信州蕎麦

フカイ

掌編(読み切り)

本州中部に停滞していた気圧の谷は、午後になって急速に東へ進み、天気は午前の雨から急速に回復した。空模様が好転するのにともない、湿度も劇的に下がり、夕刻にはかなりすがすがしい風が都心を吹きぬけた。


金曜の17時。


オフィスの仲間たちは、夜の街へ繰り出す算段を始める。その誘いを適当に聞き流す。そしてデスクから、彼女の携帯にメイルする。


「信州蕎麦でも食いに行かないか? 今夜」


あの頃、2座のオープンカーを所有していた。

1600cc、マニュアルシフト。FR。


仕事がはねて、渋谷の彼女の会社の近くにクルマを停める。20時。

ほどなく、辛口スーツ姿の彼女がやってくる。

片手をあげて、ラフな挨拶を。


ぼくは左右のAピラーの上にあるラッチを外し、天蓋のロックを解除する。車外の彼女が慣れた手つきで、クルマの幌をあけ、背部トランク手前の空間に、幌を畳む。頭上に、すきとおるような初夏の風が抜けていく。


「運転席」


と、出し抜けに彼女は言う。

ぼくは素直にドアをあけ、彼女にドライヴァーズ・シートを譲る。そこに納まった彼女は、シート位置を直し、左右のミラーの向きを修正し、シートベルトを閉める。それからセカンドバッグから口紅を取り出して、ルームミラーを傾げ、きちんと紅を引く。唇をすり合わせて馴染ませる。そしてミラーを正しい位置に直す。


「久しぶり」


そうして初めて、彼女はぼくに向き直る。

勝手気ままで、そして、どうしようもなくいい女だと、認めざるを得ない。


「元気そうだね」

「そちらも」

「調子はどう?」

「ぼくの? それともクルマの?」

答えたぼくに彼女は皮肉な微笑を返し、「クルマよ」、と。


六本木通りを都心に向かって走り、高樹町から首都高速3号渋谷線に乗る。

都心環状線を経由して、4号新宿線に。程よくスピードに乗って、週末に向かって浮き足立った東京の街を、彼女は抜けてゆく。


―――いままで知り合った誰より、運転の好きのひとだった。


麻のワンピース。キャビンに巻き込む風に髪をなびかせると、耳たぶに飾った小さなイアリングが、高速のハロゲンライトを反射してきらめく。

薄い唇。長い手脚。

友人、として長い時間をかけて付き合った、とびきりの美人だ。


高井戸インターチェンジを経て、首都高は中央道へと接続する。道路わきの杉林がやがて、工場街になり、住宅地になり、そして山間部に変わってゆく。やがてフロントグラス越しに青梅の山並みが見えてくる。

必要以上に増速せず、夜の闇を愉しむように、クルマを走らせてゆく。

振り仰げば上弦の月が濃紺の夜空に白いアクセント。谷間を抜ける風が少し冷たい。彼女の無駄のないシフトワークと、スムーズなドライビングも、この豊かな夜に同調している。


大月を越えて、長いトンネルを越えると、甲府盆地が見えてくる。

しんとした夜の大気に包まれて、青白い月の光を受けた町並みが一望だ。

余計な口をきかず、その景色を味わう。110km/hを越えるスピードの中。

ふたりの呼吸がシンクロして、気持ちがオーバーラップする。


やがて、八ヶ岳の山並みがシルエットになって見えてくる。

ギザギザの稜線を夜空に刻んで、今日も峰々は雄大に美しい。

それを見ながら、方向指示器を点滅させ、レーンを外れる。

シフトをダウンし、制動をかける。


小淵沢I.C.、23時。

甲州街道まで少し走ると、煌々と明かりをつけたいつものファミリーレストランが見えてくる。

クルマをそこにパークし、幌をとじ、店内に。


ふたりは「天ぷらそば」をオーダーする。

これが、ぼくらの“信州蕎麦”。

真夜中の時間、このためだけに、渋谷から150km、約二時間半。

信州蕎麦を食べたらまた、クルマに戻る。

今度はぼくの運転で。世田谷の彼女の部屋まで。


小粋なホテルはいくつもあるけれど。彼女とその一線を越えたことはない。これからもないだろう。

だからこそ、我々はいつまでも貴重な友人でいられる。

こうして、ファミリーレストランの信州蕎麦を食べるために金曜の真夜中、往復300kmもクルマを走らせる酔狂を、続けていられる。


土曜日の夜明けの光が街を包む前に、互いのベッドを目指して、クルマの向きを東へ。

小淵沢の料金所でETCのメッセージを聞き流しつつ、もう一度、あの都会へ。

どこへもたどり着かなかったふたりの関係を今しばらく、維持するためだけに。


けど、それも悪くない。

きみとなら。


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信州蕎麦 フカイ @fukai

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