とっさに後ろに下がって、まだ感触の残る目じりに手を振れる。心臓が跳ねまくって胸が破れそうに痛かった。

 そのせいで息が荒くなる俺をみて、微熱とそれ以外の理由でのぼせた顔になった洋太はこっちを見てやっぱり悪戯が成功した時特有の笑みを浮かべて笑ってみせたのだ。


「やっと目ェつぶりやがった。……それでいいんだよ、ったく。素直じゃねえよなお前は」

「……人の努力を無視しやがって……っ」

「努力? アホじゃねえ? 俺さっき言っただろうが、お前のその目でガン見されるとヤバいって。人を誤解させるって。――心臓にぐっとくるんだよ、お前にじっと見られると。マジで」


 だからその気にさせねえつもりでこっち見るのは逆効果なんだよ、と洋太はぶっきらぼうに付け足した。


 前半はこっちをからかっていた洋太が後半になるにつれて余裕をなくしていったのが嫌でもわかる。洋太の顔がちょっとむくれていたからだ。顔つきだけは精悍になったというのに、昔どおりの子どもっぽい仕草で。

 

 子どもっぽい洋太の態度と、心臓にぐっとくるという洋太の言葉。

 俺は一応バカではない。少なくとも目の前の洋太よりは悪くはない。だから目の前の、図体が大きくなって毛並みのつやつやした警察犬みたいにやたら格好良くなりやがった幼馴染の本当の気持ちを推しはかる。それが正解だと確信してから洋太ににじり寄る。

 

 もうお前のことなんて知らねえからな、という顔を作って見せている洋太の顎を今度はこっちが持ちあげて、えいやっと唇を重ねた。

 本音をいうとこの瞬間まで怖かった。両手でどんと突き飛ばされでもしたらどうしようと、心の奥底でびくびくしていた。だからそれを顔に出さないようにして、洋太の切れ長のするどい目に集中する。──全く洋太のやつはバカで始末に負えない。一分に満たない間でもただ黙って人のことをじっと見ている時には隙あらば喉笛に食らいつきそうな剣呑な雰囲気の漂うこの目だって、十分人の心臓を無駄に騒つかせるのに。


 唇を話して閉じた目を開けると、洋太は切れ長の目を見開いて俺を見返した。素直に驚いたらしい。


「――これでいいのか?」

 

 微熱以外の理由でぼうっと上気していた洋太の顔をにらんで俺は言った。感情の出し方が分からなくて怒ったような声になってしまう。洋太の微熱がうつったようにこっちの体も熱かった。この瞬間だって十分怖かった。冗談なのに本気にすんなよバカ、とか言われてもいいように気を張って身構えていた。

 でも背中に腕が回されて、そのまま抱きしめられて、俺は安堵して全身から力を抜いた。その時はまだ制服を着たままで、ワイシャツごしの着た熱っぽい胸に押し付けられる。無駄なところのない両腕に潰されそうな勢いで抱きすくめられてシャツから漂う洗剤の匂いと嗅ぎなれた体臭が混ざった匂いにこっちもくらくらしていると強引に顎を掴まれて、強引に上向かされる。


「いいに決まってんだろ。――結局素直になんなら早くしろよ、バカ」


 バカにバカと言われたが、切羽詰まった表情の洋太を独占するのはそんな些細なことなどどうでもよくなるくらい脳全体を酔わしめることで、だから今度は自主的に目を閉じた。

 熱っぽい唇は俺の唇に重ねられる。その感触につい、はあっと息を漏らした瞬間に唇を割って舌がねじ込まれる。


 おいおい初めてでそこまでやるなバカ! と目を開けて肩をバシバシ叩いたけれど、微熱でいつもより頭の箍がゆるんでいた洋太は聞き入れず、すっかり躾けのなっていない大型犬のような有様になって俺を抱きしめて口内を舐りつくす。

 その熱が感染したのか、というよりも洋太に口の中を荒らし回される感触が想像していたよりも悪いものではなかったせいか、いやもっと素直になるとここ最近夢に見ては自己嫌悪に陥ったような状況が実現した幸福に酔っ払ったのか、叩いていた肩を掴んでいた。


 

 洋太が春転症のウィルスに感染していたあの日は、俺にとってもそういう記念日だったわけだ。バカで格好いいい自慢の親友と両想いであると確認した日。こっぱずかしいが幸せな日。


