青春ブタ野郎は年上奥さんの夢を見ない

夜迦沙京

青春ブタ野郎は年上奥さんの夢を見ない




 ある日の帰り道、梓川咲太は恋人である桜島麻依と2人、帰路を共にしていた。いつもならこの状況を「麻依さんと一緒に帰れて嬉しいなあ」とウキウキのはずの咲太だが、今日に限っては辛辣な表情で視線も俯き気味である。

 とぼとぼと歩く咲太に、隣から麻衣が声を掛ける。


「私と帰ることに不満でもあるの?」


 それも少し、不機嫌な声音だった。


「麻依さん。慰めてくれるのなら、もう少し優しく言って欲しいなあ」

「慰めるつもりなんて、無いけど?」


 ビシッと言い切る麻依。けれどすぐに表情を和らげ、


「ふふっ、冗談よ」


 と言いながら、冗談めかしく笑う。麻依の笑顔が見れた咲太は、安堵したように息を吐く。

 麻依は国民的人気を誇る女優であり、演技も素人じゃ見分けがつかないほど完璧なものだ。たった今、咲太が本気で怒っているのだと信じ込んでしまったほどに。


「脅かさないでよ」

「じゃあ、どうして今日は元気がないのか話してみなさい。私がちゃんと聞いてあげるから」


 そう促されては仕方ない。本当は話したくないし、現実に思春期症候群として現れるのは嫌だから避けたいと思っていたのだが、咲太は真剣な声音で話すことにした。


「実は昨日、夢を見たんです」

「――夢?」

「はい」

「内容は?」

「……」

「話しなさい」


 せっかくの下校デート中に……いや、ラブラブ下校デート中に、また麻衣に不機嫌になられても困ると思った咲太は、内容を話すことにした。


「麻依さんと結婚した僕が、その……妊娠していました」

「…………私と咲太が、け、結婚⁉︎」

「え……」

「ん?」


 二人は見つめ合いながら沈黙する。


「……」

「……」


 無意識のうちに足も止まっていた。


「驚くのそこ? 僕が妊娠したことじゃなくて……?」

「そ、そうね。うん、驚きだわ」


 その割には麻依に驚いた様子はなく、いつもはジト目を向けられる側の咲太が、麻依にジト目を向けていた。


「な、何よ……」

「今日の麻依さん。どこかおかしい」


 言われて麻依は、何処か拗ねたような表情となり、咲太の頰をムギュッと抓る。もう少し強めに欲しいなあと、思っていたけれど、そうすると抓るのを止めてしまいそうなので何も言わないことにした。


「それで、具体的にはどんな夢だったの?」


 だが、その質問に答えない訳にもいかなかったので、名乗り惜しかったけど、


「その前に、はにゃしてくれると、うれひいなあ」


 と、離してもらうようにお願いする。

 すると、麻依の細長くて綺麗な指先が頰から離れる。あまり痛みは感じないが、頰をスリスリと麻衣が撫でてくれないので、代わりに自分で撫でた。


 それから咲太は麻衣に、昨日夢で見た出来事を話すことにした。


 ***


 大学生の時に学生結婚してからというもの、麻衣とは夫婦円満な生活を送っていた。

 結婚してからも暫くは女優を続けていた麻衣だが、二十代も半ばに差し掛かった頃。彼女は女優を引退し、専業主婦になった。それは咲太の子供が欲しいという願いを叶える為でもあったけれど、自分もそれを望んでいたので女優を辞めることに後悔や心残りというものは無かった。

 けれど、麻衣が女優を引退してから早三年が経っても二人の間に子供は生まれてこず、もしかしから赤ちゃんというのは、川で拾って来るものではないだろうか? と真剣に思い始めた咲太を呆れながらも、麻衣は産婦人科に通う日々を送っていた。


「大丈夫だよ、麻衣さん。いつか必ず、出来るから」

「そうね……」


 毎日のように気のない返事をする麻衣に、けれど咲太は呆れることなく、励まし続けていた。そんなある日のことだ。朝になって、突然体に変化が起こったのは。


 微睡みの中から覚醒すると、隣で寝ていたはずの麻依の姿はなく、寝室の扉を隔てた向こう側にあるリビング兼ダイニングからは物音がする。既に隣に麻衣がいないのを見るに、麻依が起きて朝食の準備をしているのだろうなと、思ったとき。


「……ん?」


 腹部の辺りに、ずっしりとした重みを感じた。何かがそのまま自分のお腹の上にあるような感覚。違和感を覚えながらも、咲太は体を起こし、掛け布団を取り去った。


「は?」


 思わず目を疑わざるを得ない光景に、咲太は一度、取り去った布団を自分の体に掛け直した。


「……」


 恐らくこれは夢だ。間違いない。

 殆ど自分を信じ込ませるようにして心中で呟き、再び眠りにつこうとするが、うまく眠りにつけず。

 再び体を起こし、さっきと同じように布団を取り去った。


「まじか……」


 まるであり得ないものを見るかのような目で、自分の腹部へと視線を落としながら、そのように言葉を漏らした。


 いつからこうなってしまったろのだろうか。だがすぐには、これが腹部の膨張がどういった状況なのか理解できず、暫くベットの上で固まる。


 固まったまま視線を左右に移動させ、何となく部屋の中に視線を這わせている、と。


「咲太、起きてるの?」


 扉を隔て向こう側から、自分を呼ぶ麻依の声が聞こえた。


「えっと……起きてはいる、けど……」


 こんな状況、説明できるわけがない。もしかしたら狸寝入りすれば、何とかこの状況を切り抜けられるかもしれないと思いもしたけれど、反射的に応えた後だった。そう、今はもう後の祭り。


