第惨夜:紅い涙。
あ、と思った。ぎりり、と胸が締め付けられる感覚。どくりどくりと耳元で鼓動が跳ねる。いたい。思わず右手で胸元を掴むけれど、傷なんてあるはずない。これは内側から発生する痛みで、更に厄介なことにこれは自分で作りだしているものだ。
苦々しいものが心臓から上がってきて、思考が真っ赤に染まる。
この痛みは発作的に襲ってくる。いつもなら気圧のせいだとか所謂女性特有の体調不良だとかなんやかやと理由を付けて自分をごまかすことができる。でも、今日はだめだった。眼に映るもの全てが自分を責めているように見える。そんなわけない、わかってる。嗚呼。
「おい、だいじょうぶか、具合でも悪いのか」
依頼を融通してくれた知人が気遣うように声をかけてくる。心配してくれている、わかってる、嗚呼、でもそれは、わたしが「 」だから―――
「眩暈がしただけだ、もう収まった」
思考を止めたい。誰とも顔を合わせたくない。誰とも話したくない。言ってはいけないことを口からこぼしてしまいそうだ。
「そうか、ならいいけど」
「依頼は受ける、結果は報告する」
端的に会話をぶった切る。あああああああああ辛い。じくじくと鈍い痛みが心臓を締め付ける。苦しい。吐き出してしまえば少しは楽になるだろうか。だめだ、罪悪感で自分を殺したくなる。
振り返らずに歩き出して、背後で何か言っていたような気がしたが無視した。今は無理だ。フードを深くかぶって、視界を塞ぐ。誰の顔も見たくない。
人混みをすり抜けるように歩いて、いや、最早走り抜けた。早く、早く。
切れる息が鬱陶しい。いっそ呼吸なんて止まってしまえばいいのに。こんなに痛くて苦しいのに、世界はわたしが死ぬことを望んでいるのに、みっともなく欲しいと求めるからこうなる。諦めたら早いということも解っているのに、どうしてもその決断を下せない。
嗚呼、結局自分で自分の首を絞めているだけか。だからこんなにくるしいのか。
ばたん、扉が傷むことなんて気にせずに力任せに開いて閉める。戻ってきた事務所兼自宅の安アパート。此処はわたしの城だ。最後の砦、防壁。此処に敵はやってこない。扉に背中をつけて、そのまま座り込む。いたい。心臓が。ちがう、こころが。
やたらと目元が熱いけれど、手でこすってもそこは乾いていて、涙なんて流れていなかった。
指先は氷のように冷えているのに、顔だけは炎のように熱い。その熱が鬱陶しい。熱なんてなければいい。この身体に流れる血液も全部、どうせ黒く濁っているに決まってる。
ふらり、立ち上がって、室内を見渡す。依頼の報告書、書きかけの術式符、アスラが勝手に置いていった護身用の武器。嗚呼、ちょうど良いものがある。刃渡り10㎝ほどのナイフ。わたしの手にも合うようにと押し付けていったものだ。
やろうと思えばこれでも死ねる。うまくやれば。
わたしは引き寄せられるようにそのナイフを手にとって、躊躇いなくそれを手首に当てて引いた。金属の冷たい感触のあとに、ど、と勢いよく熱が溢れる。いたい。けれど、まだ心臓のほうがいたい。
こんな痛みでは上書きなんてされない。もっと。もっと傷を。いっそ死ねるくらいに。
振りかぶって。狙いは心臓。肋骨があるから骨に当てないように。
刺そうと、したのに。
「なにをしている」
わたしの右手は大きな手に掴まれて些細な願いすら叶わなかった。
鼓膜を揺らす低い声に、ぎゅぅ、と心臓が震える。なんで。
「なんで、」
「なんで? 蝋燭のような顔色で走っていったお前が見えなかったとでも?」
嗚呼、気付かれていた。気配だって消していたのに。
「これは、こんなことをさせるために置いていた訳ではない」
そうだろうな、あくまでも防犯用だとか護身用だとかうんちく垂れてたものな。非力な貴様でも使えるように刀身が薄く軽いだとかなんとか。
少しはわたしのことを案じてくれたのだと内心で喜んでいた自分を殺してしまいたい。
お前は、わたしのことなんてどうだっていいくせに。
感情のままに掴まれた手をひねって緩んだ隙間を縫って足を踏み抜く。
「ぐ、」
ざまあみろ。痛みにしかめたその顔でさえ綺麗なのが更に腹立たしい。
あ。見なければいい。こんな眼なければいいのか。そうか、なんで気付かなかったんだわたしは。
ナイフは使えない。まだしぶとく右手を掴まれている。でも、左手は空いてる。
指でも、眼球くらい抉り出せる。手首を切ってしまったから多少力が足りないかもしれないけれど、傷でもつけてしまえば少しはすっきりするかもしれない。
最短距離で眼を突こうとした指先が、止められる。
「貴様というやつは……!」
爪が皮膚を抉ったようで、いやな感触がした。
とんでもないことに、アスラの馬鹿はその秀麗な顔でもってわたしの指を止めた。一瞬で思考が止まる。神に愛された顔面を、その美しさを、わたしがこの手で傷付けてしまうなんて。
傷はほんのわずかで、滲む血だってちょっぴりだ。けれど、嗚呼。
「ご、ごめ……」
「謝るくらいなら最初からやるな、馬鹿めが」
「おまえ、ひとが素直に謝ろうとしてんのに」
「貴様は馬鹿だ」
アスラが、その柳眉を寄せて囁くように言うから。わたしはそれだけでもう何も言えなくなった。
切り裂いた左手首は痛いし、掴まれたままの右手だって痛い。どくどくと跳ねる心臓だって痛い。
「何度言えば解る、貴様が傷付くことで心を痛めるものだっているのだ」
「そん、な、やつなんて」
「貴様の目の前にいるだろう」
じっと眼を見つめられる。きれいな月色の瞳がじっとわたしを見ている。その眼球に自分が映っているのがわかって、わたしは酷くいたたまれなくなった。
「貴様は何故私の言葉を信じない?」
心底不思議そうに言うアスラを殴ってやりたい衝動にかられたけれど、ぐっとこらえたわたしはえらいと自画自賛する。こいつは人外だ。人間さまの繊細な感情の機微なんてわかりっこない。ましてやわたしが言わないんだから当然だ。
「これほどまでに愛を囁いているのに何故貴様はそれを受け入れない?」
……は?
「それほど私の言葉は薄っぺらいか」
なんだ、いまの。いや、現在進行形でアスラが何を言っているかわからない。いや、言葉としては理解出来る。が、どうしてもそれをすんなりと受け入れるにはわたしはひねくれすぎてしまった。
つん、と鼻の奥が痛む。
「……泣きたいなら泣け、無理におしこめようとするから貴様は愚かなのだ」
ゆっくりと顔を厚い胸板に押し付けられる。額や頬にあたるその感触も、ぬくもりも、もうだめだった。
「……っ、」
何か言ってやろうと思ったのに、声が喉で詰まる。じわりと視界が滲んで、何か熱いものが眼から零れ落ちた。
嗚呼。
たったひとすじの涙を流すためにこれほど苦しまなければならないのか。
死のうとおもった。それしかないとおもった。
艶夜噺 夜の魔女 @crimeroses
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