 ――だったというのにそのインパクトを、親友が突然女になってしまった日(あとついでに異性の生おっぱいを見てしまった日)という今日のメモリアル具合を上回ってしまうとは、生きていると色々と予想だにしていないことがわかるものだ。ていうか、イベント盛りだくさんすぎだ。なんだこの人生。




「なあ、お前はどう思う?」

 

 古い鎖をきしませながら洋太はブランコをゆらした。


「どうって何が?」

「なんであのタイミングで俺がこうなったかってことだよ? これって偶々なのか? それとも意味あんのか? なあ、どう思う?」


 意味、などと、洋太は柄にもなく抽象的で難し気なことを言い出した。

 まあそうならざるを得ないのは分かる。どうして同性の幼馴染と両想いだって確認した直後に性別が変わってしまうのか。俺だって何か、運命とか大いなる存在の意志だとか、あるのかないのか分からないものについて考えたくなってしまう。

 ぎい、ぎい、とブランコをゆらしながら洋太は正面をむいたまま語りだす。


「俺なぁ、大人になったら普通にガキ作って父ちゃんになるんだろうなって思ってたんだよな。ガキ嫌いじゃねえし、ベタにキャッチボールやったりすんのかなあってさあ」

「……そんなこと考えてたんだ……」


 洋太の独白は俺の胸を少し痛ませた。俺は正直、自分がどういう生活をするどういう大人になっているのかおぼろげにすらイメージが出来ていなかった。中学に入ったとたん段々大人の男じみていくバカな幼馴染から目が離せなくなっていく意味と感情を把握するのに精いっぱいだったから、将来どころではなかった。

 

「でもさぁ、お前とはガキはどうしても作れねえじゃん。じゃあ、父ちゃんにはなれねえのかあって、ちょっと残念だったんだよな」

「……」

「でもこうなったら、普通にお前と普通にガキつくったり結婚したりできんのかー。そっかーって」

「……」

「俺も流石に体がこんなになってしばらくガッツリ凹んでたんだけどなあ、そう考えたらまあよかったかもなーって。こうやって何の問題もなくお前とずっと一緒にいられるんだなーって。そんじゃまあいいかもなって。ひょっとして本当に神様みたいなもんがいて、なんかしんねーけどサプライズでもしてくれたのかなーってさあ」

「…………」

「でもよぉ、そんなら普通女にするなら俺じゃなくてお前の方だよな、どう考えたって。なんでこっちを女にすんだよって、神様ってのは妙な趣味してんなあって」

「………………」

「大体、アレだろ? ガキ作ろうとしたら俺の方が入れられる方になるんだろ? 入れんだぞ、体ん中に、お前のあれをっ。マジか怖え~っ! てなってさあ、入れることばっか考えてたから入れられることは想定外でよぉ。しかもアレじゃん。子供産むのってクッソ痛ぇっつうじゃん。どうしよう、俺、耐えられると思う? 出産って鼻からスイカ出すくらい痛いんだろ? マジで怖え」

「……………………」

「? 融士?」


 バカさもここに極まれりといった独り言をぽつぽつと呟いていた洋太は、ようやく俺がずっと黙っていることに気が付いたらしい。その間ずっと俺は、こっちの方を見ずに正面をむいてブランコを漕ぐ洋太を見つめていたのだけれど、その視線に気づいていなかったらしい。こういう時の視線は都合よく無視するのか。


「? なんで黙るんだよ、怒った?」


 ブランコを揺らすのを一旦やめた洋太がこっちを見る。若干不安そうにこっちを見る。西日が洋太の輪郭にソフトフォーカスをかけたせいで、隣にいる幼馴染を全く知らない女の子に見せる。

 中性的で甘さの無いクールな外見の女の子が怖がらない様に、怒りを押し殺すために俺は一呼吸する。


「あのな、洋太。お前が春転症になったのは、小さい頃にワクチンを打たなかったから。それ以外に理由なんてない。神様がどうとか、そういうのはあり得ない」


 だって神様がいるなら、こんな悪趣味ないたずらは仕掛けないはずだ。

 背が伸びて、精悍さが増して、ガキのまんまの中身をそのままにして見た目だけはめきめき大人の男っぽくなってゆく男が、幼馴染ってだけで俺に昔どおりバカまるだしの人懐っこい笑顔で付きまとってくるという幸せを取り上げたりするわけがないのだ。