「? とにかく、開けるわよ」


 曖昧な返事を不思議に思ったのか、そう言って麻依は寝室の扉を断りもなく開けようとする。


「ま、待って! 麻依さッ--」


 そして扉は開かれた。咲太の制止の声が聞こえずに扉を開けた麻依は、うさぎのワッペンがついたエプロンを着ていて、うん、可愛い。けれど、とりあえず布団を掛けて咄嗟に腹部は隠したけど、麻依は若干怪訝な形相をしていた。


「おはよう、麻依さん」

「……」


 誤魔化すように挨拶をするが、麻依から挨拶は返ってこない。


「おは--」


 咲太がもう一度挨拶をしようとしたところ、麻依は視線を布団の掛けてある腹部へと落としながら、遮るように言った。


「何か隠した?」

「えっと……何も、隠してないよ?」

「嘘。明らかにおかしかったじゃない。咲太の挙動そのものが」


 例え一瞬でも、その行動が麻依には見えていたのだろう。運悪く。

 そして、自分が白状するまでしつこく問い質されるのかと思いきや、麻依は意外にもあっさりとした態度で、


「今日も仕事でしょ? 朝ご飯作ったから、準備が終わったらダイニングへ来て」


 と、言い残し、扉を閉めて寝室を後にした。


「……」


 数秒ほど咲太は沈黙し、麻依が先ほどまで立っていた扉のほうを見つめている。やがて思い出したかのように、もう一度布団を取り去った。


 そこにはやはり、変わることなく結構な大きさに膨らんだ腹部があり。撫でると、ポッコリとしているが、赤ちゃんがいるような感覚は無く、硬いものがあるようには感じられない。


「僕が、妊娠した……?」


 それはそれで妙に嫌な汗をかいしてしまう。想像しただけで、ゾッとする。あり得ないとわかっていても。

 だけど、それはそれで面白そうという思いもあった。麻依がどんな侮蔑の目を向けてくれるのかを考えただけで、それは一種の楽しみにすらなる。


「……よし」


 気合いを入れるかのように呟いた咲太は、ベットから降り、その際にもずっしりとした重みを腹部に感じたが、扉を開けて顔だけをダイニングのほうに出した。


「あれ?」


 けれどそこに、麻依の姿はなく、かと思うと、


「それで、私に何か話さないといけないことがあるんでしょ?」


 扉から顔を覗かせたそのすぐ近くで、毎日のように聞き慣れた、何度聞いても飽きない世界一可愛くて美しい奥さんの声が、咲太の耳に届いた。


「うわっ! ま、麻依さん⁉︎」

「ええ、私よ。それで? 今話すのなら、怒らないでしっかりと聞いてあげる」


 鋭く細められた麻依の瞳が、すぐ隣にいる咲太を射抜く。既にもう何か勘付かれているかもしれない。

 ならば、と。意を決しながら、けれど冗談のような口調で咲太は言った。


「麻依さん、僕が妊娠したら、面白い?」

「……」


 麻依は真顔で咲太を見ながら沈黙し、やがて。


「……面白いどころか、浮気した代償として、私の旦那になる予定の人の臓器を、一番高く買い取ってくれるところに、全て売り渡すわね」

「ははっ、麻依さん。男性は妊娠なんかしないよ?」

「ええ、知ってるわよ。それってあれでしょ? 確か--」


 ***


「そこで目が覚めたんです」


 暫く無言で話を聞いていた麻依は、そこでようやく咲太の顔を見て、


「--想像妊娠ね」


 と、夢の中の麻依が語らなかった続きの言葉を、自ら口にしたのだった。


「想像妊娠ですか?」

「ええ、そうよ。恐らくは、だけどね」


 麻依の話では、実際に腹部が膨張し、妊娠時に起きる症状が現実として体に現れる……ということらしい。それは精神的なものから来るらしいのだが、


「と言うことはつまり、妊娠のことについて、麻依さんより僕のほうが思い悩んでいたってこと?」

「そんなの知らないわよ。咲太の夢の中でのことだもの」


 確かにそうだ。夢の中で見た麻依のことは、夢を見た自分しか知らない。その時麻依がどう思っていたかなんて、そもそも現実の麻依に知りようが無いのだ。


「でも、そうね」

「ん?」

「ここ最近、思春期症候群のことで色んなことがあったでしょ?」

「あー、言われてみれば、確かにそうですね」

「だから夢の中で『思春期症候群』とした現れたんじゃないかしら? 夢の中の咲太は、思春期……では無いけれど」


 去年の何も無かった一年とは違い、今年は、自分自身でも本当に色んなことがあったなと思う一年だった。

 苦しいことも辛いこともあったけれど、思春期症候群を通して経験した、数々の出会いと別れ。その1つ1つはとても掛け替えの無いもので、とても忘れらない咲太の思い出となることだろう。


「あれ? でも、麻依さん?」

「何よ」


 もしかしたら、気の所為なのかもしれない。けれど咲太には、1つだけ言えることがあった。


「今日の麻依さん、夢の中での麻依さんより、言葉のキレが悪くない?」

「だから、私は知らないわよ。そんな夢のことなんて……」


 呆れるような顔になっているけど、それでも言葉には、鋭利な刃物のような鋭い毒舌は含まれていなかった。


 あれ? もしかして、こっちのほうが夢なんじゃ……?


 そう思う、咲太であった。


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