 ああこの、外見は訓練を積んだ警察犬みたいに痺れるくらい格好いいくせに中身はアホな駄犬みたいに可愛い男が俺みたいないつまでたってもガキっぽい幼馴染を好いていてくれたんだって小さい幸せを、こんな形で取り上げたりはしないはずだ。


 俺相手にバカないたずらを仕掛けるのは、洋太だけで十分だ。


「――なんで怒んだよ……?」

「怒ってない」

 

 俺は嘘を吐いた。隣にいる見知らぬ女の子が憎らしくなったせいか。女の子をいじめるなんてみっともないという気持ちが拭えなかったけれど、でも自分にもそういう嗜虐心があったことを驚きつつも見つめる余裕があった。

 恥ずかしい話、ブランコに乗りながら泣きそうな顔をしてる女の子に、俺の洋太を返せとぶつけて困らせたい気持ちで染まっていたのだ。

 なのに、洋太本人が女の子の体になってしまったことを前向きに受け止めている様子なのに苛立って仕方なかったのだ。

 あんなに格好いい男だったのに、その体受け入れんじゃねえよ。将来お母さんになることを前向きに検討してんじゃねえよ。俺は正直子供なんてものに興味ないし、それよりもぶっちゃけお前だし、大体将来妊婦になってるお前とか笑っていいのか泣いていいのか分からない将来想像させるなよ、バカが。


 本当はそうみっともなく喚き散らしそうだったけど、すんでのところで押えられた。ここは近所の小学生が自転車を停めるような児童公園だし、それに目の前の洋太だった女の子が泣き出しそうな顔をしてうつむいたからだ。


「……怒って、ない」


 俺と洋太が小さいころから過ごしていた住宅街を囲む山に太陽が沈む。すうっと公園全体が陰って、洋太にかけていたソフトフォーカスが消えた。

 そうすると俺の頭も冷静になる。

 自分の受けたショックと悲しみでいっぱいになって、バカな洋太を不安にさせたという事実を目の当たりにして一瞬で後悔する。大体、別に望んでもいないのに痛い思いをして大変な目に遭ったのは俺ではなく洋太だった。

 学校をやすんでいた期間、洋太は洋太なりに体と自分と俺なんかの将来を前向きに考えていたというのに、俺というやつは洋太が変わってしまったショックに振り回されて感情的になってしまった。そのことへの自己嫌悪が一瞬で膨れ上がる。


 うつむいて悄然とする洋太の姿は、それくらい俺を打ちのめすものだったのだ。


「……ごめん、洋太。俺、ちょっと怒ってた……」

「うっせえな、そんくらい分かってっし。俺、お前が怒ったらどんなになるか知ってるし」


 ぐずっと洋太は鼻をすすって、雑に目じりのあたりをぬぐう。洋太が泣くのを見たのは、この公園でひっそり世話していた子猫が忽然と姿を消してしまい、二人で探しまくった小六の時以来だ。涙と鼻水たらしてぐじゅぐじゅ泣きじゃくる洋太を、きっと母さん猫が見つけて連れてっただとか優しい人に拾われたのだと語ってなんとか俺は一生懸命慰めたのだ。

 ――いや、あれほど派手に泣くことはなくなったけれど、つい最近まで恋人が難病で死ぬ系のドラマや映画を見た時なんかには陰に隠れてぐずっと涙ぐんだりしていたのだった、洋太は。

 鈍感なバカにみせかけて、そういう繊細なところもあるヤツなのだ。


 それに涙目になった洋太は結構可愛げがあって見ごたえがあった。今でもそれは変わらずそうだ。昔のまだ若干輪郭に丸みを子供っぽいあどけなかったころの面影を蘇らせる。

 反省とともに甘い気持ちになってきたタイミングで、涙目の洋太は鼻声になって続ける。


「怒んなくてもいいだろ、別に……っ。入れられんの怖いって言ったくらいでっ。俺だってなあ、心の準備っつうもんがあるんだぞ……っ。乳くらいなら今すぐにでも揉ませられるけどなあっ、体の中にチンコ入れられるのはぶっちゃけ怖えぞ!」

「――」

「入れられる立場になるって考えてみろよ、ギャーってなるからなっ!」

「――……」


 涙目の洋太は子犬のようにまあ可愛げがあったのに、今日聞いた中で一番バカバカしい発言は俺の中から自分の感情から洋太を一方的に傷つけたことを反省するという殊勝さを根こそぎ奪った。

 ああこいつはやっぱりバカなのだ。本当に、バカはバカなままだった。

 見た目は前も今でも、クールで辛口で毛並みのいいドーベルマンみたいに恰好いいのにどうしようもなくバカはバカ。多分優秀なドーベルマン以下のバカ。たまらないくらい愛おしいバカ。


 大体、それ以前にだ。


「……洋太、あのさあ。お前の体が男のままだったら、俺の方に入れるつもりだったの……?」

「? え、そうなるんじゃねえの? 普通」

「何が普通だよ、勝手に決めてんなよなぁ、バカっ!」

 

 俺は思わず喚いた。六時になったから、子どもたちに帰宅を促すメロディーが流れる中たまりかねた末に喚いた。

 そのせいか、自転車を停めていた子供たちがこっちに戻ってくる声が聞こえてくる。だから二人とも、そろそろ帰るかという心持になり立ち上がる。


「――ところで、学校はどうすんの? 来れる?」

「ああ~……、まあ、色々考えるとめんどくせえけど、行かねえわけにもいかねーしなあ。どうせそのうちバレることだし」


 洋太の家めざしてぷらぷらと歩きながら話をする。実は休んでいた間に、洋太のおじさんとおばさんと学校と医療機関を交えて今後どうするかについて話し合ってはいたらしい。


「とりあえず制服は男子ので構わねえし、便所はしばらく教職員の使えってことでまとまりそうだわ。教室にいるのがダルかったら保健室にいてもいいってことにはなったっぽい」

「ふーん……」


 でも俺たちの通う中学は普通の公立だ。はっきり言ってこの種のセンシティブな問題に対して繊細な対応は期待できない。それに洋太はタチの悪い上級生に目をつけられやすいキャラクターでもあったし、今まで通りそこそこ普通な中学生活がおくれるかどうか、俺だって心配だし不安になる。

 隣を歩いている洋太はブランコに乗っていた時ほど不安そうではない。でも、と俺はジャージの上着に包まれた腕をつかむ。――身長差のせいで、彼氏に甘える女の子みたいになってしまうのが歯がゆいったらない。

 そのせいで俺を見下ろす洋太の顔が、おっ、と、コンビニ袋の中のゼリーを見つけた時とおなじような嬉しそうな顔になることにちょっとムカつくが、それでもその顔を見つめて俺は言う。


「とりあえず、なんか困ったことがあったら俺頼れよ。何ができるかどうかわかんねえけど、俺はさ……やっぱお前が好きだし、大事だし。傍にいてやるし」


 俺にじいっとみられると心臓にぐっと来るんだろ? なら精々ぐっとさせとけ、ドキドキでもバクバクでもなんでもさせて、お前の隣には俺がいるんだからなってことを頭にでも胸にでも刻み込んどけ。

 そんな思いを込めて見上げると、洋太の顔は見る間に真っ赤になって、気がついたらぎゅうっと抱きしめられていた。位置的に洋太の胸に顔が押し付けられる格好になって、息が詰まりかける。


 うわやばい、どうしようこれ、うわうわ……と、酸素不足やらなんやらで頭の中が真っ白になった俺を救ってくれたのは俺たちの傍を徐行で通過しようとしていた水色の軽自動車だった。

 もっと正確にいうと、運転席のウィンドウをおろして「何やってんだそこの二人! 道端でいちゃこいてんじゃねえっ、轢くぞオラぁっ!」と物騒にがなりたてる空美ちゃんだった。学校か、バイト先から帰ってきたらしい。

 洋太の拘束から解かれた俺は息を吸い込みながら、口調とはうらはらにニヤニヤしている空美ちゃんに向かってぺこぺこ頭を下げる。流石に決まり悪かった。

 今はインスタと赤文字系ファッション誌を参考にしたファッションで決めている空美ちゃんは、俺を見て昔のように気安く笑ってハスキーな声で話しかけてくれる。


「融ちゃん、そんなわけでさあ、これからもこのバカと仲良くしてやってね」


 それはもう、勿論――という意味で首を縦に振ると空美ちゃんはニヤニヤ笑ってウィンドウを上げて、徐行で追い越していった。

 あのニヤニヤ笑いが俺は気になる。


「空美ちゃんさあ、俺とお前のこと知ってんの?」

「知ってんじゃね? 何やるにしてもゴムだけはつけとけって言われたし」


 けろっと洋太は言ってのけたが、俺はその場に顔を抑えてうずくまった。

 ――こんなことで、これからの洋太を支え切れるのか。ちょっと不安になった時、鼻がむずがゆくなってくしゃみをした。




 洋太はそれから三日後に学校に復帰した。


 この市内、というよりも県下で十年ぶりの春転症患者ということでそれなりにセンセーションを巻き起こし、腫物あつかいされまくったようだが本人のバカさがプラスに作用して特に辛さやわずらわしさを感じることは無かったらしい。


 勿論、突然女子になってしまった洋太にちょっかいをかける連中はいたが、それまでどおり普通に拳で返り討ちにしたら何も言ってこなくなったとのこと。以前から洋太のことを目の上のたんこぶだと見なしていた柄の悪い三年に「女は男に腕力の面ではかなわない」理論を根拠に体育館裏に呼び出されたようだが、それらも普通に地面に沈めて事なきを得たらしい。確かに洋太は以前より弱体化していただろうけれど、それでも小一から空手を真面目に続けている女子と体育館裏でダラダラまったりたむろっているようなヤカラの小集団とどっちが強いかという話になってくるわけである。

 

「やっぱなあ、ああいうヤツを最初のうちにガツーンってシメとくのが一番だなあ。そうすっと俺のことイジってこようとしてたヤツとかなんも言ってこなくなるし、お陰で快適だぞ」

「――そうか……」

「なんかしんねえけど、前より女子が気軽に声かけてくるようになったけどな。弁当一緒に食おうかとか困ったことあったら言ってね、とか。……ったく、あいつら遅えし。話しかけてくんならもっと早めにしろやっていったら、だって今まで怖かったんだもんってよぉ」

「……、あーそう」

「あ、妬いた? 融士今妬いた? 俺が急に女子にモテだしたって聞いて妬いた? 妬いたかー。ふっふーん」

「うっさい、バカ! 妬いてないしっ。調子のんなバカっ!」

「あーもう、うるっせえな後ろのバカップル! 黙れっ!」


 運転席の空美ちゃんが信号待ちに振り向きざまこっち向いて怒鳴った。しかし調子にのって浮かれている洋太は俺の隣でふんぞり返る。


「うっわー、余裕ねぇ~。みっともねえ~。――融士、気ィつけろよ。姉ちゃんこの前彼氏にフラれたばっかでカリカリしてるから。あんまそこ突くなよ?」

「――よ~し、洋太。いい根性しんてんな。テメ、後でオタサーの姫みたいなだっせぇブリブリ服着せてあたしのインスタ載せてやっからな」

「やりたきゃやれば~、姉ちゃんのインスタフォロワー何人~?」

「でもあたしのガッコと地元のツレはフォローしてっし。あんたの空手道場の先輩とか先生もいるし、『へー、あの洋ちゃんがこんな可愛くなって~』ってイイネかき集めてやっし」

「うっわ、何その仕打ち? 姉ちゃんは弟可愛くねえの?」

「まあ可愛くはないよね、可愛いのは断然融ちゃんの方だよね」

「――まあ、それはそうだな」

「だよね」


 幼馴染姉弟は今までのくだらない口喧嘩を途中でくりあげて、妙なタイミングで意気投合してしまった。そのタイミングで青信号になり、空美ちゃんは車を発進させる。


「つうわけでさあ、融ちゃん。あんた一応どういう服が好きかとか好みってある?」

「――別に普通のでいいです。ユニクロとか無印とか……」

「っは~? つまんねー、ありえねえ~。折角だからなんかもっと可愛いとこ行っとけって。うちのバカが似合わん服屋キメとけ。融ちゃんなら絶対似合うし」

「そうだそうだ、ピンクとか水色のふわっとした服着ろって。絶対似合うし」


 こういう時だけ息を合わせるバカ姉弟は運転席と後部座席から「な~っ」と声を合わせた。俺は泣きたくなるような心境で唇をかみしめるしかない。


 

 学校で何があったとしても俺がそばにいるから、と、あの日洋太に言った筈の俺がどうして空美ちゃんの運転する車の後部座席で洋太の学校復帰の様子を聞かされることになったかというと、その期間俺は学校を十日ほど休むのを余儀なくされていたためである。


 どうして学校を十日も欠席する羽目になったのか、それを説明しようとするとうちの親が俺が生まれた当時、どこかの団体の主催する自然派育児思想にカブれていたことを語らねばならなくなる。その団体の思想には、うちだけでなく六歳上の空美ちゃんの暴れん坊ぶりに追い詰められていた洋太の家のおばさんも夢中になっていた。つまりそもそもの元凶は、その団体はワクチンを思いっきり否定していたことによる。

 洋太が言っていた通り、死ぬんじゃないかという激痛から気を失って、目が覚めるなり、泣き顔の母さんから何度も何度もごめんねを連発されたことで事の次第を把握したのだった。


 つまり、俺も春転症のワクチンは未接種だったのだ。――腕にBCGの跡が無いことで「よもや」と危機感を持たなかった俺も、今思えば相当間が抜けている。

 そんなわけで、あの日洋太と別れて帰宅し、微熱を出してくしゃみを連発して花粉症の時期のように鼻水をだらだらでてくることに、「まさかな」とヒヤリとした頃合いで「はい正解」と言わんばかりに体中に激痛に苛まられた日から、俺は今日まで学校を休んでいる。


 その期間、どうやら他府県でも俺や洋太みたいに新たに春転症患者が現れていたらしい。その共通点が今から十四から十五年前にある団体の育児法を実践した親だということが判明し、ワクチンに接種したかどうかを確認しろとSNSやテレビなどを中心に注意喚起されて世間を軽めのパニックに陥れた。

 というよりも今も世の中は軽いパニックのただなかにあるのだが、俺は世間のパニックよりも自分自身の問題で手いっぱいだった。

 

 とりあえず、下着類だけでも女の子用のものをそろえなきゃよね……と、パニックが落ち着いて何故かいそいそする母さんの先を制するように、空美ちゃんがしゃしゃり出てきたのである。「融ちゃんの服、あたしが見立ててあげます!」と。

 というわけで、彼氏にフラれてばかりで暇を持て余している空美ちゃんの娯楽を兼ねて俺の新しい服を買いにモールに引っ張りだされることになったのだった。これが俺の久しぶりの外出ということになる。

 そこそこの衣類代を手渡され、なぜかちょっと残念そうな母さんに見送られて、俺は空美ちゃんの運転する軽自動車の後部座席で洋太とならんでいるわけだ。


 洋太は俺が休んでいる十日間の間に女子生活に馴染みつつあるのか、服の着こなしもうまくなって、今日などうっすら化粧までしていた。


「姉ちゃんが勝手にしやがったんだよ」

 と、口では鬱陶し気に言うが、クールでワイルドな外見を引き立てられた仕上がりに結構満足してるのは口ぶりからして明らかだった。


 実際、格好いいし。綺麗だし。やっぱりうちの洋太はバカだけど自慢の幼馴染で親友で、彼氏? 彼女? なんかよくわかんねえけどとりあえず、恋人、だし。

 

 それにしてもムカつくのが、そのバカな恋人が隣で見えない尻尾を振り回すくらい喜びを隠さない、駄犬ぶりを隠さないところだった。


「待ってろ、俺と姉ちゃんが腕によりかけて無茶苦茶可愛くしてやっからな」

「いいしっ、いらないし! つうか別に可愛くしていらないからっ」


 俺は浮かれる洋太をじいっと見る。俺はちょっとは本気で怒ってるんだぞ、の意味を込めて睨む。

 大体なんだ、結局また俺と洋太は体は同性になったのに、この前みたいに子供が云々で悩んだりしないのか? 俺が女になったら呑気に浮かれやがって――、という抗議も込める。


 すると洋太はちょっとしゅんとしたような表情を見せたけど、それはすぐ収まって俺の頬に両手を添えた。

 奇麗で格好いい女の子としてランクを上げた洋太は、真上から俺を見上げる。悔しいがこっちの胸はどくっと跳ね上がってしまう(ちなみに俺のおっぱいは洋太のものほど大きくならなかった。なんだこの個人差?)。悔しいからそれは絶体顔に出さないようにする。


「融士の目、前と変わんなくてよかった」

「うるせえ、バカっ」


 おいこらもう着くぞ、警備のおっちゃんが見てるぞバカップルー、と空美ちゃんが一応声をかけてくる中、洋太はさっと唇を合わせる。俺もその時は目を閉じた。